第8話 逃げようとした私
手紙は、十日後に届いた。
朝の食卓に、執事のフレデリックが持ってきた。「カーゼル辺境伯家より」と言って、ミーナの隣に置いた。
母が顔を上げた。父が新聞から目を離した。
ミーナは封筒を受け取って、「ありがとう」と言った。
声は、いつも通りを装った。
◆
封筒を開けたのは、書斎に戻ってからだった。
封蝋を割った。紙を取り出した。
レオナルドの字は、細くて整っていた。軍人の字というより、学者の字に近かった。力が入りすぎず、でも一文字一文字がはっきりしていた。
読んだ。
辺境の春のこと。雪解けが遅いこと。北方の民が今年の農作業の準備を始めていること。川の水量が増えていて、一部の橋が心配されていること。
それから、一行だけ、研究のことが書いてあった。
学会の否認については、気にしないでほしい。ルーカス博士の研究は正しい。正しいものは、時間がかかっても残る。
最後に、短く書いてあった。
王都の春は、どうですか。
◆
ミーナは手紙を読み終えて、机の上に置いた。
しばらく、そのままにしていた。
返事を書こうとした。
便箋を引き出しから出した。ペンを持った。インクをつけた。
書けなかった。
何を書けばいいのか、わからなかった。いや、わからないのではなかった。書きたいことはあった。辺境の川のこと、もっと聞きたかった。農作業の準備、というのがどんな様子なのか、想像しながら読んでいた。ルーカスが回復に向かっていること、伝えたかった。
でも、ペンが動かなかった。
ミーナはペンを置いた。
便箋を、引き出しに戻した。
また明日、と思った。
◆
また明日、は、三日続いた。
三日目の夜、ミーナは自分が何をしているのか、ようやく言葉にした。
逃げている。
返事を書かないことで、何かから逃げている。
それが何からかは、少し考えればわかった。
返事を書いたら、続くから。
手紙が続いたら、何かが始まるから。
何かが始まったら、また、終わるかもしれないから。
十二年間の婚約が一夜で終わった夜のことを、ミーナの体はまだ覚えていた。あの夜、廊下の壁に手をついた感触。膝が震えていたこと。大理石の冷たさだけが現実だったこと。
もう一度あれが来るかもしれないと思うと、返事を書く手が止まった。
レオナルドは、そういう人ではない。
そのことは、わかっていた。
でも、わかっていることと、心が信じることは、違う。
頭は言う。あの人は違う。
心は言う。でも前も、そう思っていた。
十八歳の時、アルベルトのことを、そういう人だと思っていた。自分の話を聞いてくれる人だと。珍しい本を探してきてくれる人だと。戦場に行っても、帰ってきてくれる人だと。
それらは全部、若かったミーナに向けられていたものだった。
ミーナという人間に向けられていたのではなく、若くて美しいミーナというラベルに向けられていたものだった。
ラベルが変わった時、全部が変わった。
レオナルドは違う、とミーナは思う。あの人の目は、ラベルを見ていない。でも、そう思うこと自体が、十二年前と同じだ。あの時も、そう思っていた。
信じることと、信じようとすることの間に、薄い膜がある。
その膜を、今のミーナはまだ破れなかった。
◆
孤児院へ行ったのは、四日目のことだった。
ルカが走ってきた。
「ミーナ様、久しぶり!」
「一週間ぶりでしょう」
「一週間は久しぶりだよ。学校の先生は毎日来るのに」
「私は先生ではないので」
「でも先生みたいなものじゃん」
ルカはミーナの手を引っ張った。「早く来て、書いたものを見てほしい」
引っ張られながら、ミーナは少し笑った。
この子の前では、余計なことを考えている暇がなかった。
ルカが書いたのは、五十音の表だった。全部の文字を、紙いっぱいに書いてあった。形が歪んでいるものもあった。でも、全部あった。
「全部書いた」
「全部書きましたね」
「一つも間違えてない」
「本当ですね。すごい」
「ほめて」
「今ほめました」
「もっとほめて」
ミーナは声を上げて笑った。久しぶりの笑いだった。胸の奥から来る笑いだった。
「ルカはすごいです。毎日練習したのでしょう」
「した。ミーナ様に見せるために」
「見せてくれてありがとう」
「ミーナ様は? 何か練習してる?」
突然聞かれて、ミーナは少し詰まった。
「……魔法の練習をしています。少し止まっているけれど」
「なんで止まってるの」
「先生が体調を崩して。それから、色々と」
「再開したらいいじゃん」
ルカは当たり前のように言った。
「先生が戻ってから、再開できると思います」
「でも先生がいなくても、練習できるんじゃないの?」
七歳の子どもの言葉は、まっすぐすぎて、時々刺さる。
「……そうかもしれません」
「僕だって、ミーナ様がいない日も練習してるよ。一人でもできるよ」
ルカはそう言って、また紙に文字を書き始めた。次の課題に、もう移っていた。
ミーナはその横顔を見ながら、少し考えた。
一人でもできるよ。
それは、七歳の子どもの言葉だ。単純で、当たり前で、でも今のミーナには、妙に重かった。
ルーカス博士が戻るまで待っていた。研究院が再開するまで待っていた。
でも、待ちながら何もしないことと、待ちながら続けることは、違う。
指先の温かさは、今日もある。
待っていても、消えない。
◆
孤児院の帰り道、ミーナは遠回りをした。
王都の北側、小さな広場のある通りを歩いた。人通りが少ない。石畳が古くて、少し凸凹している。子どもの頃、ここでよく転んだ。
転んだ記憶がある場所を、今は大人の足で歩いている。
何が変わって、何が変わっていないのか。
街は変わっていない。石畳は変わっていない。転ぶことがなくなったのは、大人になったからか、慎重になったからか。
どちらも少しずつ本当のことだと思った。
広場の端に、古い石のベンチがあった。
ミーナはそこに座った。
春の午後の日差しが、石畳を斜めに照らしていた。光の色は淡くて、白に近かった。雪のような色ではなく、もっと柔らかい白。春の光だけが持つ、温かみのある白だった。
手袋を外した。
指先を光にかざした。
何も見えない。当然だ。でも、温かかった。内側から温められているような、あの感覚が、今日もそこにあった。
(これは、ここにある)
ミーナは思った。
(研究院が閉まっていても。ルーカスがいなくても。学会に否認されても。レオナルドが遠くにいても。ここにある)
誰かに証明してもらわなくても、ここにある。
それは、返事を書くこととは、別のことだ。
自分の中にあるものと、誰かとの間にあるものは、別のことだ。
混ぜてはいけない。
自分の中にあるものは、誰かに確かめてもらわなくても、ここにある。
誰かとの間にあるものは——それは、別に考えればいい。
ミーナは手袋を戻した。
ベンチから立ち上がった。
帰ろう、と思った。
帰ったら、ルーカスの文献を一人で読もう。研究院から借りたまま、読みかけのものが何冊かある。指示がなくても、読める。ノートに書き込める。
それだけのことが、今日は少し、明るく思えた。
◆
帰ってから、ミーナはまず文献を開いた。
ルーカスから借りた写本の、古代魔法の制御に関する章だった。老人の読んだ跡がある。鉛筆で薄く線が引かれていて、欄外に小さな字でメモがある。「この箇所、現代語訳に誤りあり」「一例のみで判断は早計」「辺境の老人の証言と一致」。
ルーカスがこの本を読んだ時間のことを、ミーナは思った。
四十年かけて集めてきた。誰も信じなくても、学会に否認されても、集め続けた。
それは、なぜ続けられたのか。
答えは、ここにあると思っていたから、だろう。
正しいものは、時間がかかっても残る、とレオナルドが手紙に書いていた。その言葉は、レオナルド自身の言葉ではなく、辺境で出会った誰かの言葉かもしれない。あるいは、戦場で学んだことかもしれない。
どこから来た言葉でも、今のミーナには、届いた。
ミーナはノートを開いた。
写本を読みながら、気づいたことを書いていった。疑問に思ったことも書いた。ルーカスのメモに対して、自分なりの考えを書いた。
ルーカスがいれば、すぐに聞けた。でも今は、自分で考えるしかない。
その「自分で考えるしかない」という状況が、今日は少し違う色を持っていた。
不自由ではなく、少しだけ、自由に近い色を。
◆
夜になってから、ミーナは便箋を引き出しから出した。
三日間、戻し続けていた便箋だった。
ペンを持った。
インクをつけた。
今日は、書けた。
なぜ書けたのかは、うまく説明できなかった。孤児院でルカに言われたことが、どこかで効いていたかもしれない。広場のベンチで光に手をかざしたことが、何かを動かしたかもしれない。
理由はわからなかった。でも、書けた。
カーゼル辺境伯様
お手紙、ありがとうございました。
返事が遅くなってしまって、申し訳ありません。
辺境の川の水量が増えているとのこと、今年の雪解けは例年より早いのでしょうか。橋のことが心配ですが、辺境伯のことですから、もう対策を立てておられることと思います。
こちらは、少し止まっていた日々が、ようやく動き始めました。ルーカス博士は快方に向かっていると聞いています。研究院が再開するまでの間、お借りしている文献を一人で読んでいます。疑問がたくさん生まれますが、一人で考えることも、悪くないと気づきました。
学会の件について、「正しいものは時間がかかっても残る」とお書きくださいました。その言葉を、何度も読みました。ありがとうございました。
王都の春は、今日は暖かかったです。
書き終えて、少し読み返した。
短い手紙だった。でも、今の自分に書けるのは、これだけだった。
フィルのことも、返事が書けなかった三日間のことも、書かなかった。書けなかった、というより、まだ書く言葉を持っていなかった。
それでいい、と思った。
書けることを書いた。書けないことは、また今度でいい。
ミーナは封筒に入れた。
宛名を書いた。
明日、使いに頼もう。
今度は、昨日のうちに決めた。
ランプを落とす前に、ミーナは少し窓の外を見た。
夜の空に、星が出ていた。春の星は、秋より少し淡い色をしている。白というより、青みがかった白。遠くにあるものの色だ。
レオナルドが今夜見ている空と、同じ空かもしれない。
そう思った時、胸の中で何かが静かに揺れた。怖さではなかった。怖さに似ているが、違った。
期待、と呼んでいいのかどうか、まだわからなかった。
でも、揺れた。
それだけは、確かだった。
◆
翌朝、使いに手紙を渡してから、ミーナは書斎に入った。
文献を開いた。
昨夜の続きから読み始めた。
指先が、温かかった。
窓の外で、鳥が鳴いていた。春の声だった。冬とは違う種類の声。軽くて、少し湿った、春の空気に溶ける声。
ミーナはその声を聞きながら、ページをめくった。
返事を書いた、という事実が、胸の中でまだ少し揺れていた。
揺れているのが、怖いからか、嬉しいからか、今はまだわからなかった。
でも、動いている。
それだけはわかった。
止まっていたものが、ほんの少しだけ、動き始めた。
それが、今日のミーナの、全部だった。
それで、十分だと思った。
◆
夕方になって、母が書斎に入ってきた。
「ミーナ、顔色がましになったわ」
「ありがとうございます」
「何かあった?」
「……少し、動けた気がして」
「動いた」
「返事を書きました。辺境伯への」
母はしばらく、ミーナを見た。
それから、何も言わずに微笑んだ。
余計なことを言わない母で、よかった、とミーナは思った。
「お茶を持ってきましょうか」
「いいえ、自分でいきます。一緒に飲みましょう」
二人で台所に向かいながら、ミーナは廊下の窓から空を見た。
夕方の光が、街の屋根を橙に染めていた。
深い橙ではなく、薄い橙だった。もうすぐ暗くなる前の、一番やわらかい時間の色だった。
その色が、今日は暗くなる前の色ではなく、一日の終わりの色として見えた。
同じ色が、見え方によって変わる。
今日はそういう日だった。
それでいい一日が、たまにある。
悪くない日だった。




