第7話 壊れそうな夜
春が来た、と思った翌日に、雪が降った。
王都ではよくあることだった。三月の終わりに、もう一度だけ白くなる。季節が気が変わったように戻ってくる。それを「春雪」と呼ぶ人もいれば、「冬の名残」と呼ぶ人もいる。
ミーナはその雪を、書斎の窓から見ていた。
昨日まで芽吹きかけていた枝が、また白く塗られていた。名前のない色をしていた芽が、今朝は雪の重みで少し下を向いている。
折れていなかった。
細い枝の先で、それでも芽はそこにあった。
ミーナはそれを見ながら、今日もルーカスの研究院へ行く支度をした。
◆
異変に気づいたのは、研究院の廊下に入ったときだった。
いつもと、空気が違った。
若い研究員たちが、廊下の端で小声で話している。ミーナが来ても、いつものように顔を上げなかった。目を合わせることを、避けているようだった。
「どうかしましたか」
ミーナは声をかけた。
若い研究員が、少し困った顔をした。
「……ルーカス博士が、昨夜から」
言葉が途切れた。
「昨夜から?」
「倒れられて。今は安静にされています」
ミーナは動けなかった。
「重いのですか」
「……わかりません。でも今朝、意識が戻って、ご家族がいらっしゃっています。すぐに危険な状態ではないと、医師が」
「そうですか」
ミーナは静かに言った。
静かに言いながら、胸の中で何かが落ちていく音がした。重たいものが、ゆっくりと落ちていく音。
「計測の時間は、今日は」
「……少し、難しいかもしれません。状況が落ち着くまで」
「わかりました」
ミーナは頭を下げて、廊下を戻った。
来た道を、一人で歩いた。
◆
研究院の外に出ると、雪がまだ降っていた。
細かい、消えそうな雪だった。地面に触れる前に溶けるような。でも確かに降っていた。
ミーナは傘を差さなかった。
少しの間、建物の前に立っていた。
ルーカスは七十を超えた老人だ。体に無理があった、とは誰も言わなかったが、ミーナにはわかっていた。毎日、大量の文献を読み、計測器の前に立ち、ミーナと議論した。この二週間、いつもルーカスの方が長く残っていた。
自分が来るたびに、老人は喜んでいた。「古代魔法の使い手に会えるのは生涯に何度もない」と言っていた。その言葉は本当だったと思う。でも今になって、ミーナはその言葉の重さを感じた。
老人が無理をしていたとしたら。
自分が来ることで、無理をさせていたとしたら。
雪が、頬に触れた。冷たかった。溶けた。
ミーナはゆっくりと傘を開いて、帰り道を歩き始めた。
◆
翌日、研究院から使いが来た。
ルーカスは快方に向かっているが、しばらく療養が必要だという。研究は一時中断することになった。
一時中断。
その言葉は、やわらかく聞こえた。でも、内容は聞こえた通りのことだった。
それだけではなかった。
使いの人間は、少し言いにくそうに続けた。
「実は……学会の方からも、連絡がありまして」
「学会?」
「王立魔法学会です。ルーカス博士が古代魔法の研究成果として提出されていた報告書があったのですが……学会の審査委員から、正式に否認が届きました」
ミーナは一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。
「否認、とは」
「研究として認められない、ということです。理由は……古代魔法の発現は、現存する文献に裏付けがない。三十歳以降の魔力覚醒は、個人差の範囲内であり、独立した現象とは見なせない。計測データが一例のみで、再現性が確認できない、と」
ミーナは黙って聞いた。
「ルーカス博士は以前から、学会の主流派とは見解が異なっていたようで。今回の報告書も、提出前から批判的な意見があったと聞いています」
「そうですか」
「ミーナ様には、大変申し訳なく……」
「いいえ」
ミーナは首を振った。「あなたが謝ることではありません」
使いの人間が帰った後、ミーナは書斎の椅子に座った。
動かなかった。
しばらく、ただそこにいた。
◆
学会の否認が何を意味するか、ミーナにはわかった。
ルーカスの研究が認められなければ、古代魔法は「存在しない現象」として扱われる。ミーナの計測結果も、「特異な個人差」の範囲内とされる。
つまり、あの水晶球が琥珀色に光ったことは、世界にとって何でもないことになる。
ミーナがここ二週間かけて学んできたことも、感じてきたことも、研究院の廊下を歩いた朝の空気も——全部、記録に残らない。
指先の温かさは、今日もある。
でもそれは、ミーナだけが知っていることになった。
書斎の窓から、庭を見た。
雪は溶けていた。芽はまた、空の方を向いていた。折れなかった芽が、雪が溶けたらまた戻っていた。
それを見ても、今日は何も思えなかった。
ただ見ていた。
◆
その夜、レオナルドが来た。
父との最後の協議があると、事前に聞いていた。北方国境の取り決めがようやく最終段階に入り、今回で王都での話し合いは一区切りつくという。
客間に入ると、レオナルドはいつものように座っていた。紺の上着。飾り気のない銀のボタン。外套は椅子の背にかかっている。
ミーナがお茶を持っていくと、彼は顔を上げた。
何かに気づいたように、少し目を細めた。
「どうかしましたか」
「いいえ」
「顔色が」
「少し疲れているだけです」
レオナルドはそれ以上聞かなかった。
ミーナは向かいに座って、お茶を注いだ。
しばらく、二人とも黙っていた。いつもなら、その沈黙は居心地よかった。でも今日は、少し違う色をしていた。ミーナの中が空洞になっているせいで、沈黙が大きく響いた。
「ルーカス博士が倒れました」
気づいたら、口に出していた。
「聞きました」
「それから、学会から研究の否認が来て」
「それも」
レオナルドは静かに聞いていた。
「研究が中断することになって。博士が回復されるまで、計測も、文献の調査も」
「そうですか」
「全部が一度に止まった気がして」
ミーナは自分の手を見た。指先が、今日も温かかった。でもその温かさを証明するものが、今は何もなかった。
「研究が止まっても、あなたの魔力は変わらない」
レオナルドが言った。
「わかっています」
「でも、それだけではないのですね」
ミーナは少し黙った。
「……支えにしていたのだと思います。研究が続いていることを。博士がいることを。そこへ通うことを。それが、何かの証明のように感じていた部分があって」
「証明?」
「自分が確かにここにいるという、証明」
言葉にしてから、少し驚いた。
自分でも、それほどはっきりとは思っていなかった。でも言葉にしてみると、そうだった。研究院へ通う毎朝が、ミーナにとって単なる学習ではなく、自分の存在を確かめる儀式になっていた。
レオナルドはしばらく、何も言わなかった。
窓の外で風が吹いた。カーテンの端が、わずかに揺れた。
「辺境へ、明後日に戻ります」
レオナルドが言った。
ミーナは顔を上げた。
「公爵との協議が終わりますので。辺境の方でも、春になると処理しなければならないことが増えて」
「そうですか」
「急なことで、申し訳ない」
「いいえ。もとからそういうご予定だったのでしょう」
「ええ。ただ」
レオナルドは少し間を置いた。
「このまま帰るのは、少し気になります」
「なぜですか」
「あなたが今、あまり良い状態ではないから」
ミーナは少し笑った。笑いたかったわけではないが、その率直さに、自然に口元が動いた。
「大丈夫です。崩れるほどではないので」
「そうですか」
「崩れるほどではないけれど、少し、きついのは本当で」
「……ええ」
「全部が一度になくなるとは、思っていなかったので」
レオナルドは何も言わなかった。
でもその沈黙は、何かを聞いていた。ミーナが続きを言えるような、静かな空白だった。
「婚約が解消されて。魔力が覚醒して。研究院へ通えるようになって。博士に出会えて。そこへ通う毎日が、初めて、自分の時間のような気がしていたのに。それが止まって。同じ週に、フィル様を見て」
「フィル?」
「アルベルト様の新しい婚約者です。夜会で」
「……それは、きつかった」
「ええ」
ミーナは窓の外を見た。
「十八歳でした。きれいな方で、悪い方じゃなくて。ただ、そこに立っているだけで、全部を持っている感じがして。私が十二年かけて築いてきたものと、彼女が持っている若さと、どちらが重いのか、もう答えを出す気力もなくて」
言い終えてから、少し黙った。
「言い過ぎました」
「いいえ」
「愚痴です」
「聞きます」
その一言が、思ったより深く落ちた。
聞きます、と言った。それだけだった。でも、聞きます、と言ってくれる人がここにいる、ということが、今夜のミーナには重かった。
目頭が、少し熱くなった。
泣かなかった。泣きたかったが、泣かなかった。
◆
レオナルドが帰ったのは、夜が深くなってからだった。
帰り際、廊下で、彼は少し立ち止まった。
「手紙を、送ってもいいですか」
「手紙?」
「辺境から。研究の件でも、そうでなくても。あなたが答えたい時に答えていただければ」
ミーナはしばらく、その言葉を受け取った。
「……はい」
「それから」
「はい」
「ルーカス博士は、回復されると思います。あの人はそういう人なので」
根拠のない言葉だった。でも、根拠のなさが嘘ではなかった。レオナルドが言う時、それはただの慰めではなく、その人を信じているという声だった。
「そうですね」とミーナは言った。「私もそう思います」
レオナルドは頷いて、外へ出た。
扉が閉まった。
廊下に、ミーナ一人が残った。
◆
その夜は、眠れなかった。
布団の中で、天井を見ていた。
ランプは消してある。部屋は暗かった。窓の外に月があるらしく、カーテンの端から細い光が入ってきていた。
思うことが多すぎて、どれから考えればいいかわからなかった。
ルーカスのこと。
学会の否認のこと。
フィルのこと。
アルベルトが誇らしそうにしていた、あの表情のこと。
レオナルドが明後日、辺境に戻ること。
手紙を送る、と言っていたこと。
答えたい時に答えればいい、と言っていたこと。
その「答えたい時に」という部分が、少し温かくて、少し怖かった。
答えたい時に、と言われると、答えたいかどうか、自分で決めなければならない。
誰かが決めてくれるわけではない。
答えたいのかどうか、自分でわかっているかどうか、まだわからなかった。
わかっているかもしれない。
でも今夜それを認めることは、何かを始めることで、何かを始めることは、また傷つく可能性を持つことで——
ミーナは布団を顔まで引き上げた。
子どものような仕草だ、と思った。三十歳を過ぎた令嬢が、布団を顔まで引き上げている。
でも、今夜くらいはこれでいい、とも思った。
全部が止まった夜だ。
研究も。博士も。レオナルドも、明後日には遠くなる。
それでも朝は来る。それだけはわかっていた。
朝が来れば、また考える。
今夜は、布団の中にいる。
それで、いい。
ミーナは目を閉じた。
眠れなかった。
でも、目を閉じていた。
それが今夜の、せいいっぱいだった。
◆
三日後、レオナルドが辺境へ発った。
ミーナは見送りに出なかった。
父が見送りに行った。母も。ミーナは書斎にいた。
本を開いていたが、一行も読めなかった。
文字が目に入るのに、意味になって降りてこなかった。
レオナルドが、今頃馬車に乗っているだろう。王都の石畳を、北へ向かって。
手紙を送る、と言っていた。
自分は、返事を書くだろうか。
書きたい、という気持ちが、どこかにある。でもその気持ちを確かめることが、今はまだ怖かった。
怖い理由を、ミーナはわかっていた。
また、待つことになるかもしれないから。
また、誰かの時間に合わせて、誰かの予定で、自分の時間が形作られるようになるかもしれないから。
十二年間、そうしてきた。
もう一度、そうなることへの恐れが、返事を書く手を止めていた。
でも。
レオナルドは「答えたい時に答えればいい」と言った。
答えたくない時は、答えなくていいと言った。
それは、十二年間の婚約とは、違う言葉だった。
ミーナは窓の外を見た。
馬車が去った方向に、空がある。春の曇り空が、低く垂れていた。でも、雲の切れ間から、光が一本だけ差していた。細くて、でもはっきりとした光だった。
あの光の下を、今、馬車が走っているかもしれない。
あるいは、もう遠くなっているかもしれない。
ミーナはそのことを考えながら、また本に目を落とした。
今日は、一行も読めないままでいいと思った。
それでいい一日が、たまにある。
今日は、そういう日だった。
◆
夜、ミーナは引き出しから便箋を取り出した。
いつもの便箋ではなかった。新しい、白い紙だった。
ペンを持って、少しの間、紙を見た。
何を書くのか、まだ決まっていなかった。でも、書きたいという気持ちだけがあった。
その気持ちに従って、ペンを動かした。
カーゼル辺境伯様
本日、王都を発たれた頃でしょうか。
返事を書くのが遅くなるかもしれないと、先に伝えておきたくて、今夜筆をとりました。
返事を書けない日もあると思います。でも、手紙が届けば、読みます。
それだけ、伝えておきたかったんです。
書いてから、少し眺めた。
これで十分かどうか、わからなかった。でも、今の自分に書けるのはこれだけだった。
もう少し書きたいことがある、という気もした。
でも、それはまた今度でいい、と思った。
今夜は、これだけ書けた。それで十分だ。
ミーナは便箋を折った。
封筒に入れた。
宛名を書いた。カーゼル辺境伯レオナルド様、と。
明日、使いに頼もう。
それだけ決めてから、ランプを落とした。
暗くなった部屋で、窓の外を見た。
雲が切れて、星が少し見えていた。
北の方の空に、いくつか光るものがある。
辺境まで届くかどうか、わからない。でも、今夜同じ空の下に、レオナルドもいるはずだった。
ミーナは布団に入った。
今夜は、昨夜より少しだけ早く、目を閉じることができた。
全部が止まった夜の続きで、でもほんの少しだけ、動き始めた何かがある。
それだけを感じながら、ミーナは眠りに落ちた。




