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逆転サヨナラ

作者: 鈴木 和音

彼氏のために一途な女の子の気持ちと、理想と現実の違いに悩む姿を描きました。

   逆転サヨナラ

                  鈴木 和音


   1


 月曜日の朝。白い花柄模様が入ったレースのカーテンから透けて差し込む朝日に、横山(よこやま)未菜(みな)は思わず眠っていた瞼を開く。今日はアラームをセットした時間よりも十分早く起きる事が出来た。

 パジャマから高校の制服に着替え、Yシャツのボタンを留めると、勉強机に向かって座り、スタンドミラーを立てて化粧を施す。ここ最近、未菜は化粧にかける時間が長くなった。その分早起きをしなければいけないわけだが、九月以降、未菜は学校に行く毎日の朝がとても楽しみな時間となっているから、全く苦に感じていない。学校に行く事がこんなに楽しいと思えるのは、人生で初めてだ。

 一階の居間で両親と朝食を済ませると、一旦二階の部屋へ戻り、Yシャツに紺色地に赤紫のラインが入ったリボンを締め、ブレザーを着る。もう一度鏡を見てリボンのバランスを確かめ、小学校時代から使っているお気に入りの櫛を使い、肩まで伸びている黒髪を入念に梳く。

 白い肌に丸々とした瞳。薄すぎず濃すぎず、ちょうど良い色合いの眉毛。唇を閉じたまま微笑をたたえると小さな笑窪が浮かぶ。これならばっちりだ。未菜は学校指定の鞄を持って家を出て、アップダウンのある住宅街を歩いて駅へ向かう。

 十月も中旬に入り、未菜が住む街の街路樹の葉は、少しずつ赤みを帯び始めている。暑くなく、寒くもない。今年は平成の御代で迎える最後の秋。次の元号が何になるか知らないが、新しい元号になったからといって、この街の景色が変わるわけではないだろう。未菜は自分の誕生月でもあり、植物の色合いが景色の移り変わりを教えてくれる十月が一番好きだ。

 未菜の自宅から東急田園都市線の市が尾駅までは、歩いて十分ほどだ。駅の反対側のロータリーから路線バスに乗って毎日通学している。未菜が通っている私立黒金(くろがね)学園高校と市が尾駅を結ぶ路線だが、スクールバスではなく、私鉄が運営している一般の路線バスなので、黒金高校の生徒だけでなく、途中のバス停では一般の通勤客など、沿線に在住、在勤している人たちも乗り降りをする。

女子も男子も、ほとんどの生徒が冬服通学に切り替わっている。ついこの間まで真っ白なYシャツで明るく感じていたバスの車内は、紺色のブレザーによって、何となく密度が濃く、温度を高く感じる。

横浜市は十八の区に別れていて、未菜が生まれ育ったのは青葉区。未菜が通っている高校も、同じ青葉区にある。「青葉」という名前に相応しい、春から夏にかけては溢れんばかりの新緑が生い茂る並木に挟まれた道をバスで走り抜けた先に、黒金高校はある。バスが折り返しをするロータリーの目の前の正門からは、横浜の赤レンガ倉庫を髣髴とさせるデザインの赤い塀が両側に伸びて学校の敷地を囲んでいる。中学生が通う中等部の二階建て校舎と体育館の間を抜けた先に、高等部の四階建て校舎があり、さらにその向こうには、体育の授業の他、硬式野球部、硬式・軟式テニス部が練習で使っている校庭があり、道路を隔てて隣の敷地には、緑の芝生に覆われたサッカー部とラグビー部、陸上部の練習場がある。

 パソコン室や音楽室、美術室など、教科で使う教室は四階に集中し、一年生が三階、二年生は二階、三年生は一階に教室が入っている。未菜は昇降口の下駄箱でローファーを脱ぎ、上履きに履き替えると、階段を上って廊下を進み、自分のクラスである二年四組の教室に向かった。

 教室の扉を開くと、壁に近い一番後ろの席で、坊主頭の安倍(あべ)洋次(ようじ)が机に突っ伏して寝ているところだった。足元には「黒金学園高校野球部」のネーム入りエナメルバッグが置いてある。他の生徒はまだ来ていない。未菜は他の生徒が来ないうちに、洋次に気付かれないよう、抜き足差し足で窓際の自分の席に鞄を置くと、洋次の傍らに歩み寄った。綺麗に刈り揃えられた頭だが、後ろから見ると、頭の真後ろよりもやや左寄りに、二センチメートルほど横向きの真っ白に禿げた部分がある。幼い頃に頭を針で縫う怪我をしたときの痕らしい。規則正しい寝息を立てて寝ている洋次。野球部は先週の金曜日から校内合宿中で、野球部のグラウンドのそばにある柔道場で寝泊まりをしている。合宿中は携帯電話の持ち込みが禁止されているため、未菜が洋次と会うのも、声を聞けるのも、先週の金曜日の放課後以来となる。

 顔を埋める腕の隙間から見える顎から耳にかけての肌は、この土日で少しばかり焼けたように見える。未菜よりも頭一つ分高い背に、未菜の小柄な身体を包み込むほどの幅の広い肩とは対照的に、耳はとても小さくて、可愛らしさすら感じる。未菜はそんな洋次の耳に顔を近づけ、蝋燭の火も消してしまわないような、揺らす程度の優しい息をふーっと吹きかけた。

「ん……?」

 ぴくりと身体を動かした洋次は重そうに身体を起こし、すぐに人の気配がする左後ろを振り向く。

「おっ、未菜!」

 洋次が笑うと、彫りの深い目が横に垂れ、美しいほどに整った真っ白な歯が見える。赤紫のラインが入った女子の制服のネクタイに対し、男子の制服のネクタイには青いラインが入っているため、ほとんど紺一色に同化して見える。

「会いたかったよぉ」

 未菜が後ろから洋次に抱きつくと、洋次は身体を横に向きなおして未菜の背中を両手で抱きしめた。

「俺も」

 唇を軽く合わせるくらいの小さなキスを交わすと、未菜は心臓だけでなく、身体中がドキドキ鼓動を打つような衝撃を感じた。全身に力が漲ってくる。

「久しぶりに未菜の顔を見て声を聞いたら、疲れがすっ飛んだよ」

「マジ!? 嬉しい!」

 二人はもう一度お互いの身体を強く抱きしめた。だが、そのうち誰が入ってくるか分からない。二人が交際している事はクラスメイト全員が認知しているところだが、あまりイチャイチャしているところを見られるのは恥ずかしいものだ。二人は椅子に座って、落ち着いて雑談に興じる事にした。


 未菜と洋次は、今年の夏休みの終わり頃から付き合い始めた。お盆休みが明けてすぐ、新聞部に所属している未菜が学校での部活を終え、お昼過ぎのバスで帰ろうとバス停で待っていたところ、雨が降り始めたと思うや否や、アスファルトを打ち付ける雨も膝下まで跳ねるほどの土砂降りになった。未菜はリュックサックを頭上へかざすが、真っ白なYシャツは瞬く間に濡れてしまった。走って体育館の入り口前まで行き、屋根の下で雨宿りをする。濡れて肌にべったりくっついたYシャツの下には、ブラジャーが透けて見えている。未菜はリュックサックを前に抱えて胸を隠す。空を見上げると、分厚い雲が空いっぱいに広がっている。まだまだ止みそうにない。

「はぁ、困ったなぁ……」

 市が尾駅行きのバスが来るまで、あと十分ほどある。それまでに止んでくれなければ、バス停まで行くのにまた濡れてしまう。既に靴下も濡れているから、これ以上雨に打たれたら下着まで濡れて風邪を引いてしまうかもしれない。体育館の中からは、女子バレー部がスパイクを打つ音と選手同士の掛け声が聞こえてくる。

「横山、傘ないの?」

 正門を見つめる未菜に、後ろから声を掛けてきたのは、肩から提げたエナメルバッグを覆うようにポンチョを羽織った洋次だった。野球部では控えの投手としてベンチ入りをしている選手の彼とは二年生になって同じクラスになって知り合ったが、まともに会話をしたのはそのときが初めてだった。

「うん……」

 未菜が困った顔で頷くと、洋次はエナメルバッグの中から黄色い折り畳み傘を取り出して開き、未菜に差し出してきた。大粒の雨で灰色掛かった景色の中で、自分が立っている場所だけが明るく浮かび上がっているように感じる。

「俺は自転車で帰るから」

 そう言って、彼はポンチョのフードを深く被り、体育館の裏手にある駐輪場へ向かって歩いて行った。あまりに唐突で、あっという間の事で、未菜は「ありがとう」の言葉を言う事も出来なかった。ただ、彼がくれた折り畳み傘を差してバス停でバスを待っている間も、バスに揺られて移動しているときも、胸の中がポカポカと火照っていて、駅から自宅へ歩くときも、まるで身体が宙に浮いているかのように、自分の身体が軽く感じられた。あんな気持ちになるのは生まれて初めてだった。家に着く頃には雨も止み、自室のベランダから空を見上げると、遠ざかっていく真っ白な雲の影から、空に向かって虹が弧を描いていた。未菜にはそれが、空が今日の出来事をお祝いしてくれているかのように感じられた。

 一瞬で恋に落ちるというのは、まさにああいう事なのだと思っている。理屈などではない。まるでテレビドラマのヒロインになったような気分だった。夏休みが明けて学校に行ったとき、朝の教室に行くと、洋次が教室の隅で他の男子数名と雑談しているところだった。

「あの、これ……」

 男子らの輪の前まで歩み寄り、未菜は家で乾かして畳んでおいた折り畳み傘を差し出した。

「あ、そっか。傘貸してたんだっけ」

 折り畳み傘を受け取るその手は、黄色い傘と対照的に、黒く焼けていて、野球ボールも軽く包み込めてしまえそうなほどに大きく、ゴツゴツと固そうな骨格は、男らしい力強さを感じた。未菜はこの手で自分の手を包んでもらえたら、どれだけ素敵な気持ちになれるだろうと思い、それだけで胸がウキウキしてくるのだった。

「あのときは、ありがとう」

未菜が軽く会釈すると、周囲の男子たちは口々に「ヒューヒュー」と囃し始めた。

「何なにー? 雨が降る日に安倍がそんな優しい事したのぉ?」

「こちらこそ、わざわざありがとう」

 ギラギラと輝く瞳に、笑顔になったときに見える真っ白な歯。男子の笑顔にここまで惹き付けられるのは人生で初めてだった。授業中は何度も彼の方を振り向いてしまう。先生から洋次が指名されて教科書を読み上げるときは、その声を聞くだけでも幸せな気持ちになれる。家に帰っても、寝る前には彼の笑顔を、日焼けした大きな手を、真っ白な歯を思い描く。

 一週間ほどした頃、未菜は放課後、洋次が部活に向かう前のわずかな時間を利用して、屋上へ向かう階段の踊り場へ洋次を呼び出し、告白してみた。

「あの……その……」

 家で一人で何度も台詞を練習したのに、いざ本人の前になると緊張して言葉が出てこない。洋次の顔を見ながら話すつもりだったのに、俯いてしまう。でも、言葉にしなかったら気持ちは伝わらない。未菜は肩を広げ、大きく息を吸って洋次の瞳を見つめた。

「安倍君の事……、好きです。付き合って下さい!」

 洋次は一瞬目を丸くしたかと思うと、頬が赤みを帯びていくように見えたが、すぐに優しい笑顔になった。

「僕で良ければ、よろしく」

 野球部は基本的にオフがないという事もあり、放課後に一緒に帰ったり、休日をゆっくり一緒に過ごしたりといった事はなかなか出来ない。正直、他のカップルから見れば物足りなく見えるかもしれないが、その分、朝のホームルームが始まる前に教室で雑談に興じたり、寝る前のラインのやり取りがかけがえのない、大切な時間となっている。野球部の練習が午前中だけで終わったとある土曜日には、洋次の自宅の最寄り駅である小机(こづくえ)駅で待ち合わせ、桜木町までデートをしに行った。ちょうど赤レンガ倉庫でイベントが開催されている日で、潮風の吹く広場を手を繫いで歩いたり、露店で買ったソフトクリームを一緒に食べたり、自撮りのツーショット写真をツイッターに載せたりして楽しいひと時を過ごした。世のカップルたちがやっている、ラブラブモード全開のアピールをしていると、自分たちが世界で一番幸せなカップルだという自負を持つ事が出来た。二人きりで過ごせる時間は少ないが、このときのデートで撮ったツーショット写真は、未菜のスマートフォンの待ち受け画面にしてあり、いつでもすぐに見れる状態にしてある。




   2


 登校してきた生徒たちが続々と教室に入ってきて、八時四十分のホームルームを挟み、一時間目の英語の授業が始まった。

「安倍君、wake up!」

 還暦を迎えたばかりのベテラン女性教師が、普段よりトーンを高くして洋次の名前を呼んだ。薄い色の入ったサングラスを掛けているため、同級生の間では「グラサン」という渾名で呼ばれている。洋次はノートと教科書を広げた机の上で上半身を伏して寝ている。

「安倍君!」

 洋次を起こそうと、彼の席へ近づく教師に思わず未菜が声を上げる。

「先生。洋次は……」

「分かってますよ」

 グラサンはそう言いながら、洋次の首筋を掴む。洋次は思わずビクッと起き上がる。居眠りをしている人を起こすとき、首筋を掴むと一発で目が覚めるらしい。

「昨日も夜の二時まで勉強してたんだよね」

 グラサンはそう言って、教壇の前に戻っていく。洋次は目元を両手で揉みながら何とか眠気を覚まそうとしている。

 野球部は普段から夜の八時頃まで練習をしているが、合宿中の現在は夜九時過ぎまで練習をした後、夕食、入浴を済ませた後、深夜二時まで全員で授業の復習、予習をし、朝は六時起床、という毎日を送っている。授業がある平日は朝のジョギングをしてから教室へ向かうという生活が今週の金曜日まで続くのだ。そんな生活リズムでいたら、睡眠不足になるのは誰が考えても明らかだ。

 授業が終わった後、未菜は廊下で職員室に戻ろうとするグラサンを追いかけて話し掛けた。

「先生、酷くないですか?」

「何が?」

 パーマをかけた茶髪、両手の指にはキラキラの指輪。英語というより、美術の先生かと思えるくらい、輝きを意識したファッションだ。

「遊んで夜更かしして睡眠不足ならまだしも、部活のために睡眠不足なのに、それを無理矢理起こすなんて」

「部活がきついのは分かるんだけど、ウチの学校は部活よりも学業優先なのよ。部活をやってる他の生徒たちも頑張って起きてるのに、安倍君だけ特別扱いするわけにはいかないわ」

 グラサンはそう言って、書類を抱えて職員室へ向けて歩いて行ってしまった。


「寝不足になるほど練習と勉強させるなんて酷すぎるでしょ」

 昼休み。学食で昼食を終えて教室に戻ってきた洋次に、未菜は話し掛けた。

「マジあり得ねぇなぁ」

 重そうな身のこなしで椅子に腰かけながら、げんなりした表情だ。

私立黒金学園高校野球部は部員総勢五十三人。去年、神奈川代表で甲子園に出場し、一回戦で敗退した。AチームとBチームに分かれて練習をしていて、一年生だった洋次はBチームのメンバーとしてスタンドから応援していたが、三年生引退と同時にBチームからAチームに昇格し、秋の大会では投手としてベンチ入り。今年もベンチ入りメンバーとして、夏の甲子園大会の県予選(準々決勝敗退)では出番こそなかったものの、全試合でベンチ入りを果たした。今週末から始まる秋の大会ではいよいよレギュラーになる事を目指して、日々練習に励んでいるところだ。甲子園を狙う実力のチームだけあって練習は厳しく、入部した一年生のうち、一ヶ月以内には数名が退部し、夏休み前にまた数名辞め、一年生の終わりまでには十人ほどが辞めている。野球部に限らず、黒金高校は体育会系の部活がどこも厳しい練習をしているので、体育会系の部活を途中で退部する一年生は多い。未菜が噂で聞いた話では、野球部の練習中、嘔吐してしまった選手がいるほどだ。だが、睡眠不足を誘発させるほどの長時間拘束は、いくら合宿とはいえ、やり過ぎだ。

「甲子園に出場してるチームはどこも休みなしで練習してるのかな?」

 洋次の前の席に横向きに座り、洋次へ向けて身体をよじらせた姿勢で未菜は訊ねた。

「週一はオフがある学校もあれば、平日は早めに練習が終わって、休日にみっちり時間かけて練習するところもあるみたいだし、色々だね」

 今年、県予選で黒金高校を負かして甲子園に出場した藤沢の私立南星(なんせい)高校では、週一回はオフがあるそうだ。黒金高校に勝った後、甲子園大会でも八強まで進出している。南星高校は過去にも、甲子園で優勝した事もある。対する黒金高校は、数年前に甲子園に出場したときも一回戦で敗退だ。

「オフなしで練習してるチームは甲子園に出れるか出れないか止まりで、オフを入れてるチームは甲子園で勝ち上がるって、どう考えてもウチの学校が間違えてそうじゃない?」

「そうかもしれないけど、それを先生に言っても説得力はないんだよ」

「どういう事?」

 野球部では毎年四月。入部を希望する一年生を対象にした説明会を行っている。入部に当たっての注意事項や、練習ではどんな指導をするか、年間を通した大会のスケジュールといった説明が、監督と、顧問であるコーチの先生からなされるのだ。

「我々指導者は、高校野球を経験した後、大学野球を経て、指導者としての経験を積んで、今に至る。皆は少年野球から中学校の野球部、あるいはシニアのチームで野球の基礎を身に付けて、高校に上がってきた立場。先生より上のカテゴリーである社会人野球やプロ野球を経験してきた人から練習の仕方について指摘されるのであれば、考え直しますが、中学校から高校の野球のレベルしか経験していない人からとやかく言われる筋合いはありません」

 説明会で、監督はそう言ったそうだ。確かにこの言葉自体は、未菜が聞いてもその通りのような気がする。大学野球を経験してから長年高校野球の指導者をしている監督やコーチに対して、たとえレギュラーで活躍している選手だとしても、高校生が練習の仕方について良し悪しを評価するのは説得力がないと思う。だが、全員強制の深夜までの勉強会は、いくら何でもやり過ぎだ。受験勉強だって、睡眠時間を削ってまでやっても効果がないとする説があるほどだ。

「選手が騒いでも、『文句があるなら辞めていい』って言われておしまいだよ。部活は生徒がやりたい事をやるために自主的に集まる組織だからな。やりたくないものを無理に続ける必要はないから」

 そう言って、洋次は眠そうに両手で目頭を覆った。未菜はそんな彼の頭をそっと撫でる。七分刈りに揃えられた頭は、短く刈られた芝生のように、掌に心地良い感触を感じた。彼がこんなに辛そうにしているのに、何も力になってあげられない自分が歯がゆくて仕方ない。


   ×


 翌日の火曜日。

「生徒の立場で顧問に改善を要求しても聞いてもらえないなら、世論を味方に付けてみてはどうでしょうか」

放課後、新聞部の部室で長机を囲んでミーティングをしている席で、一年生の並木という男子が言った。

「どういう事?」

 部長である、二年一組の山本(やまもと)琴音(ことね)がオルチャンメイクの眉間に皺を寄せながら訊ねる。琴音は未菜が高校に入り、新聞部に入ってから知り合った女子生徒だ。

 度の厚い眼鏡の位置がずれていたのか、ブリッジを指で押し上げてから、並木は口を開いた。

「ウチの学校の野球部が具体的にどんなブラック部活なのか、新聞部で発信するんです」

「でも、特定の人や団体を批判する文章を校内新聞に載せる事は禁止されてるよ?」

 未菜が言うと、琴音も「そうだよ」と頷く。

「原稿を書いても、石井が許可してくれないよ」

 石井というのは新聞部の顧問の事だ。書き上げた原稿は石井に見せ、発刊の許可を得てから印刷室で各学年、各クラス分印刷するというのが、校内新聞発刊の流れだ。当然の事ながら、琴音が言うように、誰かの悪口を書く事は禁止されている。だが、並木はしてやったりといった態で余裕の笑みを浮かべている。普通コースに所属している未菜と琴音に対し、特別進学コースの並木は、幾分知的で上品な話し方をする。

 黒金高校は普通コースの他、大学進学へ向けたカリキュラムが組まれている特別進学コース、保健体育の授業が多めに組まれている体育コースの三種類がある。特別進学コースは普通コースに比べて偏差値が高く、勉強に集中する観点から、運動系の部活への入部が出来ない。体育コースに入学する生徒は入試のときに体力テストがあり、運動部に入部する事が義務付けられている。在学中は運動部を辞める場合は学校も退学しなければならず、実際、未菜が一年生のときも、部活がきつくて退部、学校を退学した体育コースの生徒が数名いるという話は聞いている。


「ツイッターを使うんですよ」

 並木は不敵な笑みを浮かべながら続けて語った。三人で手分けして野球部のブラックぶりを徹底的に調査し、ツイッターで拡散し、世の中へ広く知らしめるというのが彼の作戦だ。

「新聞部の部員が書いたという事は伏せて文章を書くので、僕たちにペナルティが来る事はありません」

「そっか!」

 並木の話を聞いていた琴音が相槌を打つ。

「それに、万が一バレたとしても、野球部の内部で起きている事実を書くだけであって、誰かを誹謗中傷するわけじゃないから、責められるとしたら、それは新聞部の私たちでも野球部員でもなく、野球部の監督やコーチだよね」

 未菜も「なるほど」と頷いた。

「不確かな情報をうっかり載せたりしないように気を付ければ、何も悪くないよね」

 未菜はクラスの教室の半分ほどの広さの部室の壁にある窓際に立ち、外を眺めた。住宅街と畑ばかりの景色の向こうに、琴平神社のある伊勢山に向かって、太陽が少しずつ傾いていくのが見える。横浜というと、みなとみらいや山手のような観光名所をイメージされる事が多いが、ここ青葉区は昭和時代に入るまで横浜市に編入されていない村が続く土地だったという事もあり、同じ横浜でも、ベッドタウンとしての様相を呈している区だ。ここから見える伊勢山も、隣接する川崎市麻生区である。

 神の宿る伊勢山が、私たちを見守ってくれている。未菜は気合を込めて、胸の前で拳を握った。




   3


 翌日から、新聞部の三人は休み時間を中心に、一年生から三年生の野球部員に手分けしてインタビューをして回った。三年生に関しては、引退した三人の三年生の新聞部員にも協力してもらった。いつもより早起きをして、教室に早く来ている野球部員を見付けてインタビューもした。四限目や五限目が終わると、選択授業を選んでいない二年生と三年生は下校時刻となり、部活に参加する生徒は部活が始まるまで部室で休んだり、図書室で読書をしたり、学食で友達と雑談をしたりして過ごすから、この時間帯も利用して、選択授業を取っていない野球部員にインタビューをした。

 だが、特に一年生に関しては、並木が一人でインタビューを頼むと、冷たく拒否されてしまう事が多いようだ。黒金高校の場合、体育会系の部活をしている生徒が、文科系の部活をしている者や、部活をしていない生徒を見下す傾向が強いからだ。そこで、未菜と琴音のどちらかが並木と一緒にインタビューをしたり、三人で一緒に行動するようにした。先輩後輩の上下関係を重んじる野球部員だけあって、さすがに上級生の未菜や琴音が話し掛けると、邪険にはされないものの、やはり口が堅い印象を感じた。

「すいません。監督の事を悪く言うと、先輩にやられるんで……」

「ねぇ。その、『やられる』ってどういう意味?」

 未菜は眉をひそめて訊ねた。未菜が入学したばかりの一年生のときから、野球部員同士で、「それヤバいって。ヤツにやられんぞ」「そんな事したら先輩にやられるな」といった会話をしているのが耳に入ってくるが、具体的に何をされるのか気になっていた。洋次に訊いてみたとき、「殺されるって意味だよ」と冗談っぽく言われた事があるが、まさか殺される事はあるまい。

「その……」

 一年生の野球部員は追い詰められたような顔で俯き、そのまま黙ってしまった。だが、何も話したくないといったように固く口を閉ざすというよりは、目線が右へ左へと泳いでいる彼の顔は、何か言いたげな表情にも見受ける。なかなか話を始めない彼にもどかしさを募らせたのか、スマートフォンでメモを取りながら聞いていた琴音が溜まらず急かした。

「もしかして、殴られ……」

 琴音がそこまで言いかけたところで、未菜は琴音の肩に手を掛けて遮った。もう一押しで言葉を出せそうな相手に対し、誘導尋問のような事をして無理矢理喋らせるような事はしたくない。あくまでも、真実を自分の言葉で話してもらわなければ意味がないと思っている。

「大丈夫」

 未菜は一年生の野球部員に、優しく包み込むお姉さんのような口調を心掛けて話し掛けた。

「君が言ったって事は絶対口外しないし、君の名前は記録すら残さないから、君に危害が及ぶ事は絶対あり得ないよ」

 誠意が通じたのか、一年生の野球部員はホッとしたような表情で顔を上げ、未菜の顔を見ながら口を開く。

「指導係の二年生の先輩に殴られるんです」

「その……指導係の二年生っていうのは、誰なの?」

 未菜は胸騒ぎを覚え、意図せずして自分の胸を両手で抑えた。まさか、いつも自分に優しくしてくれる洋次が、部活では後輩に暴力を振っているなんて事はあり得ない……はずだよね。

「普通コースの……」と一年生の野球部員が言い始めところで、未菜の胸の鼓動は最高潮に達したが、一年生の野球部員が挙げた名前は、同じ普通コースでも、別のクラスの部員の名前だった。未菜が大きく胸をなで下ろしているうちに、琴音が次の質問をした。

「いつ、具体的に何をされたのか、出来るだけ詳しく教えてくれる?」

 ただ漠然と、「殴られた事がある」というだけでは、話に信憑性がない。

「私たちはね、黒金高校の生徒として、学校全体を良くしたいの。野球部にも良くなってもらいたい」

 琴音の言葉は切実さに満ち、一年生の野球部員を見つめるその瞳は水分多めに潤んでいる。まるで昭和時代の終盤から平成の序盤にかけて放送されていた青春ドラマを髣髴とさせる話し方だが、中学時代に演劇部に所属していた琴音はこうした迫真の演技が得意だ。弾けるような笑顔を作って話す事も出来るから、彼女に惚れてしまう男子も多い。

「僕の名前は、本当に出さないでもらえますか?」

 一年生の野球部員は警戒する目で、小さな声で訴えてくる。

「勿論!」と未菜が力強く頷くと、琴音も「当たり前だよ!」と答える。すると、野球部員は一つ一つ語り始めてくれた。




   4


 スポーツ推薦で入学していきなりAチームで練習に参加する者を除き、入学したばかりの一年生は、まずは全員がBチームで練習をする事になる。監督をはじめ、二人のコーチが練習を指導している他、週一回はスポーツトレーナーが来て、ウェートトレーニングのメニューをこなす事もある。練習で良い動きを認められた選手はAチームに昇格して試合に出たり、ベンチ入りのチャンスがあるが、Bチームだと、試合ではスタンドから応援をする事になる。チームの目標はあくまでも甲子園に出場し、上位へ進出する事なので、三年生だからといって温情で試合に出させてもらえるという事はなく、実力のある者からレギュラーになり、ベンチ入りが出来る。ここまでは、未菜も洋次から聞かされて知っている事だが、何人かの野球部員にインタビューしてみると、野球部員と付き合っている未菜でも知らない事が次々と見えてきた。

 公式戦の日程が近付くと、Bチームは練習が終わった後、応援の練習をする。メガホンを持ち、試合で打席に入る選手の応援歌をそれぞれ歌ったり、守備のときに歌う歌を練習するのだが、きちんと声を出していなかったり、片足重心など、背筋を伸ばさずに立っていると、先輩がメガホンで後輩の頭を叩く事があるというのだ。一年生が入学したばかりの四月から五月の間は、雨天時の室内トレーニングで筋力トレーニングをしたり、校舎内でサーキットトレーニングをするときは、Bチームは教育係の二年生が廊下内の中間点に竹刀を持って立っていて、走るのが遅い一年生がいると、竹刀で背中をぶつという。竹刀は選択体育で剣道を選択した生徒が持ち込んだものだろう。

「中学生の野球と高校生の野球って、レベルが全然違うんですよ。球の速さも違うし。走る速さも違うから。中学三年の夏休みの大会で引退して、それから四月に高校入学するまで、ジョギングすらまともにやってないのに、いきなり高校レベルのペースで持久走やったり、それまでバリバリ練習を続けてきてる上級生と同じペースで練習をすると、筋肉痛にもなるし、中には走るペースに付いていけなくて、後ろで引き離される人も出てくるんですよ」

 そこで走り遅れる一年生を、二年生が竹刀でぶつというのだ。

 これまで、野球部を辞めた元部員にもインタビューをしてみると、やはり同じような証言が得られた。

「『ちゃんと走れ』とか『やる気が見られねぇ』とか言われたんですけど、全力で走ってるのにそう言われてもどうにもならないし、それで叩かれたら、それこそやる気なくしますよ」

 長野県の避暑地で行われた夏休みの五泊六日の合宿では、毎朝四時起床でジョギングから始まり、途中、食事を含む何回かの休憩を挟みながら夕暮れの時間帯まで練習が行われる。合宿所となる宿泊施設の食堂で食事をするのだが、夕飯では、白米飯を強制的に何倍もお代わりさせられるという。

「一杯食べただけでもうお腹いっぱいなのに、何台も並んだ大きな釜が空っぽになるまで、全員で食べなきゃいけないんです」

 当然、中には食べきれなくて気分が悪くなり、その場で吐いてしまう選手もいるそうだ。するとまた、先輩から怒鳴られるという。

「食堂のおばさん達が一生懸命作ってくれた料理を戻すとはどういうつもりだ!」

 そして、先輩は一年生の嘔吐物を自分で器に集めさせ、それを全て飲むように強要されたという。

「それ、本当なの……?」

 未菜は放課後に野球部員からこの話を聞いていて、思わず昼休みに食べた弁当が食道を逆流しかけるのを感じた。幼い頃、親が運転する車で出かけて車酔いして吐いたときに感じた嘔吐物の味は今でも痛烈に覚えている。喉を焼きながら這い上がってくるようなおぞましい酸味の中に混じって、つい数十分前に食べたばかりで記憶に新しい食事が、とろみのある醜い液体状になって口から飛び出してくる。見た目も気持ち悪いが、あの鼻をつくような不快感のある嘔吐物を飲まされるなんて、想像するだけでも身体がわなわな震えてくる。

 他にも、練習で思い通りのプレーが出来ずに悔しさからグローブを地面に叩きつけたり、バットで地面を叩いたりすると、試合で使う大事な道具を粗末にしたとして先輩に怒られる。それ自体は当たり前なのだが、問題はそういうとき、先輩からバットで殴られるという事だ。大怪我になる危険があるからと、流石に金属バットで殴る事はないそうだが、木製バットで背中や足をぶたれるという。

「バットで地面を叩くのはダメで、人を殴るのはどうしていいの?」

 ある日の昼休み、未菜は洋次に訊いてみた。すると洋次は、ちょっぴり難しい顔をして「うーん」と唸ってから口を開いた。

「確かにやり過ぎかなとは思うけど、俺みたいな二年生だと、いくらレギュラーとはいっても、三年生が決めてる事に文句は言えないかな」

 年上が言う事には逆らえない。日本海の向こうの大陸から朝鮮半島を経由して伝わってきた、我が国の足かせとなっている儒教思想に影響を受けた年功序列という悪習が、高校野球界ではまだまだ蔓延っている。一年生から三年生まで、全員が西暦二千年代生まれとは思えない、未菜の想像を超えるほどの旧時代的体制が、同じ学校の中に存在しているのだ。休み時間など、野球部員同士が廊下ですれ違うとき、下級生は上級生に直角のお辞儀をしながら大きな声で「こんにちは!」と挨拶をする日常がよく見られる。その割に、体育コースの野球部員は普通コースの生徒の前では偉そうに肩で風を切りながら歩く姿を見ては、未菜はいつも違和感を感じていたが、ここまで話が見えてくると、もはや違う人種の人間としか思えない。




   5


 野球部員への取材を一通り終え、取材と称して野球部の練習を四日間に渡って見学し、その内容を出来るだけ詳細にメモをしておいた未菜は、小・中学時代の同級生で、藤沢(ふじさわ)にある私立南星高校に通っているサナに連絡を取ってみた。南星高校も野球部が過去に何度も甲子園に出場していて、去年の県予選では準決勝で黒金高校と直接対決になり、黒金高校が勝って本大会まで出場。逆に今年は準々決勝で対戦し、お互い点を取られては逆転してという展開を繰り返した末、南星高校が勝った。前述のとおり、南星高校は甲子園で八強まで勝ち進んでいる。サナはその南星高校の野球部でマネージャーをしている。

「南星高校の野球部がどんな練習をしているのか、見学させてほしいんだけど」

 黒金高校野球部がブラック部活である事を告発する目的で、他の甲子園出場校がどんな練習をしているかを知り、比較したいという話をすると、その日のうちに「いいよ!」という返事が来た。琴音からは「本物の新聞記者みたいでアクティブだね!」と感心してもらえたし、並木も「他の学校の野球部と比べてどうかという見方は大事ですね」と共感してくれた。

 秋晴れの火曜日、五限で授業を終えた未菜は足早に校舎を出、既に満員となっている市が尾駅行のバスに乗り込んだ。普段電車を使う事が少ない未菜は、改札を入る前に券売機でパスモに千円チャージをしておく。中央林間で小田急江ノ島線に乗り換え、藤沢本町(ほんまち)駅で電車を降りた。閑静な住宅街を十分ほど歩いた先に南星高校の校舎はある。市が尾駅からここまで、電車の乗車時間と徒歩を合わせて一時間少々。

緑色のネットに覆われて中を窺いづらいグラウンドからは、硬球をキャッチするときのグローブの摩擦音や、「カキンッ」という打球の音が聞こえてくる。毎日未菜の倍の時間をかけて通学し、尚且つ野球部のマネージャーまでやっているサナの苦労に比べれば、私なんて全然楽な生活を送っている。そんな事を考えながら未菜が正門まで辿り着くと、ベージュ色のブレザーを着た生徒たちがぽつぽつと校舎から出てくるところだった。六限の授業とホームルームが終わった直後の帰宅ラッシュは少し過ぎているようだから、委員会の集まりだったり、校舎内で友達と雑談などしてから帰ろうという人たちだろうか。校舎の目の前のグラウンドではサッカー部とラグビー部が練習していて、さらに奥のグラウンドで野球部が練習しているのが見えたので、未菜はそちらへ向かって歩き出した。行き交う生徒たちは未菜を物珍しそうな目で見てくる。やはり、一人だけ他校の制服を着ている人が歩いていると目立つ。

二年前、中学生だった未菜は母親と二人で南星高校の学校説明会に来た事があるが、そのとき以来の訪問となる。何となくだが、黒金高校の校風の方が気に入ったので黒金高校を受験したが、あのときはまさか、次はこういう形でこの学校を訪れる事になるとは想像もしていなかったし、このような形でサナと再会する事になるとも思っていなかった。人生はどこからどう転がっていくか分からないものだ。

「未菜!」

野球部のグラウンドまで近付いたところで、後ろから女性の声が飛んできた。振り向くと、白地にオレンジ色のラインが入ったジャージ姿のサナが走ってくるところだった。手には黒いバインダーを持っていて、ボールペンかシャープペンが留められている。

「めっちゃ久しぶりだね!」

嬉しそうに笑顔を弾かせるサナが着ているジャージの肩には、「南星高校野球部」という刺繍が施されている。

「ゴメンね。あまりゆっくり話してる時間ないんだけど、観覧席で見てていいから。また後で声掛けるね!」

 サナは野球グラウンド三塁側にある観覧席を指し示した。

「ありがとう。部活頑張って!」

 未菜がそう言うと、サナはまた走って本塁の後ろにあるプレハブの建物へ入って行った。

観覧席はベンチが四段構えの造りになっていて、詰めれば七、八十人ほどは座れるだろうか。芝が綺麗に刈り揃えられている外野では、ユニフォーム姿の数名の選手らがコーチの指導を受けながらダッシュを繰り返している。本塁では別のコーチがノックをして、内野ベースのあたりに並んでいる選手が順番に捕球の練習をしている。それから練習メニューは少しずつ移り変わっていくが、未菜はそれを持参してきたノートに出来る限り詳しく記し、イラストも描いて記録に取った。どの選手も動きが速い。球の動きも速いが、それに対する選手の反応の速さは、さすが甲子園でも上位の成績を残すだけの実力だといえるのだろう。選手の顔を見ていても、真剣さが伝わってくる。これから何日間か取材をしていく中で、監督やコーチが選手にどんな言葉で指導をしているのか、監督やコーチが選手を殴ったり、先輩が後輩を殴ったりするような事がないか、あるいは人格を否定するような発言をしないか、しっかりチェックしていこうと思っている。

「すいません」

未菜がグラウンド内の様子に夢中になっていると、いつの間にかすぐ隣に、ユニフォームにキャップを被った中年の男性が立っていた。野球部のコーチだろうか。そのすぐ後ろにはサナもいる。サナは何やら申し訳なさそうに肩を縮めている。

「今日、ウチの練習を見に来る事は、君の学校の先生も知ってるの?」

「あ、いえ……」

 他校の先生と話すなんて初めてなので緊張しながら未菜は答えた。

「部活の試合とか生徒会の交流会みたいに、予め学校同士で了承してるわけじゃないのに、他校生が勝手に学校の敷地に入るのはまずいよ」

「あっ……、そっか……」

 自分の学校の生徒ではないので、優しくなだめるような口調だったが、未菜は言われてみて気が付いた。南星高校の野球部の練習を見に来る事は、新聞部の仲間と、サナにしか話していない。コーチは話を続けた。

「それに、もしも君が怪我をした場合。君の担任の先生や部活の顧問の先生、それから保護者の方とウチの学校で、誰がどう責任を取るかで大いに揉める事になっちゃう」

 確かにその通りだ。いくら放課後とはいっても、下校途中で事故に遭えば学校としても事故の詳細を把握する必要があるし、制服を着た生徒が問題行動をすれば学校に苦情が入る。サナに話をお願いしたとはいっても、それで学校から許可を貰って敷地に立ち入った事にはならないのだ。

「これは失礼しました。すぐ帰ります」

 未菜は立ち上がり、直角にお辞儀をした。

「未菜、私こそゴメンね。きちんと確認してなくて……」

 サナは元々狭い肩幅を一層小さくしながら恐縮している。

「いや、そんな。私が勝手にお願いしちゃっただけだから、気にしなくていいよ」

 正門を出るとき、見送りに来たコーチに、未菜はもう一度お辞儀をしてから帰った。

 帰りの電車の中で、未菜は改めてサナに申し訳ない気持ちを噛みしめるとともに、自分自身に対する苛立ちも感じていた。南星高校に取材に行く事を思い付き、そのアイデアを琴音と並木が称賛してくれた時点で、自分は黒金高校新聞部始まって以来の優秀記者だという自負を持った。サナが取材を受け入れてくれたときは、天も味方に付けたような気になっていた。だが、肝心な詰めが甘かった。もしかしたら、今日、未菜が南星高校の敷地に立ち入った事は、黒金高校の生徒指導部の先生の下に連絡が入るかもしれない。サナだって、学校の許可なく他校生を招き入れて部活を見学させたとして、野球部の顧問や生徒指導の先生から怒られるかもしれない。

 私はまだまだ世間の厳しさを弁えてない、一介の女子高生に過ぎないのだ。電車の窓には、住宅街の景色が目まぐるしく流れていく。そしてその向こうには、今にも日が沈もうとしている丹沢山が堂々と聳えている。夕日の逆光になって真っ黒に見える丹沢山。この大きな自然の中で、未菜は自分の無力さをまざまざと痛感させられるのであった。




   6


「でも、これだけネタが揃えば完璧だよね!」

 翌日の放課後、部室で昨日の顛末を琴音と並木に話すと、ライバル校の部活の偵察に失敗した事は一切責めず、野球部員に対する取材を一緒に粘り強く敢行した努力を称賛してくれた。それから三人はいつも新聞のレイアウトを作成するときのように、どのような文面でツイッターに投稿していくかを話し合った。ただ、仕入れてきた情報を仕入れた順番に書き連ねるだけでは、読む人は読みづらい。校内新聞を発行するときは、一人が考えた文章に対し、最低二人以上でチェックをし、修正案を出し合う。

一人だけで考えていると、どうしても文章の矛盾が生じたり、言葉の誤用の可能性があるからだ。新聞部としてツイッターのアカウントは今のところないが、全校生徒に読んでもらう文章を考える部活をやっている性質上、チームワークで文章を作り上げたいという気持ちは自然と芽生えるものだ。未菜は一年生のとき、中学校にはない部活に対して新鮮味を感じたという軽い動機で入ってみたのだが、今では学校の体育会系の悪しき体質を変えるところまで来ている事に、感慨深さを感じている。新聞部に入った事で仲良くなった琴音とは、この一年半ですっかり大親友だ。半年前に入部したばかりで初々しかった並木は、今ではすっかり新聞部の一員として溶け込んでいる。二人の優しさと思いやりに救われる思いがすると同時に、新聞部の部員が一つの目標に向かって一致団結するというチームワークの素晴らしさを実感している。私は新聞部に入って良かった。――未菜は心からそう思う。


 文章が一通り完成すると、どこで一旦文章を区切るか、といった打ち合わせをした。一回の投稿で百四十文字しか入力出来ないツイッターだが、メモを画像として四つまでなら貼る事が出来る。視覚に障害があったり、老眼で細かい字が読みづらい人にもなるべく読んでもらえるよう、文字の大きさはやや大きめに設定した。それからツイッターのアカウントを作成する。アカウント名は「黒金高校野球部のブラック体質を告発」に決まった。

『黒金学園高校野球部で横行している体罰を告発するアカウントです。プライバシー保護のため、部員の名前は伏せて投稿します』

 自己紹介文はこのような文章にした。

取材を初めてから全ての準備を終えるまで、およそ一ヶ月ほどかかった。その間、文化祭の出し物の準備をしたりなどがあり、作業を中断せざるを得ないときもあったが、三人で力を合わせ、ようやくここまで辿り着いた。野球部は秋季関東大会で優勝し、洋次も何試合か途中出場して優勝に貢献した。社会的に取り上げてもらえるようになるまで、外部には絶対情報が漏れないようにするという三人の取り決めがあるので、作戦の事は洋次には話していない。ただ、色んな部員に新聞部が取材している事は洋次の耳にも入っているらしく、「あまり無理するなよ」とは言われたが、「毎日辛い練習に耐えてる洋次の苦労に比べれば、どうって事ないよ」と答えると、洋次は優しい笑みを浮かべて、それ以上口出しをしてこなかった。こういう、優しく見守ってくれるところが洋次の魅力なのだ。

もうすぐ十二月に差し掛かろうという割には温かい陽気が続いた火曜日の放課後。新聞部の部室において、作成したメモ画像を順番にツイッターに貼り付けて投稿していく作業が未菜のスマートフォンによって行われた。読みやすいよう、それぞれの画像にページ数も記入してある。

 全ての文章を投稿すると、未菜、琴音、並木の三人のアカウントで各々リツイートする。

「さぁ、果たしてどれだけの人たちがリツイートしてくれるかな」

 琴音がワクワクするような口調で言った。解散して自宅に帰ってからツイッターの画面を開いてみると、早速数件リツイートされていた。リツイートしてくれた人のアカウント名を見てみると、未菜が相互フォローしている人以外にも、知らないアカウント名が並んでおり、それらのプロフィール画面を覗いてみると、現役高校球児の人だったり、野球ファンらしい事が分かる。夕飯を食べ終えてからもう一度見てみると、リツイートが百件近くまで達しており、未菜のフォロワーの多くがリツイートしてくれているばかりか、もはや一人一人アカウントを確かめる事も出来ないほどに数字が増えている。入浴を済ましてからスマートフォンを見ると、ツイッターの通知が何件も届いていた。

『黒金高校って去年甲子園に出た学校だろ? こんな裏があったなんて……』

『自分が一年生のときに体罰の被害を受けたのはかわいそうだけど、だからといって、自分が先輩になったときに加害者になって良い事にはならない』

『てか、ゲロを食わせるとかあり得んだろ』

 コメント付きでリツイートしている人のコメントを読んでみると、もはや全てが被害者である選手側に同調する内容だった。

 翌朝になると、リツイートは千件を超えていた。自分が発信した内容のリツイートがここまで伸びるなんて初めての事だ。自分たちがやっている事は正しい。世の中の多くの人々がそれを認めてくれている。

 学校に行くと、早速ツイッターの内容がクラスで話題になっていた。「黒金高校野球部のブラック体質を告発」は何者なのか、ツイートの内容は事実なのか。昼休みには、野球部員が全員体育館に集められていて、洋次も駆けつけていた。琴音のクラスに行ってみると、やはり彼女のクラスでもリツイートされている内容に関する話題で持ちきりになっていた。二年四組の教室に戻り、帰ってきた洋次に野球部でどんな話がされたのか訊いてみた。

「ツイッターで拡散されてる体罰の件だったよ」

 洋次はいつものような、穏やかな口調で答えた。

「登下校の途中とか、マスコミから何か訊かれても『学校に訊いてください』とだけ答えて、自分が見聞きした事とか、自分の意見を言ったりはしないようにって、監督から言われた」

 やはり、口止めか。だが、野球部だけでなく、学校としても焦っているのは間違いないだろう。実際、帰りのホームルームでは、洋次が昼休みに野球部で言われた注意事項と同じ話を、担任の先生がしていた。

「未菜、あのツイートなんだけど……」

 放課後、選択授業がない未菜と洋次は、校舎から体育館を超えた先にある花壇の前のベンチに座って、洋次が部活に向かう前の僅かなひとときを過ごす事にしたが、そこで洋次が切り出した。

「あの文章書いたの、未菜だろ?」

 告発ツイートに関して、新聞部以外には洋次にすら秘密にしていたのに、いきなり図星を突かれ、未菜は言葉を失った。動揺した表情が洋次にも余裕で読み取られたのだろう。洋次は「やっぱりそうなんだね」と呟いて前を向く。その視線の先には、敷地のフェンスに沿って植えられた桜並木があるが、枝の葉はすっかり落ち切っている。フェンスの向こうは路地で、地元の人がときどき行き交ったり、車が通ったりする様子が見える。

「校内新聞は毎号全部読んでるから、文章のリズムっていうのかな。これはいかにも未菜が書くような文章だなっていう雰囲気が分かるんだ」

 ラインのやり取りをするときの文章の書き方ならまだしも、校内新聞のように、全校生徒に読んでもらう事を前提とした真面目な文章でも、文章の流れで誰が書いたものか分かってしまうという事があるものなのか。洋次にはいつか言わなければならなくなるとは思っていたが、意外にも早くバレてしまった。

「洋次って凄いね。文章読んだだけで分かっちゃうなんて。大当たりだよ」

未菜は素直に認めた。洋次は浮かない顔をしたまま話を続ける。

「これから、高野連が調査に来るらしい」

「え、高野連……?」

「来年の選抜、どうなるかなぁ……」

 部内暴力が高野連で問題視されれば、せっかく関東大会で優勝したのに、推薦を貰えなくなるかもしれないというのだ。学校内の問題に、高野連が入ってくる事は、未菜は考えていなかった。未菜や新聞部員の考えとしては、野球部の体罰問題をSNSで拡散して世論を味方に付け、体罰を辞めさせる方向に持っていく事が目的であり、野球部が大会への出場権を取り消される事を望んでいるわけではない。

「まぁでも」

 洋次は急に口調を明るく切り替えながら立ち上がった。

「まだ処分が決まったわけじゃないし、今はただ、春に向けて練習をするだけだよ」

 未菜も遅れないように立ち上がり、洋次の左手を握る。

「そうだよ! 黒金高校の野球部が大会に出れないなんて、あり得ないよ。私は来年の春休みは、洋次がマウンドに立つ姿を、絶対甲子園のスタンドから応援するんだって決めてるんだから!」

 洋次は唇を緩めて静かに笑うと、右手で未菜の頭を二回ほど撫でてくれた。

「ありがとう」

試合では相手バッターを仕留める速球を投げる大きな右手だが、未菜の身体に触れるときは、とても柔らかく、温かい。

「未菜は俺にとって、一番の応援団だから、未菜からそう言ってもらえるのが一番嬉しいよ」

 洋次がたまに言ってくれる言葉だ。もう何度も言われているが、洋次にとって自分が一番だという言葉を言われるときが、未菜にとっては、身体が地球の重力から解放されて宙に舞っているような心持ちになるくらい、幸せを感じられる瞬間だ。




   7


 金曜日の朝。未菜が自宅で朝食を食べようと二階の自室から一階へ降りると、エプロン姿で食卓に料理を並べている母さんが険しい顔で話し掛けてきた。

「未菜、黒金高校の事をテレビで言ってるわよ」

 父さんは既に仕事に出掛けている。食卓に着きながら未菜がテレビを見てみると、いつも見ている朝のニュース番組で、新聞部でツイートし、今や一万件以上も拡散されている黒金高校野球部の体罰問題が取り上げられていた。テレビでは、拡散されている文章を紹介するとともに、いつの間に撮影したのか、校舎の様子が映されていた。毎朝画面を通して見慣れているコメンテーターは、「これだけスポーツ界で体罰が問題視されている中で、未だにこういうところがあるのかと思うと、指導者はどういうつもりなのかなと思います」と言っている。学校教育の現場に詳しい教育評論家のインタビューも紹介されていて、学校内で行われた合宿で選手たちが練習後に深夜まで勉強会をさせられ、朝から通常通り授業に出席させられた事について、「夜更かしで頭を使ってからの早起きは大人でも身体に悪い。成長期が終わり切っていない高校生で、それも毎日夜更かし早起きは、スポーツのパフォーマンスを落とすだけでなく、身体の発育にも悪影響です」とコメントしていた。

「黒金高校は取材に対し、『事実関係を調査中』とコメントしています」

 アナウンサーがそう告げたところで、ニュースは別の話題に切り替わった。

 不安そうな顔をしている母さんを尻目に、未菜は喜び勇んでご飯を頬張る。全国区のテレビ番組で報道されるところまで来ているのだから、野球部としても学校としても、改善せざるを得なくなるはずだ。今日はやけにご飯が美味しく感じる。今日の未菜はやけに食欲が旺盛だ。


 学校へ行くと、基本的にはいつもと変りなく過ごす事が出来たが、廊下や学食で野球部員とすれ違うとき、明らかに彼らから冷たい視線が注がれているのを感じた。洋次はいつも通り接してくれるが、取材で何から何まで詳しく話を聞かせてくれたときは、助けを請うような目をしていた野球部員が、今日は仇敵でも見るような、刺々しい目つきをしている。物事が良い方向に向かってなさそうな空気が漂っている。

 放課後、部室で来週の校内新聞の内容について打ち合わせをしていると、顧問の石井が入ってきた。

「ツイッターで拡散されている野球部の体罰の件だが、野球部員が新聞部から取材されて答えた内容がほぼそのまま書かれているという情報が入っている」

 比較的若い三十代の石井は、入ってくるなり、唐突に話し始めた。

「事実か?」

 テレビでも報道されたので、もはや隠す必要もない。これからは石井や他の生徒から訊かれたら正直に話そうと、たった今三人で話し合っていたところだ。

「そうです。私たち三人でやりました」

 部長の琴音がそう言うと、未菜が続けて言葉を補足する。

「発信したのはこの三人ですが、新聞部としての活動ではなく、ただのプライベートです」

「プライベートでやったとしても、新聞部員である以上、新聞部としての責任は圧し掛かってくるぞ」

 石井の言っている事はその通りだ。部活をやっている生徒が飲酒や喫煙で生徒指導部から指導された場合、その生徒が所属している部が活動停止になるのが黒金高校の慣例だ。

「僕たちは何か、間違った事をしましたか? 特定の誰かの悪口を書いたわけでもないですけど」

 並木の反論に、未菜も琴音も力強く頷く。事実無根のデマを拡散したら大問題だが、今回の件はじっくりと裏を取った上で投稿したものだし、たとえ新聞部の部員として勝手にやった事でも、野球部のブラック活動ぶりを告発して世に助けを求めたのだから、むしろ称賛されるべき事案だ。。

「肝心なのはそういう話じゃないんだ」

 石井はため息を吐いてから続けた。

「今、高野連の人が毎日野球部に聞き取り調査に来ていて、部員が一人一人呼び出されて事情聴取をされてる。多分だけど、これから野球部には何らかの処分が下る。そうなったとき、お前たち自身が学校に居づらい空気が出来るぞ?」

 未菜は石井の言う事がさっぱり分からなかった。悪い事をしているのは野球部の監督であり、体罰をしている上級生たちではないか。

「お前たちは正義感に駆られてやった事なのかもしれないけど、もしかしたら、野球部がこれから活動停止になるかもしれない。これから大会に向けて頑張って練習に励んでいたのに、今回の事がきっかけで、大会に出れなくなっちゃうかもしれない。そうなったとき、お前たちはこれまで通り学校に来て、友達と仲良くしていられると思うか?」

 未菜は先日、洋次が言っていた事を思い出した。だが、すぐに並木が反論する。

「たとえ活動停止になっても、春の大会までまだまだ時間があります。それに、レギュラーの野球部員が除名処分になったり、監督に処分が下ったとしても、普段から体罰をしていた指導者や部員に、どっちみち、ベンチに入る資格はないと思います」

 全国区で有名な体育会系の部活をやっているという理由で偉そうにする体育コースに対し、普通コースの生徒より偏差値が高いからという理由でプライドの高い生徒が多い特別進学コースの並木が入部当初は、未菜はいつも理論的な話し方をする並木をとっつきにくく感じていたが、今日は並木のこういうところが頼もしく感じられる。

「そういう事じゃないんだ。こんな大騒ぎを起こして、これからも学校の友達と上手くやっていけなくなるかもしれないって事を言ってるんだぞ?」

 未菜には石井の理論が全く理解出来ない。騒ぎを起こしているのは野球部の監督と、体罰をしている上級生なのだ。琴音も並木も、もはや勝ち誇った顔をしている。

「とにかく、ここまで拡散されてしまったら、もう誤魔化す事は出来ない。学校としても、新聞部を問題にするつもりはないみたいだけど、これからはもう少し考えて行動するように」

 石井はそう言って部室を出ていった。もうすぐ勝ちが見えてきた。未菜はそう確信した。




   8


洋次との交際は、その後もそれまで通り続いた。高野連による調査が来たとき、洋次も放課後の練習中に別室に呼び出され、監督、コーチは勿論、学校の先生や他の生徒は一切立ち合わせず、高野連の職員から事情聴取を受けたと言っていたが、どんなやり取りをしたかは話さなかった。冬休みに入る少し前には、野球部の練習で、バットで下級生を殴った事がある生徒と、合宿で嘔吐した一年生に嘔吐物を飲ませる事を強要した生徒、二年生と三年生合わせて八人の生徒に二週間の停学処分が下された。これまで、一切問題にはされてこなかった事だが、テレビのニュースでも取り上げられ、著名なスポーツ関係者までもが黒金高校の野球部を批判し始めたため、一定の示しを付けた形だろう。高野連による調査とは別に、学校の生徒指導部による独自の学校内部の調査を行った上での処分だ。停学になった生徒たちは、冬休みに入る二日前に停学が明けて登校する際、反省文を提出させられたらしい。三年生に関しては、一年以上前の案件まで遡って処分が下ったのに、監督やコーチが合宿で連日深夜まで勉強させたり、上級生が下級生に嘔吐物を食べさせた事を黙認していた問題については、学校では一切処分されなかった。勿論、校内新聞は特定の生徒や部が起こした問題については書いてはいけない決まりなので、この問題について、新聞部としては動く事は出来なかった。

冬休み中、野球部はオフの日が三日間だけあり、未菜はそのうち一日を使い、洋次とともに、ディズニーシーでデートをした。二人の会話が野球部の話題になる事は一切なかった。部活帰りの制服姿ではない、私服姿の洋次と朝から夕方まで過ごせるなんて初めてだったので、高校生活で最高の一日となった。洋次にとって、甲子園のマウンドで投げる日が実現するのと、未菜と一日デートするの、果たしてどちらが幸せなのだろう? 未菜はそんな疑問を抱いたりもしたが、実際にそれが実現したとき、そんな意地悪な質問を出来る日が来たら、それこそが二人にとって、今日よりさらに幸せなときなのかもしれない。未菜はそんな事を考えた。


 ただ、新年が明け、冬休みが終わってほどなくすると、黒金高校野球部が春の選抜高校野球の推薦を取り消される決定が高野連から発表された。理由はやはり、部員同士の体罰問題だ。同時に、春季都大会の出場権も剥奪された。洋次にとって、高校生活最後の三つの大会のうち、二つがなくなってしまったのである。

 それを境にして、未菜は同級生らが段々とよそよそしくなっていくのを感じた。駅のバス停で会う他のクラスの友達に挨拶をしても、今までと比べると、どこかそっけないというか、感情のない返事しか返ってこない。生理でイライラしてるのかな、とも思ったが、教室に入っても、どの生徒もそんな感じなのだ。それまで休み時間に仲良く話していた人たちも、未菜に話しかけてこなくなり、昼休みに机をくっつけて一緒に弁当を食べていた親友らも、まるで未菜がいないかのように、自分たちだけで会話に夢中になり、未菜が話し掛けづらい空気を醸し出している。廊下を歩いても、男子も女子も、友達同士で会話をしていた人たちが、未菜がそばを通りかかると、会話をそこで中断し、揃って未菜に背中を向ける。琴音に訊いても、やはり同じ空気を感じているという。一方、特別進学コースの並木はそういう事はないらしく、むしろ、野球部のブラック体質を暴く事に成功した新聞部の功績をクラスで称えられているらしい。

 洋次にそれらのエピソードを話すと、最初は「気にするなよ」と軽く言ってくれたものの、日が経つに連れ、休み時間は他のクラスにいる友達と話をしに行くようになり、未菜とは話をしてくれなくなっていった。

「部活で忙しくて、お互いデートする機会もなかなかないし、もう別れよう」

二月に入り、五限が終わった後の放課後、いつものように洋次が部活に行く前の時間帯に二人で体育館のそばのベンチに座ったとき、洋次から言われた。別れを切り出される前から、洋次との会話は激減していたし、ラインを送っても素っ気ない返事しか来なくなっていたから、こうなる事はなんとなく覚悟していた。

だけど。

「別れるようになった理由、聞かせてくれるかな」

 洋次を問い詰めるように、きつい口調で言うつもりでいたのに、実際に未菜の口から出てきた言葉は、あまりに弱々しく、震えた声だった。

「野球部の体罰がツイッターでバレた事、テレビや新聞で大騒ぎになっただろ?」

「うん……」

 隣に座る未菜を見ず、前を見たまま話す洋次に対する未菜の返事は、さらに弱々しい。

「報道された体罰は行き過ぎた指導だって分かってる奴もいたし、深夜の勉強会だって辛かったよ。でも、甲子園のためだから我慢出来たんだよ」

「私は、睡眠不足のまま授業で起こされてる洋次を見てるのが辛かったから、助けてあげたかったんだよ?」

 哀願するように言いながら、途中から未菜の声は涙声になってきた。

「やっぱり分からないだろうな……」

 両手で頭を抱えながら、洋次の声も若干涙声になっている。洋次のこんな姿を見るのも初めてだ。

「目標のために辛い事を我慢するっていう感覚。スポーツをやってない人には分からないんだろうなぁ」

 走ったり、筋トレをしたり、そういう辛さを我慢しなければいけないのは未菜も分かる。だが、育ち盛りの身体で夜更かしを強制されたり、嘔吐物を飲まされたりというのは、流石に話が違うのではないか。

「私は、洋次の事が好きだから……」

 未菜はそこまで言いかけたところで、もはやそれ以上続く言葉が出てこなかった。数秒の沈黙の後、洋次が口を開いた。

「もう関係ねぇよ。俺たちは彼氏彼女じゃねぇんだからさ」

 洋次は冷たく言い放って立ち上がり、エナメルバッグを肩に掛けて立ち去っていった。その後ろ姿は、涙に霞んで、はっきりと見送る事は出来なかった。。


   ×


 舞い散った桜の花びらで校庭の至る箇所が薄いピンク色に染まる日。未菜は三年生になって初めての登校日を迎えた。始業式が始まる前、体育館の入り口近くの掲示板に貼り出された新クラスの名簿を確認すると、未菜は琴音と同じクラスになり、洋次とは別のクラスになった。始業式では教員の転任が発表され、化学の教員だった野球部の監督は別の私立の高校に移り、野球部の顧問、コーチであり、体育を担当していた教員も、別の私立の中高一貫校に転任になった。生徒たちの間では、ブラック部活を主導していたから他の学校に飛ばされたんだ、といった噂が飛び交ったが、真実は分からない。

 新聞部には、普通コースから一名、特別進学コースから二名、計三名の一年生が入部し、昨年度と同様、週一回ペースで校内新聞を発刊し続けたが、発刊日の放課後や翌日の朝には、校庭や廊下に校内新聞がくしゃくしゃに丸められたり、破られた状態でポイ捨てされている光景が見受けられるようになった。去年まではそういった事は滅多になかったのに、今年は毎週見られる。新しいクラスでも、未菜と琴音はいつも二人で行動する事が多かったが、他の生徒が二人に話し掛けてくる事はほとんどなく、明らかに遠ざけられている空気がある。

 今年は平成から令和への改元に伴い、史上最も長いゴールデンウイークがあったが、連休明け早々、入部したばかりの一年生三人のうち、普通コースの一人が退部してしまった。残った他の二人から事情を聞いてみると、やはり、学食などでゆっくり食事をしていると、「あいつ、野球部を春季大会出場停止にさせた新聞部だぜ」といった陰口を、本人に聞こえるように言ってくる生徒がいるというのだ。実際、六月に三年生の引退が懸かった女子バスケ部の県大会を取材して校内新聞を発刊したときも、帰りのバスの中で、女子バスケ部の部員同士が「新聞部に応援されても嬉しくないよねぇ」と話し合っているのが聞こえてきた。

 新聞部にとっても、三年生の引退前最後の取材活動となる、野球部の夏の甲子園大会神奈川県予選は、黒金高校の試合は新聞部の全員で全て見に行った。監督が代わって初めての大会でもあったが、準々決勝で負けてしまった。未菜の元カレである洋次は、準々決勝の六回裏から、黒金高校がリードしている状況で投手として途中出場したが、そこまでの勝ち試合ムードが、洋次が登板した途端に一転。次々とヒットを打たれ、八回裏にはホームランまで打たれてしまい、別の投手と交代してベンチへ下がった。試合後、ユニフォーム姿の野球部と、野球部の応援で定番となっている青いTシャツ姿の吹奏楽部が多く陣取る応援席の前まで野球部員が挨拶に来たとき、多くの選手と同じように、洋次も泣きじゃくっていた。

 未菜の個人的な感情として、洋次を助けてあげたいという気持ちが、野球部のブラック体質告発活動に繫がったのに、それが結果として、新聞部が悪者扱いされる空気を生み、洋次とも別れる事になってしまった。

「三年間お疲れ」

 付き合っていれば、そんな言葉を洋次に掛けてあげたいところだが、クラスが別々になってからは会話すら一切なくなった彼に、今では話し掛ける事すら憚られる。

 目的はある意味達成出来たけど、自分がやってきた事は、正しい。でも、望んだ形には出来なかった。それが、未菜にとっての高校生活。

さらに年が明け、未菜は進学はせず、取りあえずはバイトをしながら、何か就職に役立ちそうな資格を取る事に決めた。琴音は教師の道を目指すため、推薦入試で大学への進学を決めた。

「私が教師になって、理不尽なブラック部活や、教師や先輩による体罰を許さない世の中にしていく事に貢献するんだ」

 やる気満々に話す琴音を見て、彼女なら、きっとやってくれると未菜は信じるのだった。

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