セレナ
小講堂の扉を出たリウレンは、一階の食堂に向かうために北西隅の階段を目指して、そのまま回廊を西へと歩き出した。
塔の中心を貫くように立つ中央水柱が、すぐそばに姿を現す。
水柱は、塔の地下深く――
地下図書館や禁書閲覧区画、遺物迷宮よりもさらに下層に眠る水脈から水を汲み上げ、塔屋上の貯水槽へと送り届けている。
そして蓄えられた水は、屋上から弁と重力により各階に分配される。
水柱の表面には霊硝と呼ばれる鉱石を高度に加工した素材が用いられていて、内部を完全に透かし見ることができた。
天窓から射す朝の光が水柱に吸いこまれ、床には一本の白い光帯が走る。
同時に、水柱内部で泡立つ水の流れが、微細な歪みの効果を生み出し、網目状の光を塔内に投げかける。
その輝きは水の脈動に合わせた短いリズムできらめきを更新し、まるで塔の心音が可視化されたように映った。
リウレンはそのきらめきに、しばし目を奪われる。
光でも、水でもなく、その合間に映り込むなにか。
記憶の反射のようなものに。
そこへ、靴音を弾ませるようにして背後から駆けてきた影があった。
「先生、ずるいですよ!」
やや息を切らしながら声を上げたのは、金色の髪を揺らした少女。
セレナ・フィオーレ――先ほどの講義に出席していた生徒のひとりだ。
リウレンは少し驚いたように振り返る。
「……どうしたの、セレナ?」
彼女は足を止め、額にかかった髪を手で払って言う。
「先生はイセイナの話、わたしの言葉を聞いてから変えましたよね?
だから、ずるいです!」
「拍手してくれてたじゃないか」と、リウレンは笑いながら返す。
無垢を装った、どこか子どもじみた微笑を唇に浮かべて。
だがセレナは、首をふる。
「それとこれとは違う話です!」
腰に手を当てた追及の姿勢を作って、少し頬をふくらませる。
「人を嫌いになる魔法なんて言ったあとに、あんなふうにイセイナの話をまとめられたら……
まるで、わたしが意地の悪い子みたいじゃないですか!」
リウレンは一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑った。
「いいじゃないか。
君の言葉は生き生きとしていて、感情の芯があったよ。
あれこそが僕は聞きたかったんだ。
僕の話なんてたいがいどこにでもあるような穏当な考え方だから、並べたらますます君の言葉に血が通ってみえる」
「やっぱり!」
セレナは身を乗り出しておかんむりだ。
「それに、ミルゥの話も……あんなふうに聞かされちゃったら、誰だって優等生みたいな答えを言いたくなっちゃいますよ」
「あはは、よく気がつくね」
リウレンは軽く肩をすくめ、悪びれもせず微笑んだ。
「空気に呑まれない偏屈者がひとりくらいいるかと思ってああしたんだけど……
でも君をあそこでまた指したら、きっと違う言葉が出てきたんだろう?」
「偏屈者で悪かったですね!」
セレナは唇を尖らせながらも、次第に落ち着きを取り戻した。
迷いと確信が同時に浮かんだその瞳は、どこかこの場所に不似合いなほど澄んだ蒼色を宿していた。
「そうですね、わたしは……ミルゥも、後悔していたって言うつもりでした」
一度指先に目を落としてから、口を開く。
「いつも先を行くばかりじゃなくて、たまには横に並んで、暗がりを二人で覗き込んで……
一緒に驚いたり、怖がったりしてもよかったんじゃないかって。
イセイナは目が見えなかったかもしれないけど、びっくりしたミルゥの気配にイセイナもびっくりして、そこで二人で笑ったり泣いたり……
そんなふうに願ったことが、一度もなかったなんて思えないんです」
彼女は胸にある想いを必死に言葉にしようとしていた。そして最後に顔を上げ、笑った。
「謎ときが大好きな誰かさんに、質問です。
わたしが思っているミルゥの魔法、先生には……分かりますか?」
問いかける声は明るく、挑戦的だった。
その一瞬、遠い記憶がふと頭をよぎる。
(君が疑問に思うことのすべてに、私はおそらく解を示すことができる)
それはすぐに消える幻のような記憶だったが、一瞬ハシバミ色の瞳が曇る。
「先生……?」
セレナが、何かを感じ取ったように小さな声で問いかける。
リウレンはすぐに気を取り直して、穏やかな笑みを浮かべた。
「オルヴァス先生は人気者だなあ」
「もう、またそれですか!
オルヴァス先生の笑い話なんてわたしはいりませんよ!」
リウレンはうーんと首をひねり、顎に指を添える。
「……そもそもなんでまたこの講義を受けたんだい?
君、去年もいたじゃないか」
「先生の講義は、何度受けてもいいんです!
来年だって、また毎回一番前の席をとりますから!」
自信たっぷりに言ったその直後、セレナははっとして口をつぐんだ。
「……って、話をそらそうとしてもダメですからね。
そんなことは、今はどうでもいいんです!」
頬を染めながら、再び問いを突きつける。
「さあ、分かるんですか?
降参ですか?」
リウレンは観念したように少し黙り、目を細めた。
正確には考えるふりをしただけだったけれど。
「セレナ、君が感じたミルゥの後悔、それがこの世界にもたらす魔法。
それはきっと――」
そして、間をおいて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「言えなかった想いを、言葉に変えること。
迷いながら進む足元に、ほんの少しだけ光を灯すこと。
そして……怯えて固く握られた手を、そっと取って一緒に歩いてあげること。
つまりは、僕が言ったイセイナの魔法と、同じもの。
……どうかな?」
セレナは目を丸くしてリウレンを見上げる。
「正解、です」
小声でそれだけを言う。
「でも……どうして、分かったんですか?」
リウレンは、いつものように微笑み返す。
「生徒の考えなら、僕には分かるんだ。
僕は教師で、生徒の示す問いのすべてに、解を示さなければならないからね」
それはまさしく、かつてある男がひとりの子どもに語った言葉の変奏だった。
その言葉は、水面に落ちた一滴の墨のようにリウレンの心に浸透し、今はもう色を失っている。
だから、リウレンもはっきりとは自覚していなかった。
彼が見るこの世界はいつも、心の中で微細に濁り、屈折している。
空の光が水柱を透かして揺らめくのと似て。
その揺らぎが、セレナには見てとれる。
セレナは、遠い、遠い昔にリウレンの心に落ちた毒が、水面に波紋をひろげるその音を聴いたような気がした。
塔のすべての子どもたちと同じように、セレナもまた外の世界の同じ年代とくらべると突出した知性をもつが、彼女の世界の捉え方は他の子どもとは少し違った。
数式を構築し、そこからいくつもの手順を丁寧に踏んで結論を導くといった学問的思考に依らず、より直截的に、物事の正しい在り方とそこからの乖離を見出すことができた。
そしてセレナは人の声音、表情、瞳の動き、指の震え、呼吸の置き方、そういったものにとても敏感だった。
彼女の世界は、声と気配と沈黙で編まれていた。
感情の音が聞こえる。
そんなふうに、セレナは自分の能力のことを考えていた。
セレナにはまだ、自分が聴く音についてうまく説明することができなかった。
それに、それはとても繊細な、他人がうかつに触れてはいけない領域のものだと分かっていた。
だから普段は、その音が聞こえても、彼女は何も口にしない。
それでもセレナは、そのときリウレンに伝えなければならないと感じた。
「先生。
わたしは答えがわからなくたって、いいと思うんです。
先生は『先生』なので、そう言ってしまうのは難しいことなのかもしれませんけど」
それまでのじゃれあいのような会話とはうって変わった、少し大人びた声。
今度はリウレンが目を丸くして、セレナの言葉を待つ。
演技ではなく、本当に驚いて。
「すぐに答えをださなくてもいいじゃないですか。
分からないから考えて、届かないから手を伸ばして。
少し先にあるおぼろげな未来の背中を追いかける。
人の本質は、みんなそんなものだと思うんです。
人が人である以上、先生も生徒も、王さまも貧しい兵士も、
自分が思うほど大それたことは、成し遂げられなくて。
でもそれでいいじゃないですか。
すべての謎を解き明かして、世界のすべてを手に入れて、そのあと何も残らなかったら……
それは『落花』と同じことになってしまいますから」
落花。
可能性を使い果たした魔法使いの最期。
どこまでも博識で遠い存在に見えるリウレンと、ただの生徒に過ぎない自分の間には、共通の言葉なんて数えるほどもないのかもしれない。
それでも、ほんの一瞬でも並んで話せる場所があるのならと、セレナはその言葉を持ち出した。
たとえ、それが教わったばかりの借り物の言葉だったとしても――
自分が本当に伝えたいことが何なのか、それが彼に届くのか、セレナにはなにひとつ分からない。
自分の言葉が彼を傷つけてしまうのではないかと、セレナの心はすこしすくんだ。
けれど。
「君の言うとおりだね」
リウレンが神妙に頷いた。
芝居じみた笑顔もなく、ただ少し目を落として。
「僕はだいぶ傲慢になっていたみたいだ。
謎かけは君の勝ちとさせてもらうね、セレナ」
セレナの顔がぱっと輝く。
「今日二回目の敬意を君に表すために……奢るから食堂にいくかい?」
ためらいがちな声。
セレナは、数刻前に聴こえたリウレンの心の音の余韻を掻きけすように、大きく返事をする。
「はい、先生!」
リウレンの胸がすこしほっとしたように撫でおろされる。
それからまたすぐに、元の悪だくみの子どものような表情を頬に浮かべる。
「じゃあそこで……オルヴァス先生の秘密を教えてあげよう」
「だからそれはいらないんですって!」
二人は、顔を見合わせて笑った。
そのやり取りを少し遠くから、塔の支柱に体重を預け、腕組みをして眺めている赤毛の青年がいた。
「いったいどっちが『先生』なんだかな」
そう独り言をもらすが、言葉とは裏腹に、やさしげにふっと笑う。
そして、引き締まった巨軀を支柱から剥がすと、待ちくたびれた肩をほぐすように首をまわしながら、二人に近づいていく。
水柱は今も塔の内壁に、網目の光をふり零している。
そのきらめきが、ふたりの声と笑顔に光を添えていく。
青年はそれを、少し眩しそうに見つめながら歩を進める。
「リウ!」
大きな手を振って、友人に呼びかける。
リウレンは赤毛に気づくと、やわらかく挨拶を返した。
「やあ、ゼル。こんにちは」




