敵国に売られた令嬢は皇子に溺愛される
夕食の後、アーシャがいつも通り庭の縁側で1人座り込んでいると、母と妹の声が聞こえてきた。
「さあ、たっぷりおめかししないとね。今日、これから来られるのは、かの名門ウンディーネ学院でも秀才の誉れも高いノルウィン公子よ」
「お姉様は?」
「あんな奴、追い出していいわよ。家に居られても辛気臭くて敵わないわ」
「それもそうね」
2人の嘲るような話し声を聞いて、アーシャはそよ風に耳を澄ますだけだった。
母ゾフィーの妹贔屓は今に始まったことではない。
それに嵩を着た妹ターニャの意地悪も。
アーシャは華やかな妹ターニャに比べて、容姿も地味だし、おしゃべりも面白くない、気の利いたお世辞も言えない。
社交好きな母がアーシャを疎ましく思い、妹のターニャを可愛がるのは当然の成り行きだった。
妹による根回しの成果もあって、アーシャは社交場から全て締め出されている状態だ。
おかげで同年代の娘達が次々と結婚を決める中、すっかり行き遅れてしまった。
今では、来客のもてなしからも外されるようになっている。
こうして庭の縁側以外、家の中に落ち着ける場所がなくなって久しい。
なので、多少の嘲りを受けようとも今さら傷付くようなことはなかった。
それに母妹の嫌味を聞かされるのもあと少しの間だけだ。
アーシャはもうすぐ敵国に売られるのだから。
レギオナ帝国。
近年、皇子ワイアットの改革の下、急速に力をつけ、勃興した大国だ。
地の精霊魔法圏最大の陸軍国として頭角を現し、水の精霊魔法圏の近隣諸国をも圧迫している。
アーシャの住むリーン公国もその例外に漏れない。
レギオナ帝国の皇子ワイアットは、リーン公国に対し自国の軍隊の自由な通行および補給を要求してきた。
小国であるリーン公国は、この危機に際してあっさりとレギオナ帝国の皇子にこうべを垂れた。
他の近隣諸国も呆れるほどの弱腰ぶりである。
こうしてリーン公国はその素早い翻意によって、どうにか友好同盟にありつこうとするものの、レギオナ帝国の皇子は、なぜか我が国の令嬢をご所望だという。
レギオナ帝国軍を歓迎するパーティーにおいて、リーン公国の貴婦人達を出席させるよう要求してきたのだ。
この恐ろしい申し出にリーン公国の御令嬢達は恐れ慄くばかりで、普段は社交界に意気揚々と繰り出す彼女らも突然の心身の不調を訴え、せっかくのパーティーを急遽欠席するのであった。
これでは皇子の要望に応えられない、とリーン公国の高官達が困り果てているところに、アーシャの母親ゾフィーが名乗りをあげた。
「あら、それならうちにちょうどいい年頃の娘がいますわ」
アーシャを厄介払いしたいルゥ家と、レギオナの要望に応えなければならない政府高官の間で利害が一致したというわけである。
アーシャはいつになく愛想のいい母親に急き立てられて、買い物に出かけた。
政府から公金をもらったゾフィーは、ルゥ家としては規格外に豪華な衣装をアーシャに着せるのであった。
アーシャが生贄に捧げられると聞いて、最初はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべていたターニャも、アーシャの煌びやかなドレス姿を見て、目を丸くし、最後の方はぶすっとして不貞腐れる始末であった。
実の娘にも冷ややかなゾフィーであったが、こういうことにかけては抜群の手腕を発揮した。
そうして、ついにレギオナ帝国の皇子率いる第一軍がリーン公国の首都リミオネに進駐する日がやってきた。
果たしてどんな野獣共がやってくるのか。
戦々恐々としていた街の人々は、中央通りを歩いてくるレギオナ帝国の精鋭部隊に目を見張った。
数十年前までは、遊牧の民であったレギオナ人。
馬や羊と共に暮らし、その乳と肉のみを食して暮らす野蛮な民族、近年、バラバラであった部族を統合し、急速に都市での生活を身に付けたが、魔法文明圏ではいまだに野蛮な民族とのイメージが拭い切れていないレギオナ人。
ところが、実際にこうして進駐してくる彼らを見たリミオネ民の反応はどうしたことだろう。
この国では見られないエキゾチックな黄色の瞳。
屈強な肉体の中にも優美さを備え、野生的な風貌の中にも都会的な物腰柔らかさが見られ、一人一人が剛力無双の勇者であるにもかかわらず、その一糸乱れぬ行進ぶりは整然と統率されており、皇子への忠誠心の高さが伺える。
リミオネの人々は一目でレギオナの精兵達に心奪われてしまった。
街はすっかりお祭り騒ぎになった。
恐ろしさと野蛮さばかり強調されていた敵国の兵士達だったが、いざ街の中央通りにその姿を見せるや、その美々しく着飾った精悍な男達に街の令嬢達は色めき立つ。
レギオナの正規軍が屋敷の前を通り、柔らかな微笑みが向けられるだけで、黄色い声をあげ、感激のあまり花瓶に差してあった花を2階から放り投げる娘もいるほどであった。
そうして、ひと時の華々しいパレードに心奪われ、体調不良もどこ吹く風、元気を取り戻した街のご令嬢達であったが、今度は深刻なうつ症状に見舞われる。
なぜ、自分達はレギオナの皇子を迎えるパーティーを欠席してしまったのだろう。
なぜ、この街に来たばかりの皇子にいの一番にご挨拶するという栄誉ある役割をみすみす手離してしまったのだろう。
レギオナの兵士達を見た今となっては、自分達の愚かしさを呪うばかりであった。
彼女らは海よりも深い後悔に苛まれながら、1人パーティーで皇子をもてなすアーシャを恨めしく見送るほかなかった。
VIP待遇の馬車で会場まで送り届けられたアーシャは、政府高官達と一緒に皇子をお迎えするテーブルについた。
「皇子はまもなく来られます」
一緒についてきた政府高官の者は、初め皇子がアーシャ一人で満足してくれるかどうか不安そうにしていたが、居並ぶ皇子の側近達の反応を見て、少し安堵したようだった。
アーシャも意外な思いだった。
というのも、彼らが思った以上にアーシャを美人とみなしてくれたからだった。
なるほど、流石に皇子の側近だけあって、みな兵士として優秀なだけでなく、宮廷風の躾も行き届いており、洗練された物腰の者達であった。
また、その財力も計り知れない。
レギオナ帝国にはリーン公国の貴族屋敷を遥かに超える煌びやかな宮殿があるとは聞いていたが、これほどとは。
彼らの身に付けている宝飾品を見るだけでも、レギオナ宮廷の豪華さが見て取れる。
彼らが過剰に見栄を張っていないとすればレギオナ帝国の国力は、リーン公国の20〜30倍といったところか。
アーシャは精鋭達の身に付けている魔石と宝飾品からそう目星を付けた。
衣服も極めて上等なシルクでできている。
これだけ身分も財力も勇気もある美男子達、何もせずとも寄ってくる女には事欠かないだろう。
にもかかわらず、彼らはアーシャに並々ならぬ食指が動くようだ。
みな興味深げにアーシャのことを眺めては、ほうとため息を吐いたり、目を細めてウットリしたりする。
アーシャは彼らの髪色や瞳の色がカラフルなことに気付いた。
赤髪や金髪はリーン公国でも見られたが、青、紫、緑、虎縞といった珍しい髪色が目立ち、瞳はどれも宝石のようにカラフルだ。
おそらくレギオナ帝国では、アーシャのような黒髪黒目がよほど珍しいのだろう。
中には親しみを込めて、ウィンクしてくる者までいた。
だが、彼らにできる挑戦はそこまでのようだ。
彼女が皇子のために当てられたテーブルに座っているのを見ると、具体的にはレギオナ帝国の国旗と皇子の紋章が立てられているのを見ると、残念そうにうなだれたり、何かを諦めたような顔をしたり、憂いを帯びた表情になったり、悩ましげに何か苦い物を飲み込むような仕草をするのであった。
彼らがアーシャに尻込みするのは、皇子への忠誠心もあるだろうが、何よりも皇子のことが怖いのだろう。
彼らの反応を見ると、これほどの勇者達を恐れさせ、束ねるレギオナの皇子とはいったいどのような人物なのか、想いを馳せずにはいられなかった。
やがて会場に皇子がやってくる。
皇子はリーン公国の高官に伴われて、こちらに歩いてくる。
上等なベルベット生地の衣服に身を包み、オドオドした外交官に鷹揚に受け答えしている。
なるほど。
若くして国政と一軍の将を務めあげるだけのことはある。
二枚舌で有名なリーン公国の外交官をタジタジにさせている。
それだけでも彼の政治力が並外れていることは明らかだった。
それに彼からはこの会場にいる誰よりも、濃い血の匂いがした。
レギオナ特有の黄色い瞳は、獲物を探す肉食獣のように爛々と輝いている。
レギオナの精鋭達は、皇子の姿を見るなり居住まいを正して緊張に身を引き締める。
皇子はアーシャのいるテーブルまで来ると、まず眉を顰めて、次に何か動揺したように目を丸くさせる。
アーシャは気にせず立ち上がり、スカートの裾を摘んで挨拶した。
あらかじめ言い含められていた言葉をしゃべる。
「今宵はパーティーにお越しいただきありがとうございます。ルゥ家のアーシャと申します。今夜はリミオネの貴婦人を代表して皇子のおもてなしをさせていただきます。ゆっくりとパーティーをお楽しみくださいませ」
アーシャは頭を下げて向こうが声をかけてくれるのを待った。
しかし、いつまで経っても皇子は何も話さない。
不審に思って、チラリと視線だけ彼に向けると、彼はまだ雷に打たれたように固まっていた。
「アーシャ……。まさかこんなに早く会えるとは」
「?」
「リーン公国の外交官は私の申し出をちゃんと汲み取ってくれたようだね。彼らはどこか不安そうにオドオドして、会話のやり取りも覚束ない有様だったから、意図が伝わっているかどうか不安だったが」
「……あの、皇子?」
皇子は突然、アーシャの足下に跪いて手の甲にキスする。
皇子の唐突な行動に会場にいたリーン公国の者も、レギオナ帝国の者も騒めく。
覇権国レギオナの最大の実力者にして、最強の軍団の実権を握る皇子が、こんな小国の貴族の娘に跪くとは、いったいどういうことだろう。
アーシャとしても驚きやら恐縮やらでどうすればいいのかわからなかった。
「あの、皇子。これはいったい……」
「忘れてしまったのか、アーシャ。私のことを……」
皇子は膝を床につけたままアーシャのことを見つめる。
アーシャも皇子の黄色の瞳をじっと見つめた。
そうして彼の瞳を見つめているうちに、過去の記憶が蘇ってくる。
「まあ、皇子。まさかあなた、あの時の猫!?」
アーシャの発言に会場にいた者達は戦慄した。
泣く子も黙るレギオナ帝国のワイアット皇子を猫呼ばわりするとは!
誰もが青ざめずにはいられなかった。
しかし、皇子は一つも気分を害することなく頷いた。
「そうだよ。私はあの時君と夏を共にした猫だよ」
10年前、初夏の頃。
アーシャはまだ学生だった。
この頃から、アーシャはすでに一家の鼻つまみ者だったので、例によって屋内から退避し、庭の縁側で物思いに耽っていた。
風のそよぎで揺れる草花を眺め、虫の鳴き声に耳を澄ませていると、2匹の長袖長ズボンを着た猫が俯きながら庭を横切ってきた。
アーシャは思わずギョッとして目を疑う。
その猫達は二足歩行でくたびれた衣服に身を包み、トボトボと元気なく俯きながら歩いている。
1匹は目に見えて年老いた猫。
元は鮮やかな茶色であったろう毛並みにはところどころ白いものが混じり、長く伸び過ぎた白眉毛は瞳をすっかり覆い隠してしまっている。
もう1匹はまだ毛並みは若々しく艶やかだったが、そのくたびれた服装もあって頼りない猫だった。
チョッキのほつれた毛糸がまたそこはかとなく哀愁を誘う。
(化け猫か?)
2匹の猫は庭石に腰掛けてため息を吐きながら話し始めた。
アーシャは2匹の話に耳を澄ませる。
「はぁ。私はこれからどうすればいいんだろう」
若い猫が嘆息しながら言った。
「見慣れぬ街、見慣れぬ人々。宮廷の権力争いからは辛くも逃れられたものの、大臣派の魔法使いにより、獣の姿にされて、誰も頼ることができない。野良猫との縄張り争いにも負けて、住む場所も眠る場所さえままならない。このまま私は二度と故国の土すら踏めずにこの見知らぬ土地で野垂れ死ぬのだろうか」
「坊っちゃま。どうか気を落とさないでください。王位継承者たる坊っちゃまがそう落ち込んでいては国民が悲しみます」
「しかしだな爺や。今や我が国の宮廷は大臣派の思うがままだ。王制派の人間はことごとく処刑、投獄され、届くのは悪い知らせばかり。こうして猫の姿に堕とされ、猫の言葉しか話せなくなり、味方との連絡すら覚束ず、敵の力は増すばかりだ。これでいったいどうやって故国の地を踏み、復権を果たすことができるだろうか。我が身の不運を呪わずにはいられないよ」
「おお、おいたわしや。本来ならば、王の座に就くべきはずのお方がこのような目に遭わねばならぬとは。しかし、坊っちゃま、どうかこの苦難に耐えてくだされ。大臣派の横暴もいつまでも続くとは思えません。耐えていれば必ず事態は好転します」
「気休めはよしてくれ。国を追われ、姿を変えられ、明日を生きる糧さえろくに手に入らない。もはやこの人生に希望など……」
「お前達!」
アーシャのかけ声に2匹の猫はギョッとした。
その満月のようにまん丸な目を驚きに見開いてこちらを見てくる。
「お前達、なぜ人の服を着て、人の言葉を喋っている? もしかして元は人間なのか?」
「どういうことだ爺? 我々は猫の姿で猫の言葉を喋っているはずでは?」
「バカな。なぜ我々の正体がバレている? 完璧に猫に偽装しているはずなのに。まさか、この娘、猫の言葉が分かるのか?」
「今の話を聞かれたのかな? ど、どうしよう爺。私の正体がバレれば……」
「お、落ち着いてください。皇子。この娘が大臣派とは限りません。上手く猫のフリをして誤魔化せば……」
「やはり、元は人間なのだな。こっちに来い。寝床を恵んでやる」
「「!?」」
返事を待たずにさっさと先へ行くアーシャに、2匹の猫は恐る恐るついて行った。
「どういうことだろう。爺や。この娘、私に寝床を恵んでくれると言うぞ」
「わかりませぬ。ただ、大臣派の罠とも思えませぬな」
「水の精霊魔法圏の人間は嘘つきで冷酷な人間ばかりではないのか?」
「しっ。それ以上はいけませぬ。我々の素性がバレてしまいますぞ」
爺やと呼ばれた猫が口元に指を当てながら言った。
「皇子、もしかすればこの娘は水の精霊魔法圏では、稀有な憐憫の情と知性を兼ね備えた娘なのかもしれません。しかし、油断なさるな。我々にかけられた猫のまやかしも、この娘には中途半端にしか効いていないように思えます。魔法使いとして相当の実力者であることは間違いありませんぞ」
アーシャは2匹、もとい2人の会話を聞きながら、彼らが地の精霊魔法圏から訪れた者達だと目星を付けた。
おそらくノクト王国か、スエンビー王国か、あるいは近年、宮廷をしつらえたというレギオナ辺りから来たのかもしれない。
アーシャは庭の外れにある納屋に2人を招き入れた。
「あっちの屋敷の中じゃないのかい?」
「あっちじゃない。私はこの家の娘だが、あの屋敷の中に私の自由はない」
「どういうことだ? この家の娘なのに自由がないとは」
ターニャがすでに使用人付きの広い個室を与えられているのに対し、アーシャに与えられたスペースはこの納屋のみだった。
「皇子。それと爺や。私はあなた方2人がどこから来たのか。どのような事情があるのか深く詮索することはいたしません。ただ、この納屋以上のものをあなた方に提供することはできません」
「……」
「皇子。たとえ、どれだけ自分に与えられた領土が小さくとも、自分の自由を害する者に簡単に首を垂れてはなりません。たとえ、どれだけ貧苦に窮しようとも、堂々としていなければならないのです。部下の前で弱音を吐いてはなりません」
「……」
「私があなたを客人として遇し、自由を与えられるのは、この納屋の中だけです。それで不満なのなら、どこか別
の場所に行きなさい」
その日から、猫の皇子はアーシャの納屋に寝泊まりするようになった。
アーシャは2人のために台所から食事を持ってきて、寝床を用意してやり、客人として遇してやった。
皇子はアーシャの納屋を潜伏先として拠点にし、猫の魔法を解く方法、故国との連絡を取る方法を模索し始めた。
皇子は安心して眠れる寝床を確保して、前向きに活動し始めたが、どうしても心細い夜には、アーシャの寝床に潜り込んで背中を撫でられながら眠りについた。
猫の皇子は初めは頼りなかったものの、アーシャの納屋を出入りするうちに、この街の野良猫連中の中で頭角を表していった。
初めのうちは野良猫とすれ違っても、アーシャの後ろに隠れる有様だったが、アーシャが「自分より体の小さな猫に怯えることはありません」「まずは弱そうな相手から順番に倒していきなさい」と勇気付けているうちに、まずは納屋に忍び込むネズミを狩るようになっていった。
するとそのうち野良猫達にも一目置かれるようになり、家来が増えていったので、野良猫界でも実力者とみなされるようになっていった。
やがて街の武闘派野良猫に目を付けられるようになったが、今度は引き下がらず立ち向かい、勢力を拡大していって、ついには覇権闘争に勝利し、街のボス猫と兄弟の杯を交わすのであった。
やがて、彼の元に故国の政変がおさまりつつあるとの知らせが届いてきた。
暴虐の限りを尽くしてきた側妃と大臣が失政により、暗殺・処刑され、王宮内での過激な派閥争い、政治闘争にも終わりが見えてきたのだ。
血で血を洗う政争に疲れた人々は和平の道を模索し始めた。
そのためにも平和の象徴として、粛清に加わっていない、政争から離れた場所にいた人物が王権の座に付くことが望まれた。
皇子も王宮内の人間と手紙で連絡を取れるようになり、猫から人間の姿に戻れる目処もついた。
夏の終わり、王宮から連絡が来て、今なら平和裡に帰国を受け入れる用意があると知らされる。
皇子は故国へと帰る決意をした。
この屋敷に来た時とは見違えるほどに逞しくなった皇子をアーシャは見送った。
ただ、彼の人間の時の姿が見れなかったのが唯一の心残りだった。
皇子もアーシャに対し、何か心残りがあり、何か言いたそうだったが、アーシャはそれを止め、王族として急いで帰国し、自国の国民のために尽くすよう促した。
皇子と爺やは川縁を流れていく船に飛び乗って(船は顔を隠した男が操っていた)、故国へと帰っていった。
こうしてアーシャが猫の皇子と共にした一夏の冒険は終わった。
アーシャは彼がどこの国の皇子なのか調べようとしたが結局分からず仕舞いだった。
彼は自分の国の文化、風俗、魔法体系について話してくれたが、特定できる固有名詞について話しそうになると、爺やが割って入って彼が口を滑らせるのを阻んだ。
(まさか、あの時の猫がレギオナ帝国の皇子だったなんて)
アーシャはテーブルに同席したワイアット皇子を繁々と眺めた。
言われてみれば、確かにあの時の猫の面影がないでもない。
艶やかな茶色の髪。
満月のような黄色の瞳。
だが、どうしてもあの時の猫と同じとは思えない。
そのくらい立派に成長されていた。
スラッと高い背丈、宮廷風の洗練された物腰。
その立ち居振る舞いはどこに出しても恥ずかしくない立派な貴公子である。
一方で、歴戦の勇者、練達の政治家であることも見て取れる。
アーシャは彼の瞳に映る拭い去れない悲しみと苦悩の影を見逃さなかった。
おそらくその手に殺めてきた人間は、両手の指では数えきれまい。
政略でも実戦でも、直接間接でも、沢山の敵を退けて、葬り去ってきたに違いない。
まさしく彼はレギオナ帝国の政変を鎮め、数々の改革を成し遂げ、数多の戦場を指揮してきた、レギオナ帝国が建国されて以来最大の英雄、ワイアット皇子に違いなかった。
「ご無沙汰しております。アーシャ様」
豊かな白眉毛を生やした老紳士が進み出て、恭しく一礼する。
「あなたは……もしかしてあの時、皇子と一緒にいた爺や?」
「ジャスパーと申します。あの納屋を離れてから、一夏の恩義を返せずにいたこと、ずっと心苦しく思っておりました」
「ジャスパー……。あなたを見て、ようやく信じる気になりました。確かにあなた達2人は、あの時、私と納屋で一夏を過ごした2匹の猫のようです」
「酷いな。私よりもジャスパーの方が信用があるじゃないか」
「ジャスパー様の雰囲気はあまりお変わりありませんから。皇子は本当に見違えるほどご立派になられて。とてもあの時の頼りなかったお方と同一人物とは思えませんわ」
「ほっほっほ。皇子はあれから目に見えて逞しくなられましたからな」
ジャスパーはフクロウのように穏やかな笑みを見せる。
「しかし、そのきっかけを与えてくださったのは、他でもないあなたですよ、アーシャ様。あの夏の日々、皇子があの納屋の中で学んだことは得難いものでした。あれ以来、皇子は本当にたくましくなられた。かつては内気だった皇子も真の気高さの何たるかを知り、我々家臣が何もせずともメキメキと実力を身に付けられていきました」
「あなたと過ごしたあの納屋の中には、どんな壮麗な王宮よりもたくさんの叡智が詰まっていた。そしてあの時のあなたは私がこれまで落としたどんな城の女王よりも高貴だった」
皇子が遠い過去を述懐するように言った。
「こうしてあなたがリーン公国の代表として来てくれたということは、あなたは変わらず高貴で聡明な魂の持ち主だということですね。いえ、あれから会えずにいた間、ますますその高貴さと知性に磨きをかけてこられたのでしょう」
アーシャは苦笑した。
生贄として差し出されたとはとても言えない。
どうもリーン公国の外交筋は、皇子の要求を間違ってリーン公国政府に伝えたらしい。
皇子はリーン公国の令嬢を味見したいという好色な欲求からではなく、本当にただアーシャに会いたくて、この度のパーティー開催を要求したのだ。
しかし、こうして彼が自分をリーン公国の代表とみなしてくれるのなら、わざわざ娼婦紛いのことをしてベッドに潜りこまなくても、聞きたかったことを聞ける。
アーシャが今回の仕事を引き受けたのは、レギオナの皇子が一体どういうつもりでリーン公国に進駐してきたのか、そこを聞きたかったというのもあった。
「皇子こそ、まだ未熟さの残るあの頃から、こうして実力者になられた成長ぶり、見違えましたわ。まさか、レギオナ帝国を改革した英雄が、あの時私が客人として遇した猫の皇子だったとは。きっと、生来の資質を発揮し、血の滲むような努力をされて、当時混迷していたレギオナに安定した治世をもたらしたのでしょう。それはそうとして皇子。この度のリミオネへの進駐、いったいどのような意図があってのことでしょうか。まさか、女漁りをするためにわざわざこのような大所帯でここまで来られたわけではないでしょうね」
「もちろん。私がここに来たのは、あなた一人のためだけではない。係争の絶えない地の精霊魔法圏と水の精霊魔法圏の間に秩序を取り戻すべく、このリーンとの友好同盟を礎とし……」
「皇子、回りくどい言い回しはおやめ下さい。あなたが欲しいのは、リーン公国の港と海軍、それに付随する海運ネットワーク。あなたはそれを求めて我が国と友好同盟を結ぼうとしているのではないのですか?」
アーシャがそう言うと、ワイアット皇子はフッと諦めたような笑みを浮かべて、降参するような素振りを見せた。
「まったく、君には何も隠し立てすることはできないな」
(やはりレギオナの狙いはそこか)
リーン公国は相次ぐ失政のために今は落ちぶれているものの、かつては水の精霊魔法圏でも1、2を争う海洋大国だった。
現在でも、首都リミオネには古びた運河が張り巡らされており、各都市と連結して船が行き来できるようになっている。
細々とではあるが他国の海洋都市とのネットワークも生きている。
地の精霊魔法圏の国々に領土を切り取られ、議会が軍船の廃止を決定し、商用船を優遇するよう港を造り変えたため海洋覇権闘争には破れてしまったが、港を整備し、艦隊を編成すれば、まだ海洋大国に舞い戻るだけのポテンシャルはあるはずだった。
今の落ちぶれたリーン公国にそれだけの改造に耐えうる国力はないが、日の出の勢いで台頭してきたレギオナ帝国がそれを援助するとしたら?
再び海洋大国として、水の精霊魔法圏に君臨することができるかもしれない。
また、レギオナとしてもリーン公国の強力な艦隊支援を受けることができれば、精強なレギオナ軍は地の果てまで侵攻することができるし、皇帝の威光は海の果てまで届き、照らすことができるだろう。
レギオナ帝国は地の精霊魔法圏での地位を確固たるものにし、海上貿易の利潤にも一枚噛めるのだ。
「殿下。水の精霊魔法圏の民は地の精霊魔法圏の民に根深い恐怖心を抱いています。このままいたずらに軍が駐留していては、暴動を起こす者が現れかねません。殿下の目的を達成するためにも、リーン公国の水夫、商人、海運業者の不安を一刻も早く払拭し、他の海運国にも敵対するつもりはないことを示すのが肝要ではないかと存じます」
「ふむ。それは私も気になっていたところだ」
ワイアット皇子はアーシャの問題提起に身を乗り出して食い付いてきた。
「リミオネ商人の心を掴むためにはどうすればいい?」
「彼らの現在の関心事は老朽化した水路の整備です。殿下としては……」
そこから2人はレギオナとリーンの友好同盟に関する諸問題について論じ始めた。
隣で聞いていたリーン公国の外交官は、冷や冷やしながらアーシャと皇子の会話を聞いていた。
アーシャがあまりにも堂々と皇子の腹のうちを探る質問をするのと、自分達が皇子の要求について見当違いの解釈をしたことがバレるのではないかと思ったのだ。
しかし、アーシャと皇子の会話が進んでいくうちに、だんだんそれが杞憂であることに気付いた。
アーシャは皇子の機嫌を損ねることなく、多方面に配慮しながら、両国の橋渡しという自身の役割を立派にこなしていた。
そればかりか外交官に両国の外交に関する懸案事項についてさりげなく気付かせようとしていた。
そのため、レギオナ帝国から見てリーン公国がどのような位置付けになっているのか、皇子がどのような意図でこの国に進駐してきたのか、外交官にもようやく分かってきた。
(それにしても……)
外交官はアーシャの才覚に感じ入らずにはいられなかった。
その見識の広さたるや2つの魔法圏を跨り、その想像力たるやレギオナの宮廷にまで翼を広げ、その洞察力たるや複雑な国際情勢の行く末を深く見通している。
そればかりか、レギオナの獅子を前にして一歩も怯むことがない。
なぜ、リーン公国はこのような娘の存在も知らず、埋もれさせていたのか。
皇子とアーシャが旧知の仲であることにも驚いたが、何よりもこのように賢く器量も悪くない娘が、嫁にもいかず、社交界でも噂にならず、埋もれていたことにも驚きを隠せなかった。
だが、ここにきてようやく外交官もアーシャの価値に気付いた。
(この娘、使える!)
そうして皇子との会談をつつがなく終えただけでなく、外交における有効な役回りまで演じたアーシャは、外交官から次回も皇子との会談に同席してもらえないかと打診されるのであった。
アーシャは「両親が許せば」と断っておいた。
その後、皇子の方からも今後の会談でアーシャを同席させてもらえないかと打診がきたため、外交官はますますアーシャに皇子との仲裁を依頼しなければと考えるのであった。
やがて、会談の内容はすぐに街の人々の知れ渡るところとなった。
皇子との会談を立派にこなし、両国の架け橋となったアーシャは、公国を救った英雄として讃えられた。
特に水夫や海運業者達の間では、自分達の利益を守ってくれた女神のように扱う有様だった。
また、アーシャとワイアットの一夏の縁についても街の人々の知るところとなった。
リーン公国の令嬢が、かつて政変から国を追われ困窮していたレギオナの皇子を匿い保護していた。
猫の皇子は令嬢に恩返しをするべくリミオネに再び訪れた。
このような美味しいネタに街の吟遊詩人どもが食い付かないはずがなく、令嬢と猫の皇子の物語は彼らの霊感と想像力を刺激し、その数奇な運命、おかしみは、リュートの音色とロマンスを求める大衆心理に乗って、街中に伝え聞かされた。
ワイアット皇子はその日のうちに古びた水路整備のための寄付を約束し、水夫達は皇子を讃える歌でそれに応えた。
水夫達が皇子をレギオナの獅子を讃えると、レギオナ軍はアーシャをリミオネの真珠とその美しさを讃える歌で返す。
リミオネの街は皇子とアーシャの再会を祝し、まるでハネムーンのような雰囲気に包まれた。
アーシャはリーン公国随一の才媛と持て囃され、彼女の名声はリーン公国領内を超えて、はるか遠く他国まで伝わるのであった。
面白くないのは、アーシャの母と妹である。
ある日のこと。
アーシャが皇子と外交官からの連絡を心待ちにしながら、いつも通り庭の縁側でぼうっとしていると、突然、母がやってきて騒ぎ立てる。
「まあ、アーシャ。あなたこんな所にいたの? さっさと立って、こっちに来なさい」
アーシャはギョッとして何事かと思いながらも、急き立てられるまま、母の言う通りついて行くと納屋に閉じ込められた。
「母上、急にどうされたのですか?」
「大切なお客様が来たのよ。妹の顔に泥を塗りたくないでしょう? 早く納屋に入って。終わるまで出ちゃダメよ」
アーシャは怪訝に思いながらも大人しく母の言い付けに従った。
来客対応から外されるのはいつものことだが、納屋に閉じ込められるのは学生時代以来のことだった。
だいたい皇子との再会以降、アーシャに会いたいと申し出てくる貴公子はわんさかいるというのに、いまだに妹の顔を立てて自分を嫌がるお客様がいるとは。
いったいどれだけレギオナ嫌いなお方なのだろう?
アーシャは不可解に思いながらも、ため息を吐いて納屋の段差に腰掛けた。
皇子を匿っていた頃から自分の定位置になっていた段差だ。
理不尽だと思う気持ちはあったが、こればかりは仕方がない。
皇子との会談を立派に終えた後でも、母と妹の自分に対する刺々しい態度は変わらなかった。
むしろ以前にもまして敵愾心をむき出しにしているようにさえ感じられる。
アーシャはやさぐれた心を沈め、皇子が猫だった頃の思い出に浸り、自らの心を慰めた。
アーシャが納屋に閉じ込められた後、さる貴人を乗せた馬車がルゥ邸にたどり着く。
お忍びでの来訪だった。
そのお忍びで来られた貴人とは、何を隠そうワイアット皇子である。
皇子は屋敷の通りを進みながら、かつてアーシャと共に過ごした庭を目を細めながら見つめた。
(懐かしいな。アーシャはいつもあそこに腰掛けて、私にリーン公国の言葉と魔法を教えてくれた)
あの時、入れなかった屋敷の母屋に入ることができて、立派な淑女となったアーシャのもてなしを受けることができる。
そう考えるだけで皇子は感無量だった。
そうして、懐かしさに浸りながら、応接間に通された皇子だが、彼を迎えたのはアーシャではなく、妹のターニャだった。
「こんにちは。皇子様」
愛くるしい笑顔を向けるターニャに皇子は困惑しながらも微笑んだ。
すぐに母親と主人もやってくる。
(これがレギオナの皇子様……)
ターニャは一目皇子を見ただけで、その危うい魅力にすっかり魅入られてしまった。
目を輝かせるターニャに対して、皇子はあらかじめ用意していた贈り物を渡した。
「これは私からの贈り物です。皆様のお気に召すとよいのですが……」
「わあ。何この宝石、綺麗」
ターニャは贈られた煌めく琥珀入りの首飾りに目を輝かせた。
「それはレギオナ産の魔石です」
「皇子様、ありがとー。私のためにこんなに綺麗な宝石をとってきてくれて」
「喜んでいただけて何より。あの、ところでアーシャはどうしたのですか? 先ほどから姿が見えないようですが」
「申し訳ありません皇子。アーシャったら突然体調を崩したみたいで」
「アーシャが!?」
皇子は血相を変えて、立ち上がった。
「ええ。せっかく皇子様が来てくれたっていうのに。本当にだらしのない子で」
「アーシャはどこにいるんです? すぐにお見舞いさせてください」
「いえいえ。お見舞いするほどのことではありませんわ。ただ、面会はできないようなので、本日はこの妹のターニャがお相手させていただきます」
「はあ。そうですか」
皇子は違和感を感じながらも、アーシャの容体がそこまで酷くはないことにホッとする。
「お母様。これを……」
「まだ、何かくれるの?」
ターニャは皇子の取り出した贈り物箱に目を輝かせた。
「今日、アーシャに贈ろうと思っていたものです」
それを聞いて、ターニャは途端に不機嫌になる。
というのも、どう見ても自分向けのものよりも豪華な箱に入っていたからだ。
「私もそっちがいいわ」
「これは私が預かっておきましょう」
母親はアーシャへの贈り物を受け取って自分の脇に置く。
皇子はルゥ邸で受けた歓待に困惑しながらも、アーシャの親族なので愛想よく振る舞った。
この度の訪問の意向は、あらかじめ伝えておいたはずなのに、ルゥ家の人々はなぜそれを無視するようなことばかりするのだろう?
皇子はまた訪れることだけ伝えて、その日は屋敷を後にした。
次に訪れた時も、折悪くアーシャは席を外していて、皇子の応対にはターニャがあてがわれた。
アーシャとは真逆のタイプの美人で、よく喋る社交的で明るく、蜜のように甘い笑顔の娘だった。
彼女の首元には、なぜかアーシャにプレゼントしたはずのダイヤの首飾りが煌めいていた。
アーシャが何かおかしいな、と気付いたのは皇子の2回目の訪問時だった。
この時もアーシャは納屋に閉じ込められていたのだが、異変はそれだけではない。
使用人達がどこかソワソワして自分に何か言いたそうにしている。
外交官からも皇子からも連絡が一向に来ない。
妹がリーン公国近辺では採れないはずの宝石を身に付けて、これ見よがしにジャラジャラ鳴らしている。
一番仲のいい使用人に問い詰めたところ、事の重大さと罪悪感に耐えきれず、白状した。
アーシャが納屋に閉じ込められている間に皇子が訪問していたこと。
皇子と外交官からの手紙や連絡を一切、アーシャに知らせないよう母から命令されていたこと。
(まったく、この後に及んでまだこういうことをするのか)
妹はにわかに急上昇した姉の評判に取って代わりたい。
母親としてもこれまで社交界で妹を推してきた手前、今更引き下がれない。
そんなところだろうか。
レギオナ帝国とリーン公国の友好同盟が結ばれるかどうかの瀬戸際で、まだ自分達のせせこましい体面に拘っているのだ。
皇子が来ると納屋に閉じ込められる。
ということは、逆に言えば、納屋に閉じ込められている日は、皇子が訪れているということである。
今、まさにアーシャは納屋に閉じ込められていた。
アーシャはあらかじめ傷付けておいた鍵を工具で破壊して納屋から脱出した。
長らく踏み越えなかったラインを越えて、客間へと向かう。
「いったいどういうことです、ルゥさん?」
ルゥ家の食卓で皇子は穏やかならぬ剣幕だった。
「私は手紙を出したはずですよね? 今度こそ、アーシャに会えるはずだと聞いてこの屋敷にやって来たのに。なぜアーシャの姿がないのです?」
「本当に申し訳ありません、皇子。どうしようもない娘で。せっかくこうしてお忙しい中を来てくださっているというのに。またドタキャンするだなんて」
「お姉様は何か皇子に後ろめたいことがあるんじゃないかしら。ああ見えて、遊びの激しい人だし。頻繁に私達に隠れて納屋に篭っているのよ。いったい誰と密会しているのやら」
皇子はため息を吐いた。
「レギオナの王族も低く見られたものだな」
「ええ。ええ。本当に躾のなっていない娘で」
「妹としても情けなく思いますわ」
「あんな出来の悪い娘より、どうです? 妹のターニャの方が……」
「お母様、あまり私のことをバカにしないでいただきたい」
「?」
「こんな茶番で私を騙せると思ったか? こんな見え透いた嘘で」
皇子の冷然とした言い方にその場は凍りつく。
「私はアーシャを差し出すという条件でリーン公国との友好同盟に応じたのです。3度訪問したにもかかわらず、その約束が守られないというのなら、レギオナとリーンの外交問題ということになる」
皇子はそこで2人に考えさせるために間を置いた。
ゾフィーもターニャも事の大きさに考えが追いつかずポカンとしている。
「私もこの美しい街を火の海に沈めたくはない。アーシャを出していただけますね?」
皇子がそう言うと、ゾフィーもターニャも血の気が引いてすっかり青ざめてしまう。
2人はレギオナ帝国が逆らう国に対して行ってきた暴虐の数々をようやく思い出した。
ゾフィーはしどろもどろになってよくわからない言い訳を繰り返し、ターニャはどこか逃げ場はないかとソワソワ視線を泳がせるばかりだった。
そうして皇子がしばらく2人の返答を待っていると、ドタドタと誰かが階段を上がってくる音が響いて、アーシャが部屋に入ってきた。
「アーシャ!」
「申し訳ありません、皇子。どうやら何度も行き違いをしてしまったようで」
皇子は立ち上がって目を輝かせ、アーシャの手を取る。
「ようやく会えたねアーシャ」
「はい。私もお会いしたかったです」
「君に数日会えなかっただけで、私はどれだけ辛かったことか。けれども、その苦しみも今日で終わりだ。君がこうして私の前に現れてくれたことで、本当に救われた」
「ええ。本当に申し訳ありません。お仕事が進まず、ご迷惑をおかけして……」
「違う。大事なのはそこじゃない。もちろん仕事も大切だよ。けれども、それよりも大事なことがある」
「えっ? お仕事よりも大事な用事? いったい何ですそれは?」
「君のことを愛している。もう私は君なしではいられない。私と結婚してくれ」
「ええっ?」
アーシャは突然の告白に顔を赤らめ、思わず周囲を見回してしまった。
父も母も妹もみんな呆気に取られている。
「ちょっ。皇子。困ります。こんなところでそのようなお話を。家の者達がいるのに。せめてそのようなことは2人きりになったところで……」
「もちろん。これから君を誰の邪魔も入らない場所に連れて、愛を証明するつもりだ。お母様。アーシャを連れて行って構いませんね? あなたは散々私から彼女を遠ざけて、私をヤキモキさせたのですから」
「えっ? ええ。はい」
皇子の大胆な告白にさしもの母親も拒絶する言い訳を思い付くことができず、なすがままに頷くほかないのであった。
こうして強引に皇子の泊まる宿に連れ去られたアーシャは、三日三晩かけて愛の告白と贈り物を続けられ、皇子からの溺愛を受けた。
これには流石のアーシャも淑女の仮面を投げ捨てて、首を縦に振らざるをえず、皇子との結婚を受け入れるのであった。
後日、2人は慌ただしい結婚式を挙げる。
その後、令嬢の献身と猫皇子の恩返しによって、この街は末長く平和を保つことになる。
アーシャとワイアットは夫婦として末長く幸せに暮らすのであった。
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