「聖女に相応しくない」と婚約破棄されましたが、私は聖女の替え玉です。
「エヴァニア・ブリントン──君との婚約は破棄させてもらう」
公爵家主催の舞踏会が行われたその日。
公爵家の五男であるアーサー・フィンレイの言葉に、それまで和やかだった会場の空気が一変した。
「君の数々の行いには愛想が尽きたよ。……俺は真実の愛を見つけたんだ」
芝居がかった口調のアーサーに婚約破棄を宣言されているのは、『奇跡の聖女』と呼ばれる伯爵令嬢、エヴァニア・ブリントンである。
常に美しい笑みを絶やさないと評判の聖女も、この時ばかりは言葉を失い、ただ目を見開いていた。
「……婚約破棄、ですか?」
静まり返った会場で、招待客たちの視線を一身に受けたエヴァニアが呆然と呟く。
すると、まるでそれを合図にしたかのように、招待客たちが怪訝な表情で囁きあい始めた。
「聖女様との婚約を破棄……? 一体どういうことだ」
「まさか、冗談でしょう? お二人に限ってそんなことあるわけがありませんわ」
「アーサー様は何を仰っているんだ」
たった今婚約破棄を宣言したアーサーは、そんなざわめきなど気にもしない様子でエヴァニアを睨んでいる。
そこにいつも浮かべているような柔和な笑みはない。
当然冗談という空気でもない。貴族の一人が狼狽えた様子で言った。
「まさか、本気なのか? アーサー様は本気で聖女様と婚約破棄を……? しかも聖女様のお誕生日という、このおめでたい日に?」
「それに『真実の愛』って、本気なのだとしたら馬鹿らしい話じゃなくって?」
「ああ。あの聖女様との婚約が、そんなことで破棄できるわけがないだろうに──」
ひそひそと囁き合う貴族たちの意見は、おおむねこんなところで一致した。
それもそのはずである。
貴族同士、それも聖女と公爵家の息子という大きな婚約が、真実の愛などというふざけた理由で破棄できるはずがない。
それも個人間のやり取りならまだしも、こんな舞踏会の場で堂々と宣言してしまったのだ。家名に泥を塗りたくるような愚行に、招待客たちのざわつきが次第に大きくなる。
「公爵様は大層お怒りになるだろうな」
「本当。どんな罰を下されることやら」
「こんなことに巻き込まれて、聖女様はお可哀想に──」
(……ものすごく同情されてるな)
──と、会場中から憐れみの目を向けられているエヴァニア・ブリントンは、貴族たちの想像とは裏腹に、非常に落ち着いた様子で状況を俯瞰していた。
(だって私、聖女様の『替え玉』だし)
そう吐きかけたため息を飲み込んだ彼女の名前はルアンカ。
聖女エヴァニア・ブリントンの、替え玉である。
◇◇◇
ろくでもない両親の間に産まれたルアンカは、赤子の頃から王都の孤児院で育った。
暮らしは当然貧しく、明日のご飯もあるかわからない日々が一変したのはちょうど一年前のことである。
十七歳の誕生日を迎えたその日、ブリントン伯爵家と名乗る貴族が、孤児院からルアンカを引き取ったのだ。
当時のルアンカは、見目が良いわけでもなければ頭が回るわけでもないただの孤児だった。
当然どこかの貴族家の血が入っているなんてこともない。そんな自分を引き取った理由を尋ねると、ブリントン伯爵は下卑た笑みを浮かべて言った。
「噂に聞いたよ。君、変身魔法が得意なんだって?」
「あ……はい」
「それも大層な腕前らしいじゃないか。少なくとも、孤児院の婆さんが君を手放したくないと駄々をこねるほどには腕が立つようだ」
ルアンカを育ててくれた孤児院の院長は、ルアンカを引き取りたいと申し出た伯爵に対し、幾度となく断りを入れたらしい。
しかし相手は高位貴族だ。権力を振りかざされては貧乏孤児院にできることもなく、結局ルアンカは伯爵家行きの馬車に乗ることになった。
見送りの時まで申し訳なさそうにしていた院長の顔が忘れられない。伯爵はニタニタと口角を引き上げて言う。
「ルアンカ、君にはうちの娘の『替え玉』になってもらう」
揺れる馬車の中、潜めた伯爵の声だけが響く。
「いいかい? 君はこれから『奇跡の聖女』──エヴァニア・ブリントンの役に立って死ぬために生きるんだよ」
恍惚とした様子の伯爵にどうしようもない不気味さを感じたのを、ルアンカは今でも覚えている。
この国において、聖女とは信仰の対象である。
はるか昔、毒素による汚染で危機に陥っていた国を、一人の聖女が救ったからだ。以来この国では、救世主である聖女を崇める風習が根付いたという。
聖女は代替わり制だ。先代の聖女が亡くなると、翌日国のどこかに新たな聖女が産み落とされる。
それゆえ、聖女に仕える存在である教会も必死になって探すのだが、今代の聖女探しは非常に難航した。国のどこを探しても新たな聖女が見当たらないのだ。
聖女は人々の信仰対象だ。見当たりませんでしたで済む話ではないのだが、どれだけ調査を繰り返しても聖女は見つからない。
やがて三年の月日が経過し、誰もが聖女探しを諦めかけていたところに衝撃的な報告が上がった。
なんと、ブリントン伯爵家の一人娘に突如として聖女の兆候が見られたというのだ。
当時三歳だったエヴァニアは、先代聖女が逝去した翌日に産まれた子どもだった。
当然、すでに教会による調査を受け、聖女ではないと判定されていたはずなのだが、すぐさま教会による再度の検査が行われ、ほどなくしてエヴァニアは正式に聖女であると発表がなされた。三年越しに現れた聖女に国はお祭り状態だったという。
エヴァニアが『奇跡の聖女』と呼ばれるようになったのはそれからだ。
国中が諦めていた中で現れた三歳の娘は、まさに奇跡のそのものだったのである。
「エヴァニア! ただいま、帰ったよ」
ルアンカがエヴァニアと顔を合わせたのは、孤児院から引き取られたその日のことだった。
派手な顔立ちをしたエヴァニアは父からの抱擁に眉を寄せると、部屋の入口で立ち止まるルアンカを見て、更に眉を寄せた。
「……ねえお父様、まさかその薄汚い女があたしの『替え玉』?」
エヴァニアが尋ねると、伯爵は満足げに頷く。
「ああそうだ。今後、社交の場に出るのが面倒な時はこいつを使っていいからね。可愛いお前がいつ命を狙われるとも限らないだろう?」
「ふうん……」
「こいつはお前の好きにしていいさ。お父様からの誕生日プレゼントだよ、エヴァニア」
そうにこやかに言う伯爵は、どうやら引き取ったルアンカを人として扱う気がないらしい。
院長が申し訳なさそうな顔をしていた理由の一端はこれか、と一人納得し、ルアンカはやっと自分の役割を理解した。変身魔法を使ってエヴァニアに成り代わり、社交の場に出よということらしい。
確かに、聖女はならずものに命を狙われやすい。
信仰心というのは金になるのだ。過去には聖女を攫ってまんまと身代金をせしめた大悪党もいたというし、身を守るためどうでもいい孤児を替え玉にするという思考はまあ理解できる。
「ねえ、あんた名前は?」
エヴァニアの役に立って死ねとはこのことか、と馬車での会話を思い出していると、エヴァニアが値踏みするような視線でルアンカを見やった。
「ルアンカです」
「あっそう。確か変身魔法が得意なんでしょう? それも物どころか人体まで変身させられちゃうとか」
「はい」
「効果はどれくらい持つの? 見破られたことは?」
ルアンカの全身をくまなく眺めると、エヴァニアはそのみすぼらしい姿をフッと鼻で笑う。
ルアンカは少し考えてから答えた。
「部位によりますけど、顔とか、あと片手片足をちょっと変化させる程度なら基本的に解除しない限りそのまま過ごせます。全身丸ごと他人に変身ってなるとだいたい十時間くらいが限度で……見破られたことはまだないです」
本当は半日くらいだった気もするが、半日いけますと豪語して失敗したら怒られるのは自分だ。こういう時は過少申告に限る。
「へえ、十時間。本当に?」
「はい。……あ、でも、エヴァニア様そっくりに変身するってなるともう少し長いかもしれません。背丈も同じくらいですし、年齢や性別も同じなので」
十時間というのは、あくまでも性別や年齢や体型その他諸々がまるで異なる人に変身する時の話だ。例えばそこで幸せそうに娘を眺めているブリントン伯爵に変身せよと言われれば、おおよそそのくらいで魔法が切れる。
逆に、ルアンカと身体のつくりが近いエヴァニアであれば一日、もしくはそれ以上の効果が期待できるだろう。
そう説明したルアンカの言葉を聞き終えると、エヴァニアは楽しげに瞳を歪ませた。
「……なんだ、薄汚い女の割に使えそうじゃない」
それから父親とよく似た所作で口角を釣り上げると、見下したような口調で言う。
「──よくわかった。いいわ、あたしがあんたをうまく使ってあげる」
やっぱり人として扱ってはもらえなさそうなところに来てしまったらしい。思わず吐きかけたため息を慌てて飲み込み、ルアンカは一言「光栄です」と呟いた。
こうした経緯でブリントン伯爵家に引き取られたルアンカには、空いていた物置部屋と、それから毎食の残りが与えられることとなった。
ルアンカには飛び上がるほどの高待遇である。がしかし、伯爵家に仕える使用人たちには、連れられてきた替え玉が不当な扱いを受ける可哀想な娘に見えたらしい。
使用人には顔を合わせるたび憐れむような視線を向けられ、ついでにエヴァニアにも惨めだと笑われたが、しかし孤児院育ちのルアンカにとっては本当に快適極まりない環境だった。
伯爵家の物置部屋は孤児院のリビングスペースより広かったし、食事も量が少ないとはいえ生きるには十分で、当然味も美味しい。それも冷めているのにだ。
「身代わりの存在が他人に知られるのは避けたい」という理由で部屋から滅多に出してもらえないのは不満だったが、はめ殺しの窓から眺める景色は退屈しのぎに十分だった。布団も暖かいし、少なくとも生活環境に不自由はない。
「あら、まだ食事中だったの?」
が、生活環境以外は不自由だらけだった。
伯爵家に引き取られてひと月。物置部屋で残り物のパンをもそもそと食べていたルアンカは、突然の来訪者に瞳を瞬かせた。
「可哀想に、硬いパンばかり食べて飽きないの? あたしからお父様に掛け合ってあげましょうか」
エヴァニアだ。口元を歪ませ、尖ったヒールの先をコンコンと床に打ち付けている。
途端に嫌な予感がしたルアンカは慌ててパンを飲み込み、しかし、最後の一口が喉を通る直前でルアンカは腹を蹴り飛ばされた。
飲み込み損ねたパンが衝撃で吐き出される。
エヴァニアは楽しげに笑い、汚いものを落とすようにヒールの底を床にこすりつけた。
(エヴァニアが来る前に食べきっておけばよかったな……。せっかくの食事なのにもったいないことしちゃった)
蹴られた腹がじんじんと痛む。うめきながらうずくまり、ルアンカはただひたすら痛みに耐えた。ここ最近ずっとこうだ。
エヴァニアは、なにか不愉快なことが起きたり、ストレスが溜まったりすると、ルアンカを虐げにこの物置部屋へやってくる。
ルアンカが反抗できない立場に置かれていることを知っているからだ。加えて傷や血は変身魔法で隠せるというのも都合が良く、エヴァニアはルアンカをストレス発散のおもちゃにしていた。特に気に入っていたのは蹴りだ。肋骨に入ると良い感触がする、らしい。
(『奇跡の聖女』がこれなんだから、人間って怖いよな)
まともに食らったことで乱れた呼吸を必死に整え、ルアンカはエヴァニアを見上げる。
「……なあに? その目。なにか言いたいことがあるなら言えば?」
「っ!」
それがエヴァニアの気に障ったらしい。掴んだ髪を思い切り引っ張られ、ルアンカは痛みにうめきながら首を横に振った。
「い……いいえ、なにも」
「あらそう? ならいいのだけれど。……謝罪は?」
「も、もうしわけ、ございません」
「ええ、結構。きちんと自分の立場を弁えなさいよ」
そう笑ったエヴァニアが乱暴に手を放すと、ルアンカの身体は床に叩きつけられる。
這いつくばったまま呼吸をどうにか整え、ルアンカは上機嫌に物置部屋を去るエヴァニアを見つめた。今日は蹴りが一段と強かった。相当不愉快なことがあったのだろうか。
(当たりどころが悪かったらまた骨を折るところだった。……運が良かったな)
咄嗟に身体をねじったのが功を奏したらしい。吐き出したパンを掃除しつつ、ルアンカは小さくため息を吐く。
まるで信じられない話だが、『奇跡の聖女』ことエヴァニア・ブリントンは、世間では評判の聖女だ。
社交界での評価も高く、おしとやかかつ穏やかで、聖女の名にふさわしい美麗の令嬢──と噂されているらしい。誰かを蹴り上げた話などは当然聞かないし、社交の場では猫をかぶっているのだろう。
つまり、そのぶんの鬱憤がこっちに回ってきているのだ。
再度ため息を吐き、ルアンカは肩をすくめる。
引き取られてひと月でこれでは、一年も経つ頃には折れていない骨のほうが少なくなってしまうのではなかろうか。
(……いけない、そろそろ時間だ)
窓の外では陽が高く昇り始めている。ルアンカは慌てて変身魔法であざを隠すと、いくつか歯の折れているくしで乱れた髪を梳き始めた。
ルアンカは、少し前から令嬢教育を受けさせられている。
エヴァニアの名誉を守るためだ。孤児院育ちのルアンカには当然ながら貴族令嬢としての嗜みが一つも身についておらず、マナーどころか、ダンスのステップさえ踏めやしない。
当然、令嬢らしい所作も身についておらず、このまま聖女の替え玉として社交界に出れば、エヴァニアの評判を落とすことになる。そこで、最低限の令嬢教育を叩き込まれているのだ。今日はその先生が来る日だった。
(令嬢教育とやらが終わったら、例の『替え玉』が始まるのかな)
社交の場は気難しそうなイメージしかないが、腹を蹴られることがないだけエヴァニアと過ごす時間よりはマシだろう。
ルアンカが『替え玉』としての初仕事を命じられたのは、それからまた月日が経った頃だった。
この頃になると駆け足の令嬢教育も終わりを迎え、ルアンカもそれなりに令嬢らしい振る舞いができるようになっていた。
もちろん完璧とまではいかないが、エヴァニアに成り代わるなら十分なくらいだ。レッスンの大半をさぼっているらしいエヴァニアの所作は、お世辞にも洗練されているとは言い難い。
初仕事の舞台は、とある侯爵家が主催するパーティーだった。
なんでも、エヴァニアが直前になって行きたくないと駄々をこねたらしい。とはいえ親しくしている侯爵家からの招待を無下にすることもできず、結局ルアンカが出向くことになったのだそうだ。
「いいか!? パーティーではくれぐれも余計なことをするんじゃないぞ! エヴァニアの名誉に傷が付かないよう振る舞うんだ!」
「はい」
「それから、エヴァニアに成り代わっていることが知られないようにするんだ! 変身魔法に手を抜いたら許さないぞ、完璧に仕上げろ!」
「はい」
パーティー当日の朝のことだ。物置の扉をドンドンと叩いたブリントン伯爵は、顔を合わせるなりそう怒鳴ってきた。
どうやらここに来てルアンカが娘の替え玉を務めることに不安を覚えたらしい。『聖女のために死ね』とか言ったのはそっちなのになあと思いつつ、ルアンカはぼんやりと思案する。
伯爵はああ言っているが、ルアンカ自身は、変身魔法の出来や令嬢らしい振る舞いに特段不安は感じていない。
むしろ不安なのは、エヴァニアの婚約者についてだ。
聖女の名を持つエヴァニアには、公爵令息の婚約者がいる。
名前はアーサー・フィンレイ。
五男とはいえ社交界では知らぬ者のいないフィンレイ公爵家の息子で、歳はエヴァニアの四つ上。今回のパーティーは、その婚約者とともに出席することになっていた。
(流石に婚約者は騙せないし、『替え玉』が来ることは知らされているらしいけど……気まずくならないかな)
とにかく心配なのはそこだ。周囲に怪しまれないよう、エヴァニアの婚約者とはそれなりに親しく接する必要があるのだが、何を話せばいいのか全くわからない。
(歳の近い男の子は孤児院にもいたけど……流石に公爵令息と孤児じゃ全く違うからなあ)
孤児院にいた頃は靴を両手にはめてパンパン叩きながら踊るだけで大爆笑がとれたものだが、公爵令息が相手だとまるでウケる気がしない。というかその前にエヴァニア過激派の伯爵に殺される。
一体どうしたものか、と考え、しかし答えは出ないままパーティーの時間がやって来た。
変身魔法の出来は完璧だった。
どれくらいかと言えば、廊下ですれ違ったブリントン伯爵が、エヴァニアそっくりに変身したルアンカを見て「今日も可愛いよエヴァニア」などと甘ったるい声で話しかけてきたくらいだ。
素直に「ルアンカです」と告げると顔を真っ青にしていたが、実の父でも見破れないとなれば、まず他人にバレることはないだろう。
であれば、問題点はやはり婚約者だけだ。
そんなルアンカの不安とは裏腹に、アーサー・フィンレイは拍子抜けするほど接しやすい人物だった。
「……驚いた。『替え玉』が来るって聞いていたんだけど、君、本当にエヴァニア嬢じゃないの?」
馬車でやって来たアーサーは、エヴァニアと瓜二つに変身したルアンカの姿を見るなり目を丸くする。
「はい。初めまして、ル──」
「ああいや、そんな畏まらなくたっていいんだ。それにほら、本名を知るとうっかりそっちで呼んでしまいそうになるから」
名乗ってくれるな、ということである。
納得し、ルアンカは頷いた。
「わかりました。エヴァニア・ブリントンです」
「あ、う、うん。……えーっと、今日のパーティーは君がエヴァニア嬢のふりをするってことでいいんだよね?」
「はい。精一杯がんばるので、何か不自然な点があれば遠慮なさらずご指摘ください」
こういうのは意気込みが大事だと聞く。両手で小さくガッツポーズを作ると、アーサーは苦笑した。
「不自然……そうだな。見た目はどこからどう見てもエヴァニア嬢だけど、強いて言えばちょっと硬い気がするかな」
「硬い?」
「うん。普段のエヴァニア嬢はもっと砕けた感じだし……。あとは、表情ももう少し豊かだとらしくなるかも」
「なるほど。ありがとうございます」
確かに、世間で評判の聖女が無表情で佇んでいるというのは違和感がある。
ルアンカは自身の頬をつまむと、無理やり笑顔を作るようにぐいっと上に持ち上げた。突然の変顔にアーサーが吹き出す。
「ぶふっ、……ああいや、そこまで極端に頬を持ち上げろってことじゃなくってね」
「すみません。もっと自然に笑えるよう努力します」
「はは、でもそこまで心配する必要ないよ。見た目は本当にエヴァニア嬢そっくりだから」
目尻に浮かんだ涙を拭い、アーサーは微笑む。
「俺も、戯れに嘘をついているだけで本当は本人なんじゃないかと疑ってしまったくらいだから。でも、今の変顔でようやく理解できたよ。あんなこと、エヴァニア嬢は絶対にやらないから」
変顔ではなく笑顔の練習だったのだが、なんにせよ婚約者のお墨付きがあれば安心だ。
ほっと胸を撫で下ろし、早速馬車に乗り込もうとしたところで、ルアンカは一つ聞かねばならぬことを思い出した。
「あの、エヴァニア様はあなたのことをなんと呼んでいらっしゃいますか? 不自然に思われないようにしておきたくて」
アーサーは一度目を丸くすると、少し考え込んだあとで答えた。
「『アーサー様』だよ。ぜひそう呼んでくれると嬉しいな」
頷き、ルアンカは口の中で一度「アーサー様」と呟く。
そんなアーサーの協力もあってか、ルアンカの替え玉としての初仕事はつつがなく終わった。
誰にも怪しまれることなく、令嬢教育の成果もあって、振る舞いもそれなりに様になっていたはずだ。
思いもよらぬ大成功に、ブリントン伯爵は驚きを隠せないようだった。
ルアンカがパーティーで過ごしている間、家で眠っていたらしいエヴァニアは、夕食の場で成果を淡々と報告するルアンカをただじっと眺めていた。
◇◇◇
初仕事を無事に終えてからというもの、ルアンカはたびたび替え玉の仕事を行うようになった。
なんでも、エヴァニアがパーティーに出たくないと言い出すようになったらしい。
娘に甘いブリントン伯爵はそのたび替え玉のルアンカを出席させ、そんな生活が長く続くと、ルアンカはすっかり社交の場に慣れていた。
「やだ、前より薄汚くなってるじゃない」
そんなある日。
ルアンカが住む物置部屋を訪れたエヴァニアは、足を踏み入れるなりそう眉を寄せた。
「あら、今日はもう食事を終わらせているの? 残念だわあ、飲みかけのスープをひっくり返してやった時のあんたの顔が、一番傑作なのに」
「……今日は、この後パーティーなので」
「あっそう。まあいいわ、今日は一つあんたに仕事をくれてやろうと思うの」
仕事。まるで良い予感のしない単語にルアンカの身が固まる。
エヴァニアはそんなルアンカを見下ろすと、口角を釣り上げて告げた。
「あたしに変身魔法を使いなさい。誰でもいいから顔をあたし以外の人間のものに変えて、服装はうちの使用人と同じものにするの。簡単でしょう?」
「……どうしてですか?」
「あんたが聞いたところでどうするの? 良いからさっさとやりなさいよ。得意なんでしょう? それとも自分ばかりで他人にはかけられないの?」
ルアンカは首を横に振った。変身魔法が得意なルアンカは、自分を対象にした魔法はもちろん、他者を何かに変身させることも容易く行うことができる。
(……でも、何でいきなり?)
ルアンカが意図を推し量るように見つめると、エヴァニアは盛大に舌を打った。その表情が不機嫌に歪む。
「いいからさっさとやりなさいよ。誰の家で暮らしていると思ってるの?」
「でも──」
「うるさい! 追い出されてもいいの!?」
癇癪を起こしたようにエヴァニアが叫ぶ。こうなっては手が付けられず、ルアンカは仕方なく右手をかざした。
詠唱を行うと、エヴァニアの姿や衣服が、たちまちブリントン伯爵家の使用人と瓜二つに変化する。
エヴァニアは釣り上げた瞳を満足げに歪めると、フンと鼻を鳴らした。どうやら満足したらしい。
「さっさとやればいいのよ。物分かりの悪い愚図はこれだから嫌だわ」
そう吐き捨て、エヴァニアは踵を返す。
ルアンカはその背に慌てて声をかけた。
「あの、効果時間はだいたい十時間かそこらです。解除する時は解除呪文を──」
「うるさいわね、わかってるわよ!」
バタンと、外れてしまいそうな勢いで物置部屋の扉が閉まる。
「……何がしたかったの?」
まさか変身魔法に興味を持ったわけでもあるまい。
そんなルアンカの疑問は、その日のうちに解消されることとなった。聖女の替え玉としてパーティーへ向かう道中、王都を走る馬車の窓から、記憶に新しい顔を発見したのだ。
(あれって……)
服装こそ町娘らしいものに着替えているが、王都の道を楽しげに歩いているのは、間違いなくルアンカが変身魔法をかけたエヴァニアだ。
隣には見知らぬ若い男性の姿もあり、腕を組んで顔を寄せ合う二人は、遠目から見ても恋人らしい雰囲気を漂わせている。
(あの人、王都で一体何をしているの?)
「どうかした?」
思わず食い入るように窓の外を眺めていたルアンカは、隣からかけられた声にびくりと肩を震わせた。
今日のパーティーにも同席することになっているアーサーだ。ルアンカは慌てて頭を下げた。
「あ、……す、すみません」
「ああいや、別に怒ったわけじゃないんだ。随分と熱心に見ていたから何か惹かれるものでもあったのかなと思って」
まさか『あなたの婚約者が見知らぬ男性と仲睦まじく歩いています』と言うわけにもいかず、ルアンカは視線を泳がせると、「いや別に」と早口で誤魔化す。
しかし、その反応をどう思ったか、アーサーは悪戯っぽく笑うとずいっと身を乗り出してきた。
「本当に? 何か面白いものでも見つけたんじゃないのかい?」
「ああいや違うんです、そうじゃなくって」
「どれどれ……わあ」
止める間もなく、アーサーがルアンカの肩越しに窓の外を覗き込む。
途端にルアンカの心臓は跳ね上がった。変身魔法は完璧にかけたはずだが、万が一にもバレようものなら──しかしそんな不安は、一瞬にして掻き消えた。
「えーっと……随分と、なんだ、熱いカップルだね」
苦笑し、アーサーがそろっと視線を逸らす。
どうやらあれがエヴァニアだということには気付いていないらしい。ルアンカはほっと息をつくと、つとめて冷静に返した。
「すみません。つい目が行ってしまって」
「ああいや、うん、なんだ……俺も悪かった。関心の薄い君が目を奪われていたから、大道芸でもやっていたんじゃないかと思って……。……あー、ええっと、君もその……ああいう人たちに興味を持つんだな」
露骨に気まずげである。これはこれで妙な勘違いを生んでいる気がするが、しかし否定するのもおかしな話だ。ルアンカは確固たる意志を持って頷いた。
「はい、興味があります。大いにあります」
「あ、そ、そうなんだ……」
「年頃ですので当然でございます。おかげでこのところはアーサー様とエヴァニア様はどのようなお話をされたりしているのかとそればかり考えていて」
捲し立てるルアンカに、アーサーが困ったような笑みを浮かべる。
「それはまた……随分と熱心だね」
「はい、熱心です」
「はは、そっか。でも、俺とエヴァニア嬢は大した話はしてないよ。最近は顔を合わせることも減ってしまったしね」
そうなのか。意外だ、という表情を隠さないまま、ルアンカは首を傾げた。
「婚約者なのに、ですか?」
「うん。政略結婚だしね」
「なるほど……。昨今の婚約は、政略といえど相性も重視されると聞きますが」
「そういう流れもあるらしいけど、うちはフィンレイ公爵家だからね。君も教会のことは知っているだろ?」
そう言って、アーサーは苦笑する。
「聖女に仕える信奉者たちが集まるところです。私も『替え玉』として一度お会いしたことがあります」
「そう。うちの家はその教会に携わっててさ、俺とエヴァニア嬢の婚約が決まったのもその影響なんだ。教会を運営する家の息子と聖女が婚約を結べば、色々と都合がいいから」
都合。自嘲気味に語るアーサーの言葉を反復し、ルアンカはその意を理解した。要は権益の独占だ。
きっと、教会を運営するフィンレイ公爵家は、聖女が生む金を公爵家とブリントン伯爵家以外の第三者に流したくないのだろう。ゆえに息子と婚約を結ばせ、その地位を絶対的なものにしたのだ。
「兄たちは年が離れているし、もう全員結婚してしまっていたからね。俺がちょうどよかったんだよ」
信仰は金を生む。
なるほどよく考えたものだとルアンカは感心した。貴族というのは、思った以上に権力争いが激しいらしい。
「それが宿命とはいえ、貴族の方は我々庶民が思うよりだいぶ不自由なんですね」
「ふふ、そうかもね。それをエヴァニア嬢の見た目で言われるとちょっと面白いけど」
とはいえ、当事者からしてみれば面倒なことこの上ない話だろう。アーサーの笑みは弱々しい。
「だからきっと、俺とエヴァニア嬢はさっきのカップルみたいな距離感で歩くことも、見つめ合うこともないよ。彼女は俺のことがあまり好きでないみたいだから」
その『さっきのカップル』の片割れがエヴァニアであることを知るルアンカは、何をどう答えれば良いかわからずに押し黙る。
悲しい話だ、と思う。いくら政略結婚とはいえ、アーサーはきっと婚約者としてエヴァニアとの距離を縮めようとしているに違いない。
にも関わらず、エヴァニアは変身魔法をかけてまで見知らぬ男性と歩いているのだ。
気持ちはどうあれ、せめて向き合えばいいのに──そんなルアンカの気持ちとは裏腹に、王都でエヴァニアを見かけた日から、ルアンカは『替え玉』としての役目を任されることが増えていった。
それと同時に、エヴァニアが変身魔法をかけろと押しかけてくる頻度も増えるようになる。
そんな生活が始まってまた月日が経った頃、今日も物置部屋を訪れたエヴァニアに、ルアンカはぽつりと呟いた。
「王都に愛人がいらっしゃるのですか」
「……は?」
扉を開けるなり「さっさとかけてよ」と言い放ったエヴァニアは、ルアンカの言葉に眉根を寄せる。
露骨に不機嫌そうな表情だ。
エヴァニアはじっとルアンカを見下ろすと、先の尖ったヒールでルアンカの腹を蹴り上げた。
「ぅぐっ!?」
「あんた、いつからあたしに意見できるほど偉くなったの? 勝手に詮索して気持ち悪い」
みぞおちにめり込んだ衝撃に、ルアンカは息を詰まらせて床にうずくまる。胃液が迫るような不快感と、焼けるような痛みが腹部から全身へと広がっていく。
エヴァニアはそんなルアンカの姿を冷ややかに見下ろし、まるで汚物でも見るかのような侮蔑の色を瞳に浮かべていた。
「おおかた王都で見かけでもしたんでしょうけど、だから何? あんたに関係あるの?」
「で、でも、婚約者がいらっしゃるのに、こんな騙すようなこと」
「あはは、『婚約者がいらっしゃるのに』! あのね、出自の汚いあんたにはわからないでしょうけど、貴族には貴族なりの婚約ってもんがあるの」
エヴァニアは甲高い声で笑い、ルアンカの言葉を鼻で笑う。
まるで、身分ある自分と卑しい孤児であるルアンカとでは、理解できる世界が違うのだとでも言いたげだ。ルアンカは唇を噛んだ。
「あの男はね、『奇跡の聖女』であるあたしがいることで初めて価値がつくの。わかる? つまり立場が上なのは聖女であるあたし」
「そんなの……」
「あたしが何をしようと、あの男に文句を言う筋合いなんてないの。あたしがいなきゃあんなの存在価値がないんだから」
そう言い切ると、エヴァニアは床に転がるルアンカの腕をヒールの先で踏み付ける。
「わかったらさっさとかけなさいよ。……わかってると思うけど、よそに言いふらしたりしたらあんたを家から追い出すから」
その言葉が、有無を言わせぬ最後通告だった。もはやエヴァニアの命令に抗う術はない。ルアンカは腹の痛みに顔をしかめながらも、よろよろと上半身を起こし、エヴァニアの指示通り変身魔法の詠唱を始めた。
唇から紡がれる呪文に応じて、エヴァニアを飾っていた華美なドレスがみるみるうちに素朴な使用人用のお仕着せへと変わっていく。
やがて頭のてっぺんからつま先まで別人に変身すると、エヴァニアは満足げに唇を歪めてさっさと物置部屋を出て行った。その軽い足取りは、愛人との逢瀬への期待に弾んでいるかのようだ。
(……『奇跡の聖女』が、おかしな話だな)
エヴァニアがこうして別の誰かに成り代わって王都へ出かけていることは、当然ながらブリントン伯爵家の誰も知らない。
侍女たちには「部屋で一人になりたいから、次に声を掛けるまで入ってこないように」と厳命しているようで、そのため、エヴァニア本人が日中部屋にいなくとも、特に騒ぎになることもなく、彼女の密やかな外出は誰にも気づかれずに済んでいるのだ。
小さく息をつき、ルアンカは痛む腹をさする。
「……『あたしがいなきゃ、あんなの存在価値がない』……」
アーサーを指して吐き捨てられた言葉が、静まり返った物置部屋に虚しく反響する。腹の鈍い痛みに耐えながら、ルアンカはその傲慢な響きを頭の中で繰り返した。
(酷い言い分だ。あんなに優しい人なのに)
アーサーはエヴァニアの替え玉に過ぎない存在にも気さくに接し、大して面白い反応もできないルアンカに、広い世界の話をしてくれる。
孤児であるルアンカにとって、そんなアーサーの話は本の中の冒険のようだった。孤児院から出たかと思えば物置部屋に閉じ込められているルアンカは、いつしかアーサーと会える時間をこの上なく楽しみにしていたのだ。
(……いや、何を理解した気になっているんだ。私はただの『替え玉』なのに)
自嘲がこみ上げる。エヴァニアが誰と何をしようと、自分には関係ない。ただ命じられるまま、嵐が過ぎるのを待てばいい。
それなのに、なぜアーサーのことになると、あんな風に口を出してしまったのだろう。まるで、エヴァニアの裏切りが許せないとでも言うように。
(馬鹿なことだ)
ルアンカはかぶりを振った。自分はただの替え玉で、エヴァニアの影。そんな自分が公爵家の息子に対して特別な感情を抱くなど、許されるはずも、身の程を弁えないにもほどがある。
とにかく今は、この不快な痛みや胸の疼きを忘れるしかない。ルアンカは壁に寄りかかり、そっと目を閉じた。
◇◇◇
それから数ヶ月が過ぎた。
ルアンカを取り巻く状況は何も変わっていない。
エヴァニアが「気分が乗らない」「疲れている」などと理由をつけては夜会や茶会を欠席する頻度はますます増え、そのたびにルアンカが聖女エヴァニアとしてアーサーの隣に立つ機会は増えていった。
「ねえ、向こうのテラスで少し休まない? 挨拶回りで少し疲れたんだ」
「あ、……ええ、そうしましょう」
ある貴族が主催した華やかな夜会でのことだ。
きらびやかなシャンデリアの下、人々が優雅に談笑する喧騒から離れ、二人は月明かりが差すテラスへと足を向けた。周囲に人がいないことを確認すると、ルアンカは小さく頭を下げる。
「すみません、私のことを気遣ってくださったんですよね。申し訳ないです」
「いや、俺が疲れていたのは本当だから。君も、あまりこういう騒がしい場所は得意じゃないだろ?」
「お恥ずかしながら……」
「はは、俺もだ。父には言えたものじゃないけど、静かな場所で本を読んでいる方が性に合っているからさ」
そう言って苦笑するアーサーの横顔を、ルアンカはそっと盗み見る。
時折垣間見える彼の素顔は心地よく、エヴァニアの言う『価値のない男』とは程遠い。その思慮深さや優しさは、もっと評価されるべきなのではないか。
(また、考えてしまった)
自分の立場を忘れ、アーサーに肩入れしそうになる思考を慌てて打ち消す。彼は優しいが、その優しさは万物に向けられたものだ。自分は、その恩恵を享受しているに過ぎない。
そんな自己嫌悪に陥りかけた時だった。
ホールの方から、何かが割れる鋭い音と女性の悲鳴、そして子どもの泣き声が響いてきた。
「騒がしいね。何かあったのかな」
アーサーが眉を寄せ、二人は顔を見合わせる。すぐにホールへ戻ると、中央付近で人だかりができていた。
人々の中心には、豪華な衣装を汚し、床に座り込んで泣きじゃくる小さな男の子の姿がある。そばには割れたガラスの破片が散らばり、子どもの白い膝からは赤い血がどくどくと滲み出ていた。
「まあ、大変!」「どなたか侍従を!」「医務室へ運ばないと」
周囲の大人たちは口々に叫ぶが、互いに顔を見合わせるばかりで行動に移そうとする者はいない。子どもの母親らしき女性がオロオロと涙ぐんでいる。
その光景を見た瞬間、ルアンカの身体は勝手に動いていた。人々を分け入り、子どものそばに駆け寄る。
「きみ、大丈夫?」
しゃがみこんで声をかけると、子どもはしゃくりあげながら、血の滲む膝をルアンカに見せた。ガラスでぱっくりと割れた傷口は痛々しい。
(──たすけなきゃ)
周囲の目も、自分の立場も、一瞬頭から消え去った。
ルアンカは傷口にそっと右手をかざす。手のひらに意識を集中させ、口元で詠唱を呟いた。
その瞬間、アーサーには、何かが変わったように見えた。出血がせき止められたかのように勢いを失い、痛々しい傷口がみるみるうちに消えていく。
「うん。これでもう大丈夫だよ」
ルアンカが優しく微笑むと、子どもはきょとんとした顔で自分の膝を見つめ、それからぱっと顔を輝かせた。
「ほんとだ、傷が消えちゃった……! お姉ちゃん、ありがとう!」
その場にいた誰もがあっけにとられていた。
母親らしき女性が駆け寄り、何度もルアンカに頭を下げる。
周囲からは、「さすがは聖女様だ」「奇跡を目の当たりにした」といった囁きが聞こえ始め──その喧騒から少し離れた場所で、アーサーはじっとルアンカを見つめていた。
やがて、騒ぎが少し落ち着き、子どもが母親に連れられて医務室の方へ向かったあと、アーサーは静かにルアンカのそばへ寄って尋ねた。
「……エヴァニア嬢。今のは、治癒魔法か?」
聖女が治癒魔法を扱えるという話は、アーサーも聞いたことがある。
しかし、今のエヴァニアは変身魔法でそっくりに変身しただけの『替え玉』であって、本当の聖女などではないはずだ。
では、どうしてあんなことができたのか。
ルアンカは混乱を隠せないアーサーにゆっくりと向き直る。それからふっと口角を緩めると、静かに首を横に振った。
「いいえ、アーサー様。ただ魔法で少し止血をして、その上から変身魔法で皮膚の見た目を整えただけです。治癒魔法らしく見せただけですよ」
いたずらが成功した子どものように笑ったルアンカの瞳を、アーサーは何も言わずにただじっと見つめ返す。
その双眸の奥に宿る感情を、ルアンカは読み取ることができなかった。ただ、アーサーが何か別のことを深く思案していることだけは理解できる。
しばらくの沈黙の後、アーサーはふっと息を吐き、先ほどまでの険しい表情をわずかに緩めた。
「……少し、風にあたろうか。ここは少々、人の目が多いから」
彼の視線が周囲を軽く流れる。ルアンカが頷くと、アーサーは黙って先導し、再び月明かりのテラスへとルアンカを誘った。
先ほどの喧騒が嘘のように、テラスは静まり返っていた。
アーサーは手すりに寄りかかり、しばらく夜空を眺めていたが、やがてゆっくりとルアンカに向き直る。その瞳には、先ほどとは違う強い意志の色が浮かんでいた。
「エヴァニア嬢……いや、君に、どうしても聞いておきたいことがある」
はっきりと「君」と区切ったその呼び方に、ルアンカは目を見開いた。
「もしも……」
アーサーは慎重に言葉を選ぶように、わずかな間を置いた。
「もしも、きみの家族が、あるいは近しい誰かが、許されないような大きな罪を犯していると知ったとして。その罪を告発することで、きみ自身や家族が破滅する可能性があったとしても……きみは、その罪を告発しようと思うか?」
ルアンカは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
なぜアーサーが自分にそんなことを問うのだろう。何かを試されているのだろうか。もしや有名な小説の一文なのか、と様々な思考が頭の中を巡る。
ルアンカは、目の前の青年の瞳をじっと見つめ返した。
何を目的とした問いなのかはわからない。
けれど、答えは決まっていた。
「当然です。親や兄弟──あるいは友人であるあなたが罪を抱えていようと、私は正しくあることを選びます」
その瞬間、ルアンカは、視界が晴れるような感覚を覚えた。まるで澱みが取り除かれ、進むべき道が一本、鮮明に照らし出されたかのようだった。
そうだ。この身に生まれた以上、ルアンカは正しくあるべきだ。
なぜただ言いなりになるだけの生活をしていたのだろう。罪とまでは言えずとも、変身魔法を使ってまで愛人と逢瀬を行うエヴァニアの行いは、間違いなく正しくないものだ。
それを黙って見過ごすどころか、ルアンカは彼女の指示通りに変身魔法を施し、その密会を積極的に手助けしてしまっている。
(結局、自分の生活が穏やかであればいいと思って、言いなりになっていただけだ)
一度目を閉じて開くと、晴れた視界いっぱいに、真剣な表情のアーサーが映る。
やがてアーサーは、何かを納得したかのように小さく頷いた。彼の表情は相変わらず読み取りにくいが、先ほどまでの険しさは消えているように感じられた。
「ありがとう。おかげで迷いが消えた」
「私もです」
頷き返したルアンカは、見た目こそエヴァニアの姿ながら、瞳に確かな意思を宿している。
その確かな反応に、アーサーは心から安堵したような笑みを浮かべた。
そして、もはや何の躊躇いもなく次の言葉を紡いだ。
「エヴァニア・ブリントン。今度行われる公爵家主催の舞踏会で、君との婚約を破棄させてもらう」
◇◇◇
「聖女との婚約を『真実の愛』などという戯言で破棄するなど何事だ!」
激昂する父──オルコット・フィンレイ公爵の雷のような声が、フィンレイ公爵家が主催する舞踏会の会場に響き渡った。
その鋭い眼光は、ただ一点、息子であるアーサー・フィンレイに向けられている。周囲の貴族たちは息を殺し、公爵と五男という絶対的な力関係の中で、次に何が起こるのかを固唾を飲んで見守っていた。
父の怒りは当然だ。アーサーは冷静にそう判断した。
この婚約が、フィンレイ公爵家とブリントン伯爵家とを繋ぐ上でどれほど重要なものであったか、アーサー自身が一番よく理解している。
それをこんな公衆の面前で、「真実の愛」などという貴族社会では戯言にも等しい理由で反故にしようというのだ。加えて聖女エヴァニアが涙を流しながら退室した今、父が激怒しないはずがない。
「アーサー! 聞いているのか! なぜこのような愚行を、それも聖女の誕生日などという神聖な日に!」
再び父の怒声が飛ぶ。
アーサーはゆっくりと顔を上げると、甘ったるい声で言った。
「ですから父上、私は真実の愛に目覚めたのです」
「貴様、この期に及んでそんな……!」
「政略結婚などでは本物の愛は育めないのです! 私は家などではなく、愛に生きることに決めました。たった一度の人生、愛に生きずして何に生きよと言うのですか!」
まるで悪趣味な恋愛劇をそのまま引用したかのようなセリフに、一部の貴族が堪えきれず噴き出す。
とんでもない醜態だ。フィンレイ公爵は怒りに任せて叫んだ。公爵は血管が浮き出るほど固く拳を握りしめると、その腕を振り上げ、アーサーの頬を凄まじい勢いで殴りつけた。
「まだそのような言葉を吐くか!? もはや許しておけん!」
殴られた勢いでアーサーの身体は宙を舞い、床に無様に叩きつけられる。女性たちの甲高い悲鳴がホールに響き渡った。
「アーサー・フィンレイ!」
公爵は声を絞り出すように叫んだ。
「お前のような愚か者は、もはや我がフィンレイ家の者ではない! 今この瞬間より、貴様を勘当する! 二度と我が家の敷居を跨ぐことは許さん!」
勘当──響き渡った宣言に、貴族たちの間から、どよめきともため息ともつかない声が漏れた。
聖女との婚約破棄に加え、公爵家からの勘当。アーサー・フィンレイの未来は、今この瞬間に潰えたも同然だった。少なくとも、ここにいる誰もがそう思っただろう。
だが、アーサーの心は、不思議なほど凪いでいた。
口の端に滲んだ血の味を舌で感じながらゆっくりと立ち上がる。
アーサーは誰にともなく軽く一礼すると、貴族たちの好奇の視線を浴びながら会場を出た。人気のない廊下に出ると、夜の空気が熱を持った頬を冷ましてくれる。
アーサーは静かに息を吸った。
(ようやくだ。やっと始まったよ、『替え玉』令嬢さん)
あとは、目的地へ向かうだけだ。
◇◇◇
「……今、なんと?」
──「今度行われる公爵家主催の舞踏会で、君との婚約を破棄させてもらう」
月明かりの差すテラスで告げられたその言葉に、ルアンカは数秒言葉を失った。
一体、何を言っているのだ。
訳もわからず尋ねると、アーサーは穏やかに笑う。
「婚約を破棄しようと思うんだ。エヴァニア嬢との」
「は……」
「色々と思うところがあったんだ。元々怪しいところがあると睨んではいたんだが、この間ついに疑いようのない証拠を見つけてしまってね」
諦めと呆れが混じったような複雑な苦笑を浮かべ、アーサーは一度澄んだ夜空を仰いだ。
それからひとつ息を整えると、迷いのない、はっきりとした声で言葉を続けた。
「エヴァニア・ブリントンは、聖女ではない」
ルアンカの瞳が、わずかに見開かれる。
「教会を運営するフィンレイ公爵家と、娘が偶然聖女と同日に生まれたブリントン伯爵家──その両家が共謀して担ぎ上げた偽物だ。両家は聖女とその信仰が生み出す利益を得るために、国に対して大嘘を吐いたんだよ」
淡々と、しかし揺るぎない確信をもった様子でアーサーは語る。
きっと公爵家が犯した罪に薄々勘づいていたのだろう。ルアンカは慎重に口を挟んだ。
「……聖女検査の結果を、教会の運営に携わる公爵家が偽造したということですか」
「ああ。当時の検査資料を見つけたんだ。聖女が見つからなかったのをいいことに、奴らはまんまと偽聖女を作り出したんだよ」
「それはまた、随分と……粗末な計画ですね」
ルアンカは言葉も選ばず呟いた。
聖女の代替わりは絶対だ。先代の聖女が亡くなった翌日には、必ず次代の聖女が国のどこかに産み落とされる。
つまり、どれほど巧妙に偽りの聖女を仕立て上げようと、本物の先代聖女がその生を終え、新たな聖女が誕生すれば、その事実は隠しようもないのだ。
いずれは偽りの聖女と真の聖女、二人が並び立つという明らかな矛盾が生じてしまう。
「まったく同感だ。両家は水面下で本物の聖女を探しているそうだが、まるで進展もないみたいだしね」
小さなため息と共に、アーサーの表情から柔らかな笑みが抜け落ちる。
「俺は、両家の罪を王に告発しようと思う」
「告発……?」
「ああ。数ヶ月前から父の書斎を探り、不正の証拠となる書類の写しを確保していたんだ。これを、信頼できる筋を通じて陛下に届ける手はずになっていてね」
「……先ほどの問いは、そういうことだったのですか」
「ああ。……本当は迷っていたんだ。でも、君が正しくあることを当然だと言い切ってくれたから決心がついた。もし陛下が動かれなくとも、第二、第三の矢は用意してある」
彼の言葉の重みに、ルアンカは息を詰めた。
アーサーの瞳には、確かな決意が灯っている。
「エヴァニア嬢……君ではない本物のエヴァニア嬢は、きっと今度のフィンレイ公爵家主催の舞踏会にも欠席して、代わりに『替え玉』の君に出席を命じると思う」
改めて姿勢を正し、アーサーはルアンカに向き直った。
まるで、腹心の友に秘策を打ち明けるかのようだ。ただじっと彼を見つめるルアンカに、アーサーは眉尻を下げて言う。
「察しはついているんだ。エヴァニア嬢には愛人がいるんだろ?」
「それは──」
「いいんだ。彼女ならきっと、愛人との逢瀬を選ぶだろう。なにしろ舞踏会の日はエヴァニア嬢の誕生日だから」
否定はできない。何せここ最近のエヴァニアは、社交の場を全て『替え玉』のルアンカに任せているのだ。
誕生日であればなおさら愛しい人に会いたいだろう。エヴァニアの行いは許されたことではないが、その思考だけはルアンカにも理解できないわけではない。
「だから俺は、『替え玉』の君に婚約破棄を宣言することになると思う。それだけで父上の怒りは買えるだろうけど、もし協力してもらえるなら、できれば君には思い切り傷ついた演技をしてほしい」
「……演技、ですか?」
「ああ。そうしたら俺は、きっと父上から勘当を宣言されるだろうから、そのあとで──」
「……『君を、迎えに行かせてくれないか』」
あの日、テラスで告げられた言葉を小さな声でなぞり、ルアンカは静かに目を瞑った。
テラスで話した通り、アーサーはつい先ほど、フィンレイ公爵家が主催する舞踏会の場で聖女エヴァニアとの婚約破棄を宣言した。
それにしても随分な演技だった、とルアンカは思う。
特に「真実の愛」などという台詞は、いかにも熱に浮かされた青年らしく、おかげでこちらの芝居にも熱が入った。ルアンカの演じる『婚約破棄の悲しみに泣き崩れる聖女』は、我ながら真に迫っていたと思う。
そんなルアンカに付き添って会場を後にした侍女は、咄嗟に泣きの演技を入れたルアンカを「『替え玉』にしては見事な対応力だった」と褒めつつも、事態の大きさにひどく動揺していた。
婚約破棄なんて一大事が起きたのだから当然である。彼女は主に報告せねばと血相を変えて控え室を飛び出していき、そうしてルアンカは、容易に一人になることができたのだった。
(……アーサー様は、今頃公爵に叱られている頃かな)
姿見の前に立ち、小さく息をつく。
正しくあるために行動を起こしたアーサーの姿を思い出し、ルアンカは胸に手を当てた。
変身魔法の解除呪文を口にすると、エヴァニア・ブリントンの華やかな姿はみるみるうちにその形を失い、まるで幻のように変貌していく。
やがて姿見に映ったのは、乾燥した肌にほつれた布を纏った貧相な孤児だった。とんだ詐欺だな、と内心で自嘲し、いつもの貧しい姿に戻ったルアンカは、物音ひとつ立てず控え室を滑り出た。
(待ち合わせ場所は、向こうの方だったはず)
人気のない廊下を駆けながら、ルアンカは思う。
あの日、テラスでアーサーの決意を聞いた日。
「迎えに行かせてくれないか」という言葉を聞いて、ルアンカの胸はこのまま死んでしまうのではないかというほど高鳴った。
人生で一番ドキドキした。顔が熱かった。
だから気づいた。これは、きっと恋なのだ。
(アーサー様、アーサー様。私、あなたの隣に立てるような人間でありたい)
息を切らして走りながら、ルアンカはただ愛しい人のことを思う。
彼の眩しさに恥じない人間でありたい。
彼に言ったように、正しくありたい。
──「……あんた、今なんて言ったの?」
だからルアンカは、今日も変身魔法をかけろと言って物置部屋へ押しかけてきたエヴァニアにきっぱりと言い張ったのだ。
──「あなたの行いは、婚約者への裏切りです」
──「裏切り……? アハハ、何よ、正義感にでも目覚めちゃったの? 生かしてもらってる分際でおっかしい!」
エヴァニアは高笑いして、ルアンカの顎を蹴り上げた。
──「いい? これは裏切りでもなんでもないの。なぜならアーサー・フィンレイには、聖女であるあたしの婚約者としての価値しかないから」
──「あたしがいなきゃ、五男のあいつには何の価値もないの。つまり、あたしがあいつの生きる理由になってやってるの。わかる?」
──「あたしはね、あいつと婚約を結んでやってるだけで感謝される存在なの。ハハ、あんたと同じよね」
痛みで滲む視界の中で、エヴァニアが口角を歪める。
──「『奇跡の聖女』であるあたしがいなきゃ、替え玉のあんたも婚約者のアーサーも、存在価値なんてないのよ」
わかったらさっさと変身魔法をかけろ、と続けたエヴァニアに、ルアンカはもう手段はないのだと悟った。
おそらくエヴァニアは、自身が本物の聖女ではなく、担ぎ上げられた偽聖女であるということを知らない。
元来、聖女といってもごく僅かな特別な魔法が使えるというだけで、その力を行使しない限りは、ほとんど一般人と相違ないのだ。エヴァニアは自分が聖女であると疑わずに生きてきたに違いない。
ただそれだけなら哀れな被害者で済んだはずが、彼女は臆面もなくその『聖女』という肩書きを振りかざした。
あろうことか横暴を働いた。
他者を自分がいなきゃ価値がないとまで貶めた。
それは見過ごせない悪である。だからルアンカは、今日かけたエヴァニアの変身魔法に、ちょっとした細工をした。効力を弱めたのだ。
普段ルアンカがエヴァニアにかけていた変身魔法は、およそ十時間ほどで効果が切れるものだ。
だが、今日の魔法は少しだけ効力を弱めておいた。
ルアンカの感覚が正しければ、今回の変身魔法が持続するのはせいぜい五時間程度。エヴァニアに魔法を施したのが昼前だったことを考えると、今この瞬間にもその効果は切れている可能性が高い。いや、もう切れているに違いない。
魔法が切れたと悟ったエヴァニアは、間違いなく家へ戻ろうとするだろう。
しかし、彼女は伯爵家の者に無断で外出している。家にいるはずの令嬢が王都で愛人と密会していたと知られれば、ただでさえ婚約破棄に揺れる伯爵家は、それこそ家中を揺るがす大騒動となるに違いない。
あのブリントン伯爵でさえ娘を怒鳴りつけるだろう。伯爵のことだから、『替え玉』を使いすぎたせいでアーサーの気持ちが離れたのだ、などと言ってもおかしくはない。
それがエヴァニアへの最初の罰だ。
あとは、全てが明るみに出た時に報いればいい。
「はぁっ、はぁっ……」
随分とあたりを駆け回って、ルアンカはようやく待ち合わせ場所に到着した。
そこは、公爵家が誇る美しい庭園だった。
少し進んでみると、奥が開けた場所になっている。
そこに咲いている薔薇を目印にしよう、というアーサーの言葉を思い出しながら周囲を見渡し、やがてルアンカは足を止めた。
(誰も、いない……)
色とりどりの薔薇が咲き誇るその場所に、アーサーの姿はない。
もしや、何かあったのだろうか。
ひょっとして気持ちが変わってしまったのかもしれない。向かう途中で遠目に駆けずり回る貧相な孤児の姿を見つけて、あれが本来の姿なのかと幻滅してしまって──。
「……君か?」
そんな想像が頭をよぎったその瞬間、背後から響いた声に、ルアンカは息を呑んだ。
おそるおそる振り返る。
額に汗を滲ませたアーサーが立っていた。
途端に、ルアンカの視界が涙でぼやけて滲む。
「! ご、ごめん、守衛のいないルートを通ろうと思ったら随分と回り道になってしまって……! 待たせてしまった、よな」
「ち、違うんです。嬉しくて、私」
とめどなく溢れる涙を、ルアンカは乱暴に手の甲で拭った。それでも視界は歪んだままで、アーサーの表情もはっきりと見えない。
必死に言葉を紡ごうとするルアンカの肩に、ふと何かが触れた。
涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、柔らかな笑みを浮かべたアーサーが、ルアンカの肩に上着をかけてくれている。アーサーは噛み締めるように言った。
「ああ、俺もだ。……やっと本当の君に出会えた」
「す、すみません。こんなはずじゃなかったのに」
「いいんだよ。なあ、名前が聞きたいんだ。君の名前はなんというの?」
アーサーの真剣な眼差しが、まっすぐにルアンカを射抜く。
彼の言葉には、上辺だけではない、心の底からの響きがあった。もう偽る必要はない。この人の前では、ありのままの自分でいられる。そう確信したルアンカは、一度だけ大きく息を吸い込み、震える唇をそっと開いた。
「ルアンカです」
もう、久しく名乗ることもなくなってしまった名前。
アーサーは幸せそうにそれを呼んでくれた。
「素敵な名前だ。ねえ、ルアンカ」
それからルアンカの頬に触れると、涙の跡を優しく拭いながら言う。
「君が好きだ。どうか、俺と一緒になってほしい」
返事に迷う必要はない。
大きく大きく頷いて、ルアンカは涙まみれの顔で笑ってみせた。
薔薇の香りと温かな気持ちが胸をいっぱいにする。
きっとこれ以上の幸福なんてない。すべて幻なのではないかと思えるほどの夢見心地を噛み締め、二人は公爵家の庭園を抜け出した。
これから二人は、どこか遠くへ逃げ出すつもりだ。
しかしそれも、公爵家と伯爵家の悪事を告白するまでの話だ。王に全てを告げ、両家に罰が与えられたあとは、きっと身を隠さずとも生きていけるだろう。
「ああ、そうだ」
アーサーが用意した馬車へと向かうさなか、ふとアーサーが口を開く。
「十八歳の誕生日おめでとう」
「……えっ?」
「今日だろ? 本当はプレゼントも用意したかったんだけど、流石にこんな中じゃ渡せないからさ。また落ち着いたら用意させてほしいな」
あまりにも当然のように告げられた言葉に、ルアンカは激しく動揺した。
「わ、……私、アーサー様に誕生日をお教えしたことありましたっけ?」
狼狽を隠せず尋ねると、アーサーは一度きょとんした表情を浮かべたあと、それはそれは爽やかに笑う。
「わかるよ。君も知っての通り、聖女は先代の聖女が亡くなった翌日に生まれるんだから」
もう誤魔化しても無駄だ、とでも言いたげな口ぶりだ。観念したルアンカは、細く細く息を吐いた。
「……いつから、気付いていたんですか。私が聖女だって」
「確信はなかったよ。でも、子どもの傷を治した時にまさかなって思ったんだ」
「変身魔法だって言って誤魔化したのに……」
「はは、流石にそれじゃ騙されないさ。治癒魔法は聖女が持つ特別な魔法だからね」
彼にはかなわないらしい。多少の悔しさを感じながら、ルアンカは十数年前のことを思い出す。
ルアンカがまだ幼かった頃、孤児院の庭で一緒に遊んでいた子が、派手に転んで膝をすりむいたことがある。
今思えば何でもないような傷だ。ただその子は見ている方が悲しくなるくらい泣いていて、それを不憫に思ったルアンカは、せめて血や土をどうにかしてやろうと、ハンカチで膝を拭おうとした。
その時だ。ルアンカの手と傷口が突然ぽっと光り、次の瞬間、傷口はあっという間に塞がっていた。
血相を変えて飛んできた孤児院の院長曰く、それは治癒魔法というらしい。
院長はルアンカが聖女であること、その力は今後使ってはいけないことなどを話し、それから厳しく言った。──「聖女であることは、誰にも言ってはいけないよ」と。
なぜ言ってはいけないのか、と当時は疑問に思ったものだが、しかし今になるとわかる。あの言葉はきっと、ルアンカを守るためのものだったのだ。
あの頃、世間では既に『奇跡の聖女』としてエヴァニア・ブリントンが崇め奉られていた。
そこに本物の聖女が現れたとなれば、ブリントン伯爵家が黙っているわけがない。エヴァニアという金の成る偽聖女を守るため、どんな手を使ってでもルアンカを捕らえようとしたはずだ。拉致や監禁など、造作もないことだったに違いない。
「どうかした?」
掛けられた声にふと顔を上げると、アーサーが不思議そうな表情でこちらを見つめている。
ルアンカは、それにゆっくりと首を振った。
幸せだと思った。本当の自分を認めて、愛してくれる人がいるという事実が、ルアンカの胸をいっぱいにする。
「いいえ。……行きましょう、アーサー様」
それから二人は、馬車に乗り込んで王都を出た。
程なくして、公爵令息と奇跡の聖女の婚約解消という騒ぎも収まらぬままの王都に再び激震が走る。
教会の運営に携わるフィンレイ公爵家とブリントン伯爵家が、私的な利益のために共謀し偽の聖女を仕立て上げた──そのような衝撃的な告発がなされたのだ。
この国家を揺るがす一大醜聞に対し、王家は迅速かつ厳正な対応を示した。
告発がなされてから数日のうちに、国王直々の命により特別調査委員が設置され、フィンレイ公爵家およびブリントン伯爵家に対する徹底的な調査が開始されたのだ。公爵家と伯爵家が偽聖女によって得た富も、王権の絶対的な力の前には抗う術を持たなかった。
調査が進むにつれ、聖女偽造の計画は次々と明らかになっていく。聖女検査の結果の捏造、教会内の協力者の買収、そして情報操作──その全てが、両家当主の主導で行われていたことが露見した。
やがて、王宮の大広間にて、貴族たちが見守る厳粛な雰囲気の中、フィンレイ公爵とブリントン伯爵に対する裁きが下された。
憔悴しきった表情で玉座の前に引き据えられた二人は、かつての威光など見る影もない。
結果として、フィンレイ公爵とブリントン伯爵は爵位と領地の全てを剥奪され、辺境の地への流罪が言い渡された。
罪の首謀者は両当主とされ、その家族への直接的な処罰は免れたものの、彼らに対する国民の視線が厳しさを増していったのは言うまでもない。
一方で、『奇跡の聖女』──エヴァニア・ブリントンは、その栄光の日々とは裏腹に、今や見る影もなくその輝きを失い、廃人同様の末路を辿っていると噂されていた。
エヴァニアは、父である伯爵たちが裁かれた王宮の大広間で自らが偽物の聖女であったという真実を突きつけられ、激しく動揺したらしい。
怒り狂って父に詰め寄り、かと思えば慟哭し、なだめようとした侍女を殴り付けて暴れ、そのまま兵士たちによって退室させられたそうだ。それからは魂が抜けたように気力を無くし、今ではブツブツと何かを呟きながらベッドの上で生活しているのだという。
「ルアンカ、行ってくるよ」
──そんな混乱とは少し離れたのどかな町で、二人は暮らしていた。
キッチンに立つルアンカが振り返ると、正装に身を包んだアーサーは家を出るところだった。
ルアンカは野菜を切っていた包丁を置くと、慌ててアーサーに駆け寄った。
「もうそんな時間ですか?」
「うん。話が長くなるだろうからって、国王陛下が随分と早い時間を指定してきてね」
「な、なるほど……。気を付けて行ってきてくださいね」
「もちろん。でも残念だなあ、こののどかな生活ももう終わりか」
こぢんまりした小屋を見渡し、アーサーが深く深くため息を吐く。その仕草がまた愛らしくて、ルアンカはくすりと笑った。
「仕方ないですよ。アーサー様は公爵家と伯爵家の悪事を暴いた『英雄』らしいですから」
「勝手にそう呼んでるだけだよ。……はあ、せっかく静かに暮らしてたのに、また近いうちから貴族様か。忙しくなるなあ」
そうぼやくアーサーは、偽聖女の一件を告発して暴いた立役者として、国民の間ではすっかり英雄として持ち上げられている。
その上、一連の功績が評価され、剥奪されたフィンレイ公爵位を彼に与えようという動きまであるとのことだ。アーサーはこの通り乗り気ではないようだが、国王陛下の申し出となれば、そう易々と断れるものではないだろう。
そしてきっと、何だかんだと言って貴族としての責務を完璧にこなしてしまうのだ。
まるでこれからの運命を悟ったかのように、ルアンカは柔らかく微笑む。アーサーはその表情を見つめたまま、壊れ物に触れるような手つきで、そっとルアンカの身体を抱きしめた。
「アーサー様? どうかなさいました?」
「……しばらくゆっくりできなさそうだから、今のうちに抱きしめておく」
「ふふ、いつでもいいのに」
相変わらず華奢ではあるものの、どこかほんの少しだけ肉付きの戻ったルアンカの手が、アーサーの背をゆっくりと撫でる。
時間は刻々と過ぎてゆく。
ただそれでも、二人の間に流れるこのひとときだけは、まるで世界の喧騒から切り離されたように、どこまでも穏やかに、そしてゆっくりと過ぎていくのだった。
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『婚約破棄されたので就活を始めたら、超絶ホワイトな隣国に引き抜かれました』
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