第1話 湯気の向こう
鍋の中で、湯が低く鳴っている。
泡が立つほどではないが、箸を入れるとわずかに揺れ返す。
俺はその様子を見て、火をほんの少しだけ落とした。焦らせる必要はない。
暖簾は出してある。
古い布で、色ももう抜けかけているが、風に揺れる具合だけは悪くない。
通りから一本外れたこの場所まで来る人間は少ないが、それでも来るときは来る。
ここは伽藍堂。
異世界の街の片隅にある、小さなラーメン屋だ。
俺はレン・クガ。この店の店主で、やっていることは単純だ。
麺を茹で、スープを張り、器に盛って出す。それだけ。
特別な技も、誇れる腕前もない。少なくとも、自分ではそう思っている。
仕込みは朝のうちに済ませてある。
寸胴の蓋を少し開けると、湯気と一緒に匂いが立ち上った。
獣骨と香味野菜を合わせた、落ち着いた匂いだ。派手さはないが、嫌われることも少ない。
カウンターを一度、布で拭く。
意味はあまりない。もう十分にきれいだ。ただ、手を動かしていないと、考え事をしてしまう。
異世界に来た理由とか、元の世界のこととか。
そういうものは、考え始めると切りがない。ここでは必要のない話だ。
椅子の脚が、かすかに鳴った。
いつの間にか、店の奥の席に客が座っている。背の高い男で、作業着の袖をまくっている。
顔を見る前から、常連だとわかる。
「いらっしゃい」
声をかけると、男は小さくうなずいた。それだけで十分だ。注文は聞かない。どうせ、いつものだ。
麺を湯に落とす。
箸で軽くほぐすと、白い麺が静かに動き出す。湯切りをして、器に移す。スープを注ぎ、具をのせる。
動作に無駄はないが、急ぎもしない。
器をカウンターに置くと、男は何も言わずに箸を取った。
啜る音が、店内に響く。悪くない音だ。
伽藍堂は、賑やかな店ではない。
笑い声も、呼び込みもない。だが、この静けさを嫌う客も、ここには来ない。
暖簾の向こうで、風が吹いた。
次の客かもしれないし、ただ通り過ぎただけかもしれない。
どちらでもいい。
俺はまた、鍋の中の湯を見る。
今日も、伽藍堂は開いている。
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