表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】「若い令嬢」を選んで、婚約者を捨てた代償  作者: 風谷 華


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/12

第9話 隣国の王女

 返事が来たのは、二週間後だった。


 今度は、すぐに開けた。


 三日待ったあの時とは、違った。封を割る手が、少し急いでいた。自分でも少し驚いた。



 ヴェルダン公爵令嬢殿


 お手紙ありがとうございました。


 返事が遅れたのは、川の件で少し立て込んでいたためです。橋は、今年は架け替えることにしました。昨年からの懸案で、ちょうどよい機会でした。


 一人で文献を読んでいるとのこと、それで十分だと思います。指示がなければ読めないのと、指示がなくても読めるのとでは、積み重なるものが違う。ルーカス博士が戻った時、あなたの方が先に進んでいるかもしれない。


 疑問が生まれたら、書いてください。私に答えられることは少ないかもしれませんが、一緒に考えることはできます。


 辺境の春、今日は風が強かった。



 ミーナは手紙を読み終えて、少しの間そのままにしていた。


 一緒に考えることはできる、とあった。


 答えではなく、一緒に考えること。


 その違いを、ミーナはしばらく味わった。


 胸の奥で何かが揺れた。怖さに似ているが、少し違う何かが。


 今日も揺れた、と思った。





 それから、手紙が続いた。


 週に一度、あるいは十日に一度。辺境からの封筒が届くと、ミーナは書斎に持っていって、そこで開けた。


 内容はいつも、辺境の日常だった。北方の民が今年どんな種を蒔いているか。川が落ち着いてきたこと。新しく架けた橋を村の子どもたちが渡る練習をしていること。古い言葉を知っている老人から、戦前の辺境の話を聞いたこと。


 ミーナも書いた。


 文献で見つけた疑問。孤児院のルカが全部の漢字を覚えようとして苦労していること。春になって、書斎の窓から見える庭の薔薇の枝に、花の気配が出てきたこと。


 やりとりは、静かに続いた。


 何かを約束したわけではなかった。何かを期待させるような言葉も、どちらも書かなかった。


 ただ、続いた。


 その「続く」という事実が、ミーナの中で少しずつ、温かいものになっていった。怖さは消えなかった。でも、温かさの方が少しずつ大きくなっていった。


 それでいい、とミーナは思っていた。





 噂を最初に聞いたのは、五月に入った茶会でのことだった。


 ルウェラン侯爵夫人の会ではなく、小さな集まりだった。令嬢が六人、夫人が四人。白いカップに春の花のような茶の香りが立って、窓から庭の光が入っていた。穏やかな午後だった。


 隣に座っていたグレイン子爵夫人が、扇を少し動かしながら言った。


「ねえ、聞きましたか、カーゼル辺境伯の話」


 ミーナは手の中のカップを、そのままにした。


「何でしょう」


「隣国との縁談が進んでいるとか。マーレン王国の王女様と、政略的な繋がりを持つために」


 ミーナはカップを、静かに皿の上に置いた。


 音は立てなかった。


「まあ」と別の夫人が言った。「辺境伯ともなれば、そういうご縁もおありになるでしょうね」


「北の国境に近いもの。マーレンとの関係は、王国にとっても重要でしょうし」


「それに、マーレンの第三王女はまだ二十歳でいらっしゃるとか。大変な美女だそうで」


「辺境伯はまだご婚約がなかったですしね。これは正式に話が進むかもしれないわ」


 会話は続いた。


 ミーナは微笑んで、茶を一口飲んだ。


 味はしなかった。


 窓から入る春の光が、今日は少し白すぎた。まぶしい、というより、色がなかった。光だけがあって、温かみがなかった。


 二十歳の王女。


 その言葉を、ミーナは胸の中で一度、静かに受け取った。


 受け取りながら、思った。


(やはり、そういうものなのか)


 アルベルトは十八歳を選んだ。


 社交界の男性たちは、縁談を持ってきた時、みな魔力の話をした。


 そしてレオナルドには、二十歳の王女との縁談がある。


 若さと政治的な価値。


 それには、何も勝てない。


 ミーナはそれを、すでに知っていたはずだった。知っていたはずなのに、知らなかったふりをしていたのかもしれない。手紙が届くたびに、少しずつ何かを期待していた。その期待を、今日の噂が静かに冷やした。


(やはり私では足りないのだ)


 その言葉が来た時、ミーナは自分でも驚いた。


 まだその言葉が、自分の中にあった。


 婚約破棄の夜から半年。研究院に通い、文献を読み、手紙を書き、孤児院に通い、広場のベンチに座り、それだけのことをしてきた。


 それでも、まだその言葉が、心の底の方にあった。


 薄くなってはいた。でも、消えてはいなかった。


 今日の噂が、それを少し濃くした。





 帰りの馬車の中で、ミーナは一人だった。


 窓の外の景色が流れていく。石畳、商店の軒先、行き交う人々。全部が見えているのに、何も見ていなかった。


 二十歳の王女。


 その言葉が、頭の中にあった。


 消えなかった。


 アルベルトがフィルを選んだのは、十八歳だったから。


 レオナルドが王女を選ぶなら、それは二十歳だから。政治的な理由があるにしても、そこに年齢という要素があることは、変わらない。


 若さと政治的な価値。


 それには、何も勝てない。


 ミーナはそれを、すでに知っていた。知っていたはずだった。


 でも知っていることと、また同じ場所に立つことは、違う。


 一度傷ついた場所を、もう一度傷つくことは、最初に傷つくより深い。同じ場所だから、すぐに痛みが来る。


 馬車が揺れた。


 ミーナは窓に額を触れないくらいに近づけて、外を見た。


 春の王都は、美しかった。花が咲いている。光がある。人が笑っている。


 全部が、今は遠かった。


 自分だけが、透明な壁の内側にいるようだった。





 帰ってから、書斎に入った。


 机の上に、先週届いたレオナルドの手紙が、まだ置いてあった。


 ミーナはそれを見た。


 手に取らなかった。


 ただ、そこにある、白い封筒を見た。


 噂は噂だ、とミーナは思った。


 確認されたことではない。ただ、茶会で聞いた話だ。社交界の噂が全部本当なら、この王都は毎日百の事件が起きていることになる。


 でも。


 噂には、核がある。


 全くの根も葉もないことは、噂にならない。何かがあるから、形になって広がる。


 辺境伯と隣国の王女。


 政略的な縁談。


 それは、あり得ることだった。むしろ、自然なことだった。辺境を守る立場の人間が、隣国と縁を結ぶことは、理にかなっていた。


 ミーナは椅子に座った。


 なぜ自分がここまで揺れているのか、少し考えた。


 返事を書き始めてから、まだひと月しか経っていない。約束は何もない。何かを誓った言葉もない。ただ、手紙が続いていただけだ。


 それなのに、今夜こんなに揺れている。


 つまり、自分は何かを期待していた。


 わかっていたが、改めて知った。


 怖いと言いながら、期待していた。


 信じ切れないと言いながら、信じ始めていた。


 だから揺れる。


 揺れるということは、何かが育っていたということだ。


 それが今夜、また傷つきかけている。





 翌日、孤児院へ行った。


 ルカは今日、熱を出して休んでいた。院長に聞くと、昨日から少し体調を崩しているが、大事はないという。


 ルカのいない孤児院は、少し静かだった。


 他の子どもたちと過ごしながら、ミーナはルカのことを考えた。


 あの子は、毎日練習している。ミーナが来ない日も、一人でやっている、と言っていた。


 見てもらいたいから続ける。でも、見てもらえない日も続ける。


 その両方ができる子だった。


 自分はどうか。


 レオナルドから手紙が来ない日も、文献を読んでいた。一人で疑問を書き留めていた。孤児院に来ていた。指先の温かさを確かめていた。


 手紙が来るから続けていたのではなかった。


 でも、手紙が来るかもしれないと思うと、少し速く目が覚めた。


 それは本当のことだった。


 それが今、揺れている。


 院長が、お茶を持ってきてくれた。


「ミーナ様、今日は少しお顔が」


「そうですか」


「ルカがいないせいかしら」


「そうかもしれません」とミーナは答えた。


 嘘ではなかった。半分は、本当のことだった。





 帰り道、ミーナは例の広場を通った。


 石のベンチに、今日は誰かが座っていた。老人が一人、目を閉じて、春の光の中にいた。


 ミーナは別のベンチに座った。


 広場の中央に、小さな噴水がある。水が、低い音を立てて流れていた。


 その音を聞いていた。


 噂のことを、もう一度考えた。


 二十歳の王女。政略的な縁談。


 アルベルトが十八歳を選んだ夜、ミーナは廊下の壁に手をついた。膝が震えていた。大理石の冷たさだけが現実だった。


 あの時と、今とで、何が違うか。


 あの時は、十二年間の婚約が壊れた夜だった。今は、まだ何も壊れていない。噂を聞いただけだ。


 でも、揺れる場所が同じだった。


 若さで選ばれる、という構造が同じだった。


 私ではなく、私の年齢を見て判断される、という恐れが同じだった。


 ミーナは噴水の水を見た。


 水は、低い場所へ流れる。それが水の性質だ。変えられない。


 でも、流れた先で、また別の形になる。


 同じ水が、違う場所で、違う形になる。


(私は今、どこにいるのだろう)


 ミーナは思った。


(あの夜の廊下と、今のここと、どれだけ違う場所に来られたのだろう)


 答えはわからなかった。


 でも、一つだけ違うことがあった。


 あの夜、ミーナは廊下に一人だった。


 今日、ミーナは広場にいる。


 老人が日なたで目を閉じている。噴水が鳴っている。子どもが遠くで笑っている。街は動いている。


 壁に手をついていない。


 まだ、立っている。


 それだけのことが、今日は少し、大事だった。





 その日の夜、ミーナは孤児院の子どもたちのことを思い出した。


 ルカではなく、別の子どもだ。五歳の女の子で、名前をエルと言った。両親を事故で亡くして、半年前に院に来た。最初はずっと泣いていた。何をしても泣いていた。


 でも先月から、少し変わってきた。


 他の子と話せるようになって、先週は初めて笑った。


 院長は「時間がかかった」と言っていた。「でも、時間をかけた分だけ、根が張った感じがします」と。


 根が張る。


 その言葉を、ミーナは今夜、自分のものとして考えた。


 傷ついた場所には、時間がかかる。でも時間をかけた分だけ、何かが変わっていく。


 あの夜の廊下から、今日の広場まで。


 半年かかった。


 それは遅いのかもしれない。でも、壁に手をついていた場所から、噴水のそばのベンチまで、来られた。


 噂が本当かどうか、まだわからない。


 もし本当だったとしたら、それはその時に考える。


 今夜は、まだわからない。


 わからないことを、わかるように見せなくていい。


 それだけ決めて、ミーナは便箋を引き出しから出した。


 今夜は、書けるかどうかわからなかった。


 でも、引き出しを開けた。


 それだけのことが、今夜の、精一杯だった。





 書けた。


 短い手紙だった。



 カーゼル辺境伯様


 少し、聞いてもいいですか。


 社交界で、噂を聞きました。辺境伯が隣国の王女と縁談中だという話です。


 直接聞くのは、失礼かもしれません。でも、聞かないまま何かを想像し続けることの方が、私には難しいので。


 事実でなければ、忘れてください。

 事実であれば、教えてください。


 どちらでも、私はここにいます。



 書いてから、長い間、読み返した。


 送っていいのか、何度も迷った。


 でも、送ることにした。


 聞かないまま想像し続けることの方が、難しい。それは本当のことだった。アルベルトとの十二年間、ミーナは多くのことを聞けなかった。聞くことを、失礼だと思っていた。波風を立てることを、恐れていた。


 その結果、一夜で全部を知らされた。


 今度は、聞く。


 怖くても、聞く。


 それが、あの夜の廊下から今日まで来た、ミーナが少し変わったことだった。


 封筒に入れた。


 宛名を書いた。


 ランプを落とした。


 暗くなった部屋で、ミーナは目を閉じた。


 返事が来るまで、何日かかるかわからない。


 来ないかもしれない。


 来たとしても、何と書いてあるかわからない。


 でも、送った。


 それだけは、確かだった。


 窓の外に、春の夜の空があった。


 星は今夜も出ていた。


 遠くて、淡い、青みがかった白い光が、いくつか瞬いていた。


 ミーナはそれを少しの間見てから、目を閉じた。


 今夜は、眠れるかどうかわからなかった。


 でも、横になった。


 それが今夜できる、精一杯だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ