もう一つのクッキー
週明けの月曜日、教室に着いていつもの面々と挨拶を交わした後、栞は机の上に登校時から手に持っていた紙袋を置いた。
中身は、一昨日栞が作ったクッキーだ。今朝うちでちらっと見たのだが、一人分ずつに分けられて綺麗にラッピングされていた。ここまでするのはきちんとした栞の性格故だろう。
俺も焼いた当日に目の前でラッピングしてくれたものを受け取っている。その量はこの何倍もあったけれど。
その日の夜に少しだけ食べてみたら、焼き立てはホロホロ食感だったものが冷めたらサクサク食感に変わっていた。それがまた美味しくて、ついついもう一つもう一つと手が伸びてしまうほど。
一気に食べてしまうのがもったいなくて、ある程度のところで止めたのだが、誘惑を振り切るのには苦労した。栞が焼いてくれたクッキー、大事に大事に食べるのだ。
当然、悪くなってしまう前には完食するつもりでいる。大事にしすぎて食べられなくなってしまっては元も子もない。
日課の寝る前の電話でその事を話したら、栞はデレデレになって悶えて、
『もうっ、もうっ、涼ってばぁ! 私を喜ばせるのが本当上手なんだからぁ……。えへへへ、そんなに気に入ってくれたのなら、またそのうち作ってあげるよ。だから、我慢しないで食べてっ』
なんて言っていた。
そのせいか、昨日は朝から栞の熱烈なハグとキスで目覚めることに。更に一日中べったりで、顔をゆるゆるに緩ませていて、大変可愛かったことを付け加えておく。もちろん栞がいつでも可愛いのは言うまでもないが。
そんなことを思い出しているうちに、栞は皆にクッキーを配っていく。中身が見えない袋に入っているせいか、皆受け取ったものの首を傾げている。
「ねぇ、しおりん? これは?」
「クッキーだよ。皆試験お疲れ様ってことで、私からのちょっとしたご褒美ってね」
「ご褒美?! ありがとー、しおりんっ!! やっぱりしおりん大好きーっ!」
楓さんは手に袋を持ったまま、満面の笑みで栞へと飛びついた。その光景を微笑ましく眺めつつ、他の三人も口々に栞へと礼を言う。
「でもこれ、市販のじゃないよね? もしかして、栞ちゃんの手作り?」
「うん、そうだよ。本当は涼へのご褒美に作ってたんだけどね、どうせなら皆にもって思って。焼いたのは土曜日だから、なるべく早く食べてね」
「わかった、ありがとう。でも、栞ちゃんクッキー作れるんだぁ……。すごいなぁ……」
橘さんが袋を開けて、中を見ながら感心しているのを尻目に、遥と漣は早くも食べ始めていた。
「「……うっま!」」
二人が声を揃えて言うと、
「あっ、ずるい! 私も食べるっ!」
「わ、私も……! 栞ちゃん、いただくね?」
「うん、どうぞー」
楓さんはがっつくように、橘さんは丁寧に断りを入れてからクッキーを頬張る。栞はそれをニコニコしながら眺めていた。
「ふわぁ……、おいしー……!」
「うんうん、サクサクで優しい味だよね。いくらでも食べられちゃいそう」
どうやら全員の口に合ったらしい。栞が作ったってことを抜きにしても美味しかったから当然だよね。
「へへ、よかったぁ」
栞も皆の反応に満足そうだ。
「でもさ、しおりん?」
「ん?」
「高原君にはもうあげてるんだよね?」
「そりゃもちろんだよ。一番最初に食べてもらったのは涼だもん。二人で焼き立てを食べて、ちゃんと家で食べる分もあげたよ」
「焼き立てっ! なにそれ、美味しそう……。じゃなくって! それならさ、あと一つは誰の分なの?」
「んんっ? あと一つ?」
栞が渡す予定にしていたのはここにいるメンバーだけのはずで、その全員がすでに受け取った。なのに机の上に置かれたままの紙袋の中を覗き込むと、楓さんの言う通りまだ一つ残っている。今朝覗いた時には数までは確認しなかったので気付かなかった。
俺への追加分、なんてことはないだろう。もしそうだとしたら昨日か今日の朝にでも渡してくれるはず。ということはつまり、もう一人これを渡す相手がいるということだ。
ただ、俺にはなんとなくだがその相手が予想できてしまった。このタイミングでなら考えられるのは一人しかいない。
「あー……、これはねぇ……」
栞は言いにくそうに口を開いた。
「藤堂君にあげようと思って、ね」
やっぱり俺の予想は正解だった。
「えぇっ?! なんでぇ?!」
「そうだよ、なんで藤堂なんかに!」
楓さんと遥の反応も予想通りだ。漣と橘さんも黙ってはいるが、その表情が納得できないと言っている。
「そう言われるだろうなぁとは思ってたんだけどね」
「じゃあどうして?」
「んー……。なんでだろ。言い過ぎたかなっていうのもあるんだけど……。なんか色々考えちゃって」
「色々って? しおりんもあの人に怒ってたんでしょ?」
藤堂が俺達の別れを条件に出した時、声を上げたのは遥だけだが、その場にいた全員が怒っていたように見えた。
「そうなんだけどね、私も涼に出会わなかったら今頃どうなってたのかなぁって思って」
「あー……」
例の件の結末は、このメンバーにはあの日帰る前に話をしてある。面倒事に巻き込んでしまったので、それくらいはしておくべきだと思ったからだ。
当然、その中で藤堂自身のことにも触れている。
「もちろんね、今の藤堂君のことは気に入らないけど、でも何かのきっかけで変われるかもしれないでしょ?」
「そのチャンスをしおりんが作ってあげるってこと?」
「そこまでは言わないけど……、でも、それに近いものはあるかも」
「俺は正直反対だな。あんなやつほっときゃいいと思うぜ?」
あの時の事を思い出しているのか、遥は不快感を隠そうともせず投げやりに言う。
「けど、そうだな……。涼はそこのところどう思ってるんだ?」
「ん? 俺?」
「……なんだよ気の抜けた顔して。お前も一応被害者だろうが。それに大事な彼女が手作りしたクッキーをあんなのにあげようとしてるんだぞ?」
「被害者って……。でも、そうだね。俺もそこまでする必要ないとは思うけど……」
「けど、なんだよ?」
人が変わろうとする時、必要になるのはきっかけだ。何もなければ今までの自分に甘えてしまう。それは俺がよく知っている。
俺も栞が声をかけてくれたことから全てが変わり始めた。もちろん、それがなくてもあんなおかしなことはしなかったと思うけれど。
栞がいてくれたおかげで本気で変わりたいって思い始めて、いろんなことを考えた。そこからは勇気が必要だったし、努力だって必要だった。今思い返してみても大変だったと思う。でも、その結果が今だ。栞というかけがえのない彼女ができて、更に友人達に囲まれている。
だから、栞が藤堂にもそういう機会を与えてあげたいというのなら、そうしたらいいと思う。栞は結構面倒見のいいところがあるので、一度は自分でどうにかしろと突き放したものの、なんだかんだで放っておけなくなってしまったのだろう。
これは栞の優しさだ。なら、俺はそれを尊重したい。
「俺は栞のしたいようにしたらいいと思うよ。藤堂のことは俺も気に入らないけど、気持ちはわからなくはないからさ」
俺がそう言うと、遥はバリバリと頭を掻きむしった。
「ったくお前らは……。揃いも揃ってお人好しっていうか……。それでやつが黒羽さんに惚れても知らねぇぞ?」
「そこは別に心配してないかなぁ」
「彼氏の余裕ってやつか?」
「そういうのとは違うんだけど……、まぁでもそういうことにしとこうかな」
口にするのが恥ずかしかったので濁してしまったけど、これは多分栞への信頼だ。
藤堂の前で栞は、俺達の邪魔をするものは全身全霊をもって叩き潰すとまで言い切った。栞が心変わりする可能性は皆無だし、藤堂が栞を好きになる分には勝手に実らない恋に苦しめばいい。
そこは栞の思いを履き違える方が悪いのだ。もしそれで余計なちょっかいをかけてくるようなら、今度こそ俺も黙っていない。
「呑気なやつだな、涼は……。まぁ確かに、お前らの間に割って入るなんて誰にも無理だしな、もう好きにしろよ」
「うん、好きにするよ。ってことで、栞。そろそろ先生も来るだろうし、昼休みにでも渡しに行こっか? 俺もついていくよ」
「ありがとね。涼ならわかってくれるって思ってたよ」
全幅の信頼を寄せるような栞の微笑みに、今更ながら照れくさくなる。
栞はどんどん優しくなって、度量が広くなっていく。その対象に藤堂が含まれるのがやや複雑だけど、その事自体は嬉しく思う。人に優しくできるということは、それだけ栞の心に余裕があるということだから。