無題
無題。何かの作品の習作。
「今日からキミは、会社に来なくていい」
僕は、ポテトチップスの袋に片手を突っ込みながら上司の話を聞き流していた。
目の前に置かれた封筒に、僕は何の違和感も感じていなかった。
室内にはやかんののった石油ストーブをただ一台だけ。冷気はこの外装の薄い建物のどこへでも侵入してくる。僕以外の社員はみな基本的に厚着をしていたし、女性の方の多くは可愛らしい商標キャラクターのあしらわれた膝かけを毛布の代わりにしていた。
「知ってると思うがね、わが社は全国で中国地方のみを中心に店舗を展開し、下請けのみで成り立っているような零細企業だ」
どこか疲れたような、虚ろな声が僕の鼓膜を振動させている。でも、ポテトチップスの方がおいしかった。
ムシャムシャ、ボリボリという渇いた音だけは相変わらず元気がいい。
「それにこのご時世だ、不景気から立ち直ったというのは口ばかりで、我々の収益は一向に上がらない。社員のみんなにも、迷惑はかけていると思ってる」
バリバリ、クチャクチャ。モグモグ、ゴックン。
「このビルの一室ももうそろそろ売り払わなくてはならないかもしれない」
バン、グシャグシャグシャ。
「先月の株主総会でも厳しい意見をたくさん頂いた。我々は現在の状況を重く受け止めている」
僕はスーツのポケットにチュッパチャップスを入れてあるのを思い出した。
とりあえず脂っこくなった口を、ブレスケアとミント味のフリスクですっきりさせることにした。僕は指についた油を舐めて、背広の黒い生地の部分で汚れた手をきれいにしようとした瞬間――
バチーーンッ、という凄まじい衝撃が僕を襲った。最後に確認できたのは、僕の頬に何か熱いものが剛速球のごとくぶつかったということだけだった。
僕は無重力の真空空間に放り出されたかのように、キレイに足を取られて宙に舞い上がった。
世界は色鮮やかに回転し、反射的に瞑った目の中には火花が散った。そして僕は――哀れにも地面に激突する心構えもままならないまま――所々縁の欠けた四角いタイルが敷き詰められた冷たい床の上で激痛とともに目を覚ました。
「お前には恥というものがないのか!!!!!」
荒げられた声は、彼の深い悲しみを代弁しているみたいだ。でも僕には何がなんだか分からない。
何かを口にしようと喉に力を入れるが、僕の声帯は蠕動したまま言葉を発する能力を失っていた。
「ま、ままままぁー、あぼぁ、はべぁねはな」
「ふざけるのも大概にしろ! 人間のクズが!」
彼は動物のようにヒイヒイ言いながら、全力で僕を見下している積りらしい。騒ぎを嗅ぎつけて社員が集まってきた。中には彼の怒りが爆発するのを抑えつけるため、彼の腕や足をバーゲンセールに出されたTシャツの様に必死で掴んでいる者もいる。
血走った目と、こちらへ向けられた滑稽なまでの敵意。憐み。蔑み。
全てが僕を萎えさせた。
罵倒するのはいいが、それぐらいで僕の矜持は折れない。
「死ね、役立たずッ! 貴様にくれてやる仕事などないわぁあああっ!!!」
五十過ぎた親父が血管の浮き出た顔で怒号を上げているのに、僕の心は割れた木魚よろしく叩いても全く鳴ろうとしなかった。
そのとき、僕の心の中に理解しがたい未知の感情が宿った。
僕はそれを押さえつけようとした。
でも。
やっぱり、耐えられなかった。
「ぷっ……はっ……あっはっはっははははっ」
僕は大声を上げて笑っていた。落伍者の涙を流して。