第4話 辺境から来た男
レオナルド・カーゼル辺境伯は、その後も何度かヴェルダン家を訪れた。
理由は、戦後処理に関する父との協議だった。北方の国境線の引き直し、辺境の民との取り決め、駐留兵の配置。終わった戦争の後始末は、始まりよりも時間がかかると、父はよく言っていた。それがどうやら本当らしく、協議は一度では終わらなかった。
レオナルドが来る日は、決まってミーナも客間にいた。
最初は偶然だった。次からは、少し意図的だった。
理由を問われれば、答えに困る。ただ、この人と話すのは面白い、と思っていた。社交界の会話ではなかった。礼儀の薄皮を一枚剥いだ下にある、本音に近い言葉のやりとりだった。
◆
四度目の訪問の日、ミーナは書斎から魔法論概論を持ち出して客間に入った。
レオナルドはすでに座っていた。今日も飾り気のない紺の上着。外套は椅子の背にかかっている。手元には何もなく、ただ窓の外を見ていた。
「また来てしまいました」
「どうぞ」
短い返答だったが、不愛想には聞こえなかった。歓迎、という意味だとミーナは受け取った。
お茶を用意して、向かいに座った。本を膝に置くと、レオナルドが視線を向けた。
「それは?」
「魔法論概論です。古い本なのですが。少し気になることがあって、読み返していました」
「魔法論」
「辺境伯は、魔法はお使いになりますか」
「基礎程度は。戦場で役に立つ程度の」
「そうですか」
ミーナは本を開いた。古代魔法の章だ。付箋代わりに挟んだ細い紙が、ページから飛び出している。
「ここに書いてあるのですが」とミーナは言った。「三十歳前後の女性に、特異な魔力の変容が見られる事例があると。古代魔法の発現、と呼ばれているようで」
「それが?」
「最近、指先が妙に温かいのです。魔法を使っているわけでもないのに」
言ってしまってから、少し照れた。
なんだか変なことを言っている気がした。婚約破棄されたばかりの三十歳の令嬢が、指先が温かいなどと。
でもレオナルドは笑わなかった。
「いつ頃から?」
「二週間ほど前から。ただ、はっきりとわかるようになったのは、ここ数日です」
「どんな感覚ですか」
「内側から温められているような。炉の前にいるわけではないのに、指の芯が温かい。それから、何かが……そこにいるような」
うまく言えなくて、ミーナは言葉を切った。
「何かが、とは」
「呼べば応えてくれそうな、でも呼び方がわからない、そういう感じです。上手く説明できないのですが」
レオナルドはしばらく黙っていた。
考えている顔だった。眉が少しだけ寄っていた。
「北方の民に、一人の老人がいます」
唐突に言ったので、ミーナは少し首を傾けた。
「三十を過ぎてから、魔力が変わったと言っていた老人が。若い頃は平凡な魔力しか持たなかったのに、三十五歳の頃から突然、土の中の水脈が見えるようになったと」
「水脈が?」
「どこを掘れば水が出るか、わかるようになった。最初は自分でも信じられなかったそうですが、試してみたら当たった。それから村の人間が頼るようになって、今では辺境でも知られた人になっています」
ミーナは少し前のめりになった。
「それは、魔法ですか?」
「本人は魔法とは思っていないようです。ただ、わかる、と言っていました。でも私には、何らかの力が働いていると思えた」
「文献には残っていないでしょうね、そういう話は」
「残らないでしょう。王都の学者が調べに来るような場所でもないし、本人も特に広めようとしていないので」
「でも、あなたはそれを聞いた」
「たまたま話してくれた。焚き火の傍で、夜に」
焚き火の傍で、夜に。
ミーナはその情景を思い浮かべた。北の夜、星が多い空の下、老人と若い将軍が火を囲んで話している。文字にならない知識が、口から口へ伝わっていく。
「あなたは、そういう話を聞くのが好きなのですね」
ミーナが言うと、レオナルドは少し間を置いた。
「……そうかもしれません」
「意外です」
「何が?」
「英雄と呼ばれる方が、老人の焚き火話を大切にしているとは思わなかったので」
レオナルドは少し目を細めた。
「英雄というのは、他人がつける言葉です」
「では、あなた自身は?」
「ただの人間です。戦場で生き残っただけの」
軽く言ったが、軽くない言葉だと、ミーナには聞こえた。
◆
話が一段落した頃、レオナルドが言った。
「魔力計測を、してみましたか」
「いいえ、まだ」
「してみることをお勧めします」
「なぜですか?」
「あなたが話す感覚は、気のせいではないかもしれないから」
ミーナは少し考えた。
「でも、三十歳で計測を受けに行くのは、少し恥ずかしい気がして」
「なぜ恥ずかしいのですか」
真顔で聞かれて、ミーナは少し詰まった。
「……計測は、十五歳から二十歳の間に行うものですから。今更という感じが」
「あなたが今更と感じることは、他人も今更と感じるとは限らない」
正論だった。あまりにも正論すぎて、ミーナはまた少し可笑しくなった。
「それはそうですね」
「それに」
レオナルドは続けた。
「今更と思うのは、誰かが決めた正しい順序に従っているからだと思います。でも、その順序が全ての人に当てはまるとは限らない」
ミーナはその言葉を、少し時間をかけて受け取った。
誰かが決めた正しい順序。
十五歳でデビュー。十七歳から縁談。二十歳頃に婚約。二十代で結婚。
その順序の外側に出てしまった自分を、ミーナはずっと「遅れている」と思っていた。でも、遅れているのではなく、ただ、違う道を歩いているだけかもしれない。
「……行ってみます」
「それがいいと思います」
レオナルドは短く言って、お茶を飲んだ。
その横顔は、特に何かを期待しているふうでも、押しつけているふうでもなかった。ただ、そう思うから言った、という顔だった。
ミーナは窓の外を見た。
庭の白い薔薇が、今日は風に揺れていた。
花びらが一枚、ふわりと落ちた。地面に落ちてから、また風に運ばれて、少し先へ転がっていった。
(落ちても、終わりではないのかもしれない)
なんとなく、そう思った。
◆
父が戻ってきて、二人の協議が始まった。
ミーナは客間を出た。廊下を歩きながら、今日の会話を頭の中で繰り返した。
英雄というのは他人がつける言葉です。
誰かが決めた正しい順序に従っているからだと思います。
この人は、社交界の言葉を使わない。褒め言葉も、遠回しな同情も、気遣いのふりをした詮索も。ただ、思ったことを言う。それだけだった。
最初は無愛想だと思った。でも今は、正直な人だと思っていた。
書斎に戻って、ミーナは机の引き出しを開けた。
三日前に書いた便箋が入っていた。
『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』
読み返して、ミーナはペンを取った。
同じ便箋の続きに、一行を付け足した。
『明日、魔法研究院へ行ってみる。なぜなら、行ってみたいから』
書いてから、少し笑った。
なぜなら、行ってみたいから。
ずいぶん単純な理由だった。でも今のミーナには、それで十分な気がした。
誰かに言われたからではなく、正しい順序だからではなく、ただ、自分が行ってみたいから。
その小さな違いが、今日は少しだけ大事に思えた。
◆
夜、眠る前に、ミーナは窓を少し開けた。
秋の夜気が入ってきた。冷たくて、でも刺さるほどではない、ちょうどいい冷たさだった。
空には星が出ていた。
王都の夜は明るいので、星はそれほどよく見えない。でも今夜は、いくつかはっきりと光っているものがあった。
(北方では、もっとよく見えるのだろうか)
焚き火の傍の老人と将軍の話を、またふと思った。
文字にならない知識。積み重なった経験。時間をかけて変わっていくもの。
それが、価値ではないとは言えない。
むしろ、それこそが価値かもしれない。
ミーナは窓を閉めた。
今夜は、布団に入ってすぐに眠れる気がした。
明日、研究院へ行く。
それだけで、今夜は十分だった。




