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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第1章 わたしがたとえ、目覚めなくても

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イルシリア

「魔法とは、果たされなかった過去を、この世に引きずり戻す力だ。


 叶わなかった願い。

 届かなかった言葉。

 選ばれなかった未来。


 そうした痕跡に触れるたび、行使した者の未来はひとつずつ失われていく。


 もし、過去が別の道を選んでいたら?

 人がその問いを抱いた瞬間、魔法は秘かに目を開ける」


 翌日の講義の準備をしていたリウレン・ルゼリアは、ふと筆を止めた。

 塔の五階にある研究室。手元の走り書きの問いかけに、己の過去が重なる。


 ――もし、僕が。

 先生のあの証明を、止めることができていたなら。


 イルシリア。

 君は今、どうしていただろう。


 この塔で、僕の隣に立っていたのだろうか。

 秘密や傷を抱えた子どもたちに、世界のことを、魔法のことを、僕らの役目を、一緒に語っていたのだろうか。


 それとも。

 先生の証明とは関係なく、君はやはり、あのときと同じ結末へ辿りついていたのだろうか。


 今にして思えば、先生――ヴァルゼル・トゥアは、その力そのものを憎んでいたのかもしれない。


 あるいは。

 憎んでいたからこそ、その根を断つための最初の一手を、ずっと前から選んでいたのかもしれない。


 机の上で、筆が乾いた音を立てて転がった。


 講義の準備。

 進まない研究。

 積み重なった疲労が、意識を暗がりへ引きずりこむ。


 久しく思い出すことを禁じていた、最初の過ちと喪失。

 その記憶が、夢の形で容赦なく口を開ける。


   *   *   *


 鍵の音。

 狭い部屋を照らす夜光虫。

 読みさしの難解な本。


 子どもの頃の僕の世界は、だいたいそれだけだった。


 なぜあの場所にいたのか、今も分からない。


 それより前の記憶はふたつだけ。


 ひとつは、誰かが僕を覗き込んでいた記憶だ。

 顔は覚えていない。

 僕はその人を呼ぼうとした。

 お母さん、と。


 でも、その人は口元に指を当てた。

 呼んだのか、呼ばなかったのか、もう分からない。

 それでも、その顔は優しかった。


 もうひとつは、僕が小さな顔を覗き込んでいた記憶だった。

 生まれたばかりのような、丸くて小さな顔。

 君は誰、と聞こうとした。

 でも、聞かなかった。


 ある日、本を読んでいた僕の前に、一人の学者が現れた。

 黒髪に深い皺を刻んだ男だった。

 彼は独房の扉を開き、床に散らばった本を何冊か眺めてから、僕に言った。


「私は、君自身ですら知らない君の境遇を、ある程度理解している」


 低く、よく通る声だった。


「君に何かを約束することはできない。

 だが、君が疑問に思うことのすべてに、私はおそらく解を示すことができる。

 だからひとつだけ、いまここで質問してみたまえ。

 本のことでも、世界のことでも、何でもいい」


 学者は急かさなかった。

 ただ、僕を見ていた。

 僕もまた、その目の奥にある何かを見ようとしていた。


 どれだけ黙っていたのかは分からない。

 やがて僕は、たどたどしく口を開いた。


「言おうとして――言わなかった言葉は、どこへ行きますか」


 学者の目が細くなった。


「ここに来る前。

 それが本当にあったのかも、もう思い出せないけど。


 母が僕を覗きこんでいて、僕はその名を呼ぼうとしました。

 でも呼べなかった。


 それから、もう一つ。


 今度は僕が、小さな顔を覗き込んでいました。

 君は誰、と聞こうとしました。

 でも聞かなかった。


 その二つの言葉は、まだ僕の中にあります。

 でも、どこにも辿りつかなかった。

 辿りつかなかった言葉は、あったことになりますか。

 それとも、最初からなかったのと同じですか」


 初めて間があった。

 やがて学者は答えた。


「なかったことにはならない。

 言葉になる手前で消えても。

 声にならなくても。

 受け取る者がいなくても。

 君がその言葉を抱いた瞬間は、この世界のどこかに残る」


 学者は床に散らばった本へ一瞥を落とした。


「たとえば本の余白に、見えない文字で刻まれるように。

 消えないものは、いつか力になる」


 そのときの僕には、まだ意味が分からなかった。

 だが学者は、そこで終わらなかった。


「それを証明できれば――この世界の半分は、書き換わる」


 そう言って、彼は手を差し出した。


「私はヴァルゼル・トゥア。

 万物の理論を追う、ただの学者だ」


 僕は、すぐにはその手を取れなかった。


「一緒に余白を読もう。

 本文よりずっと長い、この世界の隠れた余白を」


 学者は笑った。


 人の笑顔というものを、僕はあのとき初めて見たのだと思う。


 おずおずと手を伸ばす。

 拒まれないことを確かめるように。

 それから僕は、先生の手をつかんだ。


 はたかれることも、振り払われることもなかった。


 それが僕の、世界の秘密を解き明かす旅の、最初の一歩だった。

 それから僕は、先生の背中をずっと見ていた。


 先生があの証明を完成させたとき、僕はまだ無力な子供だった。

 まだ何も知らなかった僕は、先生に認められることだけを目標に、許されるあらゆる書物を読み、解決されない問題を愛し、この世界のすべてを理解しようとしていた。


 先生の部屋に立ち入ることを許され、先生に子供じみた哲学的な問いかけをしては、先生の驚くべき発想と、柔軟でいながら完全に筋道だったその回答に、酔いしれ舞いあがり、先生への尊敬と崇拝を深めた。


 そしてそこにはイルシリアもいた。


 イルシリア。

 在りえざる可能性の世界から、僕たちのこの世界へ迷い込んだ、時の迷い子。

 彼女はある夜、僕が塔の敷地内にある天体観測のための場所、星鳴の台でひとり星座の新しい解釈を空想していたときに、突然そこに現れた。


 先生は彼女を匿い、塔に所属するための便宜を図ってくれて、彼女はここにいることを許された。

 僕とイルシリアは友だちになって、一緒に先生の講義を受け、先生の部屋で読書や先生と会話する機会を与えられた。


 僕とイルシリアは先生に認められた特別な子どもだと、そう信じていた。


 ある夜、僕とイルシリアは星鳴の台で、この世界を見守る巨大な一つ目――衛星レイジュールを眺めていた。

 彼女はレイジュールにまつわる逸話に詳しく、僕にこう語った。

 かつてレイジュールは虚空の神だったが、世界に光が生まれたとき、空を漂う権能を失い、地に墜ちたという。

 そして、墜落の神ニレイエルへと姿を変えた。

 だけど神は、空に一つ自分の片目を痕跡として残した。

 それが、今も夜空に浮かぶ虚ろな遺星レイジュール。

 それは、寂しい夜を空から見守り、僕たちがここに居ることを赦すという。


「……どうして赦されなければならないんだろう」


 イルシリアが語る神話に、ふと僕は声を漏らした。


「僕の記憶のほとんどは、独房の冷たい壁と、看守の無機質な声に占められてる。

 でも……なぜ僕がそこにいたのかは分からない。

 僕が自分の罪を知らされず閉じこめられ、赦しを待たなければならなかったとすれば、それはなぜなんだろう」


 当然、イルシリアには答えようのない問いだった。

 僕たちはしばらく言葉もなく、夜空を見上げていた。

 ゆるい風が髪を揺らし、棚引く薄雲がレイジュールを見え隠れさせていた。


 やがてイルシリアが、独り言のように呟く。


「罪があるから赦すんじゃなくて……最初からすべてを赦してくれてるんだと、わたしは思うよ」


 それから、彼女はそっと僕の手を握って言った。


「きみは、この世界に生まれたのに、自分の始まりを知らない。

 わたしは、外の世界から落ちてきたのに、忘れたくても忘れられない過去に縛られてる。

 もしかしたら、誰かが最初から、そんなふたりを出会わせるつもりだったのかもしれない」


 それは、イルシリアがこの塔に来て以来、初めて自分の過去について口にした瞬間だった。

 その夜、彼女は自分の生い立ちと、この世界に辿りついた、驚くべき経緯を僕に語ってくれた。


 そして、僕は……最初の過ちを犯す。


 イルシリアがやってきた、もう一つの可能性の世界――アンスコーティア。

 この世界が辿るはずだったかもしれない、異なる歴史の痕跡。

 僕は興奮に任せて、それを先生に話してしまった。


 信じがたい、そして永遠に赦されることのない、罪。


 そしてそれが、行き詰まりかけていた先生の証明に、決定的な示唆を与えてしまったのだと思う。


 先生のイルシリアを見る目が変わっていくことに、僕はすぐには気づかなかった。

 もしかしたらイルシリアはすぐに何かを察したのかもしれない。

 でも彼女は僕にすら何も告げず、先生の証明が完成する過程をただ見ていた。


 先生のその証明がほとんど完成稿に近くなり、それを僕が読むことを許されたとき。

 僕は取り返しのつかない致命的な事態が進行していることを知った。


「先生……これは……この証明は……これが、レフネイアの森に認められれば……イルシリアは……?」


 震える声で、僕は先生に、問いかける。

 また、いつものように、僕が考えもしなかった解法で、僕の子供じみた設問に答えを示してくれることを信じて。

 先生は少しの気の迷いもない、いつもの声で答える。


「彼女は――彼女の存在は、最初からなかったことになるのかもしれないね」


 願いはいつだって、本当に叶ってほしいときに、叶えられない。

 先生の意図を止めることができないなんて分かり切っていたとしても、僕は先生にすがるように懇願する。


「それが分かっていながら!

 どうして!

 先生、こんなことはやめてください。

 貴方のその天才は、もっと別の形で発揮されるべきです……

 この証明は……イルシリアを消滅させてしまう!」


「そうだね、リウレン。だが私はそれを見届けたい」


 先生との、決定的な食い違い――それはずっと前から、あの最初の問答の中に潜んでいた。


 僕が読みたかったのは、余白そのものだった。

 言葉になる手前で消えた問い、声にならないまま誰にも届かなかった言葉――

 余白はそのままでよかった。

 火で炙ったり光を当てたりして文字を浮かばせる必要もない。

 その空白に潜む想いがあるということを、誰かに知ってほしかった。


 でも先生は違った。

 先生にとって余白とは、隠された文字の秘密を暴き、本文に書き加えるべきものだった。

 余白を読み解き、その力を理論の礎に変えること――それが先生の願いであり、使命だった。

 そのとき、余白は余白ではいられなくなる。


 先生は、どこか憐れむような、しかし決して揺るがない意思を秘めた眼差しを僕に向ける。


「それに、君はまだ理解していないようだが――

 ここは禁学の塔。

 この世界にある危険な可能性をひとつずつ封印し、制御できない力で人の一生が踏みにじられることがないように、私も、そして君もここで万物を理解し、知識と論理の剣を磨くことを義務づけられている」


 それは僕が先生から受けた最後の講義であり呪いだった。


「あの日私が感じた確信は正しかった。

 君はその年齢で私の証明が理解できるほどの素質の持ち主だ。

 ――いつか君も、君のその頭脳によって、この世界のために、何かを犠牲の踏み石とする日がくる」


   *   *   *


 先生の証明は魔法院に提出され、レフネイアの泉に投げ込まれた。


 泉は先生の書を読み解き、森に伝える。

 森の樹木は光の言葉で人智を超えた会議を交わし、それはどこか懐かしい響きの音楽のように聞こえた。

 レフネイアの森全体がほの青く輝きだす。


 その光は、先生の不可能証明が、レフネイアの査読の森に認められたという証しだった。


 不可能証明。

 通常の学問が新たな可能性を拓き、光を目指すものであるとすれば、それは過剰な可能性を封じ、世界を安定に導くための密やかな夜の思索。


 人がこうあってほしいと望んだことは、いずれ必ず実現し、やがては力の暴走として僕らに牙を剥く。

 その悲劇を未然に防ぐために、この国――アノジェア王国が持つ、いくつかの奇跡のひとつ。

 不可能証明がなされたとき、人々はそれを夢見ることができなくなる。

 文字通り、不可能な事象として世界に確定されるのだ。


 それは必ずしも人の未来への意思を否定するものではない。

 いずれにせよ人は、閉じられた可能性の痕跡すら足がかりにして、疲れも知らず最果ての未知を目指す。

 可能性という業に取りつかれた眠らぬ幼子――それが人という生き物の正体だとするならば。


 夜更けてなお眠らぬ幼子の目をそっと閉じるように、

 気づかせぬまま、世界の可能性のひとつを、夜のあわいに溶かす。

 そのための秘密の書架。


 それが僕らの住む禁学の塔という場所だった。


 そして、塔が閉じようとする夢の調べに耳を傾ける場所がある。


 レフネイア。幼子の瞼に触れようとする指先を審判する、神秘の森。


 それは禁学の塔自体の暴走を抑止し、世界に刻まれるべき「不可能」のかたちを見定めるための、もうひとつの奇跡だった。

 そこでは、証明の意図の陰に宿るあらゆる誤謬と傲慢が、光の調べに変えられて暴きだされる。

 レフネイアは、濁りなき論理の澄明さにのみ応え、木々の葉を淡く、幻想的な青に染めあげる。


 その光を、僕とイルシリアは、僕らの出会いの場である星鳴の台から見つめていた。


 その光は、先生の証明が――

 寸分の悪意もなく、崇高な理念のみに支えられていたことを、森が認めたという証だった。


 あんなにも優しい森の光が、どこまでも正しく、どこまでも冷ややかに――

 世界から、ひとつの夢を剥ぎ取る。

 それを、僕はただ、恐ろしいと思った。


「リウ。

 きみ自身のこと、それから先生を責めないで。

 わたしの人生はとっくに元の世界で終わっていたはずなの。


 この世界に少しでも居ること、きみと一緒に学ぶことを許してくれた先生に、わたしは感謝してるよ。


 だからこそ、わたしは先生の証明を受け入れる。


 そのことが、きみのいるこの世界が、わたしの世界がたどりついた同じ袋小路に陥らないために必要だと思うから。

 それにね」


 最後にイルシリアは僕に笑いかける。

 その手で、僕の頬を包もうとする。

 けれど指先から、淡い緑の粒子へと崩れ、風へ流れていく。


「もし、わたしが偽りの世界から来た幻の存在だとしたら……

 きみのいるこの正しい未来には、

 まだきみのことを知らない、もう一人のわたしがいるにちがいないよ。

 だから――わたしたちは、きっとまた会える」


 僕は何も言えず、ただ泣いていた。

 やがてその姿は、夜明け前の空気のなかへ完全に消えた。


 すると不思議なことが起こる。


 イルシリアの消失点に黒い球体が現れ、力なく星鳴の台に落ちる。

 僕はそれを大切に拾いあげ抱きしめると、今度は声をあげながら泣き叫ぶ。


   *   *   *


 リウレンは、うたた寝から目を覚ます。

 夢の終わりの号泣が、頭の片隅に小さな痛みを残していた。


 首を軽く振り、立ち上がる。

 講義の資料と道具をひとつひとつまとめながら、リウレンは心の奥に言葉を刻む。


(先生。

 もし何かを犠牲にする日がくるのなら――

 その供物は、僕自身の存在と未来であるべきだ)


 今日は、彼の魔法歴史学の講義――その年の最初の一日だった。

 リウレンはふと足を止め、研究室の窓の向こうを見た。


 その視線の先にあるのは、リウレンとイルシリアが出会い、そして別れを告げた星鳴の台。

 彼の瞳の奥に、夜空を指さしながら笑う、自分と友の小さな後ろ姿が、陽炎のように揺れた。


(もう二度と。

 どんなに曖昧で、儚い存在であっても。

 僕の目の前で、存在を否定されるようなことはさせない。

 たったひとつの証明で、この世界の摂理が書き換えられ、確かにそこに在った命が消えるなんて、そんな理屈は僕が、否定してみせる。

 ――それが僕の、不可能証明となる)


 リウレンは研究室の扉を開き、歩き出す。

 天窓から差し込む陽光の眩しさに、思わず眉をしかめながら。

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