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【連載版】「若い令嬢」を選んで、婚約者を捨てた代償  作者: 風谷 華


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12/12

最終話 白薔薇、再び咲く

 六月になった。


 ヴェルダン家の庭の白い薔薇が、今年も咲いた。


 その花びらは光を受け、白の中に淡い黄みが溶けている。真昼には明るく輝き、夕暮れには柔らかく沈む。朝露がついている時間は、花びらの輪郭が少しだけ曖昧になって、霧の中の灯りのような見え方をする。


 ミーナは書斎の窓から、その薔薇を眺めていた。


 去年の秋にも、この場所からこの庭を見た。あの時は霧の中に浮かんでいて、形をなくしかけているように見えた。自分に重なった。


 今朝は、よく晴れている。


 薔薇は薔薇の形をして、白く、そこに咲いていた。





 王立魔法研究院で、発表会があった。


 六月の、温かい日の午後だった。


 研究院の講堂は、こぢんまりとした部屋だった。縦長で、奥に演台がある。石造りの壁が厚くて、外の音があまり入ってこない。椅子が並んでいて、今日は四十人ほどが集まっていた。


 研究者たちと、それから王宮の代表者が数人。魔法師団の団長も来ていた。昨夜の平原にいた団長で、ミーナに気づいて小さく頭を下げた。


 演台に立ったのは、ルーカスだった。


 春に倒れてから三ヶ月。体は細くなっていたが、目の輝きは変わらなかった。むしろ、長い回復期間に文献を読み続けていたせいか、目が余計に鋭くなっていた。


「本日は、古代魔法に関する研究報告をいたします」


 ルーカスの声が、講堂に響いた。


 七十を超えた老人の声は、かつて何十年も教壇に立っていた声で、よく通った。


「先月、北方の平原にて大規模な魔物の群れが確認されました。王立魔法師団が出動しましたが、通常の魔力では効果が薄く、多くの者が消耗しました。その場に古代魔法の使い手が赴き、群れを退けることができました。これは、古代魔法の実戦記録として、王国の歴史上初のものです」


 会場がざわめいた。


「加えて、古代魔法の使い手による傷病者への治癒効果も確認されました。通常の回復魔法より炎症の鎮静が速く、回復が早かったという証言を、現場にいた複数の魔法師から得ています」


 ルーカスは一枚の紙を持ち上げた。


「これは、計測データです。当初の計測から半年分の変化を記録したものです。古代魔法は、若い頃の魔力とは異なり、時間と共に安定し、深みを増す性質があります。学会から否認を受けましたが、本日ここに集まった方々は、実際に目で見た証人です。証言書への署名を、後ほどお願いします」


 静かな会場に、誰かが拍手をした。


 それが広がった。


 団長が、力強く手を打っていた。


 ミーナは演台の隣に立っていた。拍手を受ける立場ではない、と思っていたが、ルーカスが手を差し出したので、隣に並んだ。


 四十人の視線を受けながら、ミーナは思った。


(値踏みとは、違う)


 今日のこの視線は、値踏みの目ではなかった。好奇の目もあった。疑いの目もあった。でも、今日ここにいる人たちの多くは、ルーカスの研究が正しいかどうかを確かめに来ていた。ミーナを秤にかけに来たのではなかった。


 その違いを、今日のミーナは感じていた。





 発表会の後、ルーカスと二人で研究院の小部屋に残った。


 いつもお茶を飲んだ部屋だった。椅子が二つ、テーブルが一つ。ルーカスの積み上げた文献が、今日も壁際に並んでいた。


「お疲れになりませんでしたか」


「なっとらん」


 ルーカスは眼鏡を外して磨きながら言った。「まだやることが山積みだ。学会への再提出書類を仕上げなければならん」


「手伝います」


「そのつもりで呼んだ。あなたの感覚の記録が、まだ足りていない。特に、昨夜の実戦での制御の話を詳しく聞かせてほしい」


 ミーナはノートを開いた。


 二人で話しながら、ミーナが書き、ルーカスが質問し、またミーナが書く。それが半年かけて作ってきたやり方だった。


 倒れる前と、変わらなかった。


 ルーカスがいることが、今日は以前と違う重みを持った。あの春の日、研究院の廊下で「ルーカス博士が倒れた」と聞いた朝のことを、ミーナはまだ覚えていた。廊下の空気が違って、足が止まって、胸の中で何かが落ちていった音がした。


 今日、同じ廊下を歩いた。


 落ちたものが、戻ってきた。


「北方から届いた証言記録がある」


 ルーカスが一冊の冊子を出した。「カーゼル辺境伯の名前で送られてきた。辺境に古くから伝わる記録の書き起こしで……おそらく、あなたへの手紙の件で動いてくれたのだろう」


 ミーナはその冊子を受け取った。


 厚みがあった。丁寧な筆写で、辺境の言葉が注釈つきで記されていた。何人もの手を経て、集められた記録だった。


「これは……」


「あの人は、ずっとそういうことをしていたのだろうな。文字にならない知識を、誰かが文字にするのを手伝いながら」


 ミーナは冊子を閉じた。


「返事に書きます。礼を言います」


「それだけではないだろう」


 ルーカスは眼鏡をかけ直して、ミーナを見た。目が、少し笑っていた。


「……それ以上のことは、まだ何も言っていません」


「そうかな」


「そうです」


「まあ、いい。急ぐことはない。ただ」


 ルーカスは少し真顔になった。


「あの人は、いい人間だ。目が正直だ。本当のことしか言えない目をしている」


「……存じています」


「なら、いい」


 ルーカスはまた文献を開いた。


 それ以上、何も言わなかった。


 それで十分だった。





 七月の終わり、レオナルドが王都へ来た。


 辺境の夏の処理が一段落したと、手紙に書いていた。今度は父への用件ではなく、ミーナに会いに来ると書いていた。


 はっきりとそう書いてあった。


 あなたに会いに行きます、と。


 その手紙を読んだ日、ミーナは書斎で少しの間、紙を見つめていた。


 怖い、という気持ちはあった。


 でも、今度は怖さだけではなかった。


 怖さの隣に、もう一つの何かがあった。名前のある言葉で言うなら、楽しみ、だった。


 会うことを、楽しみにしている。


 その感情が自分の中にあることを、ミーナはしばらく確かめた。


 消えなかった。


 本当に、そこにあった。





 レオナルドが来た日は、よく晴れた日だった。


 客間に通すと、彼はいつものように窓の外を見ていた。今日は庭の薔薇が満開で、窓からよく見えた。


「よく育ちましたね」


 ミーナが入ると、レオナルドは振り返らずに言った。庭を見たまま。


「毎年咲きます」


「今年は特にきれいだ」


「庭師が丁寧に世話をしてくれているので」


 ミーナはお茶を用意した。二人分。今日は特別な茶葉を使った。祖母が好きだったという、花の混じった茶だった。


「辺境の夏は、どうでしたか」


「暑かった。北の土地は夏が短いので、全員が慌ただしくなる。農作業も、修繕も、全部この季節に集中する」


「橋はうまく架け替えられましたか」


「ええ。村の子どもたちが、新しい橋を走って渡った。渡り終えるたびに、橋を叩いて確かめていた。壊れないかどうか」


「壊れませんでしたか」


「丈夫にできています」


 ミーナは少し笑った。


「手紙で読んでいた話を、直接聞くのは、少し違う感じがしますね」


「どう違いますか」


「声がある分、その場の空気が少し見える気がします。子どもたちが橋を叩く音が、聞こえる気がして」


 レオナルドはお茶を一口飲んで、少し間を置いた。


「冊子は、ルーカス博士のお役に立ちましたか」


「大変助かったと言っていました。私からも礼を言おうと思っていて」


「礼は要りません。辺境の記録が、誰かの研究に使われることは、記録した人たちも望んでいたことですから」


「でも、あなたが動いてくれなければ届かなかったわ」


 レオナルドは少し黙った。


「……それは、あなたのために動いた、とも言えます」


 ミーナは少し、その言葉を受け取った。


 あなたのために、と言った。研究のためではなく。


「それは、嬉しいです」


 ミーナは言った。


「本当に?」


「本当です」


 それだけの言葉のやりとりが、今日は長い説明より重かった。


 庭の薔薇が、窓の外で光を受けていた。





 午後になって、二人で庭に出た。


 母が「お庭を見せてさしあげたら」と言ったのを、ミーナは断わる理由がなかった。


 ヴェルダン家の庭は広くはないが、よく手入れされていた。白い薔薇が六本の株に分かれて咲いていて、その間に草花が混じっていた。石畳の小道が、庭師の小屋の方まで続いていた。


 レオナルドは薔薇の前で立ち止まった。


「辺境に薔薇はないのですか」


「野薔薇は咲きます。ただ、白ではなく、薄い赤か黄色の」


「こういう白い薔薇は?」


「見たことがない。でも今日、初めて見ました」


 ミーナは薔薇を見た。


 去年の秋、この薔薇が霧の中に浮かんでいた。形をなくしかけているように見えた。あの朝、自分はあの薔薇と重なって見えた。


 今日は、重ならない。


 薔薇は薔薇として咲いていて、自分は自分としてここにいる。


「聞いてもいいですか」


 レオナルドが言った。


「何でしょう」


「辺境に来たいと思いますか」


 ミーナは少し驚いた。


「辺境に?」


「研究の話があります。ルーカス博士が来られれば一番いいが、体の都合でしばらく難しい。代わりに、あなたが来られれば、まだ書き起こされていない記録がたくさんあります。老人たちはいつまでも元気ではない。急ぐ必要がある」


「それは……研究として、ですか」


「研究として」


 レオナルドは少し間を置いた。


「それだけではない、ということは、あなたにはわかると思いますが」


 ミーナは薔薇を見た。


 六月の光の中で、白く咲いている薔薇を。


 怖いか、と自分に聞いた。


 怖い、という声があった。


 でも、怖さだけではなかった。


 楽しみ、という声も、本当にそこにあった。


「行きたいと思います」


 ミーナは言った。


「辺境に?」


「はい」


「それは……研究として、ですか」


 レオナルドが同じ問い返しをした。少し、口元が動いた。


「研究として」


 少し間をおいて、ミーナは続けた。「それだけではない、ということは、あなたにもわかると思いますが」


 レオナルドはしばらく黙っていた。


 それから、今まで見たことのない顔をした。


 笑顔と呼んでいいのかどうか。静かで、でもはっきりとした、温かみのある表情だった。英雄と呼ばれる男の顔ではなく、焚き火の傍で老人の話を聞く男の顔だった。


「それなら」


 レオナルドが、頬を緩ませながら言った。「少し、先のことを話せますか」


「先のこと?」


「手紙ではなく、直接」


 ミーナは頷いた。


「今日、来てよかった」


「こちらこそ」


 二人で並んで、薔薇の前に立った。


 七月の光が庭に落ちていた。石畳が温かく光っていた。庭師が遠くで何かの手入れをしている音がした。


 これからのことを、一緒に話した。


 辺境に行くこと。研究の話。北方の民の記録の話。橋の話。ルーカスに何を伝えるか。


 それから、もっと先の話も、少しだけした。


 難しい話ではなかった。でも、長い話だった。


 二人で、夕方まで話した。


 ミーナは途中で気づいた。


 怖さを、話している間は、あまり感じなかった。


 全くなくなったわけではなかった。でも、話しながら感じる温かさの方が、大きかった。


 それで十分だ、とミーナは思った。


 怖さが消えることを待っていたら、何も始まらない。怖さと一緒に、でも始める。それが、今のミーナにできることだった。





 夕方、レオナルドが帰る前に、ミーナは一つだけ言った。


「答えを、言います」


「今?」


「今です」


 レオナルドは立ったまま、ミーナを見た。


「手紙に、自分が選びたい人がいると書いてくれた。平原の夜明けに、それは私だと言ってくれた。私はその時、今夜でなくていいと思った。ちゃんと言葉を選んで伝えたいと思ったから」


「はい」


「言葉を決めました」


「どんな言葉ですか」


 ミーナは少し笑った。


「難しい言葉ではありません。私もあなたを選びたい、と」


 静かな言葉だった。


 大きな声でも、熱い声でもなかった。


 でも、本当のことだった。


 誰かに言われたからではなく。正しい順序だからではなく。若いから、力があるから、そういう理由でもなく。


 ただ、選ぶ。


 自分で選ぶ。


 レオナルドは少しの間、ミーナを見ていた。


 それから、「ありがとうございます」と言った。


 感謝を言う人ではないが、今日は言った。


 その声が、今夜のミーナには十分だった。


「研究が一段落したら、辺境へ参ります」


「待っています」


「長くはかかりません」


「急ぎません」


 その言葉が嬉しくて、ミーナは笑った。


「あなたが来るまで、辺境の記録を読んで待っています。手紙もあなたは書いてくれるでしょうし」


「辺境でまた会えるのを、楽しみにしています」


 レオナルドは外套を着た。


 門のところまで、ミーナは見送りに出た。


 夕方の光が、街の屋根を橙に染めていた。


 レオナルドが門を出る前に、一度振り返った。


 ミーナは頷いた。


 彼も、頷いた。


 それだけだった。


 でも、それで二人は通じ合えた。





 その夜、ミーナは書斎に入った。


 引き出しを開けた。


 婚約破棄の夜から書き続けた便箋が入っていた。折りたたまれた紙。何枚か重なっている。


 一番古い紙を取り出した。


 あの夜の翌日、初めて書いた一行。


『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』


 続きに書き足された行たち。


『明日、魔法研究院へ行ってみる。なぜなら、行ってみたいから』


『また値段をつけられた。アルベルト様は十八歳を選んだ。それは変えられない。でも、秤から降りる方法を、私はこれから探す』


 それから後に書いた行も、同じ紙の端々に残っていた。


 孤児院のルカに「先生みたいなものじゃん」と言われた日のこと。広場のベンチで光に手をかざしたこと。レオナルドへの返事を三日書けなかったこと。


 全部が、一枚の紙の上に積み重なっていた。


 ミーナはその紙を、しばらく見た。


 今日、最後の一行を書こうと思った。


 ペンを取った。


 インクをつけた。


 そして書いた。



『答えがわかった日のことを、ここに残す。私の価値は、誰かが決めるものではなかった。私が選んで、積み重ねて、自分で確かめるものだった。今日、自分で選んだ。私の価値は、私が決める。』



 書いてから、少しの間、その言葉を見た。


 おかしな文章かもしれない、と思った。


 でも、今の自分に書けるのはこれだった。


 ミーナは紙を折った。


 いつもの引き出しではなく、本棚の奥にしまった。


 魔法論概論の隣に。十七歳の自分の書き込みが残っている、古い本の隣に。


 二つが並んで、棚の奥にある。


 いつか読み返す日が来るかもしれない。来ないかもしれない。


 どちらでも、よかった。


 書いた日があった、ということが、大事だった。





 ランプを落とす前に、ミーナは窓を少し開けた。


 夜の空気が入ってきた。夏の夜は、冬より柔らかい。刺さらない。包むような冷たさだった。


 空に、星が出ていた。


 夏の星は、秋や春よりはっきりしている。数が多く見える。


 辺境では、もっとよく見えるのだろう、とミーナは思った。


 北の夜、焚き火の傍で、老人が星を見ている。川のそばで、子どもたちが橋を叩いている。そういう場所へ、自分は行く。


 まだ見ていない景色が、先にある。


 その言葉を、ミーナは胸の中で転がした。


 怖い、とまだ思う。


 でも、まだ見ていない景色が、先にある。


 その二つが今、並んでいる。


 怖さが消えてから行くのではなく、怖さと一緒に、でも行く。


 それが、今のミーナのやり方だった。


 窓を閉めた。


 布団に入った。


 目を閉じると、庭の薔薇が思い浮かんだ。


 今日の光の中で、白く咲いていた薔薇。


 去年の秋とは違う見え方をしていた。形をなくしかけていた薔薇ではなく、ただ咲いている薔薇として見えた。


 薔薇は薔薇のままで、自分が変わっていた。


 変わった、と言うより、成長した気がする。


 三十年かけて育ってきたものが、ようやく少し、自分にもわかるようになった。


 指先が、温かかった。


 今夜も、ここにある。


 それだけは変わらない。


 ミーナは眠りに落ちた。


 静かで、深い眠りだった。


 婚約破棄の夜から、初めて感じる種類の眠りだった。


 怖いものがなくなったからではない。


 ただ、自分が自分のそばにいる、という感覚があった。


 私の価値は、私が決める。


 今日しっかりと分かったから。


 今後どんなことがあっても、自分の人生に自分で責任を持って満足いくように生きよう、とミーナはゆっくりと温かで幸せな眠りに落ちていった。



――おしまい――




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