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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第1章 わたしがたとえ、目覚めなくても

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2/16

リウレン

 最初に、終わりのない暗闇があった。

 その闇のただなかに、光を知らぬ神、イセイナは目を覚ました。

 闇の中で、彼女は世界がどのようなものかを、見ることも、知ることも叶わず、立ちすくんでいた。


 そこでイセイナは、小さな獣をひとつ創り出した。

 目の見えぬ彼女を導くために、その者には闇を見通す目を与えた。

 また、目の見えぬ彼女がふいに触れても驚かぬよう、柔らかく豊かな毛並みを持たせた。


 それが、ミルゥという名の猫だった。


 ミルゥは、光のない世界にかすかな足音を残しながら、見えぬものを見、聞こえぬものを聞き、イセイナのもとへ戻ってきては、まだ誰も知らぬ世界の話をした。

 ミルゥがいないときのさみしさと恐れ、ミルゥが帰ってきたときの喜びとやすらぎ。

 イセイナはミルゥに連れられながら、遅い歩みで世界を旅した。


 あるとき、ミルゥの囁く物語のかけらに心をふるわせたイセイナは、闇の帳に自らの願いを紡ぐように、ひとつ、またひとつと形象を描き出した。

 そうして風が生まれ、草木が芽吹き、小さな生き物たちは、少しずつこの世界に根を下ろしていった。


 しかし彼女は子どもたちの成長を直接見ることができなかった。


 その孤独が、夜をひときわ長くした。

 言葉のない夜もあった。

 そんな夜はいつも、ミルゥは彼女の肩に身を寄せた。


 ふたりでそうして日々を幾千と過ごすうちに、イセイナの心からおびえが消え、ぬくもりが灯ると、それが、世界で最初の光となった。


 光は、空へと昇り、闇を追いかけて、地平を巡った。

 まるで、ミルゥのあとを歩いてゆく、イセイナのように。


 こうして、この世界に昼と夜が生まれた。


 イセイナは初めて世界の輪郭を見た。


 彼女がかつて夜の中に描いた子どもたちは、すでに彼女の知らぬ意志を持ち、互いに語り、手を取り合い、色彩にあふれた世界を豊かに築いていた。

 そしてその営みの傍らには、彼女とよく似た姿をした五つの存在がいて、世界の運行を担っていた。


 炎を掲げる者、レジグナ。

 変化と崩壊を司る者、エイユト。

 あらゆるものを結びつける者、リサネル。

 墜ちゆくすべてを抱きとめる者、ニレイエル。

 そして、果たされなかった願いを拾いあげる者、エルイル。

 今の世でなお信仰される五柱の神々。


 けれど、イセイナとともにあったミルゥは、いつの間にか老い朽ち、かつて彼女のおびえを癒した声も響かなくなっていた。

 その骸は大地となり、あらゆる命をあたたかく育んでいた。


 イセイナには、いつミルゥが死んだのか分からなかった。

 どこまでが、生きたミルゥとの記憶だったのか。

 どこからが、死者の幻と交わした言葉だったのか。

 その境は永遠に見分けられない。


 初めて知る喪失の痛みに、彼女の胸をみたしていたものが堰を切り、あふれだした。


 それは涙となり、子どもたちの世界を包む優しい海となった。

 そして、イセイナはその姿を消した。

 それきり、彼女の名が神話に現れることはなかった。


   *   *   *


 小講堂の空気には、朝の冷たさがまだ薄く漂っていた。

 階段状に広がる席に、予科生を中心とした幼い顔ぶれがまばらに並び、一部にはリウレンもよく見知った本科生の生徒もいる。

 生徒たちは一様に中央の講義台に視線を集めている。

 リウレンはゆっくりと息を吐いてから、微笑を浮かべた。


「まずは、僕の講義を選んでくれてありがとう」


 軽やかな声だった。

 だが、その軽さは誰の心も傷つけないよう、周到に整えられていた。


「知ってくれている子もいると思うけど、簡単に自己紹介をするね。僕の名前はリウレン・ルゼリア。

 所属は五階……だから研究の中心は過去改変の禁止で、他には……

 塔の地下に収められた遺物たちが、この世界に生み出された本当の意味なんかをいつも考えてる」


 いくつかの席から、筆をとる音が小さく鳴った。


「塔では、講義はただの知識の受け渡しじゃないと、僕は思ってる。

 もし興味があれば、いつでも研究室に遊びにきてほしい。

 お菓子もあるよ。

 もし、僕が答えられない謎かけを持ってきたら取り放題だ」


 くすくすと笑い声が広がり、少しだけ緊張がほぐれる。


「さて――さっそくだけど、講義に入ろうか」


 リウレンの表情がすこしだけ真剣なものに変わる。


「この講義は魔法の『歴史学』で、魔法の上達が目的ではないんだ。

 魔法が僕たちにもたらしたもの、そして失わせたもの。

 その両方を、歴史を通して学ぶ授業で……

 記憶してほしいのは年代や事件名じゃない。

 本質だよ」


 リウレンは講義台の縁に片手をかけたまま、生徒たちのひとりひとりに短く視線を置いていく。


「それをみんなに伝えるために、今日は魔法の出現と発展みたいな堅苦しい話はなしとさせてもらうね。

 そのかわりいくつかの寓話を紹介しようと思ってる。

 最初は……イセイナとミルゥの後悔について」


 生徒たちが一斉に顔を上げた。


「イセイナは、この世界に最初の光を与えた神。

 そしてミルゥは、その光に先んじて創られた猫。

 夜を歩くための目を持ち、まだ名もない世界を、イセイナとともに旅していた。

 けれど、光が生まれたとき」


 リウレンの声がわずかに落ちる。


「ミルゥは朽ちて、いつのまにか大地になっていた。

 イセイナはそれに気づかず、世界を照らした。

 眩しさの中で、彼女は初めて、失ったものを見つけて、泣いた。

 その涙が、世界を包む海となった――と、語り継がれている」


 教室に静けさが満ちる。


「叶わなかった願いを掬いとり、ふたたびそれを世界に差し返す。それが魔法と呼ばれる力の仕組みだ。

 ねえ、考えてみよう。

 イセイナは、そのとき何かの叶えられなかった願いに、胸を引き裂かれたと思う?

 そしてそれは、この世界にどんな魔法を残したのかな?」


 しばらく沈黙がつづき、やがて、一人の生徒が手を上げた。


「先生」


 淡い金色の髪と、どこか澄みすぎた蒼い瞳をもつ少女が、ゆっくりと、自分の中で咀嚼するように口にする。


「イセイナはきっと、光なんかなくても、ミルゥと、ずっと旅を続けたかったんじゃないかなって思います。

 何も見えなくても、ミルゥと一緒なら……それでよかったんだって。」


 彼女は言葉を探しながら、続けた。


「……だから、イセイナの叶えられなかった願いは、光を自分の心にだけ閉じこめておくこと。

 ううん、もしかしたら――」


 一瞬ためらって、しかしきちんと自分の考えを伝える。


「もしかしたら、ミルゥのことを好きになんかなければよかったって、泣いたのかもしれません。

 だから、イセイナの後悔が残したのは……誰かが誰かを嫌いになる魔法。」


 その場に、言葉を失ったような沈黙が流れた。

 リウレンは、ふっと息をついて微笑んだ。


「ありがとう、セレナ。

 イセイナの涙の理由を、よく感じとってくれたね。

 みんなはどう?

 イセイナの後悔が、別のかたちで、魔法に残されているとしたら――君たちは何を思い浮かべる?」


 リウレンは、ほんの一瞬だけセレナの方へ目を向け、それから講堂全体を見渡すように視線を動かした。


「この講義の最初の謎かけに、いちばんに答えてくれたセレナの勇気に応えるために、僕の考えも、みんなに聴いてもらおうと思う」


 椅子に背を預ける生徒もいれば、何人かは、リウレンの言葉を書きとめようと筆を持つ手に少し力をこめる。


「ただ、これは正解じゃない。

 思いを巡らせることそのものが、この問いの大切な意味なんだ。

 みんなが汲み取ったイセイナの後悔、それぞれに宿ったかけがえのない直感を、どうか信じてあげてほしい。」


 その言葉のあと、リウレンの視線はふと宙を泳いだ。

 講堂の冷たい石の壁、その向こうにある、遠い記憶の景色の中で、消えゆくイルシリアを目にして、泣くことしかできなかった自分の姿を見つける。


「僕は……」


 途切れかけた言葉を、リウレンはたぐりよせる。


「イセイナは、自分が創ったもの――風、樹々、動物や人間、生きとし生けるもの、そして物言わぬ石や水に至るまで

 ……そのすべてを、ミルゥにも光の下で見てほしかったんじゃないかと思うんだ」


 共感を持ってうなずくものもいれば、退屈そうに身じろぎするものもいる。


「ミルゥがいたからこそ、光のない夜の世界でも、イセイナの創造は豊かで、彩りに満ちたものになった。

 だけど、その美しさをミルゥは一緒に見ることができなかった。

 そして……」


 リウレンの視線が宙をさまよう。


「イセイナはきっと、自分が何をどれだけ愛していたのか、どれだけ救われていたのかを知って――

 そのことをミルゥにもただ知ってほしかった、伝えたかったんじゃないかなって、僕は思う。」


 それは得てして形にならず、消えてしまうものだと、心の中でだけ、リウレンは付け足す。

 とくに、闇を恐れる心や、世界の冷たさに打ちのめされた者ほど、それを見失ってしまう。


「だから、イセイナが叶えられなかった願い。

 その魔法は……言えなかった思いを、言葉に変えることかもしれない。

 迷いながら進む足元に、ほんの少しだけ光を灯すこと。

 そして、立ち止まる背中を、そっと押してくれるような力」


 そう締めくくってから、リウレンは真正面の生徒たちへと目をやった。


「……そんなものであってくれたらいいなと、僕は思ってる」


 次の瞬間、彼は少し照れたように、口元をほころばせた。


「ちょっと感傷的だったね。

 でも、学者なんて案外みんなこんなものだよ。

 四六時中しかめ面で、後ろから頬をつねっても眉ひとつ動かないような……

 たとえば、詠唱言語学のオルヴァス先生みたいな人でもね」


 その名を聞いて、生徒たちの背筋がわずかに伸びた。

 何人かは、隣の席の生徒と目を見交わす。


 双声の鷹――そうあだ名されるオルヴァス・フェリアンは、セリクス族という希少な民族の出身だ。

 セリクスは生まれつき、ふたつの声帯を持っている。

 一度に異なる音素、異なる言語を話すことができるという特異な能力を有し、かつては二重話者とも呼ばれていた。


 だが、オルヴァスはその能力を誇示することなく、ふたつの声帯を用いて、ひとつの言葉だけを発するよう心がけている。

 そのため彼の声は、わずかにずれて重なる二重の音色を持ち、聞く者の耳に、ほのかに澄んだ和声のような響きを残す。

 その声の美しさはむしろ、教室に沈黙を強いた。

 彼の前では、どんな問いかけもためらわれた。

 またそのことを自覚しているのか、彼は多くを語ることがない。

 生徒の間違いを質すときでさえ、わずかな言葉にとどめるのが常だった。


 加えて、彫像のように整った金髪と鋭利な眼差し。

 常に皺ひとつなく整えられた衣服の様子、そのすべてが生徒たちに畏怖と敬意を抱かせるには十分だった。


 あのオルヴァス先生が冗談の対象になるなんて――

 生徒たちの顔にあらわれた戸惑いを一言であらわすなら、そういうものになっただろう。


「いいね、その顔つき。」


 リウレンはいたずらっぽく笑った。


「これも、今日の謎かけの報酬にしようかな。

 僕を黙らせるような素敵な謎を持って研究室にきたら、オルヴァス先生のちょっとだけ面白い話を、こっそり聞かせてあげる」


 一呼吸置いて、咳払いをひとつする。

 それから少しだけ真面目な表情をつくる。


「さて。

 話を戻そうか」


 教室の空気がゆるやかに変わる。


「次はミルゥの後悔について、君たちも想像してみてほしいんだ。

 そのために……少し長くなるけど、聴いてくれるとうれしい」


 リウレンは目を閉じ、歌うように語りだす。


「君は旅をしている。

 君を創り出してくれた大切な神さまと二人きりだ。

 光のないその世界で、最初の神イセイナは少しの先も見ることができない。

 だから君は、彼女の足を傷つけるものはないか、冷たい風にさらされたりしないか、耳と鼻と肉球と、すべてで世界を探るんだ。


 実際その闇の世界には、僕らが言葉にすることもできないような、忘れられた神々の骨、滅びた星の名残、かつて存在した夢の屑があふれていて、君自身も怖い目にあいながら、ときには中々治らない怪我もしたのかもしれない。


 それでも君は、イセイナの元に戻ると、まるで何ひとつ傷つけられてなんかいないみたいな声で鳴くんだ。

 そうやっていつも、彼女を次の場所まで連れていく。

 イセイナもただその小さな導きを信じて、君のあとを、おずおずとついてく。


 旅をつづけながら、君は見てきたもののうち、愉快なものや不思議なものの話ばかりイセイナに聞かせてあげる。

 イセイナはとっても気が弱く、優しい神さまだったから。

 そのうちにイセイナは、君が話す闇の世界の不思議な在りように共鳴して、いろんなものを創り出す。

 彼女は、君が喜びそうなものから順に、ひとつずつ、丁寧に生み出していった。

 君の毛並みをおだやかに撫でてゆく風、登って爪を立てられる樹々、君に優しく語りかけてくる、イセイナと同じ姿をした――そう、人間たち。」


 リウレンはここで深呼吸をする。


「だけどね、同じ神さまでも君とイセイナは、違うんだ。

 イセイナと同じだけの長い月日を、君は生きていくことができない。

 遠くまで見回ることができなくなり、目覚めるのも少しずつおっくうになっていく。

 イセイナの声も、だんだん、遠い遠いところから響いてくるように聴こえるようになる。


 そしてある日、君は、自分がこの旅を最後まで共にできないことに気づいてしまう。


 だから、君は考える。


 君がいなくても、イセイナが迷わず歩けるように。

 彼女がもう傷つかずにすむように。


 そうして、君が息を引き取ったとき。

 君のからだは、闇の世界を覆う、柔らかい大地に変わる」


 リウレンは目を開ける。

 ハシバミ色の瞳が教室を見渡す。


「ねえ、みんな。

 ミルゥは、何かを後悔して、眠りについたのかな?」


 問いかけると、今度はたくさんの手が挙がった。

 リウレンはその中から、ひとりと目を合わせる。


「レミス、君の考えを聞かせてくれるかい?」


「はい、先生」


 レミスと呼ばれた生徒がリウレンを見つめ返す。


「ミルゥは、きっと後悔なんてしてないと思います。

 自分がいなくなったことにすら気づかないで、そのままただやさしく眠った」


 リウレンは、うれしそうに笑いかける。


「僕も、そう思うよ。」


 リウレンのハシバミ色の瞳が、再び講堂の壁をすり抜けて、遠い世界を見つめる。


 暗闇の中、誰の記憶にもまだ触れられていない木の根元で、イセイナは眠っている。

 彼女のおなかのあたりに、一匹の猫がからだを丸めている。

 猫はもう考えをまとめることもできない。

 いくつかの断片的な記憶が、猫の小さな頭をよぎるが、人のようにそのことに涙するわけではない。

 いつものように、最後に心の中でひとつ鳴く。


 おやすみ、イセイナ。

 良い夢を。


 彼女を起こさないように、それは発せられることはない。


 それでもリウレンは、その鳴き声が聴こえたような気がした。


 叶わなかった願い、果たされなかった約束、選ばれなかった物語。

 世界はそんなものたちを記憶していて、それらが魔法の源となる。

 だからきっとこれは、起こらなかった偽りの記憶。


 何度か瞬きをして、リウレンはその幻視を追いやると、その日はじめて、講義台のノートに目を落とした。

 そして開かれたページにある己の文字に視線を走らせ、また顔をあげる。


「イセイナとミルゥの話はこんなところでいいかな。

 じゃあ……いや、次の寓話をはじめるまえに――」


 そのとき、彼の中で何かが切り替わったような気配を、感じ取った生徒も中にはいたかもしれない。

 リウレンのハシバミ色の瞳が色を変える。

 次の瞬間、その目は生徒たちを呑み込むように見開かれた。

 瞳の奥で夢見るようにくすんでいた薄茶が晴れわたり、隠されていた黄金色があらわになる。


 間近でその瞬きのような変化を捉えた最前列の生徒が、小さく息を呑んだ。


「最初に僕は魔法の上達が目的ではないって前置きをしたけど、ひとつだけ、みんなにコツを教えることはできる」


 それまでのおどけた口調とは異なる、暗い声音。


「叶わなかった願いを掬いとる――そんなのは、ただの慰めだ。

 魔法の本質は、誰かが届かなかった夢を、容赦なく奪いとり、

 自らの願いを叶えるために、その残骸を世界にばらまくこと。


 つまり魔法使いとは――

 誰よりも早く、世界の悲鳴に気づき、

 誰よりも深く、それを胸に刻み、

 誰よりも冷たく、それを力に変える者の別の名前なんだ」


 生徒たちの間におびえが広がる。

 リウレンの目が輝きを増し、逆に講堂の中のすべてが少しずつ色褪せてゆく。


「もし……過去が別の道を選んでいたら?」


 リウレンは、引き伸ばすように、ゆっくりと告げる。


「人がその問いを抱いた瞬間、魔法はひそかに、目を開ける。

 耳澄ます使者に万華鏡の欺瞞を――エルイル」


 その瞬間、講堂の空気が凍りつく。

 硝子が砕けるような鋭い音がどこからともなく響きわたり、生徒たちは本能的に肩をすくませ、何人かは小さく悲鳴をあげた。

 見慣れたはずの光景が、ほんの一瞬だけ、色と輪郭を失った気がした。


「こんなふうにね。

 あはは、ごめん。やりすぎたみたいだ」


 いつのまにかリウレンの目がハシバミ色に戻っている。

 もちろん窓が割れたわけでもなく、風が吹き込むこともなかった。

 ただいつも通りの午前の日差しが、小講堂の床に広がっていた。


「今のちょっとしたこけおどしの魔法の種は……

 予科生の男の子が友だちのいたずらにとんでもなく腹を立てて、窓に椅子を投げつけようとして――

 寸前で止められたときの無念かもね」


 リウレンはひとりでクスクスと笑う。

 同じ居住小塔に起居する何人かは、その一幕を思い出したのか、釣られて笑い声をもらす。

 講堂の緊張感がほどかれたのを見計らって、リウレンは改めて真面目ぶった口調で続ける。


「でも、魔法のコツというのは、本当にあるんだ」


 リウレンは、少しだけ声の色を変えた。


「みんながさっきイセイナとミルゥの願いに思いを馳せたように、僕たちがいま歩いているこの世界のすぐかたわら、選ばれなかった未来、語られなかった物語の中の、聴かれなかった悲鳴に、耳をすますこと。

 ただそれだけが、忘れられた力を引き寄せるための、ほんとうにわずかな糸口なんだ。

 でも」


 そこで、リウレンは意図して声に力をこめる。


「それだけじゃ足りない。きっと、君たちの中には、もう気づいている子もいると思うけど。

 魔法というのは――ただの奇跡でもなければ、優しい願いの小さな結実でもない」


 彼の瞳が、ひとりひとりの中に何かを探すように注がれる。


「その力は、ときに戦場で剣よりも鋭く人を裂き、ときに医術でも救えぬ命を、ひととき延ばしてみせる。

 けれどそんな力が、ただ誰かの悲しみに寄り添うだけで引き出せる訳がないんだ」


 数人の生徒は、リウレンがこのあと告げるものを予感したのか顔を伏せる。


「魔法は、必ず対価を求める。

 叶わなかった誰かの夢を掬う代わりに――魔法使い自身の未来が削り取られる。

 君が他者の願いに触れ、そこから力を奪えば……代わりに君の願いが、少しずつ砕けていくんだ。

 魔法を強く使えば使うほど、その代償は深く、重くなる。

 そして、ある限界を越えたその先に……『落花』が訪れる。」


 生徒たちのあいだに、明確なざわめきはない。だが全員が、その言葉に静かな絶望の響きを感じ取る。


「落花――それは、魔法に溺れ、可能性をすべて売り渡した魔法使いの成れの果てを意味する。

 物言わぬ生きた骸となるか、目覚めぬ眠りに閉ざされるか。

 またある種の特別な魔法使いは、落花の底で存在自体が異形の変貌を遂げるとされている。

 そうやって、人によって差はあるけど……

 いずれも同じ、ただ失われるだけの終わり」


 ここでリウレンは、講堂の沈痛な空気をはらうように、努めて明るく声を出した。


「もちろん、僕ら教師は、君たちがそんなふうになる前に、全力で止めるよ!

 ほっぺたを引っぱたいて目を覚ましてやるからね」


 リウレンは肩の力を抜き、大きく息をついた。


「僕もさっきの魔法で……そうだね、今日僕が食堂に行ったら、日替わりメニューが目の前で品切れになるかもしれないね。

 それも立派な可能性の消失だ」


 すこし投げやりな口調とともに、リウレンは講義台のノートを閉じた。


「戦場で局面をひっくりがえしたり、死せる魂と対話したりなんていう、奇跡みたいに大きな魔法に手を出さなければ、まあ君たちはそんなに心配する必要はないよ。

 

 ……今日はここまでにしようか。

 本当は寓話をいくつか紹介するつもりだったのに、気づけばイセイナとミルゥの話だけになってしまった」


 どこか弱々しい笑みを浮かべる。


「また今度、もう少しみんなと仲良くなれた頃に、残りの物語も聞いてもらえたらうれしいな。

 次は、偽貨戦争と灰色の王……魔法が初めて歴史の流れの中で、はっきりとその姿を現した頃の話をするね。

 予習はいらないよ。

 僕の講義は、気楽に聞き流してくれてかまわないから。

 もっとむつかしい話がしたければ――

 いつでも研究室においでよ。

 どんなひねくれた議論も受けて立つよ」


 講堂をぐるりと見回すリウレンの視線は、どこまでも優しい。


「じゃあ、最後にもう一度」


 ひとつ呼吸を置く。


「僕の話を聴いてくれて、ありがとう。

 そして、ようこそ。

 この不確かで、曖昧で、少しだけ――光の足りない学問の世界へ」


 ぱらぱらと、戸惑いがちな拍手が起きる。

 その中に一人だけ、ひたむきに手を叩く少女がいる。

 彼女に、それとわかるかどうかの微笑を一つだけ残して、リウレンは小講堂をあとにする。

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