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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第1章 わたしがたとえ、目覚めなくても

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雨の詐術

10. 雨の詐術


「……アノジェアでは、この現象を『落花』と呼ぶそうです。

 魔法を用いた者が、その代償として辿りつく、ひとつの終わり。

 最近になって、ようやく私たちも、その存在を知りました」


 ある女性――テネカ・ディレカーフの声は、静かに降る夜の雨のようだった。

 水色の髪が、どこか光の予感を宿した晴れた空を思わせるのとは、裏腹に。

 その食い違いは、しかし聴く者を戸惑わせない。

 むしろ、悲しみの向こうに探していたものがきっとある――そう思わせるものだった。


 彼女の視線の先、掛布の下に横たわる少年の手に、ゼルは自らの手を重ねている。

 肩越しの声に応じることもなく、ゼルは己の手を見つめていた。


「私たちの都市には、落花に至るほどに魔法の素質を持つ者は、一人としていませんでした。

 ルアスレイン君――あなたの弟さんが、ティレムナにおける落花のはじめての犠牲者となってしまいました。

 不幸にして……いいえ、それを私が判断することは、あなたへの侮辱となってしまうかもしれません。

 そう、ただ――あなたの弟さんは、あなたを、そして仲間たちの命をおそらく絶対の窮地から救ってくれました」


 ゼルは動かない。

 目を開いたまま、深い暗闇の中にいる。

 弟は彼を止めた。

 ゼルは、それに従わなかった。

 ――だから今、ゼルはここにいる。


「これは死ではありません。

 けれど、生と呼ぶには、あまりに遠い。

 ……彼が目を覚まし、貴方の名を呼ぶことは、おそらく二度とないでしょう」


 長い沈黙が、部屋に降りた。

 窓の外からは、潮の匂いを孕んだ夜風が届いている。

 ヴァルムールの街は眠りに就きかけていたが、水路のどこかで小舟が石壁にぶつかる音だけが、ときおり静寂を揺らしていた。


「……知ってるさ」


 その声は乾いていた。

 言葉が途切れる。

 ゼルの視線は弟の手に重ねた自分の手に落ちたまま、動かない。

 テネカはその背中を見つめていた。


 やがて彼女は、一冊の手帳を懐から取り出し、開いた。

 ページをめくる音は、潮騒に紛れるほどに小さい。


「お訊ねしてもよろしいでしょうか」


 ゼルは応えない。

 テネカは構わず続けた。


「あなたは――弟さんのことを、記録していますか」


「……記録?」


 初めてゼルの声に困惑の色が混じった。


「弟さんが好きだったもの。

 嫌いだったこと。

 最後に笑った日のこと。

 ……もし、それをどこにも書き留めていないのだとしたら」


 テネカは手帳を閉じ、胸の前で抱えるように両手で支えた。


「いつか、あなたの記憶が薄れたとき――

 彼がここにいたという証は、どこに残るのでしょう」


「……俺が覚えてる」


「ええ。

 あなたが覚えている限りは。

 ですが記憶は、消えます。

 記憶を持つ者が、消えれば」


 ゼルの肩が強張る。


「……かつて、私にも兄がおりました」


 テネカの声の調子は変わらなかった。


「聡い人でした。

 観月測潮府が、わざわざ私たちの家にまで手を伸ばしたほどに。

 ……もっとも、その手が何を握っていたのかを、幼い私は知りませんでしたけれど」


 一度、沈黙を挟む。

 それはテネカ特有の間だった。

 聴く者に結論を急がせず、しかし逃がしもしない。


「兄は、潮汐の実験で死にました。

 公式の記録には、そのように残っているはずです。

 いいえ……正確に申し上げましょう。

 公式の記録には、何も残っていません。

 兄が実験に参加したことも。

 事故が起きたことも。

 兄がそこにいたということ自体が――消されました」


 ゼルの指先が、弟の手の上で反応した。


「都合の悪い出来事は、記録されなければ起きなかったことになる。

 それは、ティレムナという都市が古くから心得ている――とても合理的な処世術です。

 私の母も父も、そのことに抗いませんでした。

 抗えば、私たちの一家の立場もまた、消されるだけでしたから。


 私だけが、書き続けました。

 兄の名前。

 兄が好きだった潮の匂い。

 兄が最後に見ていた空の色。

 ……この手帳に。

 消えないように」


 テネカは一呼吸おいて、手帳を懐に戻した。


「起きたことは消えない――と、あの夜、ある人が教えてくれました。

 どんな小さな出来事も、それが確かにあったという痕跡は、星の海の底に刻まれている。

 それを信じる神がいる、と」


「……ミオセイス」


 ゼルが、低く呟いた。


「ええ。

 忘れることを許さない神。

 ……その教えに従うなら、ルアスレイン君がここにいたという事実もまた、消えることはないはずです。

 たとえ誰も記録しなかったとしても」


「それなら……もういいだろう」


 ゼルの声は、どこか投げやりだった。

 消えないのなら、俺が何かをする必要はない、とでも言うように。


 だが、テネカは首を横に振った。

 ゼルには見えていなかったが、その仕草の気配は伝わったのだろう。

 彼は背中越しに続きを促した。


「ミオセイスが正しいとして――起きたことの痕跡が星の海の底に刻まれているとして――

 それでも、その痕跡に手が届くのは、限られた者だけです」


 テネカは、寝台のそばへ歩み寄った。

 ゼルの背中から、寝台の反対側へと回り込む。

 初めて二人は、横たわる少年を挟んで、正面から向き合った。


「記録されなかった兄の死を、私は傍証から再構築しました。

 消された書類の余白に、事実の輪郭が残っていたからです。

 ……けれど、もし余白すら残らなかったとしたら?

 もし痕跡そのものが、手の届かない場所に沈んでしまっていたとしたら?」


 テネカの灰色の瞳が、揺るぎなくゼルを捉えた。

 光の加減で、その深部に水底の青が揺れていた。


「イルナフさん。

 ……アノジェアには、禁学の塔と呼ばれる学術機関があります」


「……禁学の、塔?」


 ゼルは眉をひそめる。

 聞き覚えのない名だった。

 アノジェアの学術機関なら、戦略拠点として軍にもいくらかの情報が届く。

 だがその名を、ゼルは一度も目にしたことがない。


「ティレムナの文献にも載っていない施設です。

 無理もありません。

 あの場所は、公には存在しないことになっています」


「存在しない施設が、何をしてる」


「人の可能性を、閉じ込めています」


 テネカの声の調子は変わらなかった。

 けれど、その一言だけが、石の床に落ちた錘のように、冷えたまま残った。


「塔に集められた者たちは、王が定めた問いに答えを出すまで、外に出ることを許されません。

 その問いを『王命終理』と呼ぶそうです。

 学者としての才を持ちながら、この世界のどこにも居場所を見出せなかった子どもたち。

 その子たちに灰色のコインを渡し、塔へ招き入れる。

 ……招くと言えば聞こえはいいですが、実態は幽閉に近い」


 ゼルの目が細くなった。

 掛布の上に横たわる弟の顔を一瞥し、それからテネカに視線を戻す。


「人の可能性を閉じ込める。

 賢いガキどもを集めて隠す。

 そしてそんな場所があることを誰も知らない。


 それはまるで、あんたが今さっき俺に語った『消された記録』と同じことのように聞こえるな」


「ええ」


 即答だった。

 テネカの灰色の瞳に、小さな光がともる。

 それは獲物が罠に掛ったことを知る、狩人の目。


「塔はそれだけでなく、この大陸に眠る神代の遺物を集めています。

 そして――遺物の中には、時の流れそのものに干渉し得る、途方もない力を持つものもあるかもしれない」


 ゼルの目元が険しさを増す。

 細められた視線が、テネカを射抜くように見つめる。


「……何が言いたい」


「仮定の話です」


 テネカはあくまで調子を崩さなかった。


「もし――過去に起きたことの痕跡が、この世界のどこかに刻まれているのなら。

 その痕跡を辿って、起きたことそのものに触れ得る力が、どこかに存在するのだとしたら。

 ……それは、あなたにとって、意味のない仮定でしょうか」


 ゼルは長い間、何も言わなかった。

 弟の手の上に置いた自分の指先が震えているのを、彼自身が意識していたかどうかは分からない。


「……そんな力があるなら」


 絞り出すような声だった。


「とっくに誰かが使ってるだろう。世界がこのざまなのは、そんな力が存在しないからだ」


「おっしゃるとおりです。存在しないのかもしれません」


 テネカは頷いた。

 そして――懐から、小さなものを取り出した。


 灰色の、円い金属片。

 表面には二つの文字のような意匠が刻まれていたが、摩滅していて細部は判別できない。


「これは、ある人から託されたものです。

 その人は――記録されない場所で、記録されない者のために、最後の力を使って消えていきました」


 テネカは、灰色のコインを寝台の上に――ゼルの手のすぐそばに、物音ひとつ立てずに置いた。


「かつて、ここにそのコインが存在したということを、私の手帳には記録してあります。

 コインが私の手を離れたということも。あなたの手のそばに渡ったということも。

 ですが……この先、あなたがこれをどうなさるかは、記録しません」


 ゼルは、灰色のコインを見つめていた。

 それからゆっくりと視線を上げ、テネカの顔を見た。


 水色の髪。

 灰色の瞳。

 装飾品を持たない、簡素な身なり。

 ただ、胸元にひとつだけ、小さな天秤の意匠を刻んだ銀の留め具が光っていた。


「……あんたは」


 ゼルの声が、低く問うた。


「何を企んでる」


「何も」


 これも即答だった。


「私はただ、記録する者です。

 起きたことを書き留め、起きなかったことの輪郭をなぞり、

 消された事実に――もう一度、居場所を与える。

 それだけが、私にできることです」


「嘘だな」


 ゼルは吐き捨てる。


「ティレムナの元首が、わざわざ一兵士の弟の枕元に足を運んで、アノジェアの塔の話をして、得体の知れないコインを置いていく。

 さらに言えば、だ」


 ゼルの声が、一段低くなった。


「ニレイエルでもレイジュールでもない神格を、あんたは持ち出した。

 ミオセイス――イセイナが生みだした主たる五柱の足元に淀む異端の神。

 アノジェアでさえその名を知る者は少ない。

 沈みゆく都市たちの連合国家ティレムナの元首が迂闊に使える名前じゃない。

 なぜなら、ニレイエルが重力の神格化なら、ミオセイスは極限の重力に吸い込まれずに残される歌の神だ。

 ニレイエルの対極に立つ神の名で、あんたは俺を釣ろうとしている。

 ――『ただ記録する者』で済むわけがないだろう」


「……よく勉強されているのですね」


 テネカは、一瞬だけ目を伏せた。

 それは、彼女の仮面にはじめて走った、きわめて微細なひびだった。


「では、こう申し上げましょう。

 私には、私の理由があります。

 それは、弟さんへの同情とは、おそらく異なるものです。

 こうして弟さんの前で後悔に黒く塗りつぶされる日々の中――

 何かがおかしいと感じたことは、ありませんか?」


 雨の詐術。

 優しく途切れがちなその音色に耳を澄ましていたはずが、いつのまにか全身が冷え切っている。

 けれどそれは気取られないまま、聞くものを侵食する。


「私は、こう考えています。

 落花――魔法の代償をアノジェアは世界に伏せていた。

 知性の暴走を抑止し優しい世界を守ると言いながら、無知な子どもたちを危険にさらし続けていた、と」


 答えを求めているのではなかった。

 種を、蒔いているのだ。

 

「あなたがそのコインを手に取ることを、私は止めません。

 あなたがそれを捨てることも。

 ただ――あの塔には、あなたが確かめるべきものがあるかもしれない、とだけ」


 テネカは踵を返し、扉へと向かった。

 その足音は、来たときと同じように、ほとんど音を立てなかった。


 扉に手をかけたところで、彼女は一度だけ振り返った。


「イルナフさん」


「……なんだ」


「記録は力です。

 けれど、記録だけでは――消えたものを、取り戻すことはできません」


 灰色の瞳が、横たわる少年の顔を一瞬だけ映し、すぐにゼルへと戻った。


「私は、兄の人生を記録し続けることしかできなかった。

 兄が読むはずだった書物を読み、兄が出るはずだった会議に出て、兄が歩くはずだった道を歩きました。

 ……それを、ある人は狂気と呼ぶかもしれません」


 ゼルは、何も言わなかった。


「けれど、あなたには、まだ別の道がある。

 弟さんの人生を代わりに生きるのではなく――弟さんの人生を、弟さんに返す道が」


 扉が、ほとんど音を立てずに開いた。

 廊下から潮の匂いが流れ込み、夜光虫の光が、テネカの水色の髪を一瞬だけ照らした。


「おやすみなさい。

 ……どうか、よい夜を」


 扉が閉まった。

 足音が廊下の闇に溶け、やがて完全に消えた。


 部屋には、ゼルと、眠り続ける弟だけが残された。


 灰色のコインは掛布の白の上に希薄な存在感で置かれている。

 ゼルはしばらくそれを見つめていた。


 やがて、彼はゆっくりとコインを手に取った。

 摩滅した意匠が何を意味するかは分からない。


 それでもゼルの指は、コインの縁をなぞり続けていた。

 まるで、触れることで読める言葉がそこにあるかのように。


「……弟の人生を、弟に返す」


 誰にも聴こえない声が、暗い部屋に落ちた。


 ゼルは立ち上がり、窓のそばへ歩いた。

 この窓がいつも同じ景色を見せるとは限らない。

 潮の高い日には硝子の向こうを魚が横切り、水草の影が天井に揺れる。

 だが今夜は潮が浅かった。

 水面は窓枠のずっと下まで退いていて、その切れ目から、ヴァルムールの夜空がのぞいている。

 レイジュールのひとつ目が、水路の底にたまった残り水にまで映り込んで、ぼんやりと光っていた。

 対岸の屋上に干された洗濯物が、夜風にはためいている。


 ゼルは、コインを右手の親指の上に乗せた。

 だがそのとき、彼はコインを弾かなかった。


 代わりに、コインを握り込み、拳を額に押し当てた。


「……こっちを向かなくていい。

 まだ」


 その祈りにも似た呟きを最後に、ゼルは窓を背にして弟のそばに戻り、

 灰色のコインを懐の深くにしまった。


 翌朝、ゼルは軍を辞した。


 それからそう経たぬある朝。

 潮が高く、街の窓はどこも水に沈んでいた。

 ゼルは弟の寝台のそばに荷を置くと、掛布の上に出した弟の手を、もう一度だけ握った。


 何かを言いかけて、やめた。


 屋上への階段を昇り、朝靄のなかで小舟の綱を解く。

 櫂を漕ぎ出せば、ヴァルムールの屋根の群れが、水面の上に低く、遠く並んでいた。

 レイジュールはそのひとつ目を閉じ、東の空が淡い藍から白へと移ろいはじめている。


 櫂を握る手は、まだ冷たい。

 行く先に何が待つのか、ゼルは知らない。

 ただ、あの女が語った言葉の向こうに――弟を弟に返す道があるのだとしたら。


 小舟はヴァルムールの水路を抜ける。

 振り返らなかった。

 ゼルの後ろで、沈みゆく街が朝の光のなかでまたたいていた。

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