第6話 また値段をつけられる
春の気配は、音よりも先に色で来る。
窓の外、ヴェルダン家の庭を見ていると、枯れ枝の先がほんの少しだけ柔らかくなっているのがわかった。緑、というにはまだ早い。でも茶色でも、灰色でもない。何かが来ようとしている、その手前の色だった。名前のない色だった。
ミーナは書斎の窓辺に座って、その枝を見ていた。
手元には、ルーカスから借りた古い文献がある。古代魔法に関する記録で、筆写が何度も重ねられた写本だ。インクの濃さが箇所によってまちまちで、何人もの手を経てきたことがわかる。
指先が、温かかった。
この二週間で、それがいつもの感覚になっていた。研究院への通所を始めてから、魔力は少しずつ、でも確実に変化していた。ルーカスが「熾火に近い」と言った言葉を、ミーナは最近、体で理解し始めている。燃えているとは思えないのに、内側がずっと温かい。消えないものが、そこにある。
婚約破棄から、一月が経っていた。
◆
縁談の最初の一通が届いたのは、ある霜の朝だった。
封筒の上に差出人の名がある。ミーナは見知らぬ家名を確かめて、母のエリザに持っていった。
「ローゼンベルク侯爵家からよ」
エリザは封を開けながら、声が明るかった。「由緒のある家柄だわ。先代の侯爵様は王宮の要職に」
「何と書いてありますか」
「縁談のご打診で……魔力の噂をお聞きして、と」
ミーナは少し黙った。
魔力の噂。
計測の日から、二週間しか経っていない。なのに、もう届いている。
社交界に情報が流れる速さは、いつも冬の川を渡る風に似ていると、ミーナは思う。見えないのに、確実にそこを通り抜けていく。
「嬉しくないの?」
エリザが不思議そうに見た。
「嬉しい、というか」
ミーナは言葉を選んだ。「少し、驚いています。研究院での計測が、もう知られているとは思わなかったので」
「驚くことはないわ。王立研究院と関わりのある家は多いもの。そういう情報は、すぐに」
「そうですね」
ミーナは封書を母に戻した。
二週間前まで、ミーナのことを話題にする声は「枯れ花の令嬢」という文脈の中にあった。それが今は、違う。
値札が、貼り替えられた。
ただそれだけのことだ、とミーナは思った。
自分は何も変わっていないのに。
◆
その週のうちに、さらに二通届いた。
翌週には五通になった。
文机の上に積まれる封書の束を、ミーナは毎朝見た。白い封筒が光を反射して、眺めていると目の奥が痛くなるような気がした。
母はそのたびに嬉しそうに封を開け、内容を確かめ、「この家は」「この方は」と説明してくれた。その声に含まれているのは、娘への愛情だ。ミーナはそれを知っている。エリザは良い母だった。言われた通りに育ててきたことを後悔していると、先日打ち明けてくれた人だ。だから今、娘に良い選択肢が増えることを、本当に喜んでいる。
でも、ミーナの胸の中では、何かが静かに引っかかっていた。
(一月前と、何が違うのだろう)
婚約破棄された夜、アルベルトは言った。「三十歳の女性に価値はない」と。
今、縁談を寄越してくる家々は言っている。「古代魔力を持つ女性に価値がある」と。
言葉は逆になった。
でも構造は同じだ。
ミーナという人間ではなく、ミーナの持つ何かを見ている。あの夜は価値がないとされたもので、今は価値があるとされているだけで、見られているものは変わっていない。
書斎の窓から、庭の枝を見た。
芽は、まだ名前のない色をしていた。
◆
あの夜会のことは、誰も話題にしないようにしていた。
でも、ミーナは知っていた。
婚約破棄からひと月も経たないうちに、アルベルトの新しい婚約者が発表されたことを。
名前は、フィル・オルトン子爵令嬢。
年齢は、十八歳。
噂は丁寧に届いた。「金の巻き毛の、薔薇色の頬をした令嬢だそうよ」「舞踏会ではいつも男性に囲まれているとか」「アルベルト様が選ばれるのもわかるわ、あの可愛らしさでは」。
ミーナはそれらを、表情を変えずに聞いた。
十八歳。
その数字が、胸の中でしばらく転がった。硬くて、角のある数字だった。
十二年を待った。
三十歳になるまで待った。
そして彼が選んだのは、十八歳の女性だった。
それは、つまり、そういうことだ。
ミーナは引き出しの中にしまった便箋のことを思った。
『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』
その文字が、今は少し違う意味に見えた。
わからないのは、価値のことだけではない。
十二年間、何だったのか、ということも、わからなかった。
◆
その週の夜会に、ミーナは出席した。
行かなければよかった、と思ったのは、会場に入ってすぐのことだった。
入口近くで、目が合った。
アルベルトが立っていた。
いつもの黒い礼服。金の勲章。でもその隣に、見たことのない人が立っていた。
金の巻き毛。薔薇色の頬。花のような笑顔。
男性たちが、その周りに集まっていた。蜜に集まる蝶のように。
十二年前、そこに立っていたのは自分だった。
アルベルトは誇らしそうにしていた。その表情は、ミーナが見たことのないものだった。十二年の間に、ああいう顔をされたことはなかった。
ミーナは視線を外した。
歩いた。
会場の端まで、背筋を伸ばして歩いた。
白磁のカップを受け取って、茶を飲んだ。
味はしなかった。
「ミーナ様、お久しぶりですわ」
声をかけてきたのは、フィルだった。
天真爛漫な笑顔だった。悪意は何もない。ただ、若くて美しくて、自分が愛されていることが疑いなく自明だという顔だった。ミーナはかつて、ああいう顔をしていたのかもしれない。
「お久しぶりです、オルトン令嬢」
「フィルと呼んでくださいな。私たち、仲良くしましょうね」
ミーナは微笑んだ。
努力して作った微笑みだった。
「おめでとうございます、フィル様」
そう言ったのが精一杯だった。
フィルは喜んで「ありがとうございます」と言い、また別の人のところへ飛んでいった。花が風に運ばれるように、軽やかに。
アルベルトが近づいてきた。
「お変わりないですか、ミーナ」
「ええ、おかげさまで」
そこで会話は終わった。
それ以上、何も言うことがなかった。
でも彼の目が、ミーナを追っていた。
何かを言いたそうな、しかし言えない目で。諦めているような、後悔しているような、複雑な目で。
ミーナはそれを無視した。
関係のないことだ、と思った。
思おうとした。
◆
帰りの馬車の中で、ミーナは一人だった。
革張りの座席に背を預けて、窓の外を見た。夜の王都が流れていく。石畳、ランプの光、行き交う人影。全部を見ているようで、何も見ていなかった。
十八歳。
もう一度、その数字が来た。
自分が十八歳の時、アルベルトは何歳だったか。二十二歳だ。四つ上で、優しくて、いつも面白い本を探してくれた。
あの時のアルベルトが好きだったものは、本当はミーナではなく、十八歳のミーナだったのかもしれない。
そしてミーナが三十歳になったとき、彼は十八歳の別の誰かを選んだ。
それはつまり、そういうことだ。
馬車が段差を越えた。体が揺れた。
ミーナは手の平を見た。夜の馬車の中で、指先がほんのりと温かかった。火の気もないのに、手のひらが温かかった。
これは自分の力だ。
でも、今夜この温かさは、慰めにならなかった。
(力があっても)
ミーナは思った。
(十二年は、返ってこない)
それは怒りではなかった。
ただ、重たい、認識だった。
◆
翌朝、孤児院へ行った。
ルカが駆けてきた。茶色い巻き毛、少し大きすぎる上着。走りながら「ミーナ様!」と声を上げた。
「走らないと言ってるでしょう」
「でも来てくれたから」
ルカはミーナの手を両手で掴んだ。小さくて、温かい手だった。
「顔、昨日と違う」
「昨日は来ていないでしょう」
「でも違う顔してる。悲しい顔」
七歳の子どもの観察眼は、鋭い。
「少し、疲れただけです」
「ここにいたら、元気になるよ。僕がいるから」
真面目な顔で言った。
ミーナはその言葉を、胸の中でゆっくりと受け取った。
この子は、ミーナの年齢を見ていない。魔力も見ていない。縁談が増えたことも、アルベルトが十八歳の令嬢を選んだことも、何も知らない。
ただ、ミーナ様が来た、と、それだけの理由で走ってくる。
今日は字の練習の日だった。ルカが最近覚えた文字を、一生懸命紙の上に書いていく。形が歪んでいる。でも力強かった。
「うまくなりましたね」
「毎日練習してるから。ミーナ様が来ない日も、一人でやってる。来た時に見せたくて」
その言葉が、胸に残った。
見てもらいたいから、続ける。それは、縁談のためでも、評価のためでもない。ただ、好きな人に見せたいから続ける、というとても単純な理由だった。
(私はずっと、何のために続けていたのだろう)
孤児院を出る頃には、空が夕方の色になっていた。昨日より少しだけ長く、光が残っていた。春が近づいている。
◆
翌週、茶会があった。
ルウェラン侯爵夫人の主催で、十二人ほどの令嬢と夫人が集まる会だ。ミーナは招待を受けていたので出席した。
白磁のカップから、茶の香りが立ち上る。薔薇の飾りが花瓶に刺されていて、まだ蕾の、固い薔薇だった。
「ミーナ様、今日はお顔色がよろしいですね」
隣に座った子爵夫人が言った。扇を口元に寄せて、声を少し落として。
「ありがとうございます」
「古代魔力のご計測の件、もう皆さんご存じですよ。大変な話題で」
「そうですか」
「縁談もずいぶんいらっしゃるとか。ガルシア様との件があった後で、本当によかったですわ」
ミーナは微笑んだ。
ガルシア様との件。
その言葉が、空気をどんな色に染めているか、ミーナにはわかった。同情と、好奇と、それから——どこかで聞き耳を立てている誰かへの声の色。
会場の向こうで、また別の話し声がした。
「ヴェルダン令嬢は、ガルシア様の新しいご婚約者とも話されたそうよ」
「あら、それは……つらかったでしょうに」
「でも、見事にお顔を保っていらしたそうで。さすがですわね」
「魔力があればこそ、ですよ。力があると、強くなれるものね」
ミーナは窓の外を見た。
曇り空の下、石畳が光を吸って、鈍く光っている。人々が行き交い、馬車が通り、街は動いている。
魔力があれば強くなれる。
その言葉の構造を、ミーナはまた感じた。
婚約破棄の夜も、今日も、見られているのは同じ場所だ。ミーナという人間ではなく、ミーナに付随する何か。あの夜はそれが「ない」と言われ、今日は「ある」と言われている。
秤の形は変わっていない。
ただ、載せるものが変わっただけだ。
◆
茶会の帰り、馬車の中でミーナはまた一人になった。
今日だけで、三件の縁談の打診があった。
断れる。そのことはわかっている。
でも問題は、断ることの疲弊ではなかった。
値踏みされることの疲弊だった。
婚約破棄の夜、ミーナは初めて、自分に値段がついていたことを知った。
それから一月。
新しい値段がついた。
でも、秤の上にいることは、変わっていない。
フィルのことが、また頭に来た。
十八歳の、花のような笑顔。アルベルトが誇らしそうに隣に立っていた、その場面。
あの十八歳のフィルにも、いつか三十歳が来る。
その時、アルベルトはどこにいるのだろう。
馬車が止まった。屋敷の前だった。
ミーナは深く息を吸ってから、扉を開けた。
冷たい夕風が頬を撫でた。光の色が、また少し変わった。
◆
屋敷に戻ってから、書斎に入った。
文机の上に、文献が広げてある。羊皮紙が、ランプの光を受けて橙色に滲んでいた。文字の一つひとつが、何百年も前の誰かの筆跡で、乾いた土の匂いがした。
ミーナはそこに座って、ペンを取った。
でもペンは、すぐには動かなかった。
窓の外に目をやる。中庭の枝に、今日もあの芽がついている。名前のない色をした、小さな芽。昨日より、ほんのわずか、膨らんでいるような気がした。
(あの芽は、誰かに見てもらえなくても芽吹く)
そう思った。
春が来たから。光が届いたから。ただそれだけの理由で、黙って変わっていく。
でも。
ミーナは目を閉じた。
フィルの笑顔が、まだどこかに残っていた。天真爛漫で、悪意のない、まぶしい笑顔。彼女は何も悪くない。ただ若い。ただそれだけで、アルベルトに選ばれた。
怒りでも嫉妬でも悲しみでもなかった。
ただ、冷たい確認だった。
自分がどんなに続けてきても、何を積み重ねても、その構造の外側では、年齢という一点だけで判断されることがある。
それが世界の、一部の現実だ。
変えられない部分がある。
ミーナは目を開けた。
変えられる部分と、変えられない部分がある。
変えられないものの前で怒り続けることも、変えられるものを見なくなることも、どちらも違う気がした。
ミーナは文献のページをめくった。
古代魔法の記録は、ほとんどが辺境の出身者に関するものだった。ルーカスが四十年かけて集めた証言と記録。どれも、人に言わずに力を持ち続けた人たちの話だった。言わなかったのは、言う必要がなかったからだろう。評価を求めていなかったから。ただ、自分の中にあるものと共に生きていたから。
その人たちのことを思うと、今夜のざわざわが少し遠くなる。
手元のランプがわずかに揺れた。風ではない。窓は閉まっている。
それでも炎は揺れた。
まるで、何かに呼応するように。
指先が、温かかった。
◆
その夜遅く、ミーナは引き出しから一枚の便箋を取り出した。
婚約破棄から数日後に書いた紙だ。
『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』
それに、続きを書いた。先週書き足したものがある。
『明日、魔法研究院へ行ってみる。なぜなら、行ってみたいから』
その下に、今夜、もう一行を加えた。
『また値段をつけられた。アルベルト様は十八歳を選んだ。それは変えられない。でも、秤から降りる方法を、私はこれから探す』
書いてから、少しの間、その文字を見た。
秤から降りる。
それは今夜、思いついた言葉だった。でも、ずっと探していたものかもしれない、と思った。
婚約破棄の夜から、ミーナは秤の上にいることを知った。その上で値が上がることを、解放だと思いかけていた。でも値が上がっても、秤の上にいることは変わらない。
秤の上にいる限り、また値段がつく。また動く。
降りなければ、何も変わらない。
どうすれば降りられるのかは、まだわからなかった。
でも、探す方向がわかった気がした。
ミーナは便箋を折って、引き出しにしまった。
ランプを落とした。
暗くなった部屋で、しばらく目を閉じた。
窓の外で、風が吹いている。あの芽が、冷たい夜気の中でじっとしているかもしれない。
それでも、春が来れば咲く。
誰かの秤の上でなく、ただ春が来たという理由だけで。
ミーナは布団に入った。
今夜は、眠れる気がした。
昨夜より少しだけ、深く。




