緋銀の王
リウレンは目を細める。
その名はよく知っている。
アノジェアの現王。
緋銀の王と呼ばれる、美しく若き君主。
民草の評判は良いものではない。
暴君として、ではない。
不才や傀儡といった形容をされ、元老院の飾り物というのが一般的な評価だった。
「怪物」という語が似つかわしくないはずの人物――だがゼルは、真剣にそれを口にした。
「ずいぶん前の話だ。
ある戦場で、戦局が明らかに俺たちの側に傾こうとしていたまさにその時、あの男は現れた。
戦場の空に、己の優雅な顔と上半身をくっきりと映し出して。
勝利の兆しに沸き立っていた戦場の空気は、その瞬間凍てついた。」
ゼルの記憶の中で、緋銀の王が――
まるで宮廷で外交使節を迎えるかのように、丁寧で、どこか場違いなほど優雅な挨拶を披露する。
* * *
「ティレムナの皆さん――私は、アゼル・リュゼイン。
不幸にも、あなた方と矛を交える敵国の玉座に就くことを許され、その重責に震える若輩者です。
その私が、こうして皆さんに願いを述べること、おこがましくも、恐縮に存じます。
さて――私が皆さんにお伝えしたいのはただ一つ。
これより私が、このささやかな演説を締めくくるにあたり、お耳を汚すこととなる一連の詩篇――
それを、どうか耳にされませぬよう。
……もう少し端的に申し上げるとするならば――
今すぐに、この場からお逃げなさい。
あなた方の勇敢さ、その献身、そして戦力差に怯むことのない揺るぎなき胆力。
それら賞賛に値するすべてを、アノジェア国王アゼル・リュゼインの名において、必ずやティレムナ元首テネカ・ディレカーフ殿にお伝えいたします。
何ひとつ、恥じることはありません。
あなた方を待つ、大切な友人、ご家族、そして愛する人のもとへ――
どうか、戻ってください」
緋銀の王はしばし無言のまま、虚空に視線をとどめていた。
まるで敵国の兵たちの決断を待つような、あるいは祈るような、その静止。
実際、それは戦場を離れ、安全地帯に退くにはじゅうぶんな時の猶予だった。
だが、なおもその場にとどまる者たちがいた。
ティレムナ軍の中でも、王の言葉を真正面から受けとめ、あえて退かずに残った――
おそらく、最も勇敢で、最も誇り高い戦士たち。
アゼル・リュゼインの巨大な幻影は、彼らをひとりひとり見つめた。
そのまなざしは深く沈んだ哀しみを湛えていた。
やがて王は息を継ぎ、詠唱を開始する。
「闇の中を歩く者――」
間を置いて、同じ口が低く答える。
「――花冠の影法師を追う」
空気がわずかに淀む。
ティレムナ兵の視界が濁り、暗くなる。
それは、冠蝕――
届かぬ花冠ノイセアが、虚ろな遺星の影に蝕まれるとき空に現れる、稀にして不吉な天の徴候。
年に一度あるかないかの、世界の摂理がわずかに軋む瞬間の光景を、思わせた。
だがそのとき、ノイセアは未だ空にあり、完全な円を描いていた。
これは冠蝕ではない。
世界を運行する法則と異なる力により招かれた闇の帳が、ゆっくりと降ろされようとしている。
「地に落ちし花弁の嘆き――」
「――時遡り枝へ還す」
異変に気づいたティレムナの兵たちが動く。
幻影は空高く遠い。
だがこの魔法を成立させている何かが、どこかにあるはずだ。
怒声をあげ、仕掛けを探して散開する。
だが――アノジェア軍が、動かなかった。
道を開けるように引いていく。
その光景に、ティレムナの兵たちの足が鈍る。
罠か。
誘い込まれているのか。
あるいは――止める必要が、そもそもないのか。
「空に咲く泡沫の花は――」
「――いまだ名なき夜の祈り」
王の詠唱は続いている。
中には気づいた者もいたかもしれない。
上の句と下の句で、同じ声の調子が少し違う。
声の持ち主が自分自身と会話しているような――
ティレムナの兵たちが感じた違和感を、言葉にできた者はいなかったろう。
「忘れえぬ万象のしじまよ」
最後の句だけは同じ声色が結ぶ。
「咲け――」
詠唱の末尾に続くはずの何かは、悲鳴にかき消された。
* * *
ゼルの回想は、そこで途切れた。
今度はリウレンが言葉を探しながら口を開く。
「君は王が最初に示した逃亡の勧めに従わなかった。
だけど、君はここにいる。
僕らとこうして食事をしている。
王の魔法が、君たちに何をもたらすものだったのか――
今の話だけでは、うまく想像しきれない。
けれど僕に今分かることがふたつ、ある。
ひとつは、アゼル・リュゼインは巨大な幻影を戦場に投影し、得体のしれない魔法を行使しながらも落花しなかったこと。
そしてもうひとつは、その魔法は届かなかった、そいういうことだね?」
「そうだ。
ひとりの若い兵士がいた。
彼が、緋銀の王の魔法を打ち消した。
自分の未来のすべてを投げ出して、もうひとつの魔法を重ねることで」
* * *
ここから先は、ゼルが語らなかった――語れなかったのかもしれないこの場面の最後となる。
「咲け」
王の声は確かに響いたはずだった。
だが、それは空に抱かれるように吸い込まれ、光も熱も生まぬまま、無風の沈黙だけが残された。
いつしか大気に明るさが戻っている。
幻影の王は優雅な面持ちを変えぬまま首をかしげる。
その仕草はどこまでも無垢で、美しかった。
まるで自らの魔法が効力を示さなかったことに心からの疑問を抱く、ただの少年のように。
幻影の王は、やがて視線を巡らせる。
そして、戦場の片隅に立つひとりの少年の姿を見出した。
柔らかな赤毛に覆われた小さな顔。
見開かれた目には、まだ褪せぬ魔法の痕跡――黄金の残影がたゆたっていた。
同時に、その瞳から紅い涙が流れる。
それは、過剰な魔法を行使した者に訪れる、可能性の器を超えた代償――落花の予兆。
王は、風のない空の下で、その小さな奇跡をただ見つめていた。
「君は……」
言いかけたアゼル・リュゼインは、ふと目を伏せる。
短い沈黙ののち、まるで内なる何者かとの対話を済ませたかのように目を開いた。
「――ティレムナの同胞を救った、小さな勇者。
もし許されるなら……貴方の名を、私に教えてくれませんか?」
声には憐憫と讃嘆の音色が宿っていた。
だがその双眸には、なお黄金のゆらめき――魔法の残響が燻っていた。
幻影の投影、それ自体がひとつの魔法である以上、
王が問いかけるという「形式」を選んだ時点で、そこには既に、力が宿ってしまっていた。
その力は、王の意志とは無関係に――問いかけのかたちを取りながらも、答えを強いていた。
「……っ」
少年は、声を押し留めるかのように喉の奥で小さくうめいた。
だがその抵抗は長くは続かず、やがて、かすれた声で名を告げる。
「……ルアスレイン」
その一言を最後に、少年はその場に崩れおちた。
少年と同じ赤毛を持つもう一人の兵士――遠目にもひときわ目立つ長身の青年が駆け寄り、崩れた小さな身体を抱き起こす。
その口から、裂けるような声が漏れる。
「ルアスレイン――ありがとうございます。
どうか、安らかに」
それから、緋銀の王の幻影はアノジェア兵へと呼びかける。
「絶望に抗い、私の傲慢に手厳しい訓戒を与えてくれた、この勇者に――
惜しみない賞賛と、最大の敬意を捧げてほしい」
命を受けた兵士たちの間から戸惑いの声があがる。
敵兵への表敬など聞いたことのない暴挙だというざわめきだっただろうか。
だが空に浮かぶ黄金の余影の前では、抗う声が自ずと消えた。
手にした剣を逆手に取り、その刃を地へと垂直に突き立てる。
そして一斉に、深く首を垂れた。
アゼル・リュゼインの幻影は、その視線を巡らせ、動けずにいる敵兵たちを正面から見据えた。
「我らは、ここで矛を収めましょう。
ティレムナの皆さま――この場に耳を傾けてくださった寛容に、心より感謝を申し上げます」
微笑の影に、どこか哀惜の色を滲ませながら、王は最後に優雅な一礼を捧げた。
「それでは、また別の空の下で」
その姿が消え去った後、空には何ひとつ紛れのない、青が広がっていた。
* * *
セレナは二人のやりとりを、黙って聞いていた。
当然語られなかった顛末について、セレナが知ることはなかった。
けれど、人の言葉だけでなく所作の細部、場の空気の震えまでを読み取る彼女は――それでも、理解してしまう。
おそらくそのときの経験が、ゼルの中の何かを壊した。
戦場を離れ、日常の暮らしに溶けこもうとするが、うまくはいかなかったに違いない。
あとの経緯は、塔の子どもたちと同じようなものだったのだろう。
セレナはそのとき、主塔の外壁を打つ風音に、ほんの一瞬、肩を震わせた。
季節の初めに吹く南寄りの風。
セレナはそう錯覚した。
ゼルの感情の音が、なにひとつ聴こえていなかったことに、セレナは気づかなかった。
それは、水面に響く雫の音とは何ひとつ通じない――吹き荒れる嵐のそれだったのだ。
* * *
食堂の卓上に、昼食の残り香がかすかに漂っていた。
空になった皿を前に、セレナは小さく息を吐き、二人に頭を下げた。
「ごちそうさまでした。
本当に……ありがとうございます」
主食はリウレン、デザートはゼル。
ふたりがそれぞれにエルイル片を支払ってくれた食事は、ただ空腹を満たすだけのものにはならなかった。
交わされた言葉。
知らなかった過去。
胸に残る沈黙。
どれも消化しきれないまま、彼女の中で揺れている。
椅子を引く音が、食堂の片隅に木霊する。
三人は立ち上がり、それぞれの午後へと向かうため、ゆっくりと歩き出した。
「じゃあな。
迷宮のことは任せとけ」
「うん、頼んだよ。
気をつけて」
「おまえもな」
「僕が何に注意しなきゃならないっていうんだい?」
二人は笑いながら別れを告げる。
けれど、セレナは足を止めていた。
歩み出した二人のそれぞれの背が、遠ざかっていく。
そのときだった。
「にゃあ」
足元から、柔らかな声がする。
視線を落とすと白銀の毛並み。
塔のどこにでも現れる小さな存在。
セレナの顔を見上げ、何かを問いかけるように、もう一度鳴いた。
セレナは驚いたように瞬き、そして笑った。
「大丈夫。
……でも、ありがと」
彼女はそっと猫を抱き上げた。
その身体の軽さに、なぜか安心する。
ふわふわとした毛並みに指を滑らせながら、カバンの中から猫菓子を取り出し、小さな手のひらに乗せて差し出す。
猫は素直に、くんくんと匂いを嗅ぎ、そして嬉しそうにそれを口にした。
セレナはもう一度だけ、二人の消えた方角を見やった。
塔の中央にそびえる水柱が、天窓の光を受けて煌めいている。
けれどその光は、さっきまでのような確かなものには見えなかった。
まるで、水面に浮かんでは崩れ、描かれかけては、すぐに滲んで消えてしまう――
未来の地図のように思えた。




