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【連載版】「若い令嬢」を選んで、婚約者を捨てた代償  作者: 風谷 華


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第11話 静かな答え

 春の夜明けは、冬より長く薄明が続く。


 暗闇がゆっくりと溶けていく。白でも青でもない、名前のない色が東の空に広がって、それから少しずつ、世界に輪郭が戻ってくる。その過程がとても静かで、気づいた時にはもう、夜が終わっている。


 ミーナは野営地の端で、その夜明けを見ていた。


 毛布を肩にかけて、石の上に座っていた。昨夜から眠っていなかった。眠れなかったわけではなく、眠るより起きていたかった。


 平原はまだ薄暗かった。魔物が去った後の草地が、朝露に濡れて、低い光を受けてかすかに光っていた。昨夜の騒ぎが嘘のような静けさだった。


 隣に、レオナルドがいた。


 少し離れた岩に背を預けて、同じように空を見ていた。眠っているわけでも、話しかけてくるわけでもなく、ただそこにいた。


 その存在が、今夜は重たくなかった。


 重たくない、ということが、ミーナには少し不思議だった。





 夜明けが完全に来た頃、レオナルドが動いた。


「少し食べられますか」


「……はい」


 彼は野営地の方へ歩いていって、しばらくして戻ってきた。硬いパンと、温めた何かが入った金属の器を持っていた。


「豆のスープです。辺境風の、少し塩が強い」


「ありがとうございます」


 受け取って、一口飲んだ。確かに塩が強かった。でも温かかった。体の芯に、じわじわと入ってくる温かさだった。


「昨夜の礼を言わなければ」


 レオナルドが、自分の器を両手で包みながら言った。


「私のしたことではありません。ただ来ただけです」


「あなたのおかげです」


 その言葉は短くて、でも軽くなかった。ミーナはスープを飲みながら、その言葉を胸の中に置いた。


 昨日の朝、手紙を読んで、王宮からの書状を受け取って、支度をして、馬車に乗って、夜の平原に立った。それだけのことだった。怖かった。でも、行った。


 「誰かのために行動した」という事実が、ミーナの中で、静かに温かかった。





 しばらく黙ってスープを飲んでいると、野営地の方から声がした。


 振り返ると、アルベルトが歩いてきた。


 黒い外套に、傷のある鎧。戦場にいたのだろう、顔に疲労の色があった。でも背筋は伸びていて、将校の歩き方をしていた。


 ミーナを見て、少し止まった。


「ヴェルダン令嬢」


「ガルシア様」


 ミーナは立ち上がった。膝が少し痛かったが、立てた。


「昨夜は……貴女が来てくださらなければ、もっと被害が出ていた」


「魔法師団の方々が頑張っておられました。私は最後に来ただけです」


「それでも、感謝します」


 アルベルトの声は、真剣だった。社交辞令ではなかった。ミーナにはわかった。


「それから」


 少し間があった。「あの日のことを、謝りたかった。舞踏会の夜に言ったことを」


 レオナルドが静かに離れていくのを、ミーナは気配で感じた。少し距離を置いてくれているのだろう。その判断が、この人らしかった。


 ミーナはアルベルトを見た。何も言わなかった。続きを待った。


「三十歳だから価値がないと、そう言った。あれは間違っていた。言うべきことではなかった」


「間違いだったと思われるのは」


 ミーナはゆっくりと言った。「今になって私に力があるとわかったからですか」


 アルベルトは目を伏せた。


「……そうではない」


「でも、少しはそれがあるでしょう。正直に言ってください。私はもう怒りません。ただ確認したいだけです」


 長い沈黙があった。


 平原の朝の風が、草を揺らした。遠くで誰かが指示を出す声がした。


 アルベルトはゆっくりと息を吸った。


「……半分は、そうかもしれない。正直に言えば」


「ありがとうございます」


 ミーナは言った。穏やかに。怒りでもなく、悲しみでもなく。


「それが正直なところですよね。力を知ってから後悔が増した」


「全部がそうではない」


 アルベルトは顔を上げた。目に、かつて見たことのない疲れがあった。戦場の疲れとは種類が違う、もっと内側からくる疲れだった。


「あの夜、君が歩いて行く後ろ姿を見て——それから後悔していた。力を知る前から」


「そうですか」


 ミーナは短く答えた。


 その言葉を、胸の中で受け取った。受け取りながら、何も変わらない、と思った。後悔があったとしても、あの夜はあの夜のことだ。


「フィルは、いい子だ」


 アルベルトは続けた。言わずにいられない、という声だった。「明るくて、素直で、悪い子ではない。でも……話が合わない」


 ミーナは黙って聞いた。


「彼女は魔法書を読んだことがない。補給の話をしても、わからない。戦争中に何があったかを語ると、怖がる。私が十二年間考え続けてきたことを、共有できない」


「それはフィル様の問題ではないと思いますよ」


 ミーナは静かに言った。


「わかっている。私が若さを選んだのだから」


「そうです。自分で選んだことです」


 一呼吸、置いた。


「アルベルト様。一つだけ聞いてもいいですか」


「……何だ」


「あなたが好きだったのは、ミーナ・ヴェルダンという人間でしたか。それとも、若いミーナでしたか」


 アルベルトは答えなかった。


 答えられなかった、とミーナにはわかった。


「十年間待っていました。あなたが帰ってくるのを。でも帰ってきたあなたが見ていたのは、私の年齢でした。年齢で判断された。それはつまり、そういうことだと思っています」


「……そうかもしれない」


 ひどく疲れた声だった。


「私にはもう、答えられることがありません」


「なぜ?」


「やっと始まったところだからです。私の時間が、やっと。あなたの後悔に付き合う時間は、もうありません」


 穏やかに、しかし明確に言った。


 アルベルトは少し、目を細めた。


「……貴女は、変わった」


「そうですか」


「あの夜の貴女なら、もっと違う顔をしていた」


「あの夜から半年経ちました。それだけのことです」


 短く言って、ミーナは頭を下げた。


「お気をつけて、ガルシア様」


 それだけ言って、歩いた。


 白い薔薇はここにはない。平原の朝の草を踏みながら、ミーナは振り返らなかった。


 アルベルトが後ろで何か言いかけた気がしたが、聞こえなかったことにした。


 歩きながら、胸の中を確かめた。


 痛くなかった。


 正確に言えば、痛みがないのではなかった。婚約してから十二年間の重さは、体の記憶として残っている。でも、その痛みが今のミーナを縛っていなかった。


 変わった、とアルベルトは言った。


 変わったのではなく、育った、とミーナは思った。傷の周りに根が張って、今日ようやく、その根が地面をしっかりと掴んでいた。


 本当の意味で、終わっていた。





 レオナルドが戻ってきたのは、アルベルトの姿が野営地に消えてからだった。


「大丈夫ですか」


「はい」


「顔色が、さっきより良い」


「そうですか」


 ミーナは少し笑った。


「終わった気がします。あの夜の続きが、今朝で終わった気がして」


「あの夜、というのは」


「婚約破棄の夜です。半年ずっと、どこかであの夜の廊下に立っていた気がしていたのですが、今朝は、立っていない気がします」


 レオナルドはそれを聞いて、少し間を置いた。


「それはよかった」


「あなたのおかげです」


「私は何もしていない」


「そうですか?」


 ミーナはレオナルドを見た。


「研究院へ行くよう言ってくれたのは、あなたです。焚き火の老人の話をしてくれたのも。誰かが決めた正しい順序だと言ってくれたのも。手紙を送ってもいいかと聞いてくれたのも」


 レオナルドは何も言わなかった。


「一つひとつは小さいことかもしれません。でも、あなたが言ってくれた言葉を、私はずっと、一人で反芻していました。あなたがいなければ、私は今でも書斎で引き出しを開けたまま、便箋を見ていたかもしれない」


 レオナルドは空を見た。完全に夜明けになった空に、薄い雲がいくつかあった。


「あなたも」


 少し間があってから、彼が言った。


「あなたも、変えてくれた。私の見方を」


「私が?」


「ええ。辺境に帰ってから、北方の民と話す時に、気づいたことがあって」


「何に?」


「文字にならない知識、という話を、ここでした覚えがあります」


「覚えています」


「それを、あなたが『経験と観察の積み重ね』と言った。私はそれをずっと感じていたが、言葉にしていなかった。あなたに言葉にしてもらって、初めて、それを人に伝えられるようになった」


 ミーナはその話を、少し不思議に思って聞いていた。


「辺境の老人に、そのことを話しました。あなたの言葉を借りて。老人は『そうだ、そういうことだ』と言って、初めて自分の持っているものを誇ってくれた」


「それは……」


「あなたが、あの会話をしてくれたから、できたことです」


 ミーナは少しの間、何も言えなかった。


 自分が何かを変えた、という実感を、今まで持っていなかった。十二年間、何かをしてきたが、それが誰かの何かを変えたとは、思っていなかった。少なくとも、誰かにそう言われたことはなかった。


 今、言われた。


 平原の朝の光の中で、灰色の目をした男に。


「……ありがとうございます」


 声が少し、掠れた。


「泣いていいですよ」


 レオナルドが言った。


 ミーナは笑った。昨夜と同じ言葉に、今朝も笑ってしまった。


「昨夜も言いましたね、それ」


「そうですか」


「同じ人に何度も言われると、もう泣かなければならない気がしてきます」


「そう思ってくれるなら、言った甲斐があります」


 ミーナは指先で目尻を押さえた。泣かなかった。でも、目頭が熱かった。


「一つ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「昨夜の手紙の話の続きです。自分が選びたい人がいると書いてくださっていた。それが私のことだと言ってくださった」


「はい」


「その気持ちは、いつ頃からありましたか」


 レオナルドは少し考えた。


「客間で、初めて話した日から、かもしれない」


「その日から?」


「北方の民について聞いてくれた。令嬢にそれを聞かれたのは初めてだったので、驚いた。それから、魔力は若いほど強いという話に、『本当に? 根拠は何?』と十七歳のあなたが書き込んでいたと聞いて」


「……恥ずかしい」


「なぜですか。正しい問いです」


 ミーナはまた少し笑った。


「その頃は、まだただの興味だったと思います。でも手紙が続くうちに、気づいたら、辺境の日常をあなたに伝えたくて書くようになっていました。あなたが読む、と思って書くと、言葉が違ってくる」


「言葉が違ってくる?」


「より正確に書こうとする。それが何なのかを考えながら書く。辺境の川の話を書く時も、あなたが読んでどう思うかを考えながら書いていた。それが楽しかった」


 楽しかった、とレオナルドは言った。


 その言葉の重さを、ミーナは受け取った。感情を多く言葉にする人ではないことを知っているから、その一言が軽くないことがわかった。


「私も、でした」


 ミーナは言った。


「辺境の川の水量が増えているとあって、今年は橋が心配だろうと思ったことも。架け替えることにしたと返事が来て、少し安心したことも。あなたが読んでくれると思って、王都の春の様子を書いた。書くことで、自分が今日どこにいるか確かめていた、気がします」


「手紙が、証明になっていた」


「そうです。あなたに読んでもらうことで、今日もここにいることが確かになっていた」


 レオナルドは少し前を向いた。


「それは、私も同じです」


 短い言葉だったが、それで十分だった。


 十分だ、とミーナは思った。


 長い説明より、短くて確かな言葉の方が、重い。


 レオナルドはそういう人だった。





 野営地が動き始めたのは、それから間もなくだった。


 傷ついた兵士を後方へ送る準備。魔物が去った平原の確認。団長が指示を出し、若い魔法師たちが動いた。


 ミーナも動いた。


 怪我をした兵士の傍に行って、魔力を使った。古代魔法は攻撃より回復に向いている、とルーカスが言っていた。体の熱を和らげる。傷の炎症を抑える。外側から癒すのではなく、体の内側から支える。そういう使い方があると、文献に書いてあった。


 若い魔法師が隣に来た。研究院で顔を見たことのある、二十代の男性だった。


「……傷が、落ち着いてきています」


「そうですか」


「昨夜の魔法も、そうでしたが……古代魔法というのは、あんな色をしているのですか」


「そうみたいです」


「学会では、存在を否認されているのに」


「目の前で見ていても?」


 男性は少し黙った。


「……見ました。否認のしようがない、と思いました」


「ルーカス博士に伝えていただけますか。学会の否認より、目の前の事実の方が重い、と感じている研究者がいると」


「伝えます。私だけでなく、昨夜ここにいた全員が証人です」


 ミーナは頷いた。


 ルーカスが聞いたら、眼鏡の奥で目を輝かせるだろう。少年のような笑顔で。


 早く回復してほしい、と思った。また文献を広げて、一緒に頁をめくりたかった。





 昼前に、馬車が来た。


 王都へ戻る準備が整った。ミーナも同じ馬車で戻ることになった。


 出発の前に、レオナルドが来た。


「王都へ戻りますか」


「はい。研究院への報告もありますし」


「そうですか」


「あなたは?」


「もう少し、この辺りで確認することがあります。辺境の方でも報告が届いていて、このまま北へ向かうかもしれない」


 ミーナは少し、その言葉を受け取った。


「また、手紙を書きます」


「そうしてください」


「今度は、三日も待たせません」


 レオナルドの口元が、わずかに動いた。笑顔と呼ぶには静かすぎたが、確かに柔らかくなった。


「知っていましたか、三日のことを」


「返事が来た時の日付で、だいたい」


「……そうでしたか」


「三日で書けたなら、早い方だと思います」


「そんなことはないですが」


「あなたが書くのを待ちながら、辺境の春の仕事をしていました。特段、困ったことはなかった」


 ミーナはまた笑った。


「本当に、正直すぎます」


「そう言われます」


 それから、少しの間があった。


「ミーナ様」


 レオナルドが言った。


「あなたが答えを出すのに、急ぎません。私はここにいますから」


 その言葉は、短くて、でも重かった。


 急ぎません、と言った。


 十二年間、ミーナは誰かの時間に合わせて待った。今度は、ミーナが答えを出すまで、待つと言った。


「……わかりました」


 ミーナは言った。「でも、そう長くはかからないと思います」


「そうですか」


「私はもう、長く待つのが得意ではなくなったので」


 レオナルドはまた、口元が少し動いた。


「それはよかった」


 馬車が呼んでいた。


 ミーナは外套を合わせて、馬車の方へ歩き始めた。


 途中で一度だけ振り返った。


 レオナルドがそこにいた。


 平原の光の中で、いつものように静かに立っていた。ただそこにいる、という存在の仕方が、この人はずっと変わらなかった。


 ミーナは頷いた。


 レオナルドも、静かに頷いた。


 それだけで、十分だった。





 馬車の中で、ミーナは目を閉じた。


 揺れる車体の中で、昨夜から今朝までのことを、順番に思い返した。


 平原の暗闇。魔物の群れ。手のひらから溢れた琥珀の光。アルベルトとの話。夜明けのスープ。レオナルドの「来ることが、全てでした」という言葉。


 それから、アルベルトとの話。


「貴女は、もう大丈夫なのですね」


 あの問いに、ミーナは「やることがあります」と答えた。それは本当のことだった。


 大丈夫かどうかより、やることがある。


 それが、今のミーナの正直な状態だった。


 傷がなくなったわけではない。半年前の夜、廊下の壁に手をついた感触は、体の記憶としてまだある。でも、その記憶が今のミーナを定義していない。


 あの夜は確かにあった。


 でも今日は、今日だ。


 馬車が揺れた。


 ミーナは目を開けて、窓の外を見た。


 王都へ戻る道が、春の光の中に伸びていた。


 昨日来た道と、同じ道だった。でも、行きとは違う色に見えた。


 同じ道が、違う色に見える。


 今日はそういう日だった。


 指先が、温かかった。


 今日も、ここにある。


 それだけは、昨日も今日も変わらない。


 ミーナは目を閉じた。


 今度こそ、眠れる気がした。


 王都まで、まだ時間がある。


 それだけの時間を、眠りに使おうと思った。


 帰ったら、ルーカスに手紙を書く。研究院に顔を出す。ルカに、昨夜のことを話す。それからレオナルドへの手紙を、今度はすぐに書く。


 やることがある。


 それだけで、今日は十分だった。


 ミーナは眠りに落ちた。


 馬車が揺れ続けていた。


 窓の外で、春の景色が流れていった。



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