テトラクロノス
首をふって回想を振り払い、ゼルはぐるりと悪意の街並みを見渡した。
手にはミルグリーフ。
鞘を払った刃文が、淀んだ水路の暗がりに白く浮かびあがる。
そのとき、ゼルの視界の端を、小さな光が横切った。
蝶だった。
左右で羽の色を違える、この世のものとは思えない蝶。
片羽は浅瀬のように淡く透き、もう一方は夕暮れのくすんだ茜。
インレクト。
セレナが目敏く横取りした攻略読本にはそう記されていたはずの、迷宮の怪異のひとつ。
美しい蝶の登場とともに家々の間に満ちていた潮が引き、かつて失われたヴァルムールの小道が姿を現す。
その入り組んだ道すじは、まさに迷宮と呼ぶにふさわしいものだった。
インレクトは舞うような軌跡で道を進み、角を曲がり、その気配だけを残して先へと進んでいく。
ゼルは迷わなかった。
石橋から飛び降り、蝶を追う。
水路沿いに並ぶ家々の屋上は不自然に傾いでいて、窓は塗りつぶされたように暗い。
偽りの街に住人はいない。
足音だけが壁に跳ね返り、どこか遠くの廃屋から返ってくる。
インレクトはゼルの歩幅に合わせるかのように、つかず離れずの距離を保っていた。
やがて行く先の街並みが、ゼルの記憶と重なる。
(こいつは俺を、あの家に連れていくつもりか)
ゼルの脳裏に、弟が眠る部屋の光景がよぎる。
月明かりが差す窓辺。
掛布の上の小さな手。
潮の引いた夜の、あの息苦しいほどの凪。
迷宮がヴァルムールを模したのなら、その先に弟の寝台を置いていてもおかしくはない。
だが――蝶は曲がった。
ゼルの記憶にない横道へ。
ヴァルムールの裏路地に似てはいるが、こんな角はなかった。
建物の壁面に刻まれた装飾が不揃いで、窓の配置が左右で食い違い、屋上へ通じるはずの外階段が途中で途切れている。
記憶に照らし合わせるほどに、街がゼルの知るそれとずれていく。
やがて水路は行き止まりに突き当たった。
三方を壁に囲まれた、小さな袋小路。
石畳は湿り、水面から立ち上る霧が足元をかすめる。
インレクトの姿は、もうどこにもなかった。
ゼルは一度だけ頭上を見上げた。
そこにヴァルムールを陽気な海の街としていた南の空はない。
ただ、どこまでも続く曖昧な暗がりが広がっているだけだ。
「隠れん坊はこれで終わりか?」
その声に応えるように、空気そのものが割れるような鋭い振動。
ゼルの鼓膜が震え、足元が同心円状に波紋を描く。
袋小路の壁が、後ろ側から突かれるように歪んだ。
その歪みの中から、ひとつの影が押し出されてくる。
大人の男性の背丈よりかなり高い、細長い輪郭。
両の手に音叉を模した異形の剣を持ち、そのいずれもが、存在しない光源を受けて鈍く煌めいている。
騎士のような装甲に包まれた体躯は、まるで迷宮の壁そのものが人型を取ったかのようだった。
装甲は切れ目なく頭まで覆い、目や鼻の凹凸のないつるりとした顔貌を形成している。
オルエイス。
攻略読本を読んだセレナなら、目を輝かせてそう言っただろう。
音叉の騎士が、一歩を踏み出す。
その足が石畳に触れた瞬間、世界が軋んだ。
壁も路地も屋根も砕けていく。
破片の向こうから、別の景色が押し寄せてきた。
迷宮が変容したのだ。
風が変わった。
潮の匂いが消え、代わりに土と鉄と、焼けた草の匂いが鼻を突く。
ゼルは息を呑んだ。
足元にはもう石畳はない。
踏みしめているのは、乾ききった砂と、折れた槍の柄と、踏み荒らされた大地だった。
視界の端に、捨て置かれた軍旗の残骸がちらつく。
――知っている。
この空を。
この匂いを。
この焦燥を。
足元から、焼けつく痛みの記憶が攀じ登ってくる。
空は、青かった。
雲ひとつなく、どこまでも透き通ったあの日の空。
ゼルが食堂でリウレンとセレナに語った、あの空と同じものだった。
アゼル・リュゼインの極大魔法が放たれ、ルアスレインがそのすべてを打ち消した――あの戦場。
オルエイスは、再現された戦場の中央に立っていた。
音叉の刃を両手に構え、面のない顔をゼルに向けている。
ゼルはミルグリーフの柄を握り直した。
刃文に浮かぶ回文が淡い銀光を放ち、乾いた風に鈴のような音を散らす。
(あの蝶は、こいつを呼ぶために俺をここに導いた、というわけか)
オルエイスが動いた。
右の音叉を振り下ろす。
その軌跡に沿って空気が裂け、衝撃波が地面を走り、ゼルの立つ大地を隆起させる。
ゼルは横に跳んでそれを避けたが、着地した足元が沈む。地形が変わっている。
オルエイスが武器を振るうたびに地面の起伏が変わり、足場が信用できなくなっていく。
左の音叉が水平に薙がれる。
ゼルは身を伏せ、頭上を過ぎる振動の波に毛先が引かれるのを感じた。
(剣術じゃない。
空間そのものを武器にしている)
軍にいた頃に学んだ型は、人間を相手にしたものだ。
足運びも、間合いの読みも、人の速度と人の体格を前提としている。
だが、こいつの攻撃は人を斬ることを目的としていない。
迷宮の構造を書き換えること――それ自体が、こいつの存在理由だ。
ゼルはあえて距離を詰めた。
ミルグリーフを振るう。
その一閃を浴びたオルエイスの動きが鈍る。
その隙に、ゼルは踏み込んで斜めに斬り上げる。
刃が音叉の騎士の装甲に触れると、硬質な反響とともに火花が散った。
手応えはある。
だが浅い。
オルエイスは後退せず、左右の音叉を同時に振り下ろした。
ゼルの足元の大地が一気に陥没し、彼の身体が引きずり込まれかける。
咄嗟に右足を踏み替え、崩れた地面の縁を蹴って跳躍する。
空中で半回転し、落下の勢いを斬撃に変えた。
ミルグリーフの切っ先がオルエイスの肩口に食い込む。
装甲の表面に、白い亀裂が走った。
オルエイスが、初めて声を上げた。
声ではなかった。
共鳴だった。
体の内側から響く、低く長い唸りのような振動。
だがゼルは退かなかった。
亀裂に沿って刃を押し込み、捻る。
剣の響きとオルエイスの共鳴が衝突し、不協和音が戦場に谺する。
「……共振機関も腹いっぱいだとさ」
ゼルが刃を引き抜くと同時に、オルエイスの体躯が傾いだ。
装甲の亀裂から黒い霧が噴き出し、騎士はゆっくりと膝をつく。
輪郭が薄れていくなか、最後にもう一度だけ音叉の刃が地面に触れた。
その一打が、戦場の空を変えた。
頭上に、巨大な顔が現れた。
ゼルは反射的に身構えた。あの日のように。
戦場の空に映し出されたのは、しかし――アゼル・リュゼインではなかった。
柔らかな赤毛に覆われた、小さな顔。
見開かれた瞳には、まだ黄金の残影がたゆたい、同時にその目尻から紅い涙が一筋、頬を伝っている。
あの日のままの――ルアスレインの顔が、空一面に広がっていた。
ゼルの手から、ミルグリーフが落ちかけた。
落ちはしなかった。
だが今度は逆に、握る指が痛くなるほど強く柄を握り直す。
ルアスレインの巨大な幻影は、ゼルを見下ろしている。
その表情が歪むのを、ゼルは奥歯を噛みしめながら待った。
お前があの場に留まったせいで、俺の人生はその針を止めた。
ゼルの脳裏にはそんな幻の声が去来した。
だが幻影の口元に浮かんだのは、責めの言葉ではなかった。
――笑みだった。
あの日の紅い涙を流したまま、それでもルアスレインの顔には、泣き笑いのような、拙くて不器用な微笑が浮かんでいた。
「兄さん」
声は風に乗って降ってきた。
遠くて近い、聴き慣れた声。
「生きててくれて、よかった」
ゼルの呼吸が止まった。
「でも、この先には行かないで。
頼むよ、兄さん」
幻影の瞳に宿る黄金が揺れる。
紅い涙が、空から雨粒のように落ちてくるが、ゼルの頬には届かず、地面に触れる前に消えた。
「俺のために来たんだろ。
分かってるよ。
だけど――これ以上、進んじゃいけない」
ゼルはミルグリーフを構え直し走り出す。
弟の幻影に向かって。
ルアスレインの目が大きく見開かれる。
「兄さん――!」
その声をゼルは無視した。
この弟が本物であれ偽物であれ、生きていようと迷宮の幻であろうと、ゼルの答えは変わらない。
ヴァルムールで、テネカ・ディレカーフが告げた言葉。
――弟さんの人生を、弟さんに返す道が。
(兄さん――!)
あの日の呼び声が重なる。
(無理だよ兄さん!
あんな化け物――人の手に負える相手じゃない!)
(逃げよう!)
その制止に、ゼルは従わなかった。
(どこかに……カラクリがあるはずだ……どこかこの戦場の近くに……)
(俺にはこの世界の嘘が見える。
だから――どこだ、緋銀の王)
そしてゼルは走ったのだ。
弟の手を振り払って。
詠唱が進み、世界が闇に落ちた時、ゼルは過ちを悟った。
嘘なんて見えやしなかった。
王の実体も魔法を中継する遺物もこの戦場にありはしなかった。
不思議な重力に足を地面に縫い留められ、絶望で空を見上げる兄に代わって――
ルアスレインが、前へ出た。
愚かだった。
己を過信して、その代償を弟に払わせた。
それがゼルの原罪であり、ゼルがここにいる理由のすべてだった。
あの日と同じように、走る。
戦場の荒れ地を蹴り、ルアスレインの巨大な顔が映し出された空に向かって、ゼルは跳んだ。
ミルグリーフが弧を描く。
刃文に刻まれた回文が灼熱の銀光を放ち、宙に解けた鈴の音が戦場の隅々にまで響き渡る。
しかし刃が切り裂いたのは弟の幻影ではなかった。
ゼルの眼前に、あの蝶が現れていた。
いつの間に戻ったのか。
いや、あるいは、最初からここにいたのか。
ゼルの剣筋の延長線上で、インレクトは羽を広げ、刃の軌道に身を委ねた。
――いずれ斬られることを、蝶自身は知っている。
その言葉が、不意に脳裏を掠めた。
だが剣はすでに振り抜かれていた。
ミルグリーフがインレクトの胴体を、断ち割った。
裂かれた蝶の身体から、二色の羽が左右に砕け散る。
浅瀬の色をした破片と、褪せた夕焼けの色をした破片がさらに微細な粒子へと分解されていく。
粒子は光を帯びていた。
鈴の音の残響と共鳴するように、粒子のひとつひとつが淡い銀色に輝き、戦場の空から降りそそぐ。
ルアスレインの幻影は、その粒子に包まれるようにして、ゆっくりと薄れていった。
最後に見えたのは、弟の口元に浮かんだ笑みの名残だった。
空が暗くなった。
戦場が消え、風が止み、音が止み、光が消えた。
ゼルは完全な闇の中に立っていた。
足元に地面の感触はある。だが何も見えない。
ミルグリーフの刃文の光だけが、暗闇に浮かぶ唯一の目印だった。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
体感では数秒だったかもしれないし、ずっと長かったのかもしれない。
暗闇の中で、ゼルは自分の鼓動の音だけを聴いていた。
やがて、暗がりの中に、見慣れた輪郭が浮かび上がってきた。壁。天井。床板。
どこかで虫が鳴いている。
ゼルは、自分がどこに立っているかを理解するのに、数瞬を要した。
狭い部屋だった。
天井は低く、壁は漆喰が剥がれかけている。
床板は古びて、体重をかけると軋むように撓む。
窓はひとつ。ごく小さな、正方形に近い窓。
その向こう側に空があるのか水があるのかは、ここからでは判別がつかない。
部屋の奥に、木枠の寝台が置かれていた。
寝台の掛布は、きちんと整えられていた。
回想の中で、弟の小さな体を覆っていた布と同じ色をしている。
だが掛布の下に、人の形はなかった。
誰もいない。
ゼルは寝台の縁に手を触れた。
布は冷たく、しかし確かに、質感があった。
迷宮の幻影にしては生々しい。
先刻までの偽りの街並みにはなかった、手触りのある現実感がそこにあった。
ゼルはしばらく掛布の上に手を置いたまま、動かなかった。
やがて、窓を見た。
星の光が、窓枠に落ちていた。
偽りの街の、偽りの夜。
そんな中でも観測の星レイジュールは己の職責を怠らないとでも言うように。
青みを帯びた白。
水面に映ったレイジュールの光を幾層にも重ねたような、冷たく澄んだ輝き。
その光に照らされた窓辺に、棚があった。
記憶の中の弟の部屋にそれはなかった。
ゼルはその棚の存在に、異質なものを感じた。
壁に打ちつけた簡素な板。
この部屋の他の調度と比べて、明らかに新しい。
棚の上には、たったひとつの物体が置かれていた。
球体。
手のひらに収まるほどの大きさだった。
月明かりを受けて、表面がひそやかに光っている。
金属とも鉱物ともつかない材質で、光を当てると内部が朧げに透けて見える。
表面には淡い目盛りが刻まれていたが、通常の時計の文字盤とは異なっていた。
そしてその表面のところどころに、内部から滲み出るように、輪郭の定まらない文字らしきものが揺らめいていた。
ゼルは球体を手に取った。
予想に反してしっかりとした重さをもつそれを、ゆっくりと月明かりにかざす。
球体の半透明な表面の奥に、四本の針が見えた。
三本は、それぞれ異なる速度で回転していた。ひとつは早く、ひとつは遅く、ひとつはほとんど動いていないように見える。
そして四本目の針は――止まっていた。
しかし止まっているのではない、とゼルは直感した。
四本目の針の周囲にだけ、内部の空間が生き物のように蠢いているのが見えた。
何かを刻もうとして、あるいは何かが刻まれることを待って、針はその位置に留まっている。
この場所にあるはずのないもの。
弟の部屋にも、ゼルの記憶にも、ヴァルムールのどこにも、こんなものは存在しなかった。
迷宮が見せた記憶の再現の中に、ただひとつだけ紛れ込んだ異物。
ゼルは球体を握り込んだまま、窓の月明かりを見つめた。
あの女が告げたのは、時の流れそのものに干渉し得る途方もない力の可能性だった。
リウレンが探していたのは、影の歴史から落ちてきた黒い球体と、この塔の地下に眠る遺物との関連だった。
四本の針を持つ神秘の時計。
テトラクロノス。
――僕の想像が正しければ、テトラクロノスの四つ目の針は、終末への残り時間を刻むものなんかじゃない。
――あるいは、ある意味ではそうだったのかもしれないけど。
迷宮探索をゼルに依頼したとき、リウレンはその先を言わなかった。
四本目の針の周囲に、内側から表面へと走る亀裂がいくつか見える。
その亀裂が表面に達する地点付近に、前期王朝以前の魔術文字とも似つかない象形が滲み出ていた。
色は濃く、しかし輪郭は揺らめいて定まらない。
それが時の変位を告げるものなのか、あるいはまったく測り知れぬ別の概念を指し示すのかは、塔の学者たちの思索をもってしてもいまだ明らかにされていなかった。
(お前の答えを、聞かせてくれ。リウ)
球体を懐の深くにしまう。
灰色のコインの隣に、新たな重さが加わった。
窓の外で揺れるレイジュールの明かりを一瞥に収め、ゼルは部屋を後にした。
階段を上り、天井の上げ扉に手をかける。
押し開いた先は、偽りの夜空の下ではなかった。
踊り場の虫かごが、うすぼんやりと石畳を照らしている。
振り返ると、扉があった。
花冠を掲げるイセイナと、死して横たわるミルゥ。
入るときと同じ顔で、ゼルを見下ろしている。
もはや第二の故郷ともいうべきこの塔に、ゼルは戻ってきた。




