王朝秘史
王族の子は、必ず手にコインを握りしめて生を受ける。
それがいつ、誰の手によって赤子の掌に置かれるのかは、誰も知らない。
ただ、コインの色がその子の代に王国がたどる未来を示唆すると、古くから信じられていた。
翡翠のコインを持つ第五代王は、親から与えられた名を拒んだ。
夢に見た光景から一字ずつ拾い、それをつなぎあわせて己の名とした。
千の夢から得た千の文字で綴られたその名は、ついに誰にも読まれず、今に伝わる「オルセリオ」は、その最初の数音にすぎない。
翡翠は、他者の夢に共鳴し、国を幻視で覆う色。
彼の治世では、名も夢も境を失い、民は眠るたび隣人の夢を見た。
やがて誰もが、自分の見ている夢が本当に自分のものかどうかを、確かめる術を失った。
やがて、群青のコインを握りしめた王が現れる。
第十二代、ルア。
群青――それは、光の届かぬ深層から響く、語られぬ声の色とされた。
彼は生まれつき聴力を持たず、言葉を発するために口を開くこともなかったが、世界の底で蠢くものたちの呻きを聴いた。
そのものたちを鎮めるため、王は民に沈黙を命じた。
群青の王は声なき時代をもたらし、誰もが語ることを恐れた。
歴史は十年間、空白のまま綴られることとなる。
琥珀のコインの子が生まれる。
第二十一代、ユーヴィル。
彼のコインは透き通る琥珀で、そのなかには繊細な羽を持つ青い蝶が閉じ込められていたという。
王は即位と同時に、七日ごとに死に、七日ごとに蘇るようになった。
再生のたびに心も体も少しずつ変質し、やがて確実に別人へとなっていった。
ある朝、王は目覚めるなり廷臣たちを集め、こう告げた。
自分は異国から来た旅の庭師であると。
今朝、荒れ果てた故郷の庭を夢に見た。
私は帰らなければならない、と。
王はその日のうちに王宮を去り、二度と戻らなかった。
するとコインは溶け、中に封じられていた蝶が息を吹き返したという。
そして、前期王朝最後の王――銀のコインの少女、ミラリス。
彼女が生を受けたとき、空の半分は夜で、もう半分は朝だったとされている。
その境目からは、この世界の向こう側から何か巨大な存在が指を伸ばし、境界そのものをこじ開けようとしているように見えた。
民は少女が即位するその日まで、名づけようのない怪異へのおびえとともに日々を過ごした。
即位の日、ミラリスは見覚えのない儀式官に導かれ、誰も知らぬ部屋で眠りにつかされた。
廷臣たちはみな、なぜか心ここにあらずというふうで、それを咎める者は一人もいなかった。
彼女はすぐに、自分が夢の中にいると気づく。
そこは足元にこう記された部屋だった。
「あなたはここを開けてはならない。
しかし開けるために、ここに生まれた」
部屋には、無数の扉があった。
少女は何のためらいもなく、銀のコインをひとつの鍵穴に差し込み、扉を開け、その向こうへ姿を消した。
子を残す年齢でなかった王の失踪とともに、前期王朝は崩壊の兆しを見せ始める。
だがその日、空を裂いていた怪異は、まるで最初から存在しなかったかのように掻き消えた。
この時代に狙うべき獲物は、もはやどこにもいない――そう告げるように。
やがて各地に僭主が乱立し、己こそ王家の後継であると名乗りはじめる。
彼らはそれぞれ、自らが持つコインの起源こそ正統であると主張し、そのコインに宿る力とされるものを振るって敵対者へ刃を向けた。
それが本当に魔法であったのか、それともただの錯覚であったのか、今となっては誰にもわからない。
こうして、後に「偽貨戦争」と呼ばれる絶望の時代が幕を開ける。
ある学派の者たちは言う。
そのとき失われた無数の命と未来こそが、後期王朝における魔法の隆盛の源泉であったのだと。
戦場の極限状態で、ごく一部の兵が新たな力に目覚めた。
命の炎を代償に、彼らは常識を超えた異形の力――魔法を行使した。
だが、その力は混沌を鎮めるどころか、悲劇の連鎖をいっそう加速させただけだった。
そんな、永遠に続くかに見えた災禍の戦場の何処かで――
血にまみれ、息も絶え絶えの若い戦士が、仰向けに倒れていた。
最悪の人生の最後に見る空。
何の感慨もなくそれを眺めていた戦士が、ふいに気づく。
空の一点に、小さな影が生まれていた。
そこから何かが、ゆっくりと回転しながら落ちてくる。
光を失い、色を持たぬ、ただの灰色のコイン。
その落下の先に、ひとりの子どもが立っていた。
襤褸の裾から覗く腕は骨のように細い。
その子どももまた、兵たちと同じように空を見つめている。
やがて右手を掲げ、落ちてきたコインを受け止めた。
そのとき、子どものうつろに濁っていた瞳に、ふいに黄金が宿る。
子どもはその後、ほとんど記録に残されていない不思議な力で、いくつもの戦場を平定した。
ただひとつ、空を飛びながら影を落とさない竜が、その子どもを守護していたとだけ伝えられている。
そして、その灰色のコインの落下は、誰かが遠い王朝史を夢見るたびに繰り返される。




