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【連載版】「若い令嬢」を選んで、婚約者を捨てた代償  作者: 風谷 華


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第10話 嵐と決意

 返事は、七日後に来た。


 いつもより早かった。


 封筒を手に取った瞬間、ミーナは自分の指先が少し冷たくなっていることに気づいた。指先はいつも温かいはずなのに、今日だけは違った。魔力の温度ではなく、恐れの冷たさだった。


 書斎に持っていった。


 扉を閉めた。


 封を割った。



 ヴェルダン公爵令嬢殿


 直接聞いてくれたことに、感謝します。


 噂の件、事実を申し上げます。


 マーレン王国から、打診はありました。第三王女との縁談について、王国経由で正式な書状が届いたのは、二ヶ月ほど前のことです。


 断りました。


 理由は、政略的な縁組みに乗るつもりがないことと、もう一つ。


 自分が選びたい人がいるということです。


 まだ何も申し上げる段階ではないかもしれません。でも、あなたが直接聞いてくれたので、正直に書きます。


 返事をお待ちしています。



 ミーナは手紙を読み終えた。


 もう一度、読んだ。


 三度、読んだ。


 文字は変わらなかった。


 断りました、とあった。


 自分が選びたい人がいる、とあった。


 ミーナは手紙を机の上に置いた。


 指先が、また温かくなっていた。





 しばらく、動けなかった。


 動けない、というより、動く必要がなかった。ただそこに座って、窓の外を見ていた。


 庭の薔薇が、今日は光の中にあった。白い花びらが、五月の午前の光を受けて、少し透き通って見えた。向こう側が見えそうで、見えない。そういう白さだった。


 断った。


 その事実が、ゆっくりと落ちてきた。


 噂を聞いた夜、ミーナは「やはり私では足りないのだ」と思った。その言葉が心の底から浮き上がってきた。半年かけて薄くなっていたはずの言葉が、一夜で濃くなった。


 でも違った。


 断っていた。


 打診は二ヶ月前にあったという。つまり、手紙のやりとりが始まった頃には、もう断っていた。ミーナが「返事を書くのが怖い」と三日間迷っていた頃、辺境ではすでに断っていた。


 ミーナはそのことを、しばらく胸の中で転がした。


 自分が選びたい人がいる、と書いてあった。


 それが自分のことだとは、書いていなかった。でも、この手紙の流れで、他の誰かのことだとは読めなかった。


 怖かった。


 信じることが、怖かった。


 でも。


 ミーナは自分の手を見た。指先が、温かかった。


 この温かさは、誰かに証明してもらわなくても、ここにある。


 信じることも、たぶん、同じだ。


 誰かに保証してもらってから信じるのではなく、自分で選んで信じる。


 傷つくかもしれない。


 でも、信じないことで失うものも、ある。


 ミーナはペンを取った。


 返事を書こうとした。


 その時、扉がノックされた。





「ミーナ様」


 執事のフレデリックだった。声が、いつもより少し緊張していた。


「何ですか」


「王宮から、緊急の使いが参っております。北方で、魔物の群れが」


 ミーナは立ち上がった。


「父は」


「只今、王宮へ向かわれました。ミーナ様にも、こちらの書状をと」


 フレデリックが差し出した封筒には、王家の封蝋があった。


 ミーナは受け取って、開いた。


 内容は短かった。


 王都北方の国境付近で、大規模な魔物の群れが確認された。王立魔法師団が出動したが、通常の魔力が効かない種類の魔物であることが判明した。古代魔法の使い手に協力を求める。


 ミーナは書状をもう一度読んだ。


 通常の魔力が効かない。


 古代魔法の使い手。


 ルーカスがかつて言っていた言葉を思い出した。「古代魔法は安定していて、持続力があり、深い。熾火おきびに近い」と。


 若い魔法師の白い光が届かないなら、別の光が必要だ。


 ミーナは窓の外を見た。


 庭の薔薇が、まだ光の中にあった。


 レオナルドへの返事は、まだ書いていなかった。


 でも今は、それより先にすることがあった。





 準備は、思ったより早くできた。


 厚手の外套。手袋。移動用の鞄。研究院から借りている文献の中に、魔力の制御に関する章があった。それを一冊、鞄に入れた。


 母が廊下で待っていた。


「ミーナ」


「大丈夫です」


「でも」


「お母様」


 ミーナは母を見た。


「私が行かなければ、若い魔法師たちが傷つき続けます。行けるのに行かないことを、私はたぶん、ずっと後悔します」


 母はしばらく、ミーナを見た。


 灰色の瞳が、揺れていた。でも、止めなかった。


「気をつけて」


「はい」


「帰ってきなさいよ」


「必ず、帰ってきます」


 ミーナは外套を着た。


 扉を出る前に、一度振り返った。


 廊下の奥に、書斎の扉が見えた。


 机の上に、レオナルドの手紙がある。


 返事はまだ書いていない。


 帰ってから書く、とミーナは思った。


 帰ってから、ちゃんと書く。


 それを決めてから、扉を出た。





 馬車で北へ向かった。


 途中から道が悪くなった。春の雨で地面が緩んでいて、馬車が何度か揺れた。窓の外の景色が、王都の石畳から、泥の道に変わった。木が増えた。空が低くなった。


 同行したのは、王宮から派遣された護衛が三人と、若い魔法師が二人だった。魔法師の一人は、研究院で顔を合わせたことのある、二十代の男性だった。


「ヴェルダン令嬢、本当に来てくださったんですね」


 彼は少し驚いた顔をしていた。


「はい」


「前線は、その……かなり混乱していると聞いています」


「そうですか」


「ご無理はなさらないでください。私たちが先に行きますので」


 ミーナは頷いた。


 無理はしない。でも、行く。


 その二つは、矛盾しないはずだった。


 馬車がまた揺れた。ミーナは窓の外を見た。


 空が、暗くなり始めていた。夕方が近いのではなく、雲が増えていた。重たい、灰色の雲が、北の空から流れてきていた。


 嵐が来るかもしれない、と護衛の一人が言った。


「構いません」とミーナは答えた。「進みましょう」





 前線に着いたのは、夜になってからだった。


 王立魔法師団のいる野営地は、北の平原の手前にあった。たくさんの松明が灯されていて、遠くから見ると、地面に落ちた星のようだった。でも近づくにつれて、その光が揺れすぎていることがわかった。風ではなかった。


 野営地の中に入ると、若い魔法師たちが地面に座っていた。傷を手当てしている者、息を整えようとしている者、目を閉じて何かに耐えている者。全員が疲弊していた。


「ヴェルダン令嬢」


 団長らしき男性が近づいてきた。五十代の、白髪交じりの大柄な人だった。


「遠路、ありがとうございます。状況を説明します」


 説明は短かった。


 魔物の群れは数百頭。通常の魔力では表面しか傷つけられない。何度も押し返そうとしたが、効果が薄く、消耗するばかりだった。団の三分の一が何らかの怪我を負っている。


「古代魔法が効くかどうか、確証はありません」と団長は言った。「ただ、他に手がない」


「わかりました」


「無理を言っているのは承知です。でも」


「無理ではありません」


 ミーナは答えた。


 自分でも少し驚いた。躊躇いがなかった。


「行きます」





 夜の平原に出た。


 風が強かった。雲が厚くなっていて、月が見えたり隠れたりした。草が波のように揺れた。遠くに、暗い塊が動いているのが見えた。


 魔物の群れだった。


 数が多かった。


 ミーナは立ち止まった。


 怖かった。本当に怖かった。足が、少し震えた。


 でも手のひらは、温かかった。


 あの研究院の計測室で、初めて水晶球が琥珀色に光った瞬間のことを思った。自分の手から光が溢れて、自分でも信じられなくて、ルーカスが目を輝かせていた。


 あれは本物だった。


 学会が否認しても、本物だった。


 ミーナは両手を前に出した。


 目を閉じた。


 自分の中にある、熾火おきびのような力に、意識を向けた。


 ルーカスと訓練した通り。呼吸を整える。体の奥に意識を沈める。力が、そこにいる。


 呼ぶ。


 静かに、でも確実に。


 熱さが指先から広がり始めた。


 傍にいた若い魔法師が、息を呑む音がした。


 ミーナは目を開けた。


 自分の手から、琥珀色の光が溢れていた。


 白ではなかった。金だった。深みのある、重みのある、琥珀の金色だった。研究院の水晶球で見た色と、同じ色だった。夜の平原に、その光が広がっていった。


 魔物たちが、動きを止めた。


 前列の大きな影が、低いうなり声を上げた。


 ミーナは力を解き放った。


 波のように。静かに、しかし確実に。


 夜の暗闇を染めるように、琥珀の光が広がっていった。


 魔物たちが、後退を始めた。


 一頭、また一頭。


 群れが向きを変えた。


 北へ、戻っていった。





 力が抜けたのは、魔物の最後の影が消えてからだった。


 足元がふらついた。


 誰かが肩を支えた。


 顔を上げると、レオナルドがいた。


 ミーナは少し、目を見開いた。


「なぜ」


「北方に用があって移動中でした。報告を聞いて、こちらへ」


 レオナルドの声は、いつもと変わらなかった。落ち着いていた。でも、肩を支える手は、確かな力があった。


「大丈夫ですか」


「……はい」


「顔色が」


「少し、疲れました」


「座りましょう」


 近くの岩に、二人で腰を下ろした。


 夜の平原は、静かになっていた。風が止んでいた。雲が少し切れて、月が出ていた。


 ミーナは月を見た。


 満月に近い月だった。婚約破棄の夜にも、こんな月が出ていた、とふと思った。あの夜、廊下の壁に手をついた。月明かりが白い道のように伸びていた。


 今夜の月は、同じ月だが、違う場所で見ている。


 同じ月を、違う場所で、違う自分が見ている。


「手紙を読みました」


 ミーナは言った。


「今日の昼に届いて」


「そうですか」


「断ったのですね、王女の縁談を」


「はい」


「なぜ」


 レオナルドは少し間を置いた。


「手紙に書いた通りです」


「自分が選びたい人がいる、と」


「はい」


「それは」


 ミーナは続けようとして、止まった。


 聞くのが、怖かった。


 でも。


 怖くても、聞きたい。


 それが、あの夜の廊下から今日まで来た、ミーナが少し変わったことだった。


「それは、私のことですか」


 レオナルドは、ミーナを見た。


 夜の月明かりの中で、灰色の目が静かに光っていた。


「はい」


 一言だった。


 それだけだった。


 でも、十分だった。


 ミーナは目を伏せた。


 目頭が熱くなった。


 一年近く、泣かなかった。泣きたくなったことはあった。でも泣かなかった。


 今夜は、少し泣いてもいいかもしれない、と思った。


 悲しみではなかった。


 怒りでも、痛みでも、なかった。


 ただ、長い間、堪えてきた何かが、ようやく緩み始めた感覚だった。


「泣いてもいいですよ」


 レオナルドが茶化すように言った。


 ミーナは少し笑った。笑いながら、目頭が熱かった。


「見ていないふりをしてください」


「してはいますが、難しい」


「正直すぎます」


「そう言われます」


 二人で、少しの間、黙っていた。


 月が、平原を照らしていた。


 遠くで、野営地の松明が揺れていた。


 若い魔法師たちが、傷の手当てをし合っている声が、風に乗って聞こえてきた。


 ミーナは空を見上げた。


 まだ、伝えなければならないことがある。


 王女の噂への答えは、もらった。


 でも、自分がどう答えるか。それはまだ、言っていない。


 今夜でなくていい、とミーナは思った。


 今夜は、ここまで来ることができた。


 手紙で聞いて、前線に来て、戦って、ここにいる。


 それで今夜は十分だ。


 返事は、また今度。


 ちゃんと言葉を選んで、伝える。


 今夜は、ただここにいる。


 月明かりの中で、好きな人の隣で、ただここにいたい。


 それだけのことが、今夜の全部だった。


 ミーナは目を閉じた。


 平原の静けさの中で、体が少しずつ、落ち着いていった。


 指先が、また温かかった。


 今夜も、私は私としてここに存在している。


 それだけは、確かだった。



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