第三話『春を待つ』
私の兄は『白津目 葉月』といって、勉強が苦手で運動が苦手で褒められるのが苦手で自己肯定感が低くて。
──でも、誰かのためなら人一倍頑張れる。優しくて、私にとって『勇者』みたいな人。
「なあ『咲希』」
そんな勇者が今、悲しそうな顔で私に語りかけます。
病院の、静かな一室。
「兄ちゃんな、ちょっと用事でしばらく来れなくなるんだ」
「うん」
「でもな、すぐに戻ってくる」
「うん」
「だからな、元気に過ごしていておくれ」
「うん」
「ほら、これ。プレゼント」
兄は泣きそうな顔で、紙袋を差し出しました。
受け取って中身を見ると数冊の本が入っていて、小説もあれば、定期的に刊行され、その度に兄が買ってきてくれる風景の写真集もありました。
今はもう外に出れないけれど、写真に切り取られた景色を観ていると、たちまちそこを歩いている気分になれて、好きなのです。
「これは……」
「それは、お母さんとお父さんに渡してくれ」
紙袋の奥に、二つの洋封筒が入ってありました。つまり、お手紙です。
「二人にはまだ言ってないの?」
「あぁ」
「そっか」
兄の用事のことも、それを母と父に伝えていないことも、私は深くは聞きませんでした。きっと言いづらいことなのでしょう。けれど心配はしていません。だって兄がすることだもの。
「もう少し、ここに居ていいか」
「うん」
──それから私たちは沢山の景色を散歩しました。
カラッと爽やかな夏の田舎や、紅葉の舞う秋の山々や、白銀世界の冬の街や、咲き誇る春の花園を。
二人、手を繋いで散歩しました。
途中で分かれ道があって、兄は私とは別の道を往くようです。
「またね」と言葉を交わして、手を振りあって、私たちはそこで暫しの別れを終えました。悲しくなどありません。それよりも、出会いが始まった事を喜びましょう。
春が終わったのなら、次の春が始まるまで、また散歩致しましょう──
──昭和44年5月29日白津目 咲希の手記より──
※『風景の写真集』というのは正確には『旅行雑誌』です。葉月が集めた旅行雑誌は鉄道を写したものが多く、その横をあえて"自分の脚で歩く"想像をして咲希は楽しんでいます。




