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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第1章 わたしがたとえ、目覚めなくても

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15/16

死角の炎

 その夜、セレナは寝台に入ってからも、なかなか眠れなかった。

 昼間、食堂を出たあと、二人の教師の背がそれぞれ別の方角へ遠ざかっていった時――

 あのとき胸の奥に生まれた鈍い塊が、夜になっても溶けずに残っていた。


 祈るように目を閉じ、ようやく訪れた眠りの底で、セレナは奇妙な、そしてひどく悲しい夢を見る。


 世界を滅ぼそうとする「大きな手」。

 夜と朝のあわいから這い出ようとする、巨大な指先。

 その怪異から逃れるために、ある王女が夢の扉をくぐり、ひとりきりで旅立っていく。


 セレナは声を出せない。

 手も伸ばせない。

 ただ、王女の旅路を夢のこちら側から見つめることしかできない。

 けれど目を逸らすことだけは、どうしてもできなかった。


 銀のコインの王女、ミラリスの旅が始まる。


 最初の扉を抜けてからしばらくして、ミラリスは不思議な旅の同行者の存在に気づく。

 高い鳴き声と、月明かりのような銀の毛並みの猫。


「どこの子かしら……どうしてついてきちゃったの?

 もう帰れないんだよ。元のおうちには」


 ミラリスは猫を抱き上げ、その小さな体を胸に寄せた。


「でも、いいかもね。長い、長い旅になるんだもの。

 わたしにだって友だちがいたって」


 猫は澄んだ声で鳴いた。

 それを返事と受け取ったように、ミラリスは笑う。


「いこっか」


 それから王女は何度も扉を開き、夢の世界を渡りつづけた。

 それは彼女が持つ夢の魔法の行使だった。

 代価は、己の未来の可能性。

 扉を開けるたび、次に選べる扉の数は減っていく。

 最初は部屋中を埋めていた扉が、やがて数えられるほどになる。


 セレナは、夢のこちら側からそれを見ていた。

 ミラリスが進むほど、彼女の歩める未来が狭まっていくことがわかった。


 不安に胸を締めつけられながら見守るセレナの視線の先で、ミラリスがまたひとつ扉を開く。

 その先は、牢のように狭い部屋だった。


   *   *   *


 簡素な部屋の壁に背をもたれ、憔悴した少年が座っている。

 かたわらには黒い球体。

 少年は片手をそれにのせ、もう一方の手の甲を眉間に当てながら、早口で何かを呟いていた。

 見開かれた目には、正気を逸脱しかけた者の熱が濃くにじんでいる。


 ミラリスは床に散らばった書物を避けながら、少年のもとへ近づく。

 少年は現実の制約を忘れたような速度で、自分の仮説を展開していた。


「アンスコーティア……灰の王が現れなかった架空の歴史……

 観測されない偽りの世界で、観測の星レイジュールは存在矛盾で地に堕ちる。

 不可能証明もない世界に、戦争の死者たちの残した呪いが溢れて……

 魔法も科学も際限なく膨らんで……この黒い球体はその果ての残骸……

 分からないのは、『これがどうして、こうなったのか』だ。

 この暗黒は何を意味する……?

 だけど、もう確かめるすべはないんだ。

 僕は先生を止められなかった。

 痕跡は残る……でも歴史は持てない……

 アンスコーティアは再演されない……二度と確かめられない……

 それが先生のレフネイアに認められた証明の、核心だった……」


 そこまでは推論だった。

 けれど推論は、ほどなく別のものへと変わっていく。


「イルシリアは消えた。それが僕の、二度と取り消せない罪。

 彼女は言った。僕らはきっとまた会えると。

 だがそれはどこで? 本当に?

 君はもういない。

 先生が――僕が、たった一人の友人を消してしまった」


 黒い球体に触れた指が、小刻みに震えている。


「君は本当にいたのか?

 あれらの出来事は、本当にあったことなのか?

 それに、もう一人の君がこの世界のどこかにいるとして……それは本当に君なのか?

 それが君だと、僕にわかるのか?

 この世界で君にもし出会えたとしても、それは君自身には何の慰めにもならない。

 違うのか?

 僕が見落としている要素が何かあるのか?」


 声が途切れる。

 推論の殻がひび割れるように、少年の言葉は崩れていった。


「解けないものは、ただ解けない。

 出口のない迷路。悪魔の証明。永遠に次の階に昇れない錯視の階段。

 こんなことに――意味なんかないんだ。

 分からない、分からないよ。

 イルシリア……」


 壊れた機械のように考えつづけていた少年が、ついにその名を呼んで沈黙する。

 その、叫びにも似た沈黙に、ミラリスはもう黙っていられなかった。


「分からないから考えるんだよ。届かないから手を伸ばすんだよ。

 でも、それでいいの。

 そのことを恥ずかしがったり、自分を責めたりする必要はないの。

 それはとても正しいことで、でも正しいことは苦しくて……

 それしかわたしたちにできることはなくて……

 それでも、そうやって、わたしたちは少しでも幸せな場所に近づこうと歩くんだよ」


 その言葉が届いたのかはわからない。

 それでも、少年の目はついに少女を見上げた。


「邪魔をしてごめんね……わたしはミラリス」


 だがその瞬間、王女は背後を振り返る。

 彼女がくぐってきた扉の向こうから、ねじれた意思の気配が立ちのぼっていた。

 王女の存在を亡きものにしようとする、あの巨大な手が、この夢にまで指先を差しかけようとしている。


「ごめんね……ごめんね……」


 ミラリスは少年を抱きしめようとする。

 だが、その腕は彼をすり抜ける。


「もう、いかなくちゃ。

 でないとこの夢が壊されてしまう。

 でも――」


 彼女は誓いを、そのまま差し出すように言った。


「わたしはまた、あなたに会いにいくよ。

 これからまた、いくつもの夢の扉を越えて、きっと会いにいく。

 心のわだかまりを乗り越えて、少し大人になったあなたの夢を、また探し出してみせる。

 だから、あなたも――」


 ミラリスは叫ぶ。


「あきらめないで!

 その友だちを探してあげて!」


 それから彼女は振り返らず、部屋にある扉のひとつを開いた。


 王女の旅と、少年の悲しみ。

 それをセレナは夢の中で追いつづけていた。

 涙が止まらない。

 なぜ、この少年のことがこんなにも悲しいのか、セレナにはわからない。

 けれど、その面差しに、よく知る誰かの影がちらついて消えた。


 先生――あなたはいったい、何者なのですか。


 セレナの想いをのせて、ミラリスの逃避行は続いた。


   *   *   *


 そして今、ミラリスの前にある扉はひとつしかない。

 彼女は震える手でそれを押す。

 夢の魔法はすでに彼女から多くを奪っており、扉は容易に動かない。

 それでも、彼女が最後の力を込めると、ついに隙間が開き、青白い光が漏れた。


「ねえ、あの人、いるといいね。

 わたしのこと、覚えてるかな」


 猫が鳴いた。

 その声は、いつになくあたたかかった。


   *   *   *


 ゼルの暗室の魔法に囚われたリウレンもまた、夢の海の底を彷徨っていた。


 この夜は特別な夜だったのかもしれない。


 夢が同調する。王国の長い歴史が、リウレンの前でも再演される。


 翡翠の王が千字から成る名を名乗り、群青の王が民に沈黙を強い、琥珀の王が七日ごとに何度も生まれ変わる。

 銀の王が扉を越え、そして灰色の王が空を見つめる。

 神話と現実の境目がまだ曖昧だった時代、王たちはコインの色とともに、それぞれ異なる運命を王国にもたらした。


 それは断章のようでありながら、確かな歴史の残響でもあった。

 夢は途切れ、別の夢が混ざる。

 世界が崩れる未来。

 誰かが救いを差し出す未来。

 どれも確かで、どれも遠い。


 しかし、どの道をたどっても、その果てには必ず一人の人物が現れ、彼に致命的な何かをもたらす。

 ゼルでもない。

 かつての師、ヴァルゼル・トゥアでもない。

 その人物の顔を見ようとするたび、蝋燭の火に炙られた紙のように、視界の中心だけが黒ずんでいく。

 それなのに、どうしようもなく懐かしい。


「君は……一体……?」


 問いを口にしたそのとき、夢の中に小さな風が吹いた。


 夢の場面が切り替わる。


 リウレンは手元の書物から顔を上げる。


 彼は自分の私室にいるつもりでいた。

 寝台と小卓と簡素な棚だけの、見慣れた部屋。

 壁際には読み終えていない本の束が積まれ、卓上には王朝史の写しが広がっている。

 夜光虫の虫かごが、青白い光を落としている。


 だが、どこかがおかしい。

 部屋が心なしか広い。

 天井が少しだけ高い。

 それに、自室にはあるはずの窓が見当たらない。

 けれど夢の中では、その不自然さを不自然と感じる力そのものが鈍っていた。


 ふたたび風が起きる。

 窓のない部屋で、風が。


 顔を上げたリウレンの前に、少女が立っていた。

 銀の髪が風の名残に揺れている。

 年の頃はリウレンより幼く見える。

 彼女は目が合うと、花が開くように笑った。


「わたしはミラリス。忘れたとはいわせないわ!」


 リウレンは書物を閉じる手を止めたまま、その宣言を聞く。


「……どなた、ですか」


「ふふ、冗談よ。初めまして、リウレン。

 わたしは遠いところから来たの。

 いくつもの扉を渡ってきた。あなたに会うために」


 そう言って、ミラリスは部屋の中を見まわす。

 本の束。

 虫かごの光。

 冷めたままの茶器。

 それから寝台。


「ここに座っていい?」


 返事を待たず、彼女は寝台の端に腰を下ろした。

 両足をぶらぶらと揺らし、その高さを確かめるように。

 リウレンの胸に、理由のわからない痛みが走る。

 ほんの少し前まで、そこには誰かが座っていた――そんな感覚だけが残っていて、夢の中の彼にはそれが何を意味するのか掴めなかった。


「それからね、紹介させて」


 ミラリスは、自分の隣――寝台の何もない空間へ目を向ける。


「この子。

 名前はまだないのだけれど、わたしと一緒に、ずっと長い旅をしてきた、たったひとりの友だち」


 リウレンは少女の視線を追う。

 そこには、しわの寄ったシーツと虫かごの青い光があるだけだった。

 ミラリスはしばらく彼の目を見つめ、それから、何かを受け入れるように小さく息を吐く。

 残された時間は少ないのだと、その仕草だけでわかった。


「リウレン」


 ミラリスの表情が変わる。

 子どものあどけなさの奥から、長い旅をくぐり抜けてきた者の切迫がのぞく。


「この世界の外側に、とてつもなく大きな手があるの。

 わたしたちの歴史を、根こそぎ書き換えようとしている手が。

 その手はね、もうあなたのすぐそばまで来ている」


 リウレンは息を呑んだ。

 少女の声は穏やかなのに、言葉のひとつひとつが、部屋の壁を内側から軋ませるようだった。


「あなたの友人が、今夜、ひとつの選択をした」


 ミラリスは寝台の縁にそっと手を置く。


「それが、その手に道を開けることになる。

 彼が遠くへ行ってしまう前に、見つけて。

 この世界に繋ぎ止めて。

 でないと彼は、その大きな手の指先になってしまう。

 たとえ本人が、それを望んでいなくても」


 虫かごの光が揺れ、壁に落ちる影がひときわ大きく歪んだ。


「それから……塔の、いちばん高いところにいる人」


 ミラリスの声は、さらに低くなる。


「あの人は世界を守ろうとしている。

 でも、その守り方は、世界を眠らせることなの。

 誰も夢を見なくなって、誰も手を伸ばさなくなって、何も届かなくなる。

 それは、とても危険なやり方」


 言葉を探すように、彼女は一度だけ視線を落とした。


「あの人を止めてほしいの。

 黒い球体の秘密を解き明かして。

 まだ誰も見たことのない宝石の魔法を見つけて。

 そして、あの人の間違いを証明するの」


 その声が震えたのは、懇願のためではなかった。

 ミラリスは扉を渡るたび、守られたはずの世界が硝子細工のように砕け散る未来を、幾度も見てきたのだろう。

 潔癖な心が精密な指先で整えた美しい舞台ほど、脆く壊れる――そのことを、この少女はもう知ってしまっている。


 言い終えると、ミラリスは寝台の上で膝を抱え、それからゆっくりと横になる。

 ちょうど、少し前までゼルが腰を下ろしていた場所に、銀の髪が広がる。


「眠くなっちゃった……」


 その声にはもう、預言者めいた重さは残っていなかった。

 長い旅の果てにたどり着いた子どもの、疲労と安堵だけがあった。


「あなたに会えて、本当に嬉しかった。

 だからもう、心残りなんてないの。だけどね」


 瞼が重たげに落ちかける。


「わたしが、たとえもう二度と目を覚まさなくても、

 この子のことを、ときどき見てくれると嬉しいな」


 少女の手が、隣の――リウレンには何も見えない空間を、やさしく撫でた。


 ミラリスは眠りに落ちていく。

 呼吸がゆるやかに整い、もう二度と目覚めることのない眠りの底へと沈んでいく。

 その、意識が完全に閉ざされる直前――


 夢のこちら側で、セレナが手を伸ばした。

 触れられるはずもない。それでも、伸ばさずにはいられなかった。


 ミラリスは、一人の見知らぬ少女に抱きしめられたような気がした。


 リウレンには、寝台で眠るミラリスの口元が、ほんの一瞬だけほころんだように見えた。


 リウレンはその表情を見届けてから、少女が最後まで撫でていた場所へ目を移す。

 そこには、何もいなかった。

 最初から、ずっと。

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