第10話 嵐と決意
返事は、七日後に来た。
いつもより早かった。
封筒を手に取った瞬間、ミーナは自分の指先が少し冷たくなっていることに気づいた。指先はいつも温かいはずなのに、今日だけは違った。魔力の温度ではなく、恐れの冷たさだった。
書斎に持っていった。
扉を閉めた。
封を割った。
ヴェルダン公爵令嬢殿
直接聞いてくれたことに、感謝します。
噂の件、事実を申し上げます。
マーレン王国から、打診はありました。第三王女との縁談について、王国経由で正式な書状が届いたのは、二ヶ月ほど前のことです。
断りました。
理由は、政略的な縁組みに乗るつもりがないことと、もう一つ。
自分が選びたい人がいるということです。
まだ何も申し上げる段階ではないかもしれません。でも、あなたが直接聞いてくれたので、正直に書きます。
返事をお待ちしています。
ミーナは手紙を読み終えた。
もう一度、読んだ。
三度、読んだ。
文字は変わらなかった。
断りました、とあった。
自分が選びたい人がいる、とあった。
ミーナは手紙を机の上に置いた。
指先が、また温かくなっていた。
◆
しばらく、動けなかった。
動けない、というより、動く必要がなかった。ただそこに座って、窓の外を見ていた。
庭の薔薇が、今日は光の中にあった。白い花びらが、五月の午前の光を受けて、少し透き通って見えた。向こう側が見えそうで、見えない。そういう白さだった。
断った。
その事実が、ゆっくりと落ちてきた。
噂を聞いた夜、ミーナは「やはり私では足りないのだ」と思った。その言葉が心の底から浮き上がってきた。半年かけて薄くなっていたはずの言葉が、一夜で濃くなった。
でも違った。
断っていた。
打診は二ヶ月前にあったという。つまり、手紙のやりとりが始まった頃には、もう断っていた。ミーナが「返事を書くのが怖い」と三日間迷っていた頃、辺境ではすでに断っていた。
ミーナはそのことを、しばらく胸の中で転がした。
自分が選びたい人がいる、と書いてあった。
それが自分のことだとは、書いていなかった。でも、この手紙の流れで、他の誰かのことだとは読めなかった。
怖かった。
信じることが、怖かった。
でも。
ミーナは自分の手を見た。指先が、温かかった。
この温かさは、誰かに証明してもらわなくても、ここにある。
信じることも、たぶん、同じだ。
誰かに保証してもらってから信じるのではなく、自分で選んで信じる。
傷つくかもしれない。
でも、信じないことで失うものも、ある。
ミーナはペンを取った。
返事を書こうとした。
その時、扉がノックされた。
◆
「ミーナ様」
執事のフレデリックだった。声が、いつもより少し緊張していた。
「何ですか」
「王宮から、緊急の使いが参っております。北方で、魔物の群れが」
ミーナは立ち上がった。
「父は」
「只今、王宮へ向かわれました。ミーナ様にも、こちらの書状をと」
フレデリックが差し出した封筒には、王家の封蝋があった。
ミーナは受け取って、開いた。
内容は短かった。
王都北方の国境付近で、大規模な魔物の群れが確認された。王立魔法師団が出動したが、通常の魔力が効かない種類の魔物であることが判明した。古代魔法の使い手に協力を求める。
ミーナは書状をもう一度読んだ。
通常の魔力が効かない。
古代魔法の使い手。
ルーカスがかつて言っていた言葉を思い出した。「古代魔法は安定していて、持続力があり、深い。熾火に近い」と。
若い魔法師の白い光が届かないなら、別の光が必要だ。
ミーナは窓の外を見た。
庭の薔薇が、まだ光の中にあった。
レオナルドへの返事は、まだ書いていなかった。
でも今は、それより先にすることがあった。
◆
準備は、思ったより早くできた。
厚手の外套。手袋。移動用の鞄。研究院から借りている文献の中に、魔力の制御に関する章があった。それを一冊、鞄に入れた。
母が廊下で待っていた。
「ミーナ」
「大丈夫です」
「でも」
「お母様」
ミーナは母を見た。
「私が行かなければ、若い魔法師たちが傷つき続けます。行けるのに行かないことを、私はたぶん、ずっと後悔します」
母はしばらく、ミーナを見た。
灰色の瞳が、揺れていた。でも、止めなかった。
「気をつけて」
「はい」
「帰ってきなさいよ」
「必ず、帰ってきます」
ミーナは外套を着た。
扉を出る前に、一度振り返った。
廊下の奥に、書斎の扉が見えた。
机の上に、レオナルドの手紙がある。
返事はまだ書いていない。
帰ってから書く、とミーナは思った。
帰ってから、ちゃんと書く。
それを決めてから、扉を出た。
◆
馬車で北へ向かった。
途中から道が悪くなった。春の雨で地面が緩んでいて、馬車が何度か揺れた。窓の外の景色が、王都の石畳から、泥の道に変わった。木が増えた。空が低くなった。
同行したのは、王宮から派遣された護衛が三人と、若い魔法師が二人だった。魔法師の一人は、研究院で顔を合わせたことのある、二十代の男性だった。
「ヴェルダン令嬢、本当に来てくださったんですね」
彼は少し驚いた顔をしていた。
「はい」
「前線は、その……かなり混乱していると聞いています」
「そうですか」
「ご無理はなさらないでください。私たちが先に行きますので」
ミーナは頷いた。
無理はしない。でも、行く。
その二つは、矛盾しないはずだった。
馬車がまた揺れた。ミーナは窓の外を見た。
空が、暗くなり始めていた。夕方が近いのではなく、雲が増えていた。重たい、灰色の雲が、北の空から流れてきていた。
嵐が来るかもしれない、と護衛の一人が言った。
「構いません」とミーナは答えた。「進みましょう」
◆
前線に着いたのは、夜になってからだった。
王立魔法師団のいる野営地は、北の平原の手前にあった。たくさんの松明が灯されていて、遠くから見ると、地面に落ちた星のようだった。でも近づくにつれて、その光が揺れすぎていることがわかった。風ではなかった。
野営地の中に入ると、若い魔法師たちが地面に座っていた。傷を手当てしている者、息を整えようとしている者、目を閉じて何かに耐えている者。全員が疲弊していた。
「ヴェルダン令嬢」
団長らしき男性が近づいてきた。五十代の、白髪交じりの大柄な人だった。
「遠路、ありがとうございます。状況を説明します」
説明は短かった。
魔物の群れは数百頭。通常の魔力では表面しか傷つけられない。何度も押し返そうとしたが、効果が薄く、消耗するばかりだった。団の三分の一が何らかの怪我を負っている。
「古代魔法が効くかどうか、確証はありません」と団長は言った。「ただ、他に手がない」
「わかりました」
「無理を言っているのは承知です。でも」
「無理ではありません」
ミーナは答えた。
自分でも少し驚いた。躊躇いがなかった。
「行きます」
◆
夜の平原に出た。
風が強かった。雲が厚くなっていて、月が見えたり隠れたりした。草が波のように揺れた。遠くに、暗い塊が動いているのが見えた。
魔物の群れだった。
数が多かった。
ミーナは立ち止まった。
怖かった。本当に怖かった。足が、少し震えた。
でも手のひらは、温かかった。
あの研究院の計測室で、初めて水晶球が琥珀色に光った瞬間のことを思った。自分の手から光が溢れて、自分でも信じられなくて、ルーカスが目を輝かせていた。
あれは本物だった。
学会が否認しても、本物だった。
ミーナは両手を前に出した。
目を閉じた。
自分の中にある、熾火のような力に、意識を向けた。
ルーカスと訓練した通り。呼吸を整える。体の奥に意識を沈める。力が、そこにいる。
呼ぶ。
静かに、でも確実に。
熱さが指先から広がり始めた。
傍にいた若い魔法師が、息を呑む音がした。
ミーナは目を開けた。
自分の手から、琥珀色の光が溢れていた。
白ではなかった。金だった。深みのある、重みのある、琥珀の金色だった。研究院の水晶球で見た色と、同じ色だった。夜の平原に、その光が広がっていった。
魔物たちが、動きを止めた。
前列の大きな影が、低いうなり声を上げた。
ミーナは力を解き放った。
波のように。静かに、しかし確実に。
夜の暗闇を染めるように、琥珀の光が広がっていった。
魔物たちが、後退を始めた。
一頭、また一頭。
群れが向きを変えた。
北へ、戻っていった。
◆
力が抜けたのは、魔物の最後の影が消えてからだった。
足元がふらついた。
誰かが肩を支えた。
顔を上げると、レオナルドがいた。
ミーナは少し、目を見開いた。
「なぜ」
「北方に用があって移動中でした。報告を聞いて、こちらへ」
レオナルドの声は、いつもと変わらなかった。落ち着いていた。でも、肩を支える手は、確かな力があった。
「大丈夫ですか」
「……はい」
「顔色が」
「少し、疲れました」
「座りましょう」
近くの岩に、二人で腰を下ろした。
夜の平原は、静かになっていた。風が止んでいた。雲が少し切れて、月が出ていた。
ミーナは月を見た。
満月に近い月だった。婚約破棄の夜にも、こんな月が出ていた、とふと思った。あの夜、廊下の壁に手をついた。月明かりが白い道のように伸びていた。
今夜の月は、同じ月だが、違う場所で見ている。
同じ月を、違う場所で、違う自分が見ている。
「手紙を読みました」
ミーナは言った。
「今日の昼に届いて」
「そうですか」
「断ったのですね、王女の縁談を」
「はい」
「なぜ」
レオナルドは少し間を置いた。
「手紙に書いた通りです」
「自分が選びたい人がいる、と」
「はい」
「それは」
ミーナは続けようとして、止まった。
聞くのが、怖かった。
でも。
怖くても、聞きたい。
それが、あの夜の廊下から今日まで来た、ミーナが少し変わったことだった。
「それは、私のことですか」
レオナルドは、ミーナを見た。
夜の月明かりの中で、灰色の目が静かに光っていた。
「はい」
一言だった。
それだけだった。
でも、十分だった。
ミーナは目を伏せた。
目頭が熱くなった。
一年近く、泣かなかった。泣きたくなったことはあった。でも泣かなかった。
今夜は、少し泣いてもいいかもしれない、と思った。
悲しみではなかった。
怒りでも、痛みでも、なかった。
ただ、長い間、堪えてきた何かが、ようやく緩み始めた感覚だった。
「泣いてもいいですよ」
レオナルドが茶化すように言った。
ミーナは少し笑った。笑いながら、目頭が熱かった。
「見ていないふりをしてください」
「してはいますが、難しい」
「正直すぎます」
「そう言われます」
二人で、少しの間、黙っていた。
月が、平原を照らしていた。
遠くで、野営地の松明が揺れていた。
若い魔法師たちが、傷の手当てをし合っている声が、風に乗って聞こえてきた。
ミーナは空を見上げた。
まだ、伝えなければならないことがある。
王女の噂への答えは、もらった。
でも、自分がどう答えるか。それはまだ、言っていない。
今夜でなくていい、とミーナは思った。
今夜は、ここまで来ることができた。
手紙で聞いて、前線に来て、戦って、ここにいる。
それで今夜は十分だ。
返事は、また今度。
ちゃんと言葉を選んで、伝える。
今夜は、ただここにいる。
月明かりの中で、好きな人の隣で、ただここにいたい。
それだけのことが、今夜の全部だった。
ミーナは目を閉じた。
平原の静けさの中で、体が少しずつ、落ち着いていった。
指先が、また温かかった。
今夜も、私は私としてここに存在している。
それだけは、確かだった。




