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【連載版】「若い令嬢」を選んで、婚約者を捨てた代償  作者: 風谷 華


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第4話 辺境から来た男

 レオナルド・カーゼル辺境伯は、その後も何度かヴェルダン家を訪れた。


 理由は、戦後処理に関する父との協議だった。北方の国境線の引き直し、辺境の民との取り決め、駐留兵の配置。終わった戦争の後始末は、始まりよりも時間がかかると、父はよく言っていた。それがどうやら本当らしく、協議は一度では終わらなかった。


 レオナルドが来る日は、決まってミーナも客間にいた。


 最初は偶然だった。次からは、少し意図的だった。


 理由を問われれば、答えに困る。ただ、この人と話すのは面白い、と思っていた。社交界の会話ではなかった。礼儀の薄皮を一枚剥いだ下にある、本音に近い言葉のやりとりだった。



 四度目の訪問の日、ミーナは書斎から魔法論概論を持ち出して客間に入った。


 レオナルドはすでに座っていた。今日も飾り気のない紺の上着。外套は椅子の背にかかっている。手元には何もなく、ただ窓の外を見ていた。


「また来てしまいました」


「どうぞ」


 短い返答だったが、不愛想には聞こえなかった。歓迎、という意味だとミーナは受け取った。


 お茶を用意して、向かいに座った。本を膝に置くと、レオナルドが視線を向けた。


「それは?」


「魔法論概論です。古い本なのですが。少し気になることがあって、読み返していました」


「魔法論」


「辺境伯は、魔法はお使いになりますか」


「基礎程度は。戦場で役に立つ程度の」


「そうですか」


 ミーナは本を開いた。古代魔法の章だ。付箋代わりに挟んだ細い紙が、ページから飛び出している。


「ここに書いてあるのですが」とミーナは言った。「三十歳前後の女性に、特異な魔力の変容が見られる事例があると。古代魔法の発現、と呼ばれているようで」


「それが?」


「最近、指先が妙に温かいのです。魔法を使っているわけでもないのに」


 言ってしまってから、少し照れた。


 なんだか変なことを言っている気がした。婚約破棄されたばかりの三十歳の令嬢が、指先が温かいなどと。


 でもレオナルドは笑わなかった。


「いつ頃から?」


「二週間ほど前から。ただ、はっきりとわかるようになったのは、ここ数日です」


「どんな感覚ですか」


「内側から温められているような。炉の前にいるわけではないのに、指の芯が温かい。それから、何かが……そこにいるような」


 うまく言えなくて、ミーナは言葉を切った。


「何かが、とは」


「呼べば応えてくれそうな、でも呼び方がわからない、そういう感じです。上手く説明できないのですが」


 レオナルドはしばらく黙っていた。


 考えている顔だった。眉が少しだけ寄っていた。


「北方の民に、一人の老人がいます」


 唐突に言ったので、ミーナは少し首を傾けた。


「三十を過ぎてから、魔力が変わったと言っていた老人が。若い頃は平凡な魔力しか持たなかったのに、三十五歳の頃から突然、土の中の水脈が見えるようになったと」


「水脈が?」


「どこを掘れば水が出るか、わかるようになった。最初は自分でも信じられなかったそうですが、試してみたら当たった。それから村の人間が頼るようになって、今では辺境でも知られた人になっています」


 ミーナは少し前のめりになった。


「それは、魔法ですか?」


「本人は魔法とは思っていないようです。ただ、わかる、と言っていました。でも私には、何らかの力が働いていると思えた」


「文献には残っていないでしょうね、そういう話は」


「残らないでしょう。王都の学者が調べに来るような場所でもないし、本人も特に広めようとしていないので」


「でも、あなたはそれを聞いた」


「たまたま話してくれた。焚き火の傍で、夜に」


 焚き火の傍で、夜に。


 ミーナはその情景を思い浮かべた。北の夜、星が多い空の下、老人と若い将軍が火を囲んで話している。文字にならない知識が、口から口へ伝わっていく。


「あなたは、そういう話を聞くのが好きなのですね」


 ミーナが言うと、レオナルドは少し間を置いた。


「……そうかもしれません」


「意外です」


「何が?」


「英雄と呼ばれる方が、老人の焚き火話を大切にしているとは思わなかったので」


 レオナルドは少し目を細めた。


「英雄というのは、他人がつける言葉です」


「では、あなた自身は?」


「ただの人間です。戦場で生き残っただけの」


 軽く言ったが、軽くない言葉だと、ミーナには聞こえた。



 話が一段落した頃、レオナルドが言った。


「魔力計測を、してみましたか」


「いいえ、まだ」


「してみることをお勧めします」


「なぜですか?」


「あなたが話す感覚は、気のせいではないかもしれないから」


 ミーナは少し考えた。


「でも、三十歳で計測を受けに行くのは、少し恥ずかしい気がして」


「なぜ恥ずかしいのですか」


 真顔で聞かれて、ミーナは少し詰まった。


「……計測は、十五歳から二十歳の間に行うものですから。今更という感じが」


「あなたが今更と感じることは、他人も今更と感じるとは限らない」


 正論だった。あまりにも正論すぎて、ミーナはまた少し可笑しくなった。


「それはそうですね」


「それに」


 レオナルドは続けた。


「今更と思うのは、誰かが決めた正しい順序に従っているからだと思います。でも、その順序が全ての人に当てはまるとは限らない」


 ミーナはその言葉を、少し時間をかけて受け取った。


 誰かが決めた正しい順序。


 十五歳でデビュー。十七歳から縁談。二十歳頃に婚約。二十代で結婚。


 その順序の外側に出てしまった自分を、ミーナはずっと「遅れている」と思っていた。でも、遅れているのではなく、ただ、違う道を歩いているだけかもしれない。


「……行ってみます」


「それがいいと思います」


 レオナルドは短く言って、お茶を飲んだ。


 その横顔は、特に何かを期待しているふうでも、押しつけているふうでもなかった。ただ、そう思うから言った、という顔だった。


 ミーナは窓の外を見た。


 庭の白い薔薇が、今日は風に揺れていた。


 花びらが一枚、ふわりと落ちた。地面に落ちてから、また風に運ばれて、少し先へ転がっていった。


(落ちても、終わりではないのかもしれない)


 なんとなく、そう思った。



 父が戻ってきて、二人の協議が始まった。


 ミーナは客間を出た。廊下を歩きながら、今日の会話を頭の中で繰り返した。


 英雄というのは他人がつける言葉です。


 誰かが決めた正しい順序に従っているからだと思います。


 この人は、社交界の言葉を使わない。褒め言葉も、遠回しな同情も、気遣いのふりをした詮索も。ただ、思ったことを言う。それだけだった。


 最初は無愛想だと思った。でも今は、正直な人だと思っていた。


 書斎に戻って、ミーナは机の引き出しを開けた。


 三日前に書いた便箋が入っていた。


『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』


 読み返して、ミーナはペンを取った。


 同じ便箋の続きに、一行を付け足した。


『明日、魔法研究院へ行ってみる。なぜなら、行ってみたいから』


 書いてから、少し笑った。


 なぜなら、行ってみたいから。


 ずいぶん単純な理由だった。でも今のミーナには、それで十分な気がした。


 誰かに言われたからではなく、正しい順序だからではなく、ただ、自分が行ってみたいから。


 その小さな違いが、今日は少しだけ大事に思えた。



 夜、眠る前に、ミーナは窓を少し開けた。


 秋の夜気が入ってきた。冷たくて、でも刺さるほどではない、ちょうどいい冷たさだった。


 空には星が出ていた。


 王都の夜は明るいので、星はそれほどよく見えない。でも今夜は、いくつかはっきりと光っているものがあった。


(北方では、もっとよく見えるのだろうか)


 焚き火の傍の老人と将軍の話を、またふと思った。


 文字にならない知識。積み重なった経験。時間をかけて変わっていくもの。


 それが、価値ではないとは言えない。


 むしろ、それこそが価値かもしれない。


 ミーナは窓を閉めた。


 今夜は、布団に入ってすぐに眠れる気がした。


 明日、研究院へ行く。


 それだけで、今夜は十分だった。



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