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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第1章 わたしがたとえ、目覚めなくても

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悪意の街

 その日の夜――

 ゼルは地下層管理部の受付に立ち、シェラン・ナージュの許可証を差し出した。

 応対に出たのは、常連なら誰もが名を知るグミ婆だ。

 書類に目を落とした彼女は、ぎろりとゼルを睨んだあと、何も言わずに迷宮層の鍵とミルグリーフを取り出す。


 盗まれでもすれば、国を挙げての騒ぎとなるはずの宝剣。

 だがグミ婆は、嫌いな食べ物がのった皿を返すような手つきで、それを押し出した。


 流星の剣を手に取るゼルの姿には目もくれず、グミ婆はそのまま室内の長椅子へと戻っていく。

 その卓を挟んだ向かいの長椅子では、予科生とおぼしき子どもがにこにこと正座していた。


「グミ婆、次の留守番のルイルカは約束通り倍だからね!」


「おだまりノーザリッド!」


 二人はちょっとした勝負事に興じていて、どうやらグミ婆は劣勢らしい。


 ゼルもその遊びのことは知っていた。


 教師のひとりが研究のかたわら……

 というにはあまりにも莫大な情熱を費やして作成した二人用の卓上遊戯。

 それが「ミルザレア年代記」と呼ばれるこの遊戯の始まりだった。


 ミルザレア大陸の神話や、アノジェアの歴史を題材としていて、神々や歴代の王、著名な学者、悲劇の騎士、姿をくらませた犯罪者といった著名人の肖像を描いた札を用いる。

 簡易地図上にそれらの札を、複雑な規則に従って配置することで戦局が展開していく。


 札ごとに得手不得手があり、地形に左右される能力を持つものもある。

 王道では「歴史の勝者」となることを目指して盤面を奪い合うが、相手が盟主として定めた札に直接攻撃を仕掛けることができれば、一発逆転の目もある。


 「奇跡」と呼ばれる特殊な効果の札は、配置や場に出す順番に強い制限があるものの、それに見合う強さを持つ。

 しかしたいていは、出し惜しみしているうちに勝負が決まってしまうのだ。


 札と地図を一式そろえるには相応のエルイル片が必要で、それで子どもたちはよくグミ婆のところに遊びにくる。


 何気なく窓口から覗きこむとグミ婆の手札が見えた。

 一目見るなり、ゼルは面倒くさそうに口を挟む。


「……グミ婆。オーレサルを右端に出せ。あとは、中央にいるエイユトを斜めに叩けばいい」


 グミ婆がぎょっとしてゼルの方を振り返った。


「ゼル、ずるいよ!」


 ノーザリッドが手を振り回して怒っている。


「世の理不尽はこんなもんじゃないぞ。勉強したな、ノズ坊」


 そのまま地下階層への階段を降りようとするゼルに、グミ婆が大声を掛ける。


「下手こくんじゃないよ!あんたが帰ってこないと、また坊やに負けちまうからね」


「へいへい、ありがとうよ」


 後ろ手に手を振ると、ゼルは急いだ様子もなく地下へ向かった。


   *   *   *


 踊り場と各階層の入口のそばには、夜光虫を入れた虫かごが吊るされている。

 それ以外に明かりのない階段を、どれほど降りたかも分からぬ頃――ようやく、遺物迷宮の扉へと辿り着く。


 この階段は、さらにその下にある共振制御室へと続いている。

 だがゼルは、その途中で足を止め、目の前の巨大な扉と向かい合った。

 扉そのものに施された彫刻は、最初の神話の一場面――右側には花冠を掲げるイセイナ、左側には死して横たわるミルゥ――を描いていた。


 夜光虫にうすぼんやりと照らされた二柱の神に交互に視線を渡すと、これといった感慨も示さず、鍵穴に渡された鍵を差し回す。

 錠が外れる音を合図に、ゼルが神話の扉を押し開くと――

 高い共鳴の響きとともに、迷宮は変容した。


 扉を開けきると、一瞬強い風がゼルを襲う。

 右腕を上げ顔を庇うと、その風はすぐさまやんだ。

 かざした右手をおろしたとき、迷宮の全貌が姿を現した。

 一望するなり、ゼルの顔に、精緻な線で描かれた皮肉な笑みが浮かぶ。


「はっ……どういう仕組みか分からんが、やってくれるじゃねえか」


 眼前に広がっていたのは、沈みゆく冠水都市だった。

 振り返ると入ってきた扉は跡形もなく消えている。

 ゼルは街中に架けられた石畳の橋の上に立っていた。


 その街のことを、ゼルはよく知っている。


 そこで人々は屋上から己の住む家に入り、室内の窓からは、優雅な淡水魚が群れをなして泳ぐさまが見える。

 かつて水面よりずっと高みにあった窓は、幾世代にわたる改修の果てに、今ではちょうど水面と同じ高さに並んでいる。

 波が静まれば空が映り、風が立てば水が差し込み、魚の影が光とともに揺れる。

 その窓辺は、水と空気のどちらにも属さない、曖昧な境界の場所となる。


 ヴァルムール。


 北部から家族とともにティレムナへと移ったゼルが、幼少期から青年期に至る日々を過ごした思い出の街。


 ゼルの脳裏を、つい数時間前に食堂で交わされた会話が掠めた。


 ――迷宮の変容には、見えない歯止めがかかってる。

 構造がどう変わっても、共振機関が受け取る波動量が一定の範囲に収まるように。


 その仕組みを考えるなら、迷宮は変容の自由度という点で、相当な制限を受けているはずだ。

 遺物の配置が誰かの記憶を再現するほど精緻に整うためには、膨大な組み合わせの中から、ひとつの解を引き当てなければならない。

 それは、はたして制限の内側で起こりうることなのか。

 ゼルは細い目で街並みを舐めるように見渡した。

 思い出の粗悪な模倣品である偽りの街に、記憶の中の活気と優しい営みはない。

 しかし、あまりにも、遠くまで続いている。


(俺が今夜ここに来ることは、事前に書類を提出してある。

 いつ、誰が、なんのために入るかは、記録に残っている)


 その考えが頭に浮かんだ瞬間、ゼルは無意識に口を引き結んだ。

 迷宮は、入るたびに変容する。それは確かだ。

 しかし、変容に制限があるとするなら、その範囲を定めているものがある、ということでもある。

 定めるものがある、ということは――変容を誘導することも、不可能ではないかもしれない。


 ゼルは橋の手すりに手を置き、黒い水面を見下ろした。

 水は淀んでいる。

 ヴァルムールの水路はいつも、もっと澄んでいた。


(俺の出自を知っていれば、この街を選ぶことはできる。

 だが、ここまで再現できるのは……)


 次の瞬間、ゼルの思考はもうひとつの方向へと滑った。


 ――研究者の間ではね、迷宮そのものが生きているんじゃないかという説もある。

 遺物たちがお互いを調節し合っている、とでも言うか。


 リウレンが、あのいつもの穏やかな声でそう言った時、ゼルは「気持ち悪いことを言うな」と返した。

 その仮説が、俄かに鮮明な重みを持ちはじめていた。


(塔の誰かが仕組んだのではなく……迷宮が、俺を読んだ?)


 それが正しければ、書類も出自も関係ない。

 この場所はただ、ゼルという人間の何かを感じ取り、それに応えただけということになる。

 どちらがより不気味か、ゼルには判断がつかなかった。

 人間の悪意であれば、意図がある。

 意図があれば、隙がある。

 しかし迷宮が何かを「知っている」のだとすれば――それは意図でも悪意でもなく、ただの、性質だ。

 水が低いところへ流れ込むように、炎が酸素を求めるように。

 抗う手がかりすら、どこにもない。


(どちらにせよ、目的は同じだろうな)


 ゼルは手すりから手を離し、背筋を伸ばした。

 ヴァルムールを見せることで、俺の足を鈍らせようとしている。

 人間の策略か、遺物の本能か。

 そのどちらであるかにかかわらず、取るべき行動に変わりはない。


「……悪趣味な歓迎だ」


 それが現実の街でないことをことさら誇示するかのように、景色の至る所で黒い直方体の連なりのようなものが浮かび、大きさを変えては消え、また現れる。

 誤魔化しようのない悪意が染みついた街並みを、ゼルはしばし茫然と見つめていた。


 だが、それも長くは続かない。

 ゼルのその足元にも、闇の直方体が生まれ、それがある小さな生き物の形に組み変わる。


「イルナフ――私の力が必要か?」


 男女いずれとも判じがたい高い声は人のものではあったが、その影は人にしては小柄すぎた。

 他に見る者がいれば、このように見えただろう。


 黒衣を纏う金色の猫。


 その小さな体躯を覆う襤褸のような短い外套の隙間から、足や尻尾の先の黄金の毛並みが垣間見える。

 ゼルは視線を動かさずに、唇だけを小さく上下させる。


「……ここは監視されているはずだが」


 遠見の部屋は音まで拾うことはない。

 迷宮の怪物たちの言語による精神汚染を避けるためだろう。


「私を目視できるのは、私が許可したものだけ」


「そうかよ。だが失せな。こいつがあればなんとかなんだろ。」


 歩きながらミルグリーフを鞘から抜き、目の前に刃文をかざすと、学者であるゼルにも理解できない不思議な文字が冷たい光となって滲み出す。

 その文字列の対称性から、それが回文であることは想像がつく。

 すると猫がふっと口を開く。


 「星の時代」


 「稀なる鼠たちよ」


 金猫が詠う。

 最初の節は女児の囁き声、次は高い男児の声。

 誰の声でもなく、すべて金猫の声だった。


「読めるのか?」


 ゼルは軽い驚きを返す。

 金猫は答えない。

 ただ、一度だけ瞳をゆっくり瞬き、人知れずすっと姿を消す。

 いなくなった猫に向けてか、またあるいはリウレンたちに語った神のようなものへの宣言なのか、ゼルが冷たい声色で告げる。


「飼い主に伝えとけ。――最後に決めるのは、俺だ」


 そのときゼルの脳裏には、ある女性との会話の最後の言葉がこだましていた。

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