夜明けの背理
だがその刹那、意識の底で、ひとつの幻視が起こる。
それが単なる夢ではなく、重大な真実の断片であることを、リウレンは直感的に理解した。
長い旅の果てに、すべてを語り終えたミラリスは、今はただ安らかな寝息をたてて眠っている。
その掌にあったはずのコインが、ゆっくりと指のあいだから滑り落ちる。
ミラリスの身体をすり抜けながら、くすんでゆく。
夢の時間が壊れ始める。
すぐそばまで来た覚醒に抗うように、リウレンはその意味を読み解こうとする。
思考が限界を超え、脳が軋むような圧にさらされる。
夢の扉を開くために使われた奇跡の鍵。
あらゆる可能性を使い果たし、輝きをなくした銀のコイン。
ミラリスとともに力を失ったそれは、もはやどんな色も光も持つことはない。
ここは夢の世界。現実とは異なる摂理が支配する。
未来を失ったものが、概念として落ちていく先は――過去。
だから、それは。
灰色のコイン。
その瞬間、夢の深い底で、落ちてくるコインを見上げる子どもと視線が交わる。
その顔を、彼は確かに見たことがあると思った。
塔の入場証でもある灰色のコインとの噛み合いに、推論の歯車が回り始めようとする。
だがリウレンの意識は焼き切れるように闇へ沈み、符丁を持ち帰ることはできない。
* * *
同刻、ティレムナ観月測潮府の元首執務室――
夢見の水盤を見つめていたテネカ・ディレカーフが、手にしていた手帳を落とす。
「見つけ、ました」
その言葉を聞く者はいない。
その頬が高揚を兆して朱を帯びるのを、見る者もいない。
ゼルを誤解させ、誘導した。
だがテネカは知っていた。
過去改変がたやすく行われるものではないことを。
力を持たぬはずの灰色のコインからすべてを築きあげた者がいる。
禁学の塔、不可能証明の仕組み。
無から有を生みだした摂理の改竄者。
過去改変よりも重大な歪みをもたらした根源。
手帳を拾いあげ最後のページに、テネカは描く。
硬質な線で写し出されるのは、水底で揺れる子どもの顔。
「……灰の王」
* * *
やがて、どこから入り込んだのかわからない猫の鳴き声で、セレナは目を覚ました。
まだ夢の中にいるような、ぼんやりとしたまどろみの中で、目尻に残る涙を拭う。
何の夢を見ていたのかは、もう思い出せない。
ただ、誰かがずっと泣いていた気がする。
泣いていたのは自分だったのかもしれない。
それも、もうわからなかった。
気づけば、白いシーツの端で、銀色の毛並みの子猫が小さく丸くなっている。
「おはよう」
セレナはその子を両手で抱き上げた。
そして、名をつけるように、あるいは何かを思い出すように囁く。
「……ミラリス」
そう呼んであげるのが、とてもふさわしく、そして大切なことのように思えたから。
このとき、それを知覚するものは誰一人いなかったが――
けれど、ゼルの決断で進んだテトラクロノスの四本目の針が、それと分からぬほど小さく戻った。
子猫を抱くセレナの腕の中で、銀の毛並みに星座のような模様が浮かびあがり、すぐに消えた。
それは、ある秘密の試験にセレナが合格した合図だった。
同じ朝、リウレンもまた長い夢から目を覚ます。
だが彼の目に映る天井は、見慣れた私室のものではない。
石造りの天井。
錆びた鉄格子の影。
ヴァルゼル・トゥアに見出される以前、彼が収監されていた部屋を思わせる場所。
ゼルの逃亡を手引きしたという疑いのもと、リウレンは今、塔の獄室に囚われていた。
夢の名残は、指のあいだからこぼれ落ちる水のように薄れていく。
銀の髪の少女。
見えない猫。
灰色のコイン。
黒い球体の秘密。
どれも思い出そうとするほど輪郭を失っていく。
それでも胸の奥には、ひとつだけ、消えきらない感覚が残っていた。
失われたと思いこむには、まだ早いのかもしれない。
そんな、証明にも推論にもならない頼りない予感だけが。
リウレンは冷たい床に手をつき、ゆっくりと身を起こした。
現実は何ひとつ変わっていない。
ゼルは姿を消し、塔の上層ではおそらく騒ぎが広がっている。
自分の立場も、きわめて危うい。
だが、それでも。
ずっと忘れていた暗い部屋の中で、誰かが確かに言ったのだ。
あきらめないで、と。




