いつもの朝
ああ、また、この夢…。
体は動かない。確かなのは、顔の見えない誰かの腕に抱かれていること。
ぽたぽたと、私の顔に水滴が落ちて、頬を伝う。やけにリアルな感触。
泣いている、男の人…。あなたは誰なの?
手を伸ばそうとしても、体はピクリとも動かせない。
ただただ、誰かが私の顔を見て泣いている。
ねえ、泣かないで……。
ーふと目をあけると、見慣れた天井が目にはいった。
(あ…涙…。)
雪にとってこの夢は、繰り返し何度も見てきたもの。
それでも、目が覚めるときは、いつも一筋の涙が顔を伝っていた。
(何なんだろう、この夢。やけにリアルなのよね…。)
ぐーっと一度体を思い切り伸ばしたあと、雪はむくりと起き上がった。
他の3人が起きる前に朝食の準備をしないと、またやっかいなことになってしまう。
さっと着替えて、足音に注意しながら台所へ行く。
中流階級の家柄である藤宮家。その娘である雪は、3年前に実父が病のためこの世を去り、再婚相手である義母と、ひとつ年が上の姉、2つ年が上の兄と4人で暮らしている。
父が生きていた頃は使用人を雇っていたが、3年前に義母に解雇され、それからは雪が使用人の扱いを受けていた。
(これだけ出来れば、もう花嫁修業はいらないな。)
手際よく野菜を切り、朝食を作る。
皆が起きてくる前に準備をしないと、何をされるかわかったものではない。
一度寝坊した時には、腰まで伸ばしていた髪の毛を、肩の高さまでバッサリ切られた。
(ま、おかげでスッキリして、もう伸ばす気もないけれど。本当にやることがえげつないのよね。)
はあ、と小さなため息をついた。
毎日夜に下準備を終わらせているため、朝食の準備自体は簡単だが、嫌いな人たちのためにご飯を作るのは、何も楽しくない。
「よし、できた。」
具だくさんのみそ汁に、炊きたてのお米。
卵焼き、漬物、煮物を少し、そして焼き魚。
おいしそうな匂いに、雪のお腹が少し鳴った。
まだ、食べるわけにはいかない。
お膳にのせて、食事をする部屋に運ぶ。
ー誰にも会いませんように。
しかし、雪の小さな願いは、一瞬で砕け散った。
一番会いたくない、義母の正子と鉢合わせたからだ。
「おはようございます、お義母様。朝食ができました。」
「見ればわかるわ。」
(嫌味な言い方…。)
「急いでお運びしますね。」
にっこりと嘘の笑顔をはりつけ、逃げるように、食事をする部屋へ行く。
「失礼します。」
念のため、声をかけてから襖を開ける。
(げ、今日はみんな早起きね。)
部屋には、義兄の静一が座っていた。
20歳で、優秀な学校に通う秀才だ。
ただ、名前のとおり静かな性格で、何を考えているのかはよくわらかない。
雪が髪を切られたときは、さすがに目を丸くして固まっていたが、母や妹の行いを、止めたことはなかった。
「朝食です。」
「…髪、もう伸ばさないのか。」
「えっ。あ、そうですね…。」
まさか話しかけられると思っていなかった雪は、思わず静一の顔を見てしまった。
目が合い、静一がふいと顔をそらす。
(なによ…目があったくらいで。それに髪の毛伸ばそうが伸ばすまいが、あなたに関係ないでしょう。)
顔に出さないように我慢しながら、心のなかでむくれる。
西洋人の母から受け継いだ、色素の薄い髪の毛に、青色の瞳。
雪にはこれが誇らしくもあり、時には疎ましくもあった。
なぜなら……
「静一兄様、何をお話ししているの?」
スッと襖をあけて、優子が部屋に入ってきた。
「何でもないよ。」
「ふうん。あら雪、今日も不愉快ね。その瞳の色、気持ち悪いわ。」
「優子、そんなわかりきったこと、わざわざ言わなくてもいいのよ。」
優子の後ろから、正子も部屋に入ってきた。
母にそっくりな雪の容姿が、この2人は気に食わない。
毎日のように浴びせられる嫌味な言葉を、雪は“聞き流す”という方法で乗り越えてきた。