第1話 薔薇が散る夜
王都の夜は、いつも残酷なほど美しい。
月光が大理石の床に溶け込んで、まるで冷えた銀を流したようだ。シャンデリアの光は令嬢たちのドレスに触れるたびに砕けて、小さな星の破片になって散る。笑い声が幾重にも重なり、グラスが触れ合う音が、澄んだ鈴のように会場中を満たしている。薔薇とジャスミンを混ぜたような甘い香りが、空気そのものを柔らかく染めていた。
舞踏会。
それは社交界という名の、美しい戦場だ。
ミーナ・ヴェルダン公爵令嬢は、ひっそりと壁際に立っていた。
月白色のドレス。胸元に細かなビーズ刺繍が施され、スカートは幾重にも重なったシフォンで作られている。動くたびに、夜風にそよぐ白い花びらのようにふわりと揺れた。肩には薄いレースのショールをかけ、手袋は肘まである絹製だ。
艶のある黒髪は、首の後ろで緩やかにまとめられ、真珠のピンで留められていた。白磁のような肌。鼻筋の通った横顔。深い藍色の瞳は、静かで、少し遠くを見ているような色をしていた。
かつて「白薔薇」と称えられたその姿は、今も端正だった。
けれど十二年前にそう呼ばれた声は、今夜はどこからも聞こえてこない。
三十歳。
社交界においては、それはもう「枯れ花」の年齢だった。
誰も面と向かってそう言いはしない。でも、空気でわかる。かつて話しかけてきた男性たちの視線が、ミーナを素通りして若い令嬢たちへと流れていく。その視線の流れ方は、まるで川の水が岩を避けるように、自然で、迷いがない。扇の陰で囁かれる言葉を、完全に防ぐことはできなかった。
「もうお年でしょう、ヴェルダン令嬢は」
「結婚はまだなさっていないのかしら。戦争が終わって二ヶ月にもなるのに」
「ガルシア様も、お気の毒に」
最後の言葉は、特に刺さった。
アルベルトへの同情。つまりミーナとの婚約を、不幸として語る言葉。
ミーナは十八歳の頃を思い出す。ダンスを申し込む声が絶えなかった。贈り物が毎日のように届いた。「令嬢の中で一番美しい」という言葉を、何度も聞いた。あの頃は、自分が輝いているのだとただ信じていた。
親に言われた通り、礼儀を学んだ。教師に言われた通り、魔法の基礎を身につけた。社交界の作法を覚え、笑顔の作り方を覚え、婚約者を支える良き令嬢であろうとした。それが幸せへの道だと、誰もが言っていたから。誰もが言うことを信じていたから。
そうしていれば、きっとうまくいくと思っていた。
あの頃の自分は、なぜそれを疑わなかったのだろう。
ミーナは今、壁際に立ちながら、そんなことを考えていた。
かつては熱い視線を感じた場所で、今は涼しい空気の中にいるような感覚がする。会場の中心では、まだ十代の令嬢たちが男性たちに囲まれて笑っている。蜜に集まる蝶のように。自分はもう、その蜜ではない。
それが、三十歳という年齢の現実だった。
◆
会場の中央では、今夜も男性たちが主役だった。
政治の話、戦争の功績、家の格。男性同士が語り合う声は低く、自信に満ちていた。令嬢たちはその傍らで微笑み、相槌を打ち、華やかな装飾品のように場を彩る役目を担っていた。それが社交界の、疑いようのない秩序だった。
女性に期待されているのは、若さと美しさと、良家への嫁ぎ先だ。魔力があれば多少の敬意を得られる。教養があれば「珍しい令嬢だ」と言われる。でも最終的に問われるのは、いつも同じことだった。
誰と結婚したか。子を産めるか。家に何をもたらせるか。
ミーナは十二年間、それを知りながら、それに従いながら、それでもどこかで引っかかりを感じながら生きてきた。
「ミーナ」
低い声が背後から聞こえた。
振り返ると、アルベルト・ガルシア公爵家嫡男が立っていた。
長身で、肩幅が広い。黒い礼装の燕尾服に、金の勲章が三つ。戦場帰りの男の体は、十二年前と比べて随分と逞しくなっていた。顎のラインが角張り、目元に微かな皺が刻まれている。短く刈り込んだ栗色の髪、鋭い灰褐色の瞳。整った顔立ちはそのままだったが、かつての柔らかさは消えていた。
戦争が、彼も変えたのだろう。
けれどその目の中に、かつてあった温かさはもうなかった。
ミーナはそれに気づいていた。帰国してからの二ヶ月、ずっと気づいていた。でも、認めたくなかった。
「アルベルト様」
ミーナは丁寧に礼をした。十二年越しの婚約者への礼儀を、崩さなかった。
「話がある」
アルベルトは周囲を確かめた。近くには誰もいない。それを確認してから、静かに言った。
「婚約を、解消したいと思っている」
ミーナは息を呑んだ。
いや、正確には、息を呑みそうになって、それを堪えた。
予感はあった。
帰国してから二ヶ月、アルベルトは一度もミーナに会いに来なかった。手紙も途絶えた。共通の知人を通じて、彼が王都にいることは確かめていた。それでも来なかった。社交界では彼が若い令嬢たちと踊る姿が、繰り返し目撃されていた。
それでも。
それでも、ミーナはまだ信じていたかった。
十二年間の婚約。十二年間の手紙。十二年間の祈り。
それが無駄だったとは、思いたくなかった。
「理由を、聞いてもよいですか」
声は震えなかった。自分でも驚くほど、澄んでいた。冬の湖のように、静かで、透明な声だった。
アルベルトは少し眉を上げた。怒るかと思っていたのかもしれない。あるいは泣くかと。ミーナが落ち着いて問い返したことに、彼はわずかに戸惑ったように見えた。
それから、きっぱりと言った。
「君は、もう三十歳だ」
「……はい」
「女性の魔力は若いほど強い。それは常識だ。そして社交界において、女性の価値は魔力と若さにある」
ミーナは黙って聞いていた。
「私は公爵家の跡を継ぐ。それにふさわしい妻が必要だ。若く、魔力に満ちた、社交界で輝ける女性が」
「私では、もはやその条件を満たせないと」
「……率直に言えば、そうだ」
ミーナはゆっくりと一度、目を閉じた。
舞踏会の音楽が遠くなった。ヴァイオリンの音が、遠い場所から流れてくる川の音のようになった。誰かが笑っている。グラスが触れ合う音がする。世界は何事もなく回っている。この会話の重さなど、世界は何も知らない。
(ちゃんとしていれば、うまくいくと思っていた)
胸の奥で、静かに何かが崩れた。
(親の言う通りにして、婚約者を支えて、良い令嬢でいれば。そうすれば、きっと幸せになれると信じていた)
「一つだけ、教えていただけますか」
目を開けて、ミーナはアルベルトを見た。
「戦争中、私が送り続けた手紙は、届いていましたか」
アルベルトは一瞬、口を閉じた。
「……届いていた」
「前線に届いていましたか。それとも後方に残っていましたか」
「前線に届いていた。毎月、届いていた」
「そうですか」
ミーナは少し頷いた。
「負傷兵の支援に関わりながら、毎月書きました。あなたが無事でいるよう、祈りながら書きました」
「それは……ありがたかった」
「孤児院でも働きました。補給管理も手伝いました。あなたが戦っている間、私にできることをしようと思って、できる限りのことをしていました」
「……知っている」
「それらは全部、あなたへの気持ちからしたことでした。あなたが帰ってくる国を守りたかったから。あなたの帰る場所が、少しでも良くあってほしかったから」
アルベルトは黙っていた。
「でも、今あなたが見ているのは、私ではなく私の年齢なのですね」
長い沈黙があった。
「……そうだ」
アルベルトはようやく言った。重い声だった。「そういうことに、なる」
「わかりました」
ミーナは静かに頭を下げた。「婚約解消、承知いたしました」
そして立ち上がり、音楽の流れる舞踏会の真ん中を、背筋を伸ばして歩いていった。
誰にも泣き顔を見せないまま。
アルベルトが後ろで何か言いかけた気がしたが、ミーナは振り返らなかった。
◆
廊下に出たところで、ようやく壁に手をついた。
足が震えていた。
膝が、ぐらついている。壁がなければ崩れ落ちていたかもしれない。手のひらに冷たい大理石の感触があった。それだけが今、現実だった。
胸の奥に、何か熱いものが詰まっていた。涙、ではない。もっと重くて、暗くて、出口のないもの。鉛のかたまりが、胸の底に沈んでいるような感じだった。
舞踏会の音楽は続いていた。
壁一枚を隔てて、世界は何も変わっていない。
それが今は、灰色の光のように感じた。美しいのに、温かくない。輝いているのに、届かない。
(言われた通りにしていれば、幸せになれると思っていた)
ミーナは思った。
(親に言われた通りに。教師に言われた通りに。社交界の常識通りに。婚約者を信じて、待って、支えて。それが正しい道だと思っていた)
でも、その道の先にあったのは、これだった。
(どうして私は、あの頃それを疑わなかったのだろう)
(どうして、もっと早く気づけなかったのだろう)
後悔、というには温度が低すぎる感情だった。怒りでも悲しみでもなく、ただ、冷たく、静かな疑問だった。
廊下の窓の外、夜空に月が浮かんでいた。満月に近い、大きな月だった。その月明かりが廊下の石床に細長く伸びて、白い道のようになっていた。
(若さに、向けられていたのね)
ミーナはゆっくりと悟った。
(十二年間。あの人の優しさも、気遣いも。最初に贈ってくれた白い薔薇も、珍しい本も。全部、若かった私に向けられていたもの。私という人間にではなく、「若い令嬢」というものに)
三十年、生きてきた。
でも今夜、ミーナは初めて、自分に値段がついていたことを知った。
そしてその値段が、今夜、大幅に値下がりしたことも。
ゆっくりと、ミーナは背筋を伸ばした。
壁から手を離した。
まだ足元が頼りなかったが、立てた。
今夜はここで崩れない。
崩れるのは、家に帰ってから、一人でいる時にする。
今夜は、まだここで立っていなければならない。
◆
翌朝、社交界はすでにざわめいていた。
「ガルシア公爵家嫡男が、ヴェルダン公爵令嬢との婚約を解消」
「新しい婚約者は、フィル・オルトン子爵令嬢、十八歳だそうよ」
「十二年の婚約が、一夜で解消? それは気の毒に」
「いいえ、仕方ないわ。三十歳ですもの。公爵家の妻にするには、もう遅すぎるでしょう」
「ヴェルダン令嬢は優秀な方らしいけれど、優秀なだけでは社交界では足りないのよ」
「そもそも、あの戦争がこんなに長引くとは思わなかったもの。最初は一年ほどで終わると皆おっしゃっていたでしょう」
「ええ、本当に。最初の頃は、すぐに帰ってきて結婚なさるものだとばかり」
「でもガルシア家は、姑様が厳しくて。戦時中の結婚はとんでもないと言い張って、ずっと認めなかったそうよ。おかげでヴェルダン令嬢だけが十二年も待たされることになって」
「それで帰ってきたら婚約破棄なんて……可哀想だとは思うけれど、年齢だけはどうにもならないもの」
「男性はいくつになっても価値が変わらないのに、おかしな話よね」
最後の声だけが、少し違う温度を帯びていた。でも、それ以上続かなかった。誰かが話題を変えた。そういうものだった。
噂は鳥のように飛び交い、ミーナの耳にも届いた。
実家に戻ったミーナに、父であるヴェルダン公爵は何も言わなかった。白髪交じりの太眉、貫録のある体格。いつもは堂々としている父が、今朝だけは視線を泳がせていた。
母も、何も言わなかった。薄い金髪に青みがかった灰色の瞳、ミーナによく似た輪郭を持つ母は、ただ落ち着かない目でミーナを見ていた。謝るでもなく、慰めるでもなく、ただ見ていた。
二人の目が言っていた。「どうするつもりなのか」と。
「気にしなくていい」と、ミーナ自身が言った。「私は大丈夫です」
大丈夫、というのは半分嘘だった。
でも、半分は本当だった。
泣くつもりはなかった。壊れるつもりも、腐るつもりもなかった。ただ、次に何をすればいいか、全くわからなかった。
それが今の正直なところだった。




