表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】「若い令嬢」を選んで、婚約者を捨てた代償  作者: 風谷 華


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/12

第2話 枯れ花と呼ばれる朝

 朝の光は、残酷なほど平等に差し込んでくる。


 昨夜どれほど傷ついても、世界は何も知らないように、東の窓から白い光を送り込んでくる。カーテンの隙間から一本の細い光の筋が伸びて、ミーナの寝台の端を、静かに照らしていた。


 眠れなかった。


 眠ろうとはした。目を閉じた。でも暗闇の中で、アルベルトの声が繰り返された。


 ——君は、もう三十歳だ。


 その言葉は、音ではなく、色だった。深くて暗い、濁った灰色。胸の奥にゆっくりと流れ込んで、そこに沈んで、動かなかった。


 ミーナは寝台の上で上半身を起こした。


 窓の外、ヴェルダン家の庭が朝霧の中に浮かんでいる。白い薔薇が霧をまとって、輪郭が少しだけ曖昧になっていた。まるで夢の中の景色のようだった。


 三十年間、自分はあの薔薇のようだと思っていた。


 白く、端正で、見る人の目を喜ばせる存在。


 でも今朝は、霧の中で形をなくしかけているその花が、妙に自分に重なって見えた。



 朝食の席は、静かだった。


 食卓は長い。楕円形のマホガニーのテーブルに、銀の燭台と白いリネンのテーブルクロス。ヴェルダン公爵家の朝食は、いつも形式通りに整えられていた。


 父のエドモン・ヴェルダン公爵は、新聞を広げて向こう側に座っていた。六十二歳。白髪交じりの眉が太く、顎がしっかりとしていて、全体に重厚な印象を持つ人だ。公爵位に相応しい威厳を、長年かけて体に染み込ませてきた人でもある。


 その父が、今朝は新聞をめくる手を止めた。


「……よく眠れたか」


「はい」


 嘘だった。父もわかっているだろう。でも、それ以上は聞かなかった。


 母のエリザ・ヴェルダンは、ミーナの正面に座っていた。薄い金髪に、青みがかった灰色の瞳。かつては社交界でも名の知れた美人だったと聞くが、今は静かな品の良さだけが残っている。その母が、紅茶のカップを両手で包むようにして、少し視線を落としていた。


 三人分のカップの音だけが、食卓に小さく響いた。


(誰も何も言えないのだ)


 ミーナは思った。


(慰める言葉も、謝る言葉も、誰も持っていない)


 それは責めているのではなかった。ただ、そういうものだと思った。貴族社会において、女性が婚約破棄されることは、本人ではなく家の問題だった。でも家として何かできるかというと、何もない。父が今更アルベルトに怒鳴り込むわけにもいかない。母が「あなたは悪くない」と言っても、社交界の現実は変わらない。


 だから三人は、銀のカトラリーで音を立てながら、静かに朝食をとった。


 パンを千切る。バターを塗る。紅茶を飲む。


 それだけのことが、今朝は少し難しかった。



 午前中、ミーナは自室に戻った。


 窓際の椅子に座って、膝の上に何も置かなかった。ただ、窓の外を見ていた。


 庭師が薔薇の手入れをしている。老いた庭師で、何十年もヴェルダン家に仕えている人だ。黙々と枝を切り、土を整えていた。薔薇に話しかけるように、時折口を動かしている気がした。


 あの人は毎朝ああしているのだろう、とミーナは思った。


 誰かに見られていても、いなくても。評価されても、されなくても。ただ、花のために、土に向かって、続けている。


 十二年間。


 ミーナも、続けていた。


 戦争支援の物資集め。負傷兵への包帯と薬の手配。孤児院での読み書きの指導。補給管理の計算補佐。アルベルトへの手紙。毎月、一枚。


 誰かに褒められたくてしたわけではなかった。でも、どこかで期待していた。


 続けていれば、報われると。


 良い令嬢でいれば、幸せになれると。


 親がそう言っていたから。教師がそう言っていたから。社交界がそう言っていたから。


(あの頃の私は、どうしてそれを信じてしまったのだろう)


 疑問は、責めるような鋭さではなかった。むしろ、霧の中を歩くような、柔らかい混乱だった。


 間違っていたとは言い切れない。続けてきたことは、確かに誰かの役に立った。孤児院の子どもたちは文字を覚えた。負傷兵は手当てを受けた。補給は滞らなかった。


 でも、その先に自分の幸せはなかった。


 正しくしていれば幸せになれるというのは、誰が決めたのだろう。


 そして、「正しい」とは、誰にとっての正しさなのだろう。



 昼を過ぎた頃、母が部屋を訪ねてきた。


 エリザは扉を小さくノックして、返事を待ってから入ってきた。いつもそうだ。母は決して、許可なく扉を開けない。そういう人だった。


「少しいいかしら」


「どうぞ」


 母は椅子を引いて、ミーナの傍に座った。二人で窓の外を見た。しばらく、何も言わなかった。


 庭師はまだ薔薇の手入れをしていた。


「あなたのお祖母様のことを、覚えている?」


 不意に母が言った。


「……ぼんやりと。私が六歳の時に亡くなったので」


「そう。あなたはよく懐いていたわ。膝の上に乗って、本を読んでもらって」


 ミーナは少し、その頃の記憶を探した。白い髪の、小さな老女。暖炉の前の椅子。本のページをめくる、節くれだった指。


「お祖母様は、若い頃に一度婚約破棄されているの」


 ミーナは母を見た。


「知らなかったでしょう。誰も話さなかったから。でも、あったのよ。十九歳の時に。相手の家の事情で、一方的に」


「それで?」


「それで、二年後に今度はお祖父様と出会って、結婚した。お祖父様はよく言っていたわ。あの人の目が好きだったと。何があっても折れない目だと」


 ミーナはそれを聞いて、少し沈黙した。


「お母様は、私を慰めようとしているのですか」


「そうかもしれない」


 母は正直に言った。


「でも、それだけではないの。あなたに伝えたいことがある」


 母はミーナを見た。灰色の瞳が、静かで、でも揺れていた。


「私はあなたに、言われた通りに生きなさいと育てた。礼儀を守りなさい、婚約者を待ちなさい、良い令嬢でいなさいと。それが正しいと思っていたから」


「……はい」


「でも今、あなたを見ていて、思うことがある」


 母は少し間を置いた。


「あなたの価値を、誰かの評価で決めさせてはいけなかった。そのことを、もっと早く教えるべきだった」


 ミーナは何も言えなかった。


 窓の外で、白い薔薇が揺れた。風が吹いたのかもしれない。霧は晴れて、今は柔らかい秋の日差しが庭に落ちていた。


「お母様」


「何?」


「私は……まだ、自分の価値が何なのか、わかっていません」


「そうね」


 母はゆっくりと頷いた。「でも、わからなくていいと思う。今はまだ」


「え?」


「わからないまま、それでも立っていられることが、今のあなたには必要なことだと思うから」


 ミーナはその言葉を、胸の中でゆっくりと転がした。


 わからないまま、立っている。


 それは、今のミーナにできる、唯一のことかもしれなかった。



 午後になって、外出した。


 馬車は使わなかった。歩いた。ひとりで、帽子を被って、ヴェルダン家の裏門から王都の通りに出た。


 王都の午後は、舞踏会の夜とは別の顔をしていた。


 商人が荷車を引いている。子どもが走り回っている。パン屋の窓から焼けた香りが漂ってくる。石畳が、秋の光を反射して、くすんだ金色に輝いていた。


 誰もミーナを「ヴェルダン令嬢」とは見なかった。帽子を被った、地味な色のコートの女性として、ただそこにいた。


 それが今日は、少し楽だった。


 値踏みされない。品定めされない。若いかどうか見られない。ただ通りを歩く、一人の人間として、石畳の上に立っていられる。


 ミーナは孤児院へ向かった。


 王都の北側、少し入り組んだ路地の奥にある、小さな孤児院だ。石造りの建物で、庭には子どもたちが植えた野菜が育っている。ミーナが十二年間、週に一度通い続けた場所だった。


 門を入ると、すぐに声がした。


「ミーナ様!」


 七歳のルカだ。茶色い巻き毛に、少し大きすぎる上着を着た男の子。孤児院に来て三年になる。最初は口をきかなかった子が、今はこうして飛んでくる。


「ルカ、走らない」


「でも来てくれたから! 昨日も来てくれると思って待ってたのに」


「昨日は少し、用事があって」


 ルカはミーナの手を両手で掴んだ。小さくて、温かい手だった。


「怒ってる? ミーナ様、顔が怒ってる顔じゃないけど、でも少し違う顔」


 ミーナは思わず笑った。子どもの観察眼は、鋭い。


「怒っていない。ただ、少し疲れただけ」


「疲れた時は、ここに来るといいよ。僕がいるから」


 七歳の男の子が、真面目な顔で言った。


 その言葉が、不思議なほど、胸に沁みた。


 大人の慰めではなかった。社交辞令でもなかった。ただ、「僕がいるから」という、真っ直ぐな言葉だった。


(この子は、私の年齢を見ていない)


 ミーナは思った。


(魔力も、婚約も、家柄も、関係なく。ただ、ミーナ様、と呼んでくれる)


「そうね」とミーナは言った。「来てよかった」



 夕方、孤児院から帰る道で、ミーナは立ち止まった。


 西の空が、深い色をしていた。


 橙でも赤でもない、もっと複雑な色だった。燃えているようで、でも静かで。沈んでいくようで、でも消えない。


 その空の色が、今のミーナの気持ちに、少し似ている気がした。


 全部が終わったわけではない。


 でも全部が始まるわけでもない。


 ただ今日が終わって、また明日が来る。


 婚約破棄された翌日も、世界は動いている。噂は飛び交っている。でも孤児院の子どもたちは今日もルカは走っていた。庭師は薔薇の手入れをしていた。母は紅茶を飲んでいた。


 それだけのことが、今日は少し、助けになった。


 ミーナは空を見上げたまま、深く息を吸った。


 秋の空気は、すこし冷たくて、透明だった。


 明日のことは、まだわからない。


 でも今夜は、眠れる気がした。昨夜よりは、少しだけ。



 その夜遅く、ミーナは文机の前に座った。


 燭台の光の中で、便箋を一枚、引き出した。


 書こうとして、止まった。


 誰に書くのだろう。


 十二年間、毎月アルベルトに手紙を書いてきた。今月分は昨週書いた。あれが最後になった。


 ミーナは便箋を見つめた。


 白い紙。何も書かれていない紙。


 誰かに送る手紙ではなく、自分のために書いてみようと、ふと思った。


 今の気持ちを。今日感じたことを。わからないことを。


 ペンを取った。


 インクをつけた。


 しばらく考えてから、一行だけ書いた。


『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』


 書いてから、少しおかしくなった。


 こんな手紙を誰かが読んだら、何と思うだろう。


 でも、誰にも読ませない。これは自分のための言葉だ。


 ミーナは便箋を折って、引き出しの奥にしまった。


 燭台の火を消した。


 暗くなった部屋で、窓の外を見た。


 昨夜と同じ月が出ていた。


 でも今夜は、昨夜より少しだけ、遠くに見えた。


 遠くて、でも、消えていなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ