第11話 静かな答え
春の夜明けは、冬より長く薄明が続く。
暗闇がゆっくりと溶けていく。白でも青でもない、名前のない色が東の空に広がって、それから少しずつ、世界に輪郭が戻ってくる。その過程がとても静かで、気づいた時にはもう、夜が終わっている。
ミーナは野営地の端で、その夜明けを見ていた。
毛布を肩にかけて、石の上に座っていた。昨夜から眠っていなかった。眠れなかったわけではなく、眠るより起きていたかった。
平原はまだ薄暗かった。魔物が去った後の草地が、朝露に濡れて、低い光を受けてかすかに光っていた。昨夜の騒ぎが嘘のような静けさだった。
隣に、レオナルドがいた。
少し離れた岩に背を預けて、同じように空を見ていた。眠っているわけでも、話しかけてくるわけでもなく、ただそこにいた。
その存在が、今夜は重たくなかった。
重たくない、ということが、ミーナには少し不思議だった。
◆
夜明けが完全に来た頃、レオナルドが動いた。
「少し食べられますか」
「……はい」
彼は野営地の方へ歩いていって、しばらくして戻ってきた。硬いパンと、温めた何かが入った金属の器を持っていた。
「豆のスープです。辺境風の、少し塩が強い」
「ありがとうございます」
受け取って、一口飲んだ。確かに塩が強かった。でも温かかった。体の芯に、じわじわと入ってくる温かさだった。
「昨夜の礼を言わなければ」
レオナルドが、自分の器を両手で包みながら言った。
「私のしたことではありません。ただ来ただけです」
「あなたのおかげです」
その言葉は短くて、でも軽くなかった。ミーナはスープを飲みながら、その言葉を胸の中に置いた。
昨日の朝、手紙を読んで、王宮からの書状を受け取って、支度をして、馬車に乗って、夜の平原に立った。それだけのことだった。怖かった。でも、行った。
「誰かのために行動した」という事実が、ミーナの中で、静かに温かかった。
◆
しばらく黙ってスープを飲んでいると、野営地の方から声がした。
振り返ると、アルベルトが歩いてきた。
黒い外套に、傷のある鎧。戦場にいたのだろう、顔に疲労の色があった。でも背筋は伸びていて、将校の歩き方をしていた。
ミーナを見て、少し止まった。
「ヴェルダン令嬢」
「ガルシア様」
ミーナは立ち上がった。膝が少し痛かったが、立てた。
「昨夜は……貴女が来てくださらなければ、もっと被害が出ていた」
「魔法師団の方々が頑張っておられました。私は最後に来ただけです」
「それでも、感謝します」
アルベルトの声は、真剣だった。社交辞令ではなかった。ミーナにはわかった。
「それから」
少し間があった。「あの日のことを、謝りたかった。舞踏会の夜に言ったことを」
レオナルドが静かに離れていくのを、ミーナは気配で感じた。少し距離を置いてくれているのだろう。その判断が、この人らしかった。
ミーナはアルベルトを見た。何も言わなかった。続きを待った。
「三十歳だから価値がないと、そう言った。あれは間違っていた。言うべきことではなかった」
「間違いだったと思われるのは」
ミーナはゆっくりと言った。「今になって私に力があるとわかったからですか」
アルベルトは目を伏せた。
「……そうではない」
「でも、少しはそれがあるでしょう。正直に言ってください。私はもう怒りません。ただ確認したいだけです」
長い沈黙があった。
平原の朝の風が、草を揺らした。遠くで誰かが指示を出す声がした。
アルベルトはゆっくりと息を吸った。
「……半分は、そうかもしれない。正直に言えば」
「ありがとうございます」
ミーナは言った。穏やかに。怒りでもなく、悲しみでもなく。
「それが正直なところですよね。力を知ってから後悔が増した」
「全部がそうではない」
アルベルトは顔を上げた。目に、かつて見たことのない疲れがあった。戦場の疲れとは種類が違う、もっと内側からくる疲れだった。
「あの夜、君が歩いて行く後ろ姿を見て——それから後悔していた。力を知る前から」
「そうですか」
ミーナは短く答えた。
その言葉を、胸の中で受け取った。受け取りながら、何も変わらない、と思った。後悔があったとしても、あの夜はあの夜のことだ。
「フィルは、いい子だ」
アルベルトは続けた。言わずにいられない、という声だった。「明るくて、素直で、悪い子ではない。でも……話が合わない」
ミーナは黙って聞いた。
「彼女は魔法書を読んだことがない。補給の話をしても、わからない。戦争中に何があったかを語ると、怖がる。私が十二年間考え続けてきたことを、共有できない」
「それはフィル様の問題ではないと思いますよ」
ミーナは静かに言った。
「わかっている。私が若さを選んだのだから」
「そうです。自分で選んだことです」
一呼吸、置いた。
「アルベルト様。一つだけ聞いてもいいですか」
「……何だ」
「あなたが好きだったのは、ミーナ・ヴェルダンという人間でしたか。それとも、若いミーナでしたか」
アルベルトは答えなかった。
答えられなかった、とミーナにはわかった。
「十年間待っていました。あなたが帰ってくるのを。でも帰ってきたあなたが見ていたのは、私の年齢でした。年齢で判断された。それはつまり、そういうことだと思っています」
「……そうかもしれない」
ひどく疲れた声だった。
「私にはもう、答えられることがありません」
「なぜ?」
「やっと始まったところだからです。私の時間が、やっと。あなたの後悔に付き合う時間は、もうありません」
穏やかに、しかし明確に言った。
アルベルトは少し、目を細めた。
「……貴女は、変わった」
「そうですか」
「あの夜の貴女なら、もっと違う顔をしていた」
「あの夜から半年経ちました。それだけのことです」
短く言って、ミーナは頭を下げた。
「お気をつけて、ガルシア様」
それだけ言って、歩いた。
白い薔薇はここにはない。平原の朝の草を踏みながら、ミーナは振り返らなかった。
アルベルトが後ろで何か言いかけた気がしたが、聞こえなかったことにした。
歩きながら、胸の中を確かめた。
痛くなかった。
正確に言えば、痛みがないのではなかった。婚約してから十二年間の重さは、体の記憶として残っている。でも、その痛みが今のミーナを縛っていなかった。
変わった、とアルベルトは言った。
変わったのではなく、育った、とミーナは思った。傷の周りに根が張って、今日ようやく、その根が地面をしっかりと掴んでいた。
本当の意味で、終わっていた。
◆
レオナルドが戻ってきたのは、アルベルトの姿が野営地に消えてからだった。
「大丈夫ですか」
「はい」
「顔色が、さっきより良い」
「そうですか」
ミーナは少し笑った。
「終わった気がします。あの夜の続きが、今朝で終わった気がして」
「あの夜、というのは」
「婚約破棄の夜です。半年ずっと、どこかであの夜の廊下に立っていた気がしていたのですが、今朝は、立っていない気がします」
レオナルドはそれを聞いて、少し間を置いた。
「それはよかった」
「あなたのおかげです」
「私は何もしていない」
「そうですか?」
ミーナはレオナルドを見た。
「研究院へ行くよう言ってくれたのは、あなたです。焚き火の老人の話をしてくれたのも。誰かが決めた正しい順序だと言ってくれたのも。手紙を送ってもいいかと聞いてくれたのも」
レオナルドは何も言わなかった。
「一つひとつは小さいことかもしれません。でも、あなたが言ってくれた言葉を、私はずっと、一人で反芻していました。あなたがいなければ、私は今でも書斎で引き出しを開けたまま、便箋を見ていたかもしれない」
レオナルドは空を見た。完全に夜明けになった空に、薄い雲がいくつかあった。
「あなたも」
少し間があってから、彼が言った。
「あなたも、変えてくれた。私の見方を」
「私が?」
「ええ。辺境に帰ってから、北方の民と話す時に、気づいたことがあって」
「何に?」
「文字にならない知識、という話を、ここでした覚えがあります」
「覚えています」
「それを、あなたが『経験と観察の積み重ね』と言った。私はそれをずっと感じていたが、言葉にしていなかった。あなたに言葉にしてもらって、初めて、それを人に伝えられるようになった」
ミーナはその話を、少し不思議に思って聞いていた。
「辺境の老人に、そのことを話しました。あなたの言葉を借りて。老人は『そうだ、そういうことだ』と言って、初めて自分の持っているものを誇ってくれた」
「それは……」
「あなたが、あの会話をしてくれたから、できたことです」
ミーナは少しの間、何も言えなかった。
自分が何かを変えた、という実感を、今まで持っていなかった。十二年間、何かをしてきたが、それが誰かの何かを変えたとは、思っていなかった。少なくとも、誰かにそう言われたことはなかった。
今、言われた。
平原の朝の光の中で、灰色の目をした男に。
「……ありがとうございます」
声が少し、掠れた。
「泣いていいですよ」
レオナルドが言った。
ミーナは笑った。昨夜と同じ言葉に、今朝も笑ってしまった。
「昨夜も言いましたね、それ」
「そうですか」
「同じ人に何度も言われると、もう泣かなければならない気がしてきます」
「そう思ってくれるなら、言った甲斐があります」
ミーナは指先で目尻を押さえた。泣かなかった。でも、目頭が熱かった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「昨夜の手紙の話の続きです。自分が選びたい人がいると書いてくださっていた。それが私のことだと言ってくださった」
「はい」
「その気持ちは、いつ頃からありましたか」
レオナルドは少し考えた。
「客間で、初めて話した日から、かもしれない」
「その日から?」
「北方の民について聞いてくれた。令嬢にそれを聞かれたのは初めてだったので、驚いた。それから、魔力は若いほど強いという話に、『本当に? 根拠は何?』と十七歳のあなたが書き込んでいたと聞いて」
「……恥ずかしい」
「なぜですか。正しい問いです」
ミーナはまた少し笑った。
「その頃は、まだただの興味だったと思います。でも手紙が続くうちに、気づいたら、辺境の日常をあなたに伝えたくて書くようになっていました。あなたが読む、と思って書くと、言葉が違ってくる」
「言葉が違ってくる?」
「より正確に書こうとする。それが何なのかを考えながら書く。辺境の川の話を書く時も、あなたが読んでどう思うかを考えながら書いていた。それが楽しかった」
楽しかった、とレオナルドは言った。
その言葉の重さを、ミーナは受け取った。感情を多く言葉にする人ではないことを知っているから、その一言が軽くないことがわかった。
「私も、でした」
ミーナは言った。
「辺境の川の水量が増えているとあって、今年は橋が心配だろうと思ったことも。架け替えることにしたと返事が来て、少し安心したことも。あなたが読んでくれると思って、王都の春の様子を書いた。書くことで、自分が今日どこにいるか確かめていた、気がします」
「手紙が、証明になっていた」
「そうです。あなたに読んでもらうことで、今日もここにいることが確かになっていた」
レオナルドは少し前を向いた。
「それは、私も同じです」
短い言葉だったが、それで十分だった。
十分だ、とミーナは思った。
長い説明より、短くて確かな言葉の方が、重い。
レオナルドはそういう人だった。
◆
野営地が動き始めたのは、それから間もなくだった。
傷ついた兵士を後方へ送る準備。魔物が去った平原の確認。団長が指示を出し、若い魔法師たちが動いた。
ミーナも動いた。
怪我をした兵士の傍に行って、魔力を使った。古代魔法は攻撃より回復に向いている、とルーカスが言っていた。体の熱を和らげる。傷の炎症を抑える。外側から癒すのではなく、体の内側から支える。そういう使い方があると、文献に書いてあった。
若い魔法師が隣に来た。研究院で顔を見たことのある、二十代の男性だった。
「……傷が、落ち着いてきています」
「そうですか」
「昨夜の魔法も、そうでしたが……古代魔法というのは、あんな色をしているのですか」
「そうみたいです」
「学会では、存在を否認されているのに」
「目の前で見ていても?」
男性は少し黙った。
「……見ました。否認のしようがない、と思いました」
「ルーカス博士に伝えていただけますか。学会の否認より、目の前の事実の方が重い、と感じている研究者がいると」
「伝えます。私だけでなく、昨夜ここにいた全員が証人です」
ミーナは頷いた。
ルーカスが聞いたら、眼鏡の奥で目を輝かせるだろう。少年のような笑顔で。
早く回復してほしい、と思った。また文献を広げて、一緒に頁をめくりたかった。
◆
昼前に、馬車が来た。
王都へ戻る準備が整った。ミーナも同じ馬車で戻ることになった。
出発の前に、レオナルドが来た。
「王都へ戻りますか」
「はい。研究院への報告もありますし」
「そうですか」
「あなたは?」
「もう少し、この辺りで確認することがあります。辺境の方でも報告が届いていて、このまま北へ向かうかもしれない」
ミーナは少し、その言葉を受け取った。
「また、手紙を書きます」
「そうしてください」
「今度は、三日も待たせません」
レオナルドの口元が、わずかに動いた。笑顔と呼ぶには静かすぎたが、確かに柔らかくなった。
「知っていましたか、三日のことを」
「返事が来た時の日付で、だいたい」
「……そうでしたか」
「三日で書けたなら、早い方だと思います」
「そんなことはないですが」
「あなたが書くのを待ちながら、辺境の春の仕事をしていました。特段、困ったことはなかった」
ミーナはまた笑った。
「本当に、正直すぎます」
「そう言われます」
それから、少しの間があった。
「ミーナ様」
レオナルドが言った。
「あなたが答えを出すのに、急ぎません。私はここにいますから」
その言葉は、短くて、でも重かった。
急ぎません、と言った。
十二年間、ミーナは誰かの時間に合わせて待った。今度は、ミーナが答えを出すまで、待つと言った。
「……わかりました」
ミーナは言った。「でも、そう長くはかからないと思います」
「そうですか」
「私はもう、長く待つのが得意ではなくなったので」
レオナルドはまた、口元が少し動いた。
「それはよかった」
馬車が呼んでいた。
ミーナは外套を合わせて、馬車の方へ歩き始めた。
途中で一度だけ振り返った。
レオナルドがそこにいた。
平原の光の中で、いつものように静かに立っていた。ただそこにいる、という存在の仕方が、この人はずっと変わらなかった。
ミーナは頷いた。
レオナルドも、静かに頷いた。
それだけで、十分だった。
◆
馬車の中で、ミーナは目を閉じた。
揺れる車体の中で、昨夜から今朝までのことを、順番に思い返した。
平原の暗闇。魔物の群れ。手のひらから溢れた琥珀の光。アルベルトとの話。夜明けのスープ。レオナルドの「来ることが、全てでした」という言葉。
それから、アルベルトとの話。
「貴女は、もう大丈夫なのですね」
あの問いに、ミーナは「やることがあります」と答えた。それは本当のことだった。
大丈夫かどうかより、やることがある。
それが、今のミーナの正直な状態だった。
傷がなくなったわけではない。半年前の夜、廊下の壁に手をついた感触は、体の記憶としてまだある。でも、その記憶が今のミーナを定義していない。
あの夜は確かにあった。
でも今日は、今日だ。
馬車が揺れた。
ミーナは目を開けて、窓の外を見た。
王都へ戻る道が、春の光の中に伸びていた。
昨日来た道と、同じ道だった。でも、行きとは違う色に見えた。
同じ道が、違う色に見える。
今日はそういう日だった。
指先が、温かかった。
今日も、ここにある。
それだけは、昨日も今日も変わらない。
ミーナは目を閉じた。
今度こそ、眠れる気がした。
王都まで、まだ時間がある。
それだけの時間を、眠りに使おうと思った。
帰ったら、ルーカスに手紙を書く。研究院に顔を出す。ルカに、昨夜のことを話す。それからレオナルドへの手紙を、今度はすぐに書く。
やることがある。
それだけで、今日は十分だった。
ミーナは眠りに落ちた。
馬車が揺れ続けていた。
窓の外で、春の景色が流れていった。




