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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第1章 わたしがたとえ、目覚めなくても

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青空の魔法

 リウレンに呼びかけた赤毛の青年のことを、もちろんセレナも知っていた。

 ゼル・イルナフ。

 塔では珍しい経歴を持つ教師だ。

 彼は、大陸南部、トゥレイア尾州の謎めいた都市国家連合体ティレムナからやってきた。


 燃えるような赤毛を後ろに流した印象的な容貌と、突き抜けた快活さ、豪放磊落な振る舞い、裏表のない人懐っこい笑顔。


 この陰気な塔では久しく見られなかった種類の明るさを、ゼルは当たり前のように備えていた。

 語りは雄弁で人をひきつけ、時に暴論で相手を怒らせることもあるが、最後には笑い合って友人を増やしている、そんな男だった。


 また、表情豊かで、いつも何かしら誰かと会話をしているゼルが、ふと人の輪から離れ、黙考しているときがある。


 そんなときのゼルを目にしたものたちはみな、普段なら意識しない彼の顔のあまりにも精密な造形に胸をうたれる。


 同時に、その雄大な体格と美しすぎる顔立ちの釣り合いの悪さは、見る者すべてに視覚的な異様さを覚えさせ、あるひとつの同じ感想を抱かせるのだ。


 この男は特別な人間だ、と。


 それは、見た目の話にとどまらない。


 禁学の塔は、世界の可能性を封じるという創設目的と、そこに集う者たちの特殊性ゆえに、その存在自体が秘匿された学術機関である。

 塔の存在を知る者は、アノジェア王とその周辺に連なる長老衆、あるいはアノジェア最高峰の教育機関であるリュゼリア高等魔法院の、ごく一部の上級研究員に限られているとされていた。


 そんな中、外部から教師を招く――という告知が生徒たちに伝えられたとき、その間に走った不安と戸惑いは、想像に難くない。


 しかも、よりによって「あの」ティレムナから――


 このミルザレア大陸では、トゥレイア尾州を除くほぼすべての地域をアノジェア王国が政治的に掌握している。

 北方山脈地帯のノースウェル=ガザル、大陸東部のセリナ平原、西部のザレイア環域。

 そこにはアストレイ、ヴァリト族、オル=イェ族のような不羈の民が暮らしている。

 しかし、彼らのあいだに国家統一体としての自覚は希薄だった。


 だが、ティレムナは異なる。


 かつてその地の原住民に重力の神秘を説いたという、隠微なる教団の主の名。

 それから、その地形が猫の尾に似ていたことにちなみ、大陸南方の細長い半島はトゥレイア尾州と呼ばれるようになった。


 その半島に拠点を置き、隠然たる勢力を誇る都市国家連合――ティレムナ。

 彼らは、アノジェアの抑圧に屈することなく独立を維持する、大陸最後の政治単位である。


 彼らは墜落の神ニレイエルを信仰し、神が空に遺した隻眼――

 夜空にかかる虚ろな遺星レイジュールがもたらす潮の満ち引きの力を用い、禁学の塔すら一目置く魔法的軍事力と知的隆盛とを武器に、アノジェア王国と幾度も断続的な抗争を繰り広げてきた。


 潮汐都市連盟ティレムナ。

 彼らは自らをそう呼び、王国から幾たびも届いた投降の要求を、そのたび撥ねのけてきたのだ。


 そうした事情を知ってか知らずか――

 ゼル・イルナフが塔に迎えられる前夜、子どもたちの心には、うっすらとした興奮と、それを上回る得体の知れぬ恐怖が膨れ上がっていた。


 だがそれは、ゼルの放つ圧倒的な人間性の輝きによって、翌朝にはあっけなく霧消する。


 禁学の塔という存在が、いかに世界において特異であろうとも。

 そこに住み、気の知れた仲間とだけ小さな関係を育みながら、日々を平穏な学びに費やすという営みには、きっと心を落ちつかせる優しいたゆたいがあったのだろう。


 そしてそれは、同時に――子どもたちにとっては、少しばかり退屈な日々でもあったのだ。


   *   *   *


 セレナがそうであるように、禁学の塔の住人のほとんどは、幼少期にここへ連れられ、塔の大人たちに育てられながら学びの道へと進んでいく。

 やがて子どもたちは正式な生徒として認められ、教師たちの講義を受けつつ、自らの興味と資質に応じた研究課題を探しあて、研鑽を重ねる。


 中には、生徒でありながら講義を任されるほど優秀な子もいる。

 一方で、学術の道に限界を感じた者は、塔の運営や生活全般を支える役割へと自然に移行していく。

 どちらの道を選んだとしても、塔に足を踏み入れた者は基本的に、生涯をこの場所で終えることになる。


 ただし、例外もある。

 そのひとつが、王家から塔に託された特別な不可能証明――「王命終理」の完成に、決定的な貢献を果たした者に与えられる出立の許可だ。


 教師は各自の研究を進めるかたわら、塔の上階である四階から七階に設定された王命終理の構築に参加する義務を負っている。

 各階には王家から固有の命題が与えられ、たとえば緋銀の王として知られる現王アゼル・リュゼインにおいては、以下のような終理が定められている。


四階:不死の否定


五階:過去改変の禁止


六階:輪廻転生の断絶


七階:その内容は、最高位の教師のみに秘されている


 これら終理のいずれかにおいて、既存の定理に決定的な亀裂を入れる示唆を提示し、完成へと導いた者に限り、塔を出る権利が与えられる。

 だがそれは決して自由な出立ではない。

 そこには重大な制約と、ある使命が課される。


 それは塔の未来の教師たる者を、暗闇の中から拾いあげること。

 国を越え、世界のどこかで、才を宿しながら開かれることなく、短い命を終えようとする子を見出し、ここへ導くこと。

 それが、塔の外を歩むことを許された者に託される、最後の責務である。


   *   *   *


 セレナもかつて、塔を出たそんな老賢者のひとりが差し伸べた救いの手によって、ここにやってきた。

 それは、ほんとうに、かろうじて間に合った最後の機会だった。

 ほんの少しでも遅れていれば、彼女の心は砕けて、もう戻ることはなかっただろう。


 セレナは、王都に屋敷を持つ名家に生まれた娘だった。

 歌が好きな父と、物静かな母、裕福な生家。

 父から受け継いだ金の髪と、東方に出自を持つ母ゆずりの闇色の瞳。


 しかしセレナは、両親のどちらから受け継いだのでもない、不思議な力を持っていた。

 目の前の相手の声の震えや、瞳の奥の色、その場に満ちた気配が、ひとつに溶けあい悲哀の色を兆したとき。

 言葉にならない心のわだかまりが重みを帯びて、ひとしずく零れ落ちる。

 その瞬間、水面に落ちた雫のような音が、セレナの耳には聴こえるのだ。


 だが幼い彼女はそのことをうまく説明できず、周囲にはただの幻聴として映っていた。


 やがて、その音が聞こえる範囲はすこしずつ広がっていった。

 最初は隣の部屋から、次に屋敷の外から。

 さらに見えない誰かの感情が、雫の音となって降り注ぐようになっていった。


 そして、十を迎える頃には、世界のすべてが、濁った水音の帳に沈んでいた。


 それはまるで、終わることのない雨の音だった。

 道を、窓を、屋根を叩く、誰のものか分からない想いの雨。

 いつからか、幻の雨は、セレナの身を現実の冷たさで濡らすようになっていた。


 家の中でも、両親の声は雨音にかき消された。

 母の心配も、父の祈りも、もうほとんど聞き取れなかった。

 誰が何を言っているのか、何を願っているのか、セレナにはもう分からなかった。


 そんなある日、一人の老人がやってきた。


   *   *   *


 その老人が病床のセレナと出会ったとき、彼女は食事を受けつけることもなく、肌の張りも失われ、骨の影が浮き出ていた。

 色濃い死の気配を感じながらも、彼はそれを顔に出すことなく、ただおだやかに挨拶をした。


「やあ、セレナ。こんにちは」


 そして掛け布の上に置かれた、セレナの骨の浮いた手に、己の皺よった手を優しく重ねた。


 老人の声が聞こえたのかも定かではなかった。

 けれどセレナは、緩慢な動きでその闇色の瞳を老人に向けた。


「おじいちゃんは……とても……しずかね」


「ありがとう、セレナ。……けれど、老人とはだいたいそういったものではないかね?」


 老人は、セレナの壊れかけた心を騒がせまいと、ゆっくりとその深い声を綴る。


「わからないわ……」


 セレナはふいに目を閉じる。


「……ずっと、きこえるの。

 雨の音が。

 どこにいても、だれといても」


 老人は何もいわずセレナの言葉を待つ。

 励ますように彼女の小さな手をさする。


「いつも、耳から、はなれない……」


 セレナの閉ざされた瞼から涙がひとすじ流れおちる。


「このへやも、わたしも、いつも濡れて、つめたくて、さみしい」


 その言葉だけで、老人には十分だった。


 なぜなら彼は、不可能を証明し、世界の平衡を守る禁学の徒であり、

 王自らが塔に問いかけた至純の命題に終焉をもたらす者――

 王命終理の達成者だったのだから。


 セレナの特異な才能、それが彼女の内面を自壊させていく様子を、老人は極限の推論で脳裏に描いた。

 そしてそれは、優れた芸術家の写描のように、彼女が閉じ込められた孤独な世界を正確に再現していた。

 これが最後の機会だと、老人には分かった。

 だからためらうことなく、老人はこの世界の不可視の領域に、心の中で手を伸ばした。


 魔法。

 果たされなかった過去を引き出す、理外の力。

 塔を出て幾年も続けた旅路。

 彼はそのあいだに目にした数多の風景と声を、ひとつずつ確かめるように思い出していく。


 そして、老人は記憶の奥に沈む、ある情景を見出す。


 ヴァリト族の巡知学舎――草原を移動する遊牧学校のそばに張られた天幕。

 かつてその天幕で語られた述懐。

 それは、両目を裂かれ視力を失った、ある女性のつぶやきで、世界を呪う怒りではなく、日々の暮らしに溶けこんだ、ささやかな願いだった。


「もういちど、見たいと思うんです」

「けれどそれはもう、叶わない」


 それから、彼女の願いに応え、老人は車椅子を天幕の外へ押し出す。

 点在する天幕と草原を渡る心地よい風の中で、

 あの日、老人は確かにそれを見上げ、目に収めた。


 誰かが当たり前のように受け取る日々の景色の至るところに、 別の誰かには、どれだけ叫んでも、手を伸ばしても届かない、密やかな恩寵が眠っている。


 老人の目が、澄んだ光をつかのま取り戻す。

 かつて塔で子どもたちを教えていたころのように。


(……それは、魔法に溺れ、可能性をすべて売り渡した魔法使いの成れの果てを意味する)


 好奇心旺盛な子どもたちに冷や水を浴びせるため、毎年ある講義の最初の日に彼が使っていた脅し文句。

 その警句を誰よりも知る彼が、なおためらうこともなく、それに手を伸ばし――


「すべてを、聴かなくてもいいんだ。

 君のその力は、いつか出会う、大切な人に使ってあげなさい」


 果たせぬ過去に置きざりにされた青空を、セレナの心に譲り渡す。


「かつて千年の雨を退けた御身よ、この子の空にその最後の一片を――リサネル」


 セレナの掌に重ねた老いた手。

 合わされた二人の手のあいだから、それとわからない光の粒子があふれだす。

 湿った空気が透きとおるような気配に変わり、セレナの肌をやさしくなでる。


 その瞬間――幻の雨はふと止み、耳をすませば、風にそよぐ草原の音が聴こえた気がした。


 セレナはずっと、感情の音がもたらす永遠の雨の世界に閉じ込められていた。

 彼女の内的世界を塞いでいた鈍い灰色の空が、魔法の力で塗り変えられ、鮮やかに晴れわたってゆく。


 セレナは、突然訪れた世界の変貌に目を大きく見開く。

 揺れていた視線が落ち着き――ようやく、老人の目に焦点を結ぶ。

 老人の目の中にはもう魔法の痕跡の輝きはない。

 年を経て濁った灰色の瞳。

 それは深い皺に囲まれ、どこまでも優しい笑みを覗かせている。


 老人は何事もなかったかのように落ち着いた様子でセレナに話しかけた。


「やあ、セレナ。

 ――こんにちは」


 セレナの目から大粒の涙がこぼれる。


「私の声が、聞こえるかね?」


 声を出すことができず、老人の言葉に何度も大きく頷いた。


 すると老人は外套の裾から何かを取り出すと、セレナに握らせる。


「もし……この世界にまた、君のいる場所がないと感じるときがきたら、王宮を訪ね、私の名と共にこれを衛士にみせなさい」


 セレナは己の手の中のそれをひたむきにじっと見つめる。

 それはくすんだ灰色のコインだった。

 表面には凝った装飾の二つの文字が互いに絡み合うようにもつれている。

 そして老人は、まるでとっておきの謎かけの答えを明かすように頬をほころばせた。


「私の名は――」


 そこから先のことは、セレナもあまり覚えていない。


 セレナの様子が変わったことに気づいた母親は、言葉をなくし、その場に立ち尽くした。

 父親は老人を引き留めて歓待しようとしたが、それをやんわりと断ると、老人は礼金のひとつも受け取らず家を去った。


 その後、セレナの両親が名家の伝手をすべてたどっても、あの老人の行方を突きとめることはできなかった。

 セレナが普通の子どもと同じように、家の外を歩き回れるようになるまで回復するには、いくらかの月日を要した。

 セレナの力が失われたわけではなかったが、それが彼女の心を閉ざすこともなくなった。


 それでも、彼女があの老人に手渡された灰色のコインを握りしめ、王宮に赴くのにそんなに時間はかからなかった。


   *   *   *


 今のセレナには、両親がいくら探してもあの人を見つけることができなかった理由が分かる。

 落花――最後の可能性を代償に、叶わぬ夢を世界に呼び戻した者の末路。

 あの人はきっと、誰にも迷惑をかけることのない場所を選び、そこで朽ちていったのだろう。

 己の成した救済を誰に誇ることもなく。

 風のない午後に、ひとひら舞い落ちた花びらのように。


 そのことを思うとセレナの胸はひどく痛んだ。

 それでも彼女は、歩みを止めず、少し先にあるおぼろげな未来の背中を追いかける。


 今でも時折、誰かの心の水面を乱す雫の音をセレナは耳にする。

 そんなとき彼女は思い出す。


 自分を容赦なく叩き続けていた雨音の牢獄が、夢見たこともなかった遠くひらけた空の青さにかき消された、まぎれもない奇跡の瞬間を。


 あの日セレナが見た空は、彼女自身の記憶には存在しない、誰かの過去の景色だった。

 それでもそれは、彼女にとって、ほんとうの風景だった。

 澄みきった空気が幾重にも重なり、空の高さのなかで群青へと移ろう――

 その移り変わりの不思議は、そのとき確かに、彼女の胸の奥に淡い憧憬と賛嘆のひだを残したのだ。


 そしてその青空は彼女の目の中に残されている。

 かつて母の東方の血を受け闇色だったセレナの目は、あのとき深く澄んだ蒼に変わった。

 永遠の雨の呪いは、今も彼女の影のようにそばにある。

 けれどそれが再び降り出すことはない。

 少なくとも、あの空が彼女の目に残るかぎりは。

 子どもの頃に渡された青空の魔法が、彼女の小さな世界を包んでいる。


 魔法とは、本来出会わなかったはずの未来を、誰かの現在に手渡す力。

 あの人は、そのために、自らの終わりをためらいなく差し出した。


 泣きじゃくることしかできず、感謝を伝えられなかった子どもの自分を、セレナは後悔していない。


(あの人が魔法をくれたのは、わたしに過去をふりかえらせて、くよくよさせるためなんかじゃ、決してないから)


 気づけばセレナの目は、水柱がもたらす光の中で話し込む二人の背中に戻っていた。


(先生は、あの人に似てるんだ)


 ひとしきりゼルと話しこんだリウレンが、セレナの顔をのぞきこむ。


「この赤毛の不埒者も食事に連れていこうかと思うんだけど……いいかな?」


「もちろんです!

 お二人ともずいぶん長くお話しするから、とってもおなかすいちゃいました!」


 ゼルがその大きな背を丸めながら、セレナに向けて、悪い悪いとでもいうように手を合わせる。


 そしてセレナの胸の奥に、ふとひとつの思いがよぎる。

 小さな確信とともに、それを口にした。


「リウレン先生は……ロエル・ルヘインという方をご存じですか?」


「知っているどころじゃないさ!

 ロエル先生は、それこそオルヴァス先生なんか比較にならないくらい恐ろしい方だったよ。

 それに……

 僕の講義のいくつかの言葉は、ロエル先生の受け売りなんだ」


 ハシバミ色が追憶を宿して、あらぬ彼方を透かし見る。


「ロエル先生が塔を出たのも、もうだいぶ昔のことになるね。

 今どんな旅をしてるのかな」


 セレナは答えを知っていたが、リウレンの遠い感慨にただ耳を傾けた。


 朽ちた花は沈黙したまま地に還り、二度と元に戻らない。

 その秘密を、セレナはそっと胸にしまいこんだ。


 それから三人は連れだって、塔の一階へと向かっていった。

 塔の外では、この世界を照らす恒星――空に浮かぶ届かぬ花冠ノイセアが、青空の頂点に掲げられる時間だった。

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