第12話 最初に埋まった席
伽藍堂の戸が開く音は、小さい。
意識していなければ、外の音に紛れてしまう程度だ。
その日も、レンは鍋の前に立っていた。
火加減を見て、湯の様子を確かめる。
暖簾は出ている。
それ以上でも、それ以下でもない。
先に来ていたのは、グロムだった。
いつもの席に座り、黙って丼を待っている。
視線は卓上から動かない。
次に暖簾をくぐったのは、知らない客だった。
特別目立つ格好ではない。
年齢も、職業も、種族も分からない。
ただ、戸を静かに閉め、少しだけ店内を見回した。
空いている席は、ひとつ。
その客は迷う様子もなく、そこに腰を下ろした。
音を立てないように椅子を引き、背筋を伸ばす。
誰も、何も言わない。
レンは一瞬だけ視線を向け、すぐに手元へ戻す。
それで十分だった。
注文は出なかった。
この店では、それが合図になる。
器を温め、麺を量る。
動きは変わらない。
湯気が立ち始めると、店の中に音が戻る。
グロムはその音を聞いて、わずかに姿勢を変えた。
新しい客は、じっと鍋のほうを見ている。
丼が先に置かれたのは、グロムの前だった。
次に、知らない客の前。
その順番に、意味はない。
箸が動き、啜る音が重なる。
それだけで、店は満ちていた。
しばらくして、グロムが食べ終える。
丼の底を確かめるように一度だけ覗き、席を立った。
何も言わず、暖簾をくぐる。
いつも通りだ。
残ったのは、レンと、知らない客。
その客は、ゆっくりと食べていた。
急ぐ様子も、ためらう様子もない。
時間を気にしていない食べ方だった。
食べ終えたあと、丼を少しだけ前に出す。
「……ごちそうさま」
声は小さかった。
レンは頷き、丼を下げる。
それ以上のやり取りはない。
客は席を立ち、戸の前で一度だけ立ち止まった。
振り返ることはなく、そのまま外へ出ていく。
暖簾が揺れ、元に戻る。
店の中には、再び空いた席がひとつ残った。
レンはそれを見て、特に何も思わない。
だが、器を戻すとき、無意識に同じ数を数えていた。
また埋まるかどうかは分からない。
だが、一度埋まったという事実だけは、そこに残っている。
鍋の火は、まだ落とさない。
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