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恋愛小説短編集

捨てられた雨の聖女は砂漠の王に拾われて溺愛される

「プロヴァンス公爵家令嬢エレオノール! 貴様との婚約はなかったことにさせてもらう!」

「殿下、いま何とおっしゃられたのですか……?」

「お前のような辛気臭い女と結婚など出来るかと言ったのだ。貴様がカタリナに行ってきた卑怯な振る舞いもすべてわかっている。もう顔も見たくない。この国から出ていけ」


 レオンハルト殿下から唐突に告げられたのは、宮廷で開かれた夜会でのことでした。夜会の参加者たちが騒然としています。突然婚約破棄を宣言なさるなんて、一体何を考えていらっしゃるのか。それに、卑怯な振る舞いとは何のことでしょう?


 想像もしていなかった出来事に硬直していると、殿下の後ろから金髪の少女が現れました。


「うふふふ、お義姉様。公衆の面前で婚約を破棄されるなんてお可哀そうなこと」


 それは異母妹のカタリナでした。わたくしの母は早くに亡くなり、後妻との間にできた腹違いの妹がカタリナです。そして先年に父も亡くなったため、わたくしには血のつながった家族は誰一人いなくなってしまいました。


 カタリナは大きな胸の谷間を強調したドレスを着ています。レオンハルト殿下に腕を絡めて、その豊かな胸を押し付けました。レオンハルト殿下の相好が崩れるのを見て、「ああ、そういうことか」と納得ができてしまいました。


「とにかく、貴様の顔などもう見たくない。この国からさっさと出ていけ」


 この国では王権は絶対です。ましてや後ろ盾もないわたくしに、第一王子であり王位継承者であるレオンハルト殿下の命令に逆らうことなど出来ません。


 また、わたくしとカタリナが争えばどうなるでしょう。曲がりなりにも公爵位にあるプロヴァンス家が身内で争うなど、天国で眠るお母様やお父様にとても顔向け出来ません。


 カタリナが王妃になるのであれば、わたくしが追放されてもプロヴァンス家の名誉は保たれます。わたくしは少しの間、目をつむり、ゆっくりと深呼吸をしてから答えました。


「承知いたしました。わたくしはこの国を去ります。レオンハルト殿下、どうかお健やかに」


 夜会の会場を後にし、最低限の旅支度を済ませると、明くる日の朝日も昇らぬうちにひっそりとこの国を出立しました。


 * * *


 旅路は西の砂漠に定めました。北には山脈が連なっており、東と南には海しかありません。王家から追放を言い渡されたわたくしに、便宜を図ってくださる船乗りなどいないでしょう。


 なにより、わたくしは船には乗れないのです。


 街道を歩いていると、ぽつぽつと雨が滴り始めました。わたくしは雨の女神の加護を授かっているのです。加護を授かるのは大変名誉なことで、神殿からは聖女の称号を賜りました。わたくしが殿下の婚約者に選ばれたのもこれが理由の一つです。


 しかし、これこそが殿下には気に入らなかったのでした。


 レオンハルト殿下は馬の遠乗りや野外での宴会、舟遊びなどを好むのです。しかし、そこにわたくしが赴くといつも雨になってしまいます。殿下の楽しみを台無しにしてしまうのです。そのため、殿下はわたくしを「辛気臭い」「黴臭い」「じとじとと気持ちが悪い女だ」などとしばしば罵りました。


 とぼとぼと歩いていると、どうしてこんな加護など授かってしまったのかと悲しい気持ちになってきます。からりと晴れた砂漠であれば、女神様の加護も届かなくなるのでしょうか。


 ですが、わたくしのそんな願いはあっさりと裏切られました。砂漠まで辿り着いても空は灰色の分厚い雲に覆われて、雨が止むことはありませんでした。蜜蝋を塗り込んだ外套を水滴が流れ落ちていきます。地面から雨の匂いがむわっと立ちのぼり、ああ、わたくしはやはり黴臭い女なのだなと涙も溢れてきます。


「おい、ねえちゃん。いい服着てんじゃねえか」


 俯きながら歩いていたら、誰かに声をかけられました。顔を上げると、そこには赤錆びた剣を手にし、薄汚れた毛皮をまとった男たちがいました。一体何の御用なのでしょうか?


「へへへ、服だけじゃなく、中身も上物ですぜ」

「これなら奴隷商に高く売れるな」

「その前に味見もさせてくだせえよ」


 男たちは舌なめずりをしながら近づいてきます。これは野盗というものでしょうか。乳母から話を聞いたことがあります。わたくしたちの緑の国と、西の砂漠の国の国境に巣食う悪党なのだそうです。旅人の荷物を奪い、さらには命を奪うことさえあるのだとか。


 殺した相手はどうするのでしょうか。ひょっとしたら食べてしまうのかもしれません。あまりの恐ろしさに、膝ががくがくと震えました。男たちはそんなわたくしを面白がっているのか、弄ぶようにじりじりと近づいてきます。


 嗚呼、わたくしの命運はここまでなのでしょうか。所詮は国に守られてきた籠の鳥です。外に飛び立てばあっさりと狐に食い殺されてしまうのでしょう。


 わたくしが崩折(くずお)れて、ぺたりと座り込んでしまったときでした。


「野盗ども! 俺が来たからには好きにはさせぬぞ!」


 大地を揺らす馬蹄とともに、勇ましい声が聞こえてきたのです。

 それは白馬に跨る浅黒い肌の男性を先頭とした一団でした。土埃を蹴り立てながら、槍を握って駆けて来ます。野盗たちはあっという間に打ち倒されて、荒縄で縛られて捕えられました。


「旅の方、怪我はないかい?」


 男性が白馬を降りました。二十代半ばほどでしょうか。精悍なお顔は活力に満ち、ターバンから覗く赤髪は燃え立つように勇ましく、きっと名のある騎士様なのだと思いました。騎士様はへたり込んでいるわたくしに手を差し伸べてくださいます。鷹のように鋭かった眼差しが、一転してにっこりと微笑みました。


 騎士様のお手を借りてなんとか立ち上がろうとしますが、腰が抜けてしまって足に力が入りません。すると、騎士様はもう片手をわたくしの背に回し、そっと抱き上げてくださいました。よほどの鍛錬を重ねているのでしょう。太く逞しい腕に、ごつごつと硬い(てのひら)でした。


「怪しいものではないから安心してくれ。俺はロラン・フォン・ブロワ。一応は砂漠の国の王をやらせてもらっている」

「お、王様ですか!?」


 男性の名乗りに、思わず頓狂な声を上げてしまいました。わたくしがいた国――緑の国では王族が野盗の討伐に繰り出すなど聞いたことがありません。少なくとも、レオンハルト殿下は一度もそんなことはされませんでした。


「ははは、そう硬くなるな。所詮は麦も果実もろくに採れぬ小国の王よ。ひさびさの雨に浮かれて遠乗りをしてみれば、たまたま盗賊に行きあったと言うだけだ」


 ロラン様は白い歯を輝かせて快活に笑いました。背はわたくしよりも頭一つ高く、分厚い胸板はわたくしが両手を回しても背中に届かないでしょう。まさに偉丈夫と呼ぶにふさわしい若武者ぶりです。


「それで、お嬢さんは旅の途中かい? よかったら送っていくが」

「あ……ありがとうございます」

「名前を聞かせてくれるかな?」

「わたくしは……エル。ただのエルでございます」


 エレオノール・デラ・プロヴァンスという本名を伝えるのは憚られました。わたくしはいまや追放された身。家名を名乗るなどおこがましいことです。


「エル! 雨の女神の異名だな。素敵な名前だ。ははは、雨とともに現れた美女が女神の名を持っているとはな。これは瑞兆(ずいちょう)だぞ!」


 わたくしはロラン様の馬に乗せられ、その背に縋って旅路を続けることになりました。ロラン様の背中は広く(たくま)しく、ぽかぽかとお日様のような匂いがしていました。


 * * *


 レオンハルト・フォン・フュルステンベルクが雨の聖女(エレオノール)を追放して半年が過ぎた。


 緑の国は、未曾有の危機に襲われていた。

 慈雨に恵まれた土地であったはずが、まるで雨が降らなくなったのだ。麦は実らず、果樹は立ち枯れ、川は干上がり罅割れた川底に魚の死骸が無惨に晒されていた。


「ええい、これはどういうことなのだ! なぜ雨が降らぬ!」


 視察に出たレオンハルトが苛立って馬に鞭を入れる。しかし、馬は走らない。水も飼い葉も足らず、すっかり痩せ細ってしまっていた。尻を()とうと腹を蹴ろうと、とぼとぼと歩くだけだった。やがて馬は膝を折り、レオンハルトは無様に地面に投げ出された。砂まみれになりながら、死んだ馬を蹴り飛ばして怒鳴り散らす。


「僕の馬が死んでしまったではないか! これは国一番の駿馬(しゅんめ)だという触れ込みだったろう! 馬商人め、嘘をついたのか!」

「まあ、殿下に嘘をつくなんてひどい商人ですの。すぐに死刑に致しましょう」


 レオンハルトに即座に進言したのは、カタリナ・デラ・プロヴァンス――エレオノールの異母妹だった。レオンハルトを誘惑し、エレオノールを追放した彼女はまんまとレオンハルトの新たな婚約者に収まっていた。


「もちろんだ! この僕を(あざむ)くなど、フュルステンベルク王家に弓引くも同じこと。即刻死刑にしてしまえ!」


 レオンハルトの命令を受け、側近たちが即座に駆け出す。レオンハルトの癇気に触れた者はろくに裁判も経ず、すぐに処刑されてしまうのだ。ぐずぐずして自分が標的にされてはたまらない。


「くそっ、それにしてもどうして雨が降らぬのだ」


 長い日照りに見舞われたことで、緑の国は文字通りに干上がっていた。税を取ろうにも元となる収穫がない。王家の食事でさえ、雑穀と塩辛い干魚ばかり。それでも食べられるだけ庶民よりは遥かに恵まれているのだが、贅沢に慣れきったレオンハルトには我慢のならないことだった。


「これはひょっとしてお義姉様の……エレオノールの呪いなのではないでしょうか?」


 いきり立つレオンハルトに、カタリナが甘く囁く。

 呪いなど、当然信じていない。しかし、カタリナは腹違いの義姉が憎かった。自分をさておいて聖女になり、王子の婚約者となった義姉が妬ましかったのだ。彼女だけが持つ知識(・・)を利用して、エレオノールを追い落とすためにレオンハルトに近づき、あることないことを吹き込んだ。本当なら追放などではなく、死刑にして欲しかったくらいなのだ。


「エレオノールは聖女などではなく、魔女だったのです。エレオノールを殺せば、きっと呪いは解けて再び雨が降りましょう」

「そうか……そうだったのか。あの魔女め。探し出して八つ裂きにしてくれる!」

「エレオノールは砂漠の国におりますわ。こんなこともあろうかと密偵に足取りを追わせておりましたの」

「おお、さすがは僕のカタリナだ! よし、皆のもの、砂漠の国に向かうぞ!」


 こうして、レオンハルトは魔女エレオノールの討伐を掲げ、私兵を率いて西に向かった。


 * * *


 ロラン様に連れられて砂漠の国を訪れたわたくしは、そのままロラン様のお城で厄介になりました。せめてものお礼にと差し上げたお菓子がいたく気に入られ、下女として奉公することになったのです。道中の保存食にと焼いていたクッキーがあんなにお気に召すとは思いもよりませんでした。


 わたくしが厨房でお菓子を作っていると、今日もロラン様がいらっしゃいました。


「やあ、エル。君が来てからよいことづくめだ。菓子は美味く、茶も甘い。雨にも恵まれ今年は大豊作になった。君はひょっとして、幸運の女神の生まれ変わりなのかい?」

「そんな……滅相もございません」

「ははは、冗談だよ。そう(かしこ)まるな」


 何がおかしいのか、ロラン様はよくお笑いになられます。わたくしが雨の聖女なら、ロラン様はさながら太陽の化身のようです。そばにいると、いつもぽかぽかと心が温かい気持ちになるのです。


 わたくしがロラン様の身の回りのお世話をするようになってから、半年の月日が経ちました。今ではロラン様が人参が食べられないこと、お肉よりもお魚がお好きなこと、そして何よりも民を想い、(いつく)しんでおられる立派な為政者(いせいしゃ)であることがわかりました。


 ロラン様は下々の民ともよく交わり、畑の実りや漁の収穫をよく気にかけておいでです。病に苦しむ者がいれば薬を与え、盗賊が現れたと聞けば兵を率いて自ら討伐なさいます。同じ王族でも、王宮で偉ぶっているだけの緑の国とは大違いでした。


「これは新作の焼き菓子か? 一口味見をさせてくれ」

「もう、厨房にまで押しかけてつまみ食いなんてはしたないですよ」

「ははは、あまり美味そうな匂いがするものだからな。それにエルの顔も見たくなったのだ」

「毎日ご覧になっているではありませんか」

「ああ、毎日見ても見足りないのだ」


 ロラン様のたくましい指がわたくしの顎に添えられ、真正面から見つめられます。引き締まった精悍なお顔には、長いまつげで縁取られた黒曜石のような瞳。その目に見つめられると、わたくしはついのぼせそうになってしまいます。


 これは……率直に言って恋なのでしょう。しかし、いまのわたくしはただのエル。プロヴァンス公爵家の聖女、エレオノール・デラ・プロヴァンスではないのです。ロラン様とはとても身分が釣り合いません。


 わたくしがいくらこの恋に身を焦がしても、決して叶うことはないのです。ロラン様にしても、身分の低い女をからかっているだけなのでしょう。そんな悪戯をなされる方ではないとは思いますが、英雄色を好むとも申します。


 しかし、それならそれで……たった一夜でも、お情けをいただきたいと身体の芯が(うず)くのです。ああ、わたくしはどうしてしまったのでしょうか。


 わたくしが煩悶(はんもん)していると、お城の兵士が厨房に駆け込んできてロラン様に何か耳打ちをしました。すると、ロラン様の表情がさっと切り替わりました。これは初めて出会ったときの目です。野盗からわたくしを助けてくださったときの目をされていました。


 * * *


 何事があったのかとロラン様を追いかけると、城門の外から大声が聞こえてきました。


「僕は緑の国の第一王子レオンハルト・フォン・フュルステンベルクだ! 魔女エレオノール・デラ・プロヴァンスを差し出せ! 砂漠の国が(かくま)っていることはわかっているんだ!」


 なぜ今さらレオンハルト殿下が……? それにわたくしが魔女とはどういうことでしょうか。城壁に登ると、眼下には兵隊を引き連れたレオンハルト殿下がいらっしゃいました。


「魔女とは何の話だ?」


 ロラン様が城門の外に出て、レオンハルト殿下に問い返しました。


「とぼけるな! あの魔女は我が国に呪いをかけて雨を奪ったのだ。その証拠に、ろくに雨の降らなかった砂漠の国では雨が降るようになっているじゃないか! 魔女を処刑し、我が国に雨を取り戻すのだ!」


 殿下は何をおっしゃっているのでしょう。わたくしが雨を呼ぶのは女神様の加護によるもので、呪いなどではありません。そういえば、砂と岩ばかりだった砂漠の国も、いつの間にかあちこちで草木が芽吹いてすっかり様子が変わっていました。殿下はこれを見て、あらぬ疑いを抱いたのでしょうか。


「何を言いがかりを。エレオノール・デラ・プロヴァンスなる人間は我が国にはおらんぞ」

「嘘をつけ! 我が国の密偵が確かに姿を確認したのだ!」

「ほう、我が国と緑の国は友邦だったはず。貴国はその我が国に密偵を潜り込ませたというのか」

「何が友邦か! 魔女を匿う国との約定など無効だ!」


 殿下が剣を抜き放ち、(きっさき)をロラン様に向けました。ロラン様は腕組みをし、身じろぎ一つせず殿下を睨み返しました。


 いけません。このままではわたくしのせいで戦争が起きてしまいます。わたくしは城壁の階段を駆け下り、ロラン様と殿下の間に立ちました。わたくしの身を差し出せば、戦争は避けられるはずです。


「おやめください、レオンハルト殿下! わたくしは呪いなどかけておりません」

「魔女め! やはりいたではないか! この場で処刑してくれる!」


 殿下の剣が閃き、わたくしに向けて振り下ろされました。思わず目をつむり、身を固くします。ああ、一言の弁解さえ許されず、わたくしは死んでしまうのでしょうか。この身を切り裂く痛みがやってくる瞬間を、引き伸ばされた時間の中でじっと待ちました。


 しかし、いつまで待ってもその瞬間は訪れません。恐る恐る目を開くと、ロラン様が殿下の手首を掴んで剣を止めていました。よほどの力が込められているのか、殿下の腕はぴくりとも動きません。


「ロラン王! 貴様は魔女を庇い立てするか!」

「魔女などどこにもおらん。ここにいるのはエルだ。エレオノール・デラ・プロヴァンスなどという者ではない。ただのエルだ」

「詭弁を弄すな! 僕はエレオノールの婚約者だったんだぞ! 見間違えるはずもない!」

「それは貴殿の目が節穴だというだけではないか?」

「なっ、僕を愚弄するの……ぐあっ!!」


 ロラン様が無造作に腕を振るうと、殿下は地面に転がりました。雨上がりで濡れておりましたから、殿下のお召し物は泥だらけになってしまいました。


「何より、エルは俺の婚約者だ。我が后となる女性にあらぬ嫌疑をかけ、あまつさえ剣を振るうとは言語道断。貴国には正式に抗議をさせていただく」

「なっ……婚約者だと!?」


 驚いたのは殿下だけではありません。突然のことにわたくしも驚いてしまいました。どうすればよいのかわからずおろおろしていると、ロラン様の太い腕がわたくしをそっと抱きしめ、落ち着いたバリトンの声で囁かれました。


「すまんな。ただの下女では強引に身許を要求されるかもしれん。エルのことは必ず守るから、この場はどうか勘弁してくれ」

「勘弁だなんて……そんな……」


 わたくしは顔がかあっと熱くなるのを感じていました。たとえその場しのぎの作り事とは言え、ロラン様が私を婚約者と呼び、抱き締めてくださっているのです。こんな幸せなことがあってよいのでしょうか。


「くそっ、もう新しい男を(たら)し込んだのか! この魔女め! 売女め!」

「それは侮辱とみなすぞ。王子レオンハルト」


 ロラン様はわたくしを背中に隠すと、剣を抜き放って殿下に向けました。殿下はたじたじと後ずさりをし、「覚えていろ! こんな小国は魔女ごと捻り潰してくれる!」と捨て台詞を残して退散されました。


「まったく、無礼にもほどがある。エル、怖い思いをさせてすまなかったな」

「そんな……そもそもこれはわたくしが原因で……」

「エルの何が悪いものか。それから――」


 ロラン様は片膝をつき、わたくしの片手を取って甲に口づけをされました。


「先程はどさくさになってしまった。改めて言わせてほしい。どうか、俺の妻になってはくれないか」

「えっ?」


 わたくしは驚きのあまり、頭が真っ白になってしまいました。


 * * *


 砂漠の国から逃げ帰ったレオンハルトだが、街に入る城門の前で足止めをされていた。


「なんだ、王子の帰還だぞ! 城門で待たせるなど不敬にもほどがある! 門兵どもは一人残らず縛り首にしてくれるからな!」


 レオンハルトが喚き立てるが、門を守る兵たちは誰一人言うことを聞かない。これは一体どういうことかと、レオンハルトが率いる兵にも動揺が広がっていた。


 一刻ほども待たされて、ようやく門が開かれた。


「くそっ、開けるのならさっさとしろ。……って、カタリナ? それに父上まで!?」


 門の中から現れたのは、後ろ手に縛られ腰縄をつけられたカタリナと、父王の姿だった。


「父上、これは一体……?」

「理由がわからぬか、この馬鹿者め!」


 雷鳴のような一喝に、レオンハルトは縮み上がった。なぜ父王がこれほどまでに怒りをあらわにしているのか理解できなかったのだ。


「砂漠の国から特使が来た。早馬でな。貴様、ロラン王に剣を向け、あまつさえその婚約者を斬ろうとしたそうではないか」

「しっ、しかしそれは……」

「言い訳無用! これでは宣戦布告も同様だ。なんと浅はかな真似をしてくれたのか……」

「父上ともあろう方があんな小国に恐れをなしておられるのですか!? 我が国の全軍を発し、魔女諸共に一揉みにしてやればよいのです」

「はあ……貴様がそこまで馬鹿だったとは……」


 父王の顔には深い苦悩が刻まれていた。片手で顔を覆い、頭を左右に振る。


「我が国の食料庫はもう空っぽだ。大軍を支える糧秣などどこにある? 見よ、この乾いた大地を。麦も野菜も、天の恵みがなければ得られぬのだ。貴様が騎乗もせず、徒士(かち)で出立せねばならなかったのは何のためだ。馬に食わせる飼料もなく、それどころか馬をも食らわねばならぬ惨状にあるからだ」

「し、しかし魔女を討ち取れば呪いは解け、雨は再び……」

「まだそのような妄言を吐くか。雨の聖女は本物だったのだ。この日照りは、貴様の仕打ちによって女神様が怒っておられるためなのだ」

「そんな馬鹿な……」


 レオンハルトはわなわなと震えていた。エレオノールさえ、あの魔女さえ殺せばすべての片が付くと信じ込んでいたのだ。


「レオンハルト、貴様は廃嫡(はいちゃく)し、王家から追放する。フュルステンベルクを名乗ることは今後一切禁じる。この毒婦と共にどこへなりとも消え失せろ。ロラン王にはこれでなんとか許しを請う」

「そ、そんな……!? 父上! 父上ぇー!」


 こうしてレオンハルトとカタリナは、槍で追い立てられながら着の身着のまま荒野に放り出された。父王としては、二人の首を和睦の手土産にしなかっただけ温情のある措置だったのだが、どちらにもその思いは伝わっていなかった。


「おかしいだろ、こんなのは! カタリナ、ぜんぶ君が言ったことじゃないか!」

「おかしい……おかしいわよ! あの女は悪役令嬢で、あたしが正ヒロインなの! これまでは、これまではぜんぶあたしの言う通りになったでしょ!」

「ああ、半年前まではな。だが、エレオノールを追放してからはすべてが裏目だ! 悪役令嬢だの、正規ルートだのとわけのわからぬことで(たぶら)かしおって……貴様こそが僕を(おとしい)れるための魔女だったんだろ!」


 レオンハルトが剣を抜き、カタリナに斬りかかった。カタリナは悲鳴を上げて逃げ惑う。なぜこんなことになってしまったのか。カタリナには理解できない。攻略情報の通りに動いてきたのに。


 そう、カタリナは異世界からの転生者だったのだ。この世界が自分が好んでいた乙女ゲームにそっくりだと気がついてから、悪役令嬢である義姉に代わって次期王妃の座を射止めようと何年も前から画策していた。今世のエレオノールはゲームと違って尻尾を出さなかったため、あの手この手で罪を捏造し陥れたのだ。


 逃げ回るうちに雨粒がぽつぽつと落ちてきた。それはすぐに大粒になり、風呂桶をひっくり返したような豪雨へと変わった。雷鳴轟く雨の中、泥だらけになりながら醜い鬼ごっこが続いた。


「きゃあっ!?」


 カタリナが足を踏み外し、斜面を転げ落ちた。自慢の金髪が泥にまみれ、もはや見る影もなかった。それを追うレオンハルトも転げ落ちた。地面が大きく窪んでおり、二人ともそれに足を取られたのだ。


「いひっ、ひひっ……ひぃ……。雨が降ってきた。やはり貴様が魔女だったのだ。貴様を討ち果たして僕は王宮に帰るんだ」

「違う! あたしは魔女なんかじゃない!」


 レオンハルトの双眸(そうぼう)はもはや狂気の色に塗り潰されていた。焦点が合わず、どこを見ているのかわからない。口の端から泡を(こぼ)しながら、白刃を振り回して倒れたカタリナに迫っていく。


 カタリナは「違う……違う……」と繰り返しながら、泥の中を這い回った。背中を、脹脛(ふくらはぎ)を、掌を白刃がかすめ、火のついたような痛みを感じた。


 どどどどど……と遠くから低い地鳴りがした。地鳴りは徐々に近づいてきていた。しかし、狂乱する二人にその音は届いていなかった。


 そして濁流が押し寄せた。窪みは枯れた川だったのだ。半年ぶりの豪雨で乾き固まった大地が水を吸いきれず、鉄砲水が起きていた。逆巻く濁流が二人を飲み込み、その後、彼らの姿は二度と誰にも見られることはなかった。


 * * *


 抜けるような晴天の下、王城前の広場に砂漠の国の民たちが集まっていました。屋台の店主たちがここぞとばかりに売り込みの声を上げています。大道芸人がかしましく口上を述べ、吟遊詩人がリュートを爪弾いていました。


 こんな賑やかな催し物は生まれて初めてです。これもひとえにロラン様の善政の賜物でしょう。繊細な刺繍が施されたドレスを身にまとったわたくしは、色とりどりの花びらが舞う道を歩いていきます。


 道の先、広場に設えられた神像の前にはやはり色鮮やかな衣装をまとったロラン様がいらっしゃいます。頭に巻いたターバンからは燃え上がるような赤髪が覗いて、初めて出会った日のことを思い出しました。


 ロラン様がわたくしの手を取ると、観衆がいっそう沸き立ちました。緑の国の結婚式は(おごそ)かな雰囲気の中で行われるのですが、砂漠の国ではこのようにお祭り事として盛大に祝うのだそうです。あらかじめ伺っていたとはいえ、その熱気に少し緊張してしまいます。


「大丈夫かい、エル?」

「は、はい。少し驚いただけです」


 こんな些細なことでも、ロラン様はわたくしを気遣ってくださいます。緑の国から追放されたときはきっとこのまま野垂れ死んでしまうのだろうと覚悟をしていたのですが、まさかこんな日が来るなんて……。


 わたくしの目から、思わず熱いものが溢れました。それに呼応するように、青空からぽつぽつと雨粒が降ってきました。突然のお天気雨に観衆が悲鳴を上げます。ああ……こんなときにまで。やはりわたくしはじめじめとした人生がお似合いなのでしょうか。


 頬を伝う涙を、ロラン様が指先でそっと拭ってくださいました。


「エル、やはり君は雨の聖女だな。女神様まで貰い泣きをされておられるぞ」


 ロラン様の唇がわたくしの唇に重ねられ、広場は「わあっ」という歓声に包まれたのでした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] おおお! これぞまさに王道!!(婚約破棄からのざまぁモノというのでしょうか?) それに内容も深い。 本当にどんなものでも書けますね。 凄いです! ロラン様もカッコいい(⁎˃ᴗ˂⁎).。.:…
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