第9話 隣国の王女
返事が来たのは、二週間後だった。
今度は、すぐに開けた。
三日待ったあの時とは、違った。封を割る手が、少し急いでいた。自分でも少し驚いた。
ヴェルダン公爵令嬢殿
お手紙ありがとうございました。
返事が遅れたのは、川の件で少し立て込んでいたためです。橋は、今年は架け替えることにしました。昨年からの懸案で、ちょうどよい機会でした。
一人で文献を読んでいるとのこと、それで十分だと思います。指示がなければ読めないのと、指示がなくても読めるのとでは、積み重なるものが違う。ルーカス博士が戻った時、あなたの方が先に進んでいるかもしれない。
疑問が生まれたら、書いてください。私に答えられることは少ないかもしれませんが、一緒に考えることはできます。
辺境の春、今日は風が強かった。
ミーナは手紙を読み終えて、少しの間そのままにしていた。
一緒に考えることはできる、とあった。
答えではなく、一緒に考えること。
その違いを、ミーナはしばらく味わった。
胸の奥で何かが揺れた。怖さに似ているが、少し違う何かが。
今日も揺れた、と思った。
◆
それから、手紙が続いた。
週に一度、あるいは十日に一度。辺境からの封筒が届くと、ミーナは書斎に持っていって、そこで開けた。
内容はいつも、辺境の日常だった。北方の民が今年どんな種を蒔いているか。川が落ち着いてきたこと。新しく架けた橋を村の子どもたちが渡る練習をしていること。古い言葉を知っている老人から、戦前の辺境の話を聞いたこと。
ミーナも書いた。
文献で見つけた疑問。孤児院のルカが全部の漢字を覚えようとして苦労していること。春になって、書斎の窓から見える庭の薔薇の枝に、花の気配が出てきたこと。
やりとりは、静かに続いた。
何かを約束したわけではなかった。何かを期待させるような言葉も、どちらも書かなかった。
ただ、続いた。
その「続く」という事実が、ミーナの中で少しずつ、温かいものになっていった。怖さは消えなかった。でも、温かさの方が少しずつ大きくなっていった。
それでいい、とミーナは思っていた。
◆
噂を最初に聞いたのは、五月に入った茶会でのことだった。
ルウェラン侯爵夫人の会ではなく、小さな集まりだった。令嬢が六人、夫人が四人。白いカップに春の花のような茶の香りが立って、窓から庭の光が入っていた。穏やかな午後だった。
隣に座っていたグレイン子爵夫人が、扇を少し動かしながら言った。
「ねえ、聞きましたか、カーゼル辺境伯の話」
ミーナは手の中のカップを、そのままにした。
「何でしょう」
「隣国との縁談が進んでいるとか。マーレン王国の王女様と、政略的な繋がりを持つために」
ミーナはカップを、静かに皿の上に置いた。
音は立てなかった。
「まあ」と別の夫人が言った。「辺境伯ともなれば、そういうご縁もおありになるでしょうね」
「北の国境に近いもの。マーレンとの関係は、王国にとっても重要でしょうし」
「それに、マーレンの第三王女はまだ二十歳でいらっしゃるとか。大変な美女だそうで」
「辺境伯はまだご婚約がなかったですしね。これは正式に話が進むかもしれないわ」
会話は続いた。
ミーナは微笑んで、茶を一口飲んだ。
味はしなかった。
窓から入る春の光が、今日は少し白すぎた。まぶしい、というより、色がなかった。光だけがあって、温かみがなかった。
二十歳の王女。
その言葉を、ミーナは胸の中で一度、静かに受け取った。
受け取りながら、思った。
(やはり、そういうものなのか)
アルベルトは十八歳を選んだ。
社交界の男性たちは、縁談を持ってきた時、みな魔力の話をした。
そしてレオナルドには、二十歳の王女との縁談がある。
若さと政治的な価値。
それには、何も勝てない。
ミーナはそれを、すでに知っていたはずだった。知っていたはずなのに、知らなかったふりをしていたのかもしれない。手紙が届くたびに、少しずつ何かを期待していた。その期待を、今日の噂が静かに冷やした。
(やはり私では足りないのだ)
その言葉が来た時、ミーナは自分でも驚いた。
まだその言葉が、自分の中にあった。
婚約破棄の夜から半年。研究院に通い、文献を読み、手紙を書き、孤児院に通い、広場のベンチに座り、それだけのことをしてきた。
それでも、まだその言葉が、心の底の方にあった。
薄くなってはいた。でも、消えてはいなかった。
今日の噂が、それを少し濃くした。
◆
帰りの馬車の中で、ミーナは一人だった。
窓の外の景色が流れていく。石畳、商店の軒先、行き交う人々。全部が見えているのに、何も見ていなかった。
二十歳の王女。
その言葉が、頭の中にあった。
消えなかった。
アルベルトがフィルを選んだのは、十八歳だったから。
レオナルドが王女を選ぶなら、それは二十歳だから。政治的な理由があるにしても、そこに年齢という要素があることは、変わらない。
若さと政治的な価値。
それには、何も勝てない。
ミーナはそれを、すでに知っていた。知っていたはずだった。
でも知っていることと、また同じ場所に立つことは、違う。
一度傷ついた場所を、もう一度傷つくことは、最初に傷つくより深い。同じ場所だから、すぐに痛みが来る。
馬車が揺れた。
ミーナは窓に額を触れないくらいに近づけて、外を見た。
春の王都は、美しかった。花が咲いている。光がある。人が笑っている。
全部が、今は遠かった。
自分だけが、透明な壁の内側にいるようだった。
◆
帰ってから、書斎に入った。
机の上に、先週届いたレオナルドの手紙が、まだ置いてあった。
ミーナはそれを見た。
手に取らなかった。
ただ、そこにある、白い封筒を見た。
噂は噂だ、とミーナは思った。
確認されたことではない。ただ、茶会で聞いた話だ。社交界の噂が全部本当なら、この王都は毎日百の事件が起きていることになる。
でも。
噂には、核がある。
全くの根も葉もないことは、噂にならない。何かがあるから、形になって広がる。
辺境伯と隣国の王女。
政略的な縁談。
それは、あり得ることだった。むしろ、自然なことだった。辺境を守る立場の人間が、隣国と縁を結ぶことは、理にかなっていた。
ミーナは椅子に座った。
なぜ自分がここまで揺れているのか、少し考えた。
返事を書き始めてから、まだひと月しか経っていない。約束は何もない。何かを誓った言葉もない。ただ、手紙が続いていただけだ。
それなのに、今夜こんなに揺れている。
つまり、自分は何かを期待していた。
わかっていたが、改めて知った。
怖いと言いながら、期待していた。
信じ切れないと言いながら、信じ始めていた。
だから揺れる。
揺れるということは、何かが育っていたということだ。
それが今夜、また傷つきかけている。
◆
翌日、孤児院へ行った。
ルカは今日、熱を出して休んでいた。院長に聞くと、昨日から少し体調を崩しているが、大事はないという。
ルカのいない孤児院は、少し静かだった。
他の子どもたちと過ごしながら、ミーナはルカのことを考えた。
あの子は、毎日練習している。ミーナが来ない日も、一人でやっている、と言っていた。
見てもらいたいから続ける。でも、見てもらえない日も続ける。
その両方ができる子だった。
自分はどうか。
レオナルドから手紙が来ない日も、文献を読んでいた。一人で疑問を書き留めていた。孤児院に来ていた。指先の温かさを確かめていた。
手紙が来るから続けていたのではなかった。
でも、手紙が来るかもしれないと思うと、少し速く目が覚めた。
それは本当のことだった。
それが今、揺れている。
院長が、お茶を持ってきてくれた。
「ミーナ様、今日は少しお顔が」
「そうですか」
「ルカがいないせいかしら」
「そうかもしれません」とミーナは答えた。
嘘ではなかった。半分は、本当のことだった。
◆
帰り道、ミーナは例の広場を通った。
石のベンチに、今日は誰かが座っていた。老人が一人、目を閉じて、春の光の中にいた。
ミーナは別のベンチに座った。
広場の中央に、小さな噴水がある。水が、低い音を立てて流れていた。
その音を聞いていた。
噂のことを、もう一度考えた。
二十歳の王女。政略的な縁談。
アルベルトが十八歳を選んだ夜、ミーナは廊下の壁に手をついた。膝が震えていた。大理石の冷たさだけが現実だった。
あの時と、今とで、何が違うか。
あの時は、十二年間の婚約が壊れた夜だった。今は、まだ何も壊れていない。噂を聞いただけだ。
でも、揺れる場所が同じだった。
若さで選ばれる、という構造が同じだった。
私ではなく、私の年齢を見て判断される、という恐れが同じだった。
ミーナは噴水の水を見た。
水は、低い場所へ流れる。それが水の性質だ。変えられない。
でも、流れた先で、また別の形になる。
同じ水が、違う場所で、違う形になる。
(私は今、どこにいるのだろう)
ミーナは思った。
(あの夜の廊下と、今のここと、どれだけ違う場所に来られたのだろう)
答えはわからなかった。
でも、一つだけ違うことがあった。
あの夜、ミーナは廊下に一人だった。
今日、ミーナは広場にいる。
老人が日なたで目を閉じている。噴水が鳴っている。子どもが遠くで笑っている。街は動いている。
壁に手をついていない。
まだ、立っている。
それだけのことが、今日は少し、大事だった。
◆
その日の夜、ミーナは孤児院の子どもたちのことを思い出した。
ルカではなく、別の子どもだ。五歳の女の子で、名前をエルと言った。両親を事故で亡くして、半年前に院に来た。最初はずっと泣いていた。何をしても泣いていた。
でも先月から、少し変わってきた。
他の子と話せるようになって、先週は初めて笑った。
院長は「時間がかかった」と言っていた。「でも、時間をかけた分だけ、根が張った感じがします」と。
根が張る。
その言葉を、ミーナは今夜、自分のものとして考えた。
傷ついた場所には、時間がかかる。でも時間をかけた分だけ、何かが変わっていく。
あの夜の廊下から、今日の広場まで。
半年かかった。
それは遅いのかもしれない。でも、壁に手をついていた場所から、噴水のそばのベンチまで、来られた。
噂が本当かどうか、まだわからない。
もし本当だったとしたら、それはその時に考える。
今夜は、まだわからない。
わからないことを、わかるように見せなくていい。
それだけ決めて、ミーナは便箋を引き出しから出した。
今夜は、書けるかどうかわからなかった。
でも、引き出しを開けた。
それだけのことが、今夜の、精一杯だった。
◆
書けた。
短い手紙だった。
カーゼル辺境伯様
少し、聞いてもいいですか。
社交界で、噂を聞きました。辺境伯が隣国の王女と縁談中だという話です。
直接聞くのは、失礼かもしれません。でも、聞かないまま何かを想像し続けることの方が、私には難しいので。
事実でなければ、忘れてください。
事実であれば、教えてください。
どちらでも、私はここにいます。
書いてから、長い間、読み返した。
送っていいのか、何度も迷った。
でも、送ることにした。
聞かないまま想像し続けることの方が、難しい。それは本当のことだった。アルベルトとの十二年間、ミーナは多くのことを聞けなかった。聞くことを、失礼だと思っていた。波風を立てることを、恐れていた。
その結果、一夜で全部を知らされた。
今度は、聞く。
怖くても、聞く。
それが、あの夜の廊下から今日まで来た、ミーナが少し変わったことだった。
封筒に入れた。
宛名を書いた。
ランプを落とした。
暗くなった部屋で、ミーナは目を閉じた。
返事が来るまで、何日かかるかわからない。
来ないかもしれない。
来たとしても、何と書いてあるかわからない。
でも、送った。
それだけは、確かだった。
窓の外に、春の夜の空があった。
星は今夜も出ていた。
遠くて、淡い、青みがかった白い光が、いくつか瞬いていた。
ミーナはそれを少しの間見てから、目を閉じた。
今夜は、眠れるかどうかわからなかった。
でも、横になった。
それが今夜できる、精一杯だった。




