第2話 枯れ花と呼ばれる朝
朝の光は、残酷なほど平等に差し込んでくる。
昨夜どれほど傷ついても、世界は何も知らないように、東の窓から白い光を送り込んでくる。カーテンの隙間から一本の細い光の筋が伸びて、ミーナの寝台の端を、静かに照らしていた。
眠れなかった。
眠ろうとはした。目を閉じた。でも暗闇の中で、アルベルトの声が繰り返された。
——君は、もう三十歳だ。
その言葉は、音ではなく、色だった。深くて暗い、濁った灰色。胸の奥にゆっくりと流れ込んで、そこに沈んで、動かなかった。
ミーナは寝台の上で上半身を起こした。
窓の外、ヴェルダン家の庭が朝霧の中に浮かんでいる。白い薔薇が霧をまとって、輪郭が少しだけ曖昧になっていた。まるで夢の中の景色のようだった。
三十年間、自分はあの薔薇のようだと思っていた。
白く、端正で、見る人の目を喜ばせる存在。
でも今朝は、霧の中で形をなくしかけているその花が、妙に自分に重なって見えた。
◆
朝食の席は、静かだった。
食卓は長い。楕円形のマホガニーのテーブルに、銀の燭台と白いリネンのテーブルクロス。ヴェルダン公爵家の朝食は、いつも形式通りに整えられていた。
父のエドモン・ヴェルダン公爵は、新聞を広げて向こう側に座っていた。六十二歳。白髪交じりの眉が太く、顎がしっかりとしていて、全体に重厚な印象を持つ人だ。公爵位に相応しい威厳を、長年かけて体に染み込ませてきた人でもある。
その父が、今朝は新聞をめくる手を止めた。
「……よく眠れたか」
「はい」
嘘だった。父もわかっているだろう。でも、それ以上は聞かなかった。
母のエリザ・ヴェルダンは、ミーナの正面に座っていた。薄い金髪に、青みがかった灰色の瞳。かつては社交界でも名の知れた美人だったと聞くが、今は静かな品の良さだけが残っている。その母が、紅茶のカップを両手で包むようにして、少し視線を落としていた。
三人分のカップの音だけが、食卓に小さく響いた。
(誰も何も言えないのだ)
ミーナは思った。
(慰める言葉も、謝る言葉も、誰も持っていない)
それは責めているのではなかった。ただ、そういうものだと思った。貴族社会において、女性が婚約破棄されることは、本人ではなく家の問題だった。でも家として何かできるかというと、何もない。父が今更アルベルトに怒鳴り込むわけにもいかない。母が「あなたは悪くない」と言っても、社交界の現実は変わらない。
だから三人は、銀のカトラリーで音を立てながら、静かに朝食をとった。
パンを千切る。バターを塗る。紅茶を飲む。
それだけのことが、今朝は少し難しかった。
◆
午前中、ミーナは自室に戻った。
窓際の椅子に座って、膝の上に何も置かなかった。ただ、窓の外を見ていた。
庭師が薔薇の手入れをしている。老いた庭師で、何十年もヴェルダン家に仕えている人だ。黙々と枝を切り、土を整えていた。薔薇に話しかけるように、時折口を動かしている気がした。
あの人は毎朝ああしているのだろう、とミーナは思った。
誰かに見られていても、いなくても。評価されても、されなくても。ただ、花のために、土に向かって、続けている。
十二年間。
ミーナも、続けていた。
戦争支援の物資集め。負傷兵への包帯と薬の手配。孤児院での読み書きの指導。補給管理の計算補佐。アルベルトへの手紙。毎月、一枚。
誰かに褒められたくてしたわけではなかった。でも、どこかで期待していた。
続けていれば、報われると。
良い令嬢でいれば、幸せになれると。
親がそう言っていたから。教師がそう言っていたから。社交界がそう言っていたから。
(あの頃の私は、どうしてそれを信じてしまったのだろう)
疑問は、責めるような鋭さではなかった。むしろ、霧の中を歩くような、柔らかい混乱だった。
間違っていたとは言い切れない。続けてきたことは、確かに誰かの役に立った。孤児院の子どもたちは文字を覚えた。負傷兵は手当てを受けた。補給は滞らなかった。
でも、その先に自分の幸せはなかった。
正しくしていれば幸せになれるというのは、誰が決めたのだろう。
そして、「正しい」とは、誰にとっての正しさなのだろう。
◆
昼を過ぎた頃、母が部屋を訪ねてきた。
エリザは扉を小さくノックして、返事を待ってから入ってきた。いつもそうだ。母は決して、許可なく扉を開けない。そういう人だった。
「少しいいかしら」
「どうぞ」
母は椅子を引いて、ミーナの傍に座った。二人で窓の外を見た。しばらく、何も言わなかった。
庭師はまだ薔薇の手入れをしていた。
「あなたのお祖母様のことを、覚えている?」
不意に母が言った。
「……ぼんやりと。私が六歳の時に亡くなったので」
「そう。あなたはよく懐いていたわ。膝の上に乗って、本を読んでもらって」
ミーナは少し、その頃の記憶を探した。白い髪の、小さな老女。暖炉の前の椅子。本のページをめくる、節くれだった指。
「お祖母様は、若い頃に一度婚約破棄されているの」
ミーナは母を見た。
「知らなかったでしょう。誰も話さなかったから。でも、あったのよ。十九歳の時に。相手の家の事情で、一方的に」
「それで?」
「それで、二年後に今度はお祖父様と出会って、結婚した。お祖父様はよく言っていたわ。あの人の目が好きだったと。何があっても折れない目だと」
ミーナはそれを聞いて、少し沈黙した。
「お母様は、私を慰めようとしているのですか」
「そうかもしれない」
母は正直に言った。
「でも、それだけではないの。あなたに伝えたいことがある」
母はミーナを見た。灰色の瞳が、静かで、でも揺れていた。
「私はあなたに、言われた通りに生きなさいと育てた。礼儀を守りなさい、婚約者を待ちなさい、良い令嬢でいなさいと。それが正しいと思っていたから」
「……はい」
「でも今、あなたを見ていて、思うことがある」
母は少し間を置いた。
「あなたの価値を、誰かの評価で決めさせてはいけなかった。そのことを、もっと早く教えるべきだった」
ミーナは何も言えなかった。
窓の外で、白い薔薇が揺れた。風が吹いたのかもしれない。霧は晴れて、今は柔らかい秋の日差しが庭に落ちていた。
「お母様」
「何?」
「私は……まだ、自分の価値が何なのか、わかっていません」
「そうね」
母はゆっくりと頷いた。「でも、わからなくていいと思う。今はまだ」
「え?」
「わからないまま、それでも立っていられることが、今のあなたには必要なことだと思うから」
ミーナはその言葉を、胸の中でゆっくりと転がした。
わからないまま、立っている。
それは、今のミーナにできる、唯一のことかもしれなかった。
◆
午後になって、外出した。
馬車は使わなかった。歩いた。ひとりで、帽子を被って、ヴェルダン家の裏門から王都の通りに出た。
王都の午後は、舞踏会の夜とは別の顔をしていた。
商人が荷車を引いている。子どもが走り回っている。パン屋の窓から焼けた香りが漂ってくる。石畳が、秋の光を反射して、くすんだ金色に輝いていた。
誰もミーナを「ヴェルダン令嬢」とは見なかった。帽子を被った、地味な色のコートの女性として、ただそこにいた。
それが今日は、少し楽だった。
値踏みされない。品定めされない。若いかどうか見られない。ただ通りを歩く、一人の人間として、石畳の上に立っていられる。
ミーナは孤児院へ向かった。
王都の北側、少し入り組んだ路地の奥にある、小さな孤児院だ。石造りの建物で、庭には子どもたちが植えた野菜が育っている。ミーナが十二年間、週に一度通い続けた場所だった。
門を入ると、すぐに声がした。
「ミーナ様!」
七歳のルカだ。茶色い巻き毛に、少し大きすぎる上着を着た男の子。孤児院に来て三年になる。最初は口をきかなかった子が、今はこうして飛んでくる。
「ルカ、走らない」
「でも来てくれたから! 昨日も来てくれると思って待ってたのに」
「昨日は少し、用事があって」
ルカはミーナの手を両手で掴んだ。小さくて、温かい手だった。
「怒ってる? ミーナ様、顔が怒ってる顔じゃないけど、でも少し違う顔」
ミーナは思わず笑った。子どもの観察眼は、鋭い。
「怒っていない。ただ、少し疲れただけ」
「疲れた時は、ここに来るといいよ。僕がいるから」
七歳の男の子が、真面目な顔で言った。
その言葉が、不思議なほど、胸に沁みた。
大人の慰めではなかった。社交辞令でもなかった。ただ、「僕がいるから」という、真っ直ぐな言葉だった。
(この子は、私の年齢を見ていない)
ミーナは思った。
(魔力も、婚約も、家柄も、関係なく。ただ、ミーナ様、と呼んでくれる)
「そうね」とミーナは言った。「来てよかった」
◆
夕方、孤児院から帰る道で、ミーナは立ち止まった。
西の空が、深い色をしていた。
橙でも赤でもない、もっと複雑な色だった。燃えているようで、でも静かで。沈んでいくようで、でも消えない。
その空の色が、今のミーナの気持ちに、少し似ている気がした。
全部が終わったわけではない。
でも全部が始まるわけでもない。
ただ今日が終わって、また明日が来る。
婚約破棄された翌日も、世界は動いている。噂は飛び交っている。でも孤児院の子どもたちは今日もルカは走っていた。庭師は薔薇の手入れをしていた。母は紅茶を飲んでいた。
それだけのことが、今日は少し、助けになった。
ミーナは空を見上げたまま、深く息を吸った。
秋の空気は、すこし冷たくて、透明だった。
明日のことは、まだわからない。
でも今夜は、眠れる気がした。昨夜よりは、少しだけ。
◆
その夜遅く、ミーナは文机の前に座った。
燭台の光の中で、便箋を一枚、引き出した。
書こうとして、止まった。
誰に書くのだろう。
十二年間、毎月アルベルトに手紙を書いてきた。今月分は昨週書いた。あれが最後になった。
ミーナは便箋を見つめた。
白い紙。何も書かれていない紙。
誰かに送る手紙ではなく、自分のために書いてみようと、ふと思った。
今の気持ちを。今日感じたことを。わからないことを。
ペンを取った。
インクをつけた。
しばらく考えてから、一行だけ書いた。
『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』
書いてから、少しおかしくなった。
こんな手紙を誰かが読んだら、何と思うだろう。
でも、誰にも読ませない。これは自分のための言葉だ。
ミーナは便箋を折って、引き出しの奥にしまった。
燭台の火を消した。
暗くなった部屋で、窓の外を見た。
昨夜と同じ月が出ていた。
でも今夜は、昨夜より少しだけ、遠くに見えた。
遠くて、でも、消えていなかった。




