かいぶつのなみだ
はるか昔、神様がまだ地上にいた頃の話です。
地上には、好き放題に暴れ回る怪物がいました。
怪物のせいで、多くの人間たちが苦しい思いをしていました。
人間たちを気の毒に思った神様は、とある巨人に怪物を退治するよう命じました。
はげしい戦いの末、巨人は怪物を倒すことに成功しました。
巨人はうつぶせに倒れた怪物の頭を右足で踏みつけ、そのまま背中から槍を突き立てました。
怪物はもだえ苦しんで命を落としました。
しかし、深手を負っていた巨人も、その姿勢を取ったまま事切れてしまいました。
これを見た神様は、この怪物と巨人を天の星座の中に封印しました。
星座に変えられた怪物は、巨人に頭を踏みつけられ、槍で刺されたままの姿で動けません。
巨人の方も、星座に変えられても怪物を踏みつけた足の力を弱める様子はありませんでした。
こうして、この怪物は二度と暴れる事が出来なくなりました。
封印がいつになったら解けるのか、怪物には分かりません。
何万年、何十万年、いや、もっと長い時間が経っても解けないのかもしれません。
星座に変えられた怪物は、地上の様子をずっと見ていました。
神様はとっくの昔に地上から姿を消したようで、仮に自分が封印を解かれて、巨人を振りほどく事が出来れば、また地上に戻る事も叶いそうでした。
しかし、それは無理な話でした。
どれだけ時間が経ったとしても、巨人は決して怪物を許すことはないでしょう。
はるか遠くの地上を見ながら、怪物は涙を流します。
思うがままに暴れる事が出来ず、ここで永遠とも言えるような時が過ぎるのを待つだけの自分のありようを嘆いているのです。
最初の頃はその様子を笑っていた巨人も、今となっては何の関心も寄せませんでした。
ところが、時が経つにつれて、怪物が涙を流す理由は変わっていきました。
地上のありさまは、怪物がいた頃とはまるで違ったものになっていました。
この怪物は確かに、地上で好き放題に暴れて、多くの人間たちを苦しめました。
今でも隙あらば地上に戻ろうとしているのも事実です。
それでも怪物は、地上の様子をみて涙を流します。
人間たちのうちで力のある者は、怪物よりもよほどひどいやり方で、他の人間たちを苦しめているように見えたからです。
怪物はただ、己の力を誇るように暴れる事しか知りませんでした。
人間は怪物よりも弱いですが、人間の方がずっと賢いです。
力で従わせるだけではなく、言葉で相手を意のままに操ったり、相手が自分に従うしかないように仕向けたり、自分たちだけに都合のいい社会を作ったり。
そんな風にして、自分以外の多くの人間を従わせて、多くの富や力を集める人間が現れるようになりました。
やがて、力のある者同士、あるいは力のある者と力を持たない多くの者たちとの間で争いが繰り返されるようになりました。
大きな争いもありましたし、争いの少ない時代もありました。
しかし、平和な時代と言えるようなものはありませんでした。
弱い者の嘆きは、どれほど時代が流れても無くならなかったからです。
怪物がいつから人間の世界を見て涙を流すようになったのかは定かではありません。
愚かな王様が、予言に従って村じゅうの幼子を皆殺しにした時だったでしょうか。
聖人と呼ばれるほどの偉大な人間が、その存在を良く思わない者の策略にはまって命を落とした時だったでしょうか。
強い者の奴隷にされた大勢の人間が、飢えや病で命を落としていくのを見た時だったでしょうか。
なぜ怪物が人間の事を想って涙を流すようになったのか、もはや怪物自身にも分かりませんでした。
神様はどうして地上を去ってしまったのでしょうか。
人間たちは、神様がいなくなった地上で、ほしいままに暴れ回っています。
いつの世も、強い者は力で、言葉で、数で、弱い者を苦しめてはばかる事がありません。
このような世界になる事を、神様が望んでいたのでしょうか。
怪物が流した涙の一つが、吸いこまれるように地上へと落ちていきました。
それは地上へ落ちる寸前に、きらきらと光って消えてしまいました。
しばらくしてから、怪物の耳に、ひとつの願いの言葉が響きました。
それは、ささやかな平和を願う弱い者の声。
富や力を独占したり、そのために争い合う事をよしとしない者の願い。
しかし、地上では決して顧みられることのない願いでした。
地上の強い者たちは、平和を望む言葉よりも威勢のいい言葉を、自分たちの利益になるような言葉を好んだからです。
怪物は、はるか昔、地上にいた時の事を思い出しました。
人間たちは、夜空を流れる星に願いを託すことがある。
おそらく、この願いの主は、自分の涙を流れ星だと勘違いしたのでしょう。
しかし、怪物には託された願いを叶える力などありません。
怪物に出来る事はただ暴れる事だけです。
そして、今はそれすらも出来ないのです。
それからしばらく経ったある時、地上が強く輝きました。
地上の他の場所も立て続けにはげしく輝きました。
光と共に、多くの叫び声が上がり、多くの命が失われたことを、怪物は感じ取りました。
今までもこのような事は何度かあり、その度に人間は何と恐ろしい事が出来るようになったのかと嘆いていました。
しかし、これほど多くの命が失われた事は未だかつてありませんでした。
まるで、人間の手で人間そのものを滅ぼそうとしているかのようでした。
怪物はただただ泣き続けました。
おそらく、あの願いの主もとうに亡くなっていることでしょう。
自分は願いを叶える事も、願いの主を救う事も出来ず、ただただ見るだけしか出来ないのか。
怪物がそのような事を考えていた時、一滴の雫が上から落ちてきたのを感じました。
頭を踏みつけられたままの怪物には、その姿を直接見る事は出来ませんが、雫は巨人が流した涙であるのだろうと考えました。
雫は次から次へと落ちてきます。
やがてそれらは、怪物の涙と共に、地上へと降り注ぎます。
涙が地上に降り注ぐたびに、願いの声が響いてきます。
お母さんを助けて。
身体が焼けただれて苦しいから何とかしてくれ。
水が欲しい。
食べるものがない。
逃げる場所がなく、もう殺されるしかない。
だれか何とかしてくれ。
平和な世界にしてくれ。
残念な事に、いくら人間たちが願っても、それらの願いが叶う事はありません。
彼らが流れ星だと思って願いを託しているのは、ただ地上を見続けている星座が流した涙に過ぎないのですから。
願いを叶える星ではなく、叶わなかった願いを嘆いて流された涙でしかないのですから。
人間たちの願いは、人間たちがその気にならない限り、決して叶う事はないのです。
怪物と巨人は、自分たちにはどうすることも出来ない願いの声に、ただ涙を流すばかりでした。