表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】「若い令嬢」を選んで、婚約者を捨てた代償  作者: 風谷 華


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/12

第8話 逃げようとした私

 手紙は、十日後に届いた。


 朝の食卓に、執事のフレデリックが持ってきた。「カーゼル辺境伯家より」と言って、ミーナの隣に置いた。


 母が顔を上げた。父が新聞から目を離した。


 ミーナは封筒を受け取って、「ありがとう」と言った。


 声は、いつも通りを装った。





 封筒を開けたのは、書斎に戻ってからだった。


 封蝋を割った。紙を取り出した。


 レオナルドの字は、細くて整っていた。軍人の字というより、学者の字に近かった。力が入りすぎず、でも一文字一文字がはっきりしていた。


 読んだ。


 辺境の春のこと。雪解けが遅いこと。北方の民が今年の農作業の準備を始めていること。川の水量が増えていて、一部の橋が心配されていること。


 それから、一行だけ、研究のことが書いてあった。


 学会の否認については、気にしないでほしい。ルーカス博士の研究は正しい。正しいものは、時間がかかっても残る。


 最後に、短く書いてあった。


 王都の春は、どうですか。





 ミーナは手紙を読み終えて、机の上に置いた。


 しばらく、そのままにしていた。


 返事を書こうとした。


 便箋を引き出しから出した。ペンを持った。インクをつけた。


 書けなかった。


 何を書けばいいのか、わからなかった。いや、わからないのではなかった。書きたいことはあった。辺境の川のこと、もっと聞きたかった。農作業の準備、というのがどんな様子なのか、想像しながら読んでいた。ルーカスが回復に向かっていること、伝えたかった。


 でも、ペンが動かなかった。


 ミーナはペンを置いた。


 便箋を、引き出しに戻した。


 また明日、と思った。





 また明日、は、三日続いた。


 三日目の夜、ミーナは自分が何をしているのか、ようやく言葉にした。


 逃げている。


 返事を書かないことで、何かから逃げている。


 それが何からかは、少し考えればわかった。


 返事を書いたら、続くから。


 手紙が続いたら、何かが始まるから。


 何かが始まったら、また、終わるかもしれないから。


 十二年間の婚約が一夜で終わった夜のことを、ミーナの体はまだ覚えていた。あの夜、廊下の壁に手をついた感触。膝が震えていたこと。大理石の冷たさだけが現実だったこと。


 もう一度あれが来るかもしれないと思うと、返事を書く手が止まった。


 レオナルドは、そういう人ではない。


 そのことは、わかっていた。


 でも、わかっていることと、心が信じることは、違う。


 頭は言う。あの人は違う。


 心は言う。でも前も、そう思っていた。


 十八歳の時、アルベルトのことを、そういう人だと思っていた。自分の話を聞いてくれる人だと。珍しい本を探してきてくれる人だと。戦場に行っても、帰ってきてくれる人だと。


 それらは全部、若かったミーナに向けられていたものだった。


 ミーナという人間に向けられていたのではなく、若くて美しいミーナというラベルに向けられていたものだった。


 ラベルが変わった時、全部が変わった。


 レオナルドは違う、とミーナは思う。あの人の目は、ラベルを見ていない。でも、そう思うこと自体が、十二年前と同じだ。あの時も、そう思っていた。


 信じることと、信じようとすることの間に、薄い膜がある。


 その膜を、今のミーナはまだ破れなかった。





 孤児院へ行ったのは、四日目のことだった。


 ルカが走ってきた。


「ミーナ様、久しぶり!」


「一週間ぶりでしょう」


「一週間は久しぶりだよ。学校の先生は毎日来るのに」


「私は先生ではないので」


「でも先生みたいなものじゃん」


 ルカはミーナの手を引っ張った。「早く来て、書いたものを見てほしい」


 引っ張られながら、ミーナは少し笑った。


 この子の前では、余計なことを考えている暇がなかった。


 ルカが書いたのは、五十音の表だった。全部の文字を、紙いっぱいに書いてあった。形が歪んでいるものもあった。でも、全部あった。


「全部書いた」


「全部書きましたね」


「一つも間違えてない」


「本当ですね。すごい」


「ほめて」


「今ほめました」


「もっとほめて」


 ミーナは声を上げて笑った。久しぶりの笑いだった。胸の奥から来る笑いだった。


「ルカはすごいです。毎日練習したのでしょう」


「した。ミーナ様に見せるために」


「見せてくれてありがとう」


「ミーナ様は? 何か練習してる?」


 突然聞かれて、ミーナは少し詰まった。


「……魔法の練習をしています。少し止まっているけれど」


「なんで止まってるの」


「先生が体調を崩して。それから、色々と」


「再開したらいいじゃん」


 ルカは当たり前のように言った。


「先生が戻ってから、再開できると思います」


「でも先生がいなくても、練習できるんじゃないの?」


 七歳の子どもの言葉は、まっすぐすぎて、時々刺さる。


「……そうかもしれません」


「僕だって、ミーナ様がいない日も練習してるよ。一人でもできるよ」


 ルカはそう言って、また紙に文字を書き始めた。次の課題に、もう移っていた。


 ミーナはその横顔を見ながら、少し考えた。


 一人でもできるよ。


 それは、七歳の子どもの言葉だ。単純で、当たり前で、でも今のミーナには、妙に重かった。


 ルーカス博士が戻るまで待っていた。研究院が再開するまで待っていた。


 でも、待ちながら何もしないことと、待ちながら続けることは、違う。


 指先の温かさは、今日もある。


 待っていても、消えない。





 孤児院の帰り道、ミーナは遠回りをした。


 王都の北側、小さな広場のある通りを歩いた。人通りが少ない。石畳が古くて、少し凸凹している。子どもの頃、ここでよく転んだ。


 転んだ記憶がある場所を、今は大人の足で歩いている。


 何が変わって、何が変わっていないのか。


 街は変わっていない。石畳は変わっていない。転ぶことがなくなったのは、大人になったからか、慎重になったからか。


 どちらも少しずつ本当のことだと思った。


 広場の端に、古い石のベンチがあった。


 ミーナはそこに座った。


 春の午後の日差しが、石畳を斜めに照らしていた。光の色は淡くて、白に近かった。雪のような色ではなく、もっと柔らかい白。春の光だけが持つ、温かみのある白だった。


 手袋を外した。


 指先を光にかざした。


 何も見えない。当然だ。でも、温かかった。内側から温められているような、あの感覚が、今日もそこにあった。


(これは、ここにある)


 ミーナは思った。


(研究院が閉まっていても。ルーカスがいなくても。学会に否認されても。レオナルドが遠くにいても。ここにある)


 誰かに証明してもらわなくても、ここにある。


 それは、返事を書くこととは、別のことだ。


 自分の中にあるものと、誰かとの間にあるものは、別のことだ。


 混ぜてはいけない。


 自分の中にあるものは、誰かに確かめてもらわなくても、ここにある。


 誰かとの間にあるものは——それは、別に考えればいい。


 ミーナは手袋を戻した。


 ベンチから立ち上がった。


 帰ろう、と思った。


 帰ったら、ルーカスの文献を一人で読もう。研究院から借りたまま、読みかけのものが何冊かある。指示がなくても、読める。ノートに書き込める。


 それだけのことが、今日は少し、明るく思えた。





 帰ってから、ミーナはまず文献を開いた。


 ルーカスから借りた写本の、古代魔法の制御に関する章だった。老人の読んだ跡がある。鉛筆で薄く線が引かれていて、欄外に小さな字でメモがある。「この箇所、現代語訳に誤りあり」「一例のみで判断は早計」「辺境の老人の証言と一致」。


 ルーカスがこの本を読んだ時間のことを、ミーナは思った。


 四十年かけて集めてきた。誰も信じなくても、学会に否認されても、集め続けた。


 それは、なぜ続けられたのか。


 答えは、ここにあると思っていたから、だろう。


 正しいものは、時間がかかっても残る、とレオナルドが手紙に書いていた。その言葉は、レオナルド自身の言葉ではなく、辺境で出会った誰かの言葉かもしれない。あるいは、戦場で学んだことかもしれない。


 どこから来た言葉でも、今のミーナには、届いた。


 ミーナはノートを開いた。


 写本を読みながら、気づいたことを書いていった。疑問に思ったことも書いた。ルーカスのメモに対して、自分なりの考えを書いた。


 ルーカスがいれば、すぐに聞けた。でも今は、自分で考えるしかない。


 その「自分で考えるしかない」という状況が、今日は少し違う色を持っていた。


 不自由ではなく、少しだけ、自由に近い色を。





 夜になってから、ミーナは便箋を引き出しから出した。


 三日間、戻し続けていた便箋だった。


 ペンを持った。


 インクをつけた。


 今日は、書けた。


 なぜ書けたのかは、うまく説明できなかった。孤児院でルカに言われたことが、どこかで効いていたかもしれない。広場のベンチで光に手をかざしたことが、何かを動かしたかもしれない。


 理由はわからなかった。でも、書けた。



 カーゼル辺境伯様


 お手紙、ありがとうございました。

 返事が遅くなってしまって、申し訳ありません。


 辺境の川の水量が増えているとのこと、今年の雪解けは例年より早いのでしょうか。橋のことが心配ですが、辺境伯のことですから、もう対策を立てておられることと思います。


 こちらは、少し止まっていた日々が、ようやく動き始めました。ルーカス博士は快方に向かっていると聞いています。研究院が再開するまでの間、お借りしている文献を一人で読んでいます。疑問がたくさん生まれますが、一人で考えることも、悪くないと気づきました。


 学会の件について、「正しいものは時間がかかっても残る」とお書きくださいました。その言葉を、何度も読みました。ありがとうございました。


 王都の春は、今日は暖かかったです。



 書き終えて、少し読み返した。


 短い手紙だった。でも、今の自分に書けるのは、これだけだった。


 フィルのことも、返事が書けなかった三日間のことも、書かなかった。書けなかった、というより、まだ書く言葉を持っていなかった。


 それでいい、と思った。


 書けることを書いた。書けないことは、また今度でいい。


 ミーナは封筒に入れた。


 宛名を書いた。


 明日、使いに頼もう。


 今度は、昨日のうちに決めた。


 ランプを落とす前に、ミーナは少し窓の外を見た。


 夜の空に、星が出ていた。春の星は、秋より少し淡い色をしている。白というより、青みがかった白。遠くにあるものの色だ。


 レオナルドが今夜見ている空と、同じ空かもしれない。


 そう思った時、胸の中で何かが静かに揺れた。怖さではなかった。怖さに似ているが、違った。


 期待、と呼んでいいのかどうか、まだわからなかった。


 でも、揺れた。


 それだけは、確かだった。





 翌朝、使いに手紙を渡してから、ミーナは書斎に入った。


 文献を開いた。


 昨夜の続きから読み始めた。


 指先が、温かかった。


 窓の外で、鳥が鳴いていた。春の声だった。冬とは違う種類の声。軽くて、少し湿った、春の空気に溶ける声。


 ミーナはその声を聞きながら、ページをめくった。


 返事を書いた、という事実が、胸の中でまだ少し揺れていた。


 揺れているのが、怖いからか、嬉しいからか、今はまだわからなかった。


 でも、動いている。


 それだけはわかった。


 止まっていたものが、ほんの少しだけ、動き始めた。


 それが、今日のミーナの、全部だった。


 それで、十分だと思った。





 夕方になって、母が書斎に入ってきた。


「ミーナ、顔色がましになったわ」


「ありがとうございます」


「何かあった?」


「……少し、動けた気がして」


「動いた」


「返事を書きました。辺境伯への」


 母はしばらく、ミーナを見た。


 それから、何も言わずに微笑んだ。


 余計なことを言わない母で、よかった、とミーナは思った。


「お茶を持ってきましょうか」


「いいえ、自分でいきます。一緒に飲みましょう」


 二人で台所に向かいながら、ミーナは廊下の窓から空を見た。


 夕方の光が、街の屋根を橙に染めていた。


 深い橙ではなく、薄い橙だった。もうすぐ暗くなる前の、一番やわらかい時間の色だった。


 その色が、今日は暗くなる前の色ではなく、一日の終わりの色として見えた。


 同じ色が、見え方によって変わる。


 今日はそういう日だった。


 それでいい一日が、たまにある。


 悪くない日だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ