表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】「若い令嬢」を選んで、婚約者を捨てた代償  作者: 風谷 華


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/12

第6話 また値段をつけられる

 春の気配は、音よりも先に色で来る。


 窓の外、ヴェルダン家の庭を見ていると、枯れ枝の先がほんの少しだけ柔らかくなっているのがわかった。緑、というにはまだ早い。でも茶色でも、灰色でもない。何かが来ようとしている、その手前の色だった。名前のない色だった。


 ミーナは書斎の窓辺に座って、その枝を見ていた。


 手元には、ルーカスから借りた古い文献がある。古代魔法に関する記録で、筆写が何度も重ねられた写本だ。インクの濃さが箇所によってまちまちで、何人もの手を経てきたことがわかる。


 指先が、温かかった。


 この二週間で、それがいつもの感覚になっていた。研究院への通所を始めてから、魔力は少しずつ、でも確実に変化していた。ルーカスが「熾火おきびに近い」と言った言葉を、ミーナは最近、体で理解し始めている。燃えているとは思えないのに、内側がずっと温かい。消えないものが、そこにある。


 婚約破棄から、一月が経っていた。





 縁談の最初の一通が届いたのは、ある霜の朝だった。


 封筒の上に差出人の名がある。ミーナは見知らぬ家名を確かめて、母のエリザに持っていった。


「ローゼンベルク侯爵家からよ」


 エリザは封を開けながら、声が明るかった。「由緒のある家柄だわ。先代の侯爵様は王宮の要職に」


「何と書いてありますか」


「縁談のご打診で……魔力の噂をお聞きして、と」


 ミーナは少し黙った。


 魔力の噂。


 計測の日から、二週間しか経っていない。なのに、もう届いている。


 社交界に情報が流れる速さは、いつも冬の川を渡る風に似ていると、ミーナは思う。見えないのに、確実にそこを通り抜けていく。


「嬉しくないの?」


 エリザが不思議そうに見た。


「嬉しい、というか」


 ミーナは言葉を選んだ。「少し、驚いています。研究院での計測が、もう知られているとは思わなかったので」


「驚くことはないわ。王立研究院と関わりのある家は多いもの。そういう情報は、すぐに」


「そうですね」


 ミーナは封書を母に戻した。


 二週間前まで、ミーナのことを話題にする声は「枯れ花の令嬢」という文脈の中にあった。それが今は、違う。


 値札が、貼り替えられた。


 ただそれだけのことだ、とミーナは思った。


 自分は何も変わっていないのに。





 その週のうちに、さらに二通届いた。


 翌週には五通になった。


 文机の上に積まれる封書の束を、ミーナは毎朝見た。白い封筒が光を反射して、眺めていると目の奥が痛くなるような気がした。


 母はそのたびに嬉しそうに封を開け、内容を確かめ、「この家は」「この方は」と説明してくれた。その声に含まれているのは、娘への愛情だ。ミーナはそれを知っている。エリザは良い母だった。言われた通りに育ててきたことを後悔していると、先日打ち明けてくれた人だ。だから今、娘に良い選択肢が増えることを、本当に喜んでいる。


 でも、ミーナの胸の中では、何かが静かに引っかかっていた。


(一月前と、何が違うのだろう)


 婚約破棄された夜、アルベルトは言った。「三十歳の女性に価値はない」と。


 今、縁談を寄越してくる家々は言っている。「古代魔力を持つ女性に価値がある」と。


 言葉は逆になった。


 でも構造は同じだ。


 ミーナという人間ではなく、ミーナの持つ何かを見ている。あの夜は価値がないとされたもので、今は価値があるとされているだけで、見られているものは変わっていない。


 書斎の窓から、庭の枝を見た。


 芽は、まだ名前のない色をしていた。





 あの夜会のことは、誰も話題にしないようにしていた。


 でも、ミーナは知っていた。


 婚約破棄からひと月も経たないうちに、アルベルトの新しい婚約者が発表されたことを。


 名前は、フィル・オルトン子爵令嬢。


 年齢は、十八歳。


 噂は丁寧に届いた。「金の巻き毛の、薔薇色の頬をした令嬢だそうよ」「舞踏会ではいつも男性に囲まれているとか」「アルベルト様が選ばれるのもわかるわ、あの可愛らしさでは」。


 ミーナはそれらを、表情を変えずに聞いた。


 十八歳。


 その数字が、胸の中でしばらく転がった。硬くて、角のある数字だった。


 十二年を待った。


 三十歳になるまで待った。


 そして彼が選んだのは、十八歳の女性だった。


 それは、つまり、そういうことだ。


 ミーナは引き出しの中にしまった便箋のことを思った。


『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』


 その文字が、今は少し違う意味に見えた。


 わからないのは、価値のことだけではない。


 十二年間、何だったのか、ということも、わからなかった。





 その週の夜会に、ミーナは出席した。


 行かなければよかった、と思ったのは、会場に入ってすぐのことだった。


 入口近くで、目が合った。


 アルベルトが立っていた。


 いつもの黒い礼服。金の勲章。でもその隣に、見たことのない人が立っていた。


 金の巻き毛。薔薇色の頬。花のような笑顔。


 男性たちが、その周りに集まっていた。蜜に集まる蝶のように。


 十二年前、そこに立っていたのは自分だった。


 アルベルトは誇らしそうにしていた。その表情は、ミーナが見たことのないものだった。十二年の間に、ああいう顔をされたことはなかった。


 ミーナは視線を外した。


 歩いた。


 会場の端まで、背筋を伸ばして歩いた。


 白磁のカップを受け取って、茶を飲んだ。


 味はしなかった。



 「ミーナ様、お久しぶりですわ」


 声をかけてきたのは、フィルだった。


 天真爛漫な笑顔だった。悪意は何もない。ただ、若くて美しくて、自分が愛されていることが疑いなく自明だという顔だった。ミーナはかつて、ああいう顔をしていたのかもしれない。


「お久しぶりです、オルトン令嬢」


「フィルと呼んでくださいな。私たち、仲良くしましょうね」


 ミーナは微笑んだ。


 努力して作った微笑みだった。


「おめでとうございます、フィル様」


 そう言ったのが精一杯だった。


 フィルは喜んで「ありがとうございます」と言い、また別の人のところへ飛んでいった。花が風に運ばれるように、軽やかに。


 アルベルトが近づいてきた。


「お変わりないですか、ミーナ」


「ええ、おかげさまで」


 そこで会話は終わった。


 それ以上、何も言うことがなかった。


 でも彼の目が、ミーナを追っていた。


 何かを言いたそうな、しかし言えない目で。諦めているような、後悔しているような、複雑な目で。


 ミーナはそれを無視した。


 関係のないことだ、と思った。


 思おうとした。





 帰りの馬車の中で、ミーナは一人だった。


 革張りの座席に背を預けて、窓の外を見た。夜の王都が流れていく。石畳、ランプの光、行き交う人影。全部を見ているようで、何も見ていなかった。


 十八歳。


 もう一度、その数字が来た。


 自分が十八歳の時、アルベルトは何歳だったか。二十二歳だ。四つ上で、優しくて、いつも面白い本を探してくれた。


 あの時のアルベルトが好きだったものは、本当はミーナではなく、十八歳のミーナだったのかもしれない。


 そしてミーナが三十歳になったとき、彼は十八歳の別の誰かを選んだ。


 それはつまり、そういうことだ。


 馬車が段差を越えた。体が揺れた。


 ミーナは手の平を見た。夜の馬車の中で、指先がほんのりと温かかった。火の気もないのに、手のひらが温かかった。


 これは自分の力だ。


 でも、今夜この温かさは、慰めにならなかった。


(力があっても)


 ミーナは思った。


(十二年は、返ってこない)


 それは怒りではなかった。


 ただ、重たい、認識だった。





 翌朝、孤児院へ行った。


 ルカが駆けてきた。茶色い巻き毛、少し大きすぎる上着。走りながら「ミーナ様!」と声を上げた。


「走らないと言ってるでしょう」


「でも来てくれたから」


 ルカはミーナの手を両手で掴んだ。小さくて、温かい手だった。


「顔、昨日と違う」


「昨日は来ていないでしょう」


「でも違う顔してる。悲しい顔」


 七歳の子どもの観察眼は、鋭い。


「少し、疲れただけです」


「ここにいたら、元気になるよ。僕がいるから」


 真面目な顔で言った。


 ミーナはその言葉を、胸の中でゆっくりと受け取った。


 この子は、ミーナの年齢を見ていない。魔力も見ていない。縁談が増えたことも、アルベルトが十八歳の令嬢を選んだことも、何も知らない。


 ただ、ミーナ様が来た、と、それだけの理由で走ってくる。


 今日は字の練習の日だった。ルカが最近覚えた文字を、一生懸命紙の上に書いていく。形が歪んでいる。でも力強かった。


「うまくなりましたね」


「毎日練習してるから。ミーナ様が来ない日も、一人でやってる。来た時に見せたくて」


 その言葉が、胸に残った。


 見てもらいたいから、続ける。それは、縁談のためでも、評価のためでもない。ただ、好きな人に見せたいから続ける、というとても単純な理由だった。


(私はずっと、何のために続けていたのだろう)


 孤児院を出る頃には、空が夕方の色になっていた。昨日より少しだけ長く、光が残っていた。春が近づいている。





 翌週、茶会があった。


 ルウェラン侯爵夫人の主催で、十二人ほどの令嬢と夫人が集まる会だ。ミーナは招待を受けていたので出席した。


 白磁のカップから、茶の香りが立ち上る。薔薇の飾りが花瓶に刺されていて、まだ蕾の、固い薔薇だった。


「ミーナ様、今日はお顔色がよろしいですね」


 隣に座った子爵夫人が言った。扇を口元に寄せて、声を少し落として。


「ありがとうございます」


「古代魔力のご計測の件、もう皆さんご存じですよ。大変な話題で」


「そうですか」


「縁談もずいぶんいらっしゃるとか。ガルシア様との件があった後で、本当によかったですわ」


 ミーナは微笑んだ。


 ガルシア様との件。


 その言葉が、空気をどんな色に染めているか、ミーナにはわかった。同情と、好奇と、それから——どこかで聞き耳を立てている誰かへの声の色。


 会場の向こうで、また別の話し声がした。


「ヴェルダン令嬢は、ガルシア様の新しいご婚約者とも話されたそうよ」


「あら、それは……つらかったでしょうに」


「でも、見事にお顔を保っていらしたそうで。さすがですわね」


「魔力があればこそ、ですよ。力があると、強くなれるものね」


 ミーナは窓の外を見た。


 曇り空の下、石畳が光を吸って、鈍く光っている。人々が行き交い、馬車が通り、街は動いている。


 魔力があれば強くなれる。


 その言葉の構造を、ミーナはまた感じた。


 婚約破棄の夜も、今日も、見られているのは同じ場所だ。ミーナという人間ではなく、ミーナに付随する何か。あの夜はそれが「ない」と言われ、今日は「ある」と言われている。


 秤の形は変わっていない。


 ただ、載せるものが変わっただけだ。





 茶会の帰り、馬車の中でミーナはまた一人になった。


 今日だけで、三件の縁談の打診があった。


 断れる。そのことはわかっている。


 でも問題は、断ることの疲弊ではなかった。


 値踏みされることの疲弊だった。


 婚約破棄の夜、ミーナは初めて、自分に値段がついていたことを知った。


 それから一月。


 新しい値段がついた。


 でも、秤の上にいることは、変わっていない。


 フィルのことが、また頭に来た。


 十八歳の、花のような笑顔。アルベルトが誇らしそうに隣に立っていた、その場面。


 あの十八歳のフィルにも、いつか三十歳が来る。


 その時、アルベルトはどこにいるのだろう。


 馬車が止まった。屋敷の前だった。


 ミーナは深く息を吸ってから、扉を開けた。


 冷たい夕風が頬を撫でた。光の色が、また少し変わった。





 屋敷に戻ってから、書斎に入った。


 文机の上に、文献が広げてある。羊皮紙が、ランプの光を受けて橙色に滲んでいた。文字の一つひとつが、何百年も前の誰かの筆跡で、乾いた土の匂いがした。


 ミーナはそこに座って、ペンを取った。


 でもペンは、すぐには動かなかった。


 窓の外に目をやる。中庭の枝に、今日もあの芽がついている。名前のない色をした、小さな芽。昨日より、ほんのわずか、膨らんでいるような気がした。


(あの芽は、誰かに見てもらえなくても芽吹く)


 そう思った。


 春が来たから。光が届いたから。ただそれだけの理由で、黙って変わっていく。


 でも。


 ミーナは目を閉じた。


 フィルの笑顔が、まだどこかに残っていた。天真爛漫で、悪意のない、まぶしい笑顔。彼女は何も悪くない。ただ若い。ただそれだけで、アルベルトに選ばれた。


 怒りでも嫉妬でも悲しみでもなかった。


 ただ、冷たい確認だった。


 自分がどんなに続けてきても、何を積み重ねても、その構造の外側では、年齢という一点だけで判断されることがある。


 それが世界の、一部の現実だ。


 変えられない部分がある。


 ミーナは目を開けた。


 変えられる部分と、変えられない部分がある。


 変えられないものの前で怒り続けることも、変えられるものを見なくなることも、どちらも違う気がした。


 ミーナは文献のページをめくった。


 古代魔法の記録は、ほとんどが辺境の出身者に関するものだった。ルーカスが四十年かけて集めた証言と記録。どれも、人に言わずに力を持ち続けた人たちの話だった。言わなかったのは、言う必要がなかったからだろう。評価を求めていなかったから。ただ、自分の中にあるものと共に生きていたから。


 その人たちのことを思うと、今夜のざわざわが少し遠くなる。


 手元のランプがわずかに揺れた。風ではない。窓は閉まっている。


 それでも炎は揺れた。


 まるで、何かに呼応するように。


 指先が、温かかった。





 その夜遅く、ミーナは引き出しから一枚の便箋を取り出した。


 婚約破棄から数日後に書いた紙だ。


『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』


 それに、続きを書いた。先週書き足したものがある。


『明日、魔法研究院へ行ってみる。なぜなら、行ってみたいから』


 その下に、今夜、もう一行を加えた。


『また値段をつけられた。アルベルト様は十八歳を選んだ。それは変えられない。でも、秤から降りる方法を、私はこれから探す』


 書いてから、少しの間、その文字を見た。


 秤から降りる。


 それは今夜、思いついた言葉だった。でも、ずっと探していたものかもしれない、と思った。


 婚約破棄の夜から、ミーナは秤の上にいることを知った。その上で値が上がることを、解放だと思いかけていた。でも値が上がっても、秤の上にいることは変わらない。


 秤の上にいる限り、また値段がつく。また動く。


 降りなければ、何も変わらない。


 どうすれば降りられるのかは、まだわからなかった。


 でも、探す方向がわかった気がした。


 ミーナは便箋を折って、引き出しにしまった。


 ランプを落とした。


 暗くなった部屋で、しばらく目を閉じた。


 窓の外で、風が吹いている。あの芽が、冷たい夜気の中でじっとしているかもしれない。


 それでも、春が来れば咲く。


 誰かの秤の上でなく、ただ春が来たという理由だけで。


 ミーナは布団に入った。


 今夜は、眠れる気がした。


 昨夜より少しだけ、深く。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ