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【連載版】「若い令嬢」を選んで、婚約者を捨てた代償  作者: 風谷 華


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第3話 白い薔薇の問い

 三日後の朝、ミーナは書斎にいた。


 ヴェルダン家の書斎は、南向きの部屋だ。午前中は日当たりがよく、棚に並んだ本の背表紙が、光を受けてさまざまな色に輝く。赤、緑、金、茶。父が長年かけて集めた本たちが、壁一面を埋めていた。


 ミーナはその中の一冊を、床に近い棚から引き抜いた。


 魔法論概論。


 古い本だ。背表紙の革がすり切れて、端がめくれかけている。大学の研究者が書いた学術書で、十七歳の時に父の許可なく持ち出して読んだ。あとで父に見つかって、軽く叱られた記憶がある。


 ページを開くと、かびた紙の匂いがした。


 古い本の匂いは、嫌いではなかった。むしろ好きだった。時間の匂いがする、とずっと思っている。誰かが読んで、考えて、また棚に戻した、その積み重なりの匂い。


 十七歳の自分の書き込みが、余白に残っていた。


 細くて、少し右に傾いた文字。今より几帳面で、少し力が入りすぎている。


「魔力は若いほど強い。これが社交界の常識」


 そこに、少し後の字で付け足されていた。別のインクで、少しだけ勢いのある筆跡で。


「本当に? 根拠は何?」


 ミーナは思わず、小さく笑った。


 十七歳の自分は、なかなかやるじゃないか、と思った。


 ちゃんと疑っていた。でも誰かに「それが当たり前よ」と言われて、そのまま忘れた。当たり前、という言葉は静かに強くて、問いを飲み込んでしまう。


 ミーナはページをめくった。


 第四章。古代魔法について。


 ほとんどの項目には書き込みがなかった。当時のミーナは、古代魔法にはあまり興味を持っていなかったのだろう。読み飛ばした痕跡がある。ページの角が折られていない。


 でも今、読むと、ひっかかる文章があった。


「三十歳前後の女性に、特異な魔力の変容が見られる事例が、過去の記録に複数存在する。これを古代魔法の発現と呼ぶが、現代においてその記録は失われ、確認する術がない」


 ミーナは指でその一文をなぞった。


(失われた、ではなく、忘れられた、のかもしれない)


 そう思った。


 失うのは、誰かの手を離れた時だ。でも忘れるのは、意図せず、あるいは意図的に、目を向けなくなった時だ。


 女性が若さを競うようになってから。


 年齢を重ねることが「枯れる」と呼ばれるようになってから。


 三十歳以降の変化など、誰も見ようとしなくなったのかもしれない。


 ミーナは本を膝の上に置いて、窓の外を見た。


 今日の庭は明るかった。秋の日差しが、白い薔薇に真っ直ぐ落ちて、花びらの輪郭を淡く光らせていた。霧はなかった。昨日より空気が澄んでいた。


 指先が、少し温かかった。


 昨日も、一昨日も、そうだった。魔法を使っているわけではないのに、指先だけが、内側から温められているような感覚がある。


(気のせいではない気がする)


 ミーナは自分の右手を、光にかざして見た。


 何も見えない。当然だ。でも感じる。何かが、そこにある。



 その日の午後、ヴェルダン家に客が来た。


 父の書斎でそれを知ったのは、執事のフレデリックが廊下を早足で歩いていくのを見かけたからだ。フレデリックが早足を踏むのは珍しい。ミーナが「どなたが?」と聞くと、「カーゼル辺境伯閣下がいらっしゃいました」と答えた。


 カーゼル辺境伯。


 レオナルド・カーゼル。


 名前は知っていた。戦争の英雄として、今や王国中に名が知れている。北方戦線で三度の奇跡的な勝利を収め、最終決戦では自ら敵陣に切り込んで敵将を討ったという。「北の獅子」と呼ぶ者もあれば、「氷の将」と呼ぶ者もいた。


 父とは戦前からの縁があると聞いていたが、ミーナは直接会ったことがなかった。


「お父様は?」


「ただいま王宮の方へ出ておられまして。戻りは夕方かと」


「では、お客様をお一人にしておくわけにはいかないわ。客間にご案内して。私がお茶を」


 フレデリックは少し目を丸くした。令嬢が自らお茶を持っていく、というのは普通ではない。でもミーナは既に廊下を歩き始めていた。



 客間の扉を開けた瞬間、ミーナは少し驚いた。


 男が窓の外を見ていた。


 立ったまま、部屋の主でもないのに、窓辺に立って庭を見ていた。まるで自分の家の庭を眺めるように、自然に、静かに。


 長身だった。肩幅が広く、軍人の体つきをしていた。でも、硬くはなかった。力が抜けた状態で立っていて、どこか水が流れるような静けさがあった。


 茶色の短髪。外套を脱いで椅子の背にかけている。紺色の上着に、シンプルな銀のボタン。飾り気がなかった。


「失礼いたします。父が不在で申し訳ありません。ヴェルダンの娘、ミーナと申します」


 男は振り返った。


 灰色の目だった。


 明るい灰色ではなく、少し深みのある、曇り空の前の空のような灰色。表情は静かだった。驚いた様子もなく、愛想笑いをする様子もなく、ただ、ミーナを見た。


「カーゼルです」


 短く言った。


「レオナルド・カーゼル。お父上には戦前からお世話になっています」


「存じております。父からよくお話を伺いました」


「そうですか」


 それだけだった。


 社交界の男性ならここで何か言う。「お噂はかねがね」とか「お会いできて光栄です」とか、あるいは「お美しい」とか。でもこの男は何も言わなかった。ただ、椅子に戻って座った。


 ミーナは少し可笑しくなった。


 潔いな、と思った。


 お茶を注ぎながら、ミーナはちらりと部屋を見た。男は膝の上に何も置かず、ただ座っていた。手持ち無沙汰な様子もなく、落ち着かない様子もなく、ただそこにいた。


(珍しい人だ)


 待つことに慣れている人、という感じがした。


「カーゼル辺境伯は、戦争が終わってすぐに王都へ?」


 お茶を出しながら、ミーナは聞いた。沈黙が気まずいからではなく、純粋に気になったから聞いた。


「いえ。辺境に一度戻ってから。戦後処理が残っていたので」


「そうでしたか。辺境は今、落ち着いていますか」


「概ね。完全にとはいきませんが」


「北方の民との関係は?」


 男は少し目を動かした。質問の内容が予想外だったのかもしれない。


「……それを聞く令嬢は、初めてです」


「不躾でしたか」


「いいえ」


 男は少し間を置いてから、答えた。


「北方の民は、今は落ち着いています。戦争中に共通の敵がいた分、こちらとの関係は以前より良くなった面もある。ただ、文化の違いは埋まらないので、時間がかかる」


「文化の違い、とは?」


「彼らは自然の中に法則を見る。川の流れ、風の向き、土の色。それで季節を読み、天候を読む。王都の人間には、合理的に見えない。でも実際には、かなり正確な」


 ミーナは興味深いと思った。


「それは、経験と観察の積み重ねですね」


「そうです」


「文字に書かれた知識でなく、体で覚えた知識」


「正確に言えば、そうなります」


 レオナルドは少し、ミーナを見た。


「そういうことに興味があるのですか」


「本が好きなので、文字の知識はあります。でも、文字にならない知識の方が、世の中には多いかもしれないと、最近思っていて」


「……最近、ですか」


「ええ。ごく最近」


 ミーナは窓の外を見た。庭の白い薔薇が、午後の光の中で静かに揺れていた。



 しばらく話して、ふと気づいたことがあった。


 この男は、ミーナの婚約破棄について、一言も触れなかった。


 社交界中に知れ渡っているはずだ。昨日今日の話ではない。でも、そのことを話題にしなかった。同情の言葉もなかった。遠慮がちな視線もなかった。


 ただ、目の前にいる人間として、話をしていた。


(珍しい)


 と、またミーナは思った。


「あの」


 思わず、口をついて出た。


「はい」


「一つ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「なぜ、今日、何も聞かなかったのですか」


 レオナルドは、少し首を傾けた。


「何を、とは」


「婚約のことです。社交界では話題になっているはずで。それについて、何も」


 レオナルドは少し間を置いた。


「関係のないことだから」


「関係のない?」


「私がお父上に会いに来たのは、戦後処理の件です。それとは関係がない」


「……そういう意味ですか」


「それ以上の意味はないですが」


 ミーナは少し、笑った。


 なるほど、とても合理的な人だな、と思った。関係ないから触れない。それだけのことだった。でも今のミーナには、それが妙に清々しかった。



 父が帰ってきたのは、夕方近くだった。


 二人が話し込んでいる間、ミーナは途中で席を外した。長居しすぎるのは礼儀に欠けると思ったからだ。


 でも廊下に出たところで、ふと振り返った。


 客間の扉が少し開いていて、レオナルドの声が聞こえた。父と話しているのだろう。低くて、落ち着いた声だった。


 ミーナは廊下を歩きながら、自分の手のひらを見た。


 指先が、また温かかった。


 今日は、昨日より少しだけ、はっきりと。


(計測してみるべきかもしれない)


 十七歳の自分の書き込みを思い出した。


「本当に? 根拠は何?」


 あの問いに、今頃向き合っている。


 遅すぎるかもしれない。でも、今気づいたのなら、今から考えればいい。


 書斎に戻ったミーナは、魔法論概論を再び開いた。


 今度は、古代魔法の章を、ちゃんと読むために。


 秋の日差しが、ページの上に斜めに落ちていた。


 光の中で、十七歳の文字が、少しだけ輝いて見えた。


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