プロローグ
「――ぁ、あ……違…う……僕は、やってない……」
嘔吐きながらも、現実から離れないように言葉を発する。
何もせずに気絶でもしようなら、もう二度とこの世界に戻れないような気がしたからだ。
内臓が強く脈打って、鼓動が加速していくのを感じる。応じて呼吸の間隔も細かく刻んだビートとなっていく。
耳の内側ではこの悲惨な状況を嘲笑っているのか、楽観的なBGMが流れて、それは目の前に広がる残酷な情景とミスマッチし、より恐怖感を煽ってくる。
過剰な酸素で、感覚が麻痺し始めている。脳が興奮でもしているのだろうか。
――――僕の視界には、ベッドに突っ伏すように倒れる彼女、その彼女は逆流した血を吐き出し、真っ白なシーツを赤く染めている――そんな光景が広がっていた。
白い肌から、どくどくと生ぬるい鮮血が広がっていく。
「……そん…………な……、僕は、殺してない……」
畏怖や恐怖等の感情に支配され、身勝手な僕の体は、震えるだけで言葉を発する以外は何も出来なかった。
クエスチョンマークが、頭から爆散しそうなほどぱんぱんに膨れ上がっている。多すぎて処理しきれなくなりそうだ。
――〝何故、彼女はベッドに突っ伏して寝ている?〟
――〝何故、彼女は血塗れになっている?〟
――〝何故、彼女は……〟
ふと、目を横に移すと、ベッドに倒れたままぴくりとも動かなくなった彼女――と、その傍らで寝ている男が視界に入った。
――〝何故、彼女の隣で男が寝ている?〟
一瞬で僕の心が、ドス黒い渦のようなものに巻かれる。
浮気現場を見てしまったような、そんな感覚にも近いだろう。
彼女がこんな悲惨な目に遭っているのに、何故お前は安らかに眠っていられるのか。
冷たく、静かだった感情が――ふつふつと煮えたぎる感覚を覚えた。
鼓動がさらに速く刻まれ、僕は激情に支配される。抵抗はしたが、僕の理性なんてあまりにも弱っちくて、息を吸うかのように飲み込まれてしまった。
先程まで煩わしく鳴り響いていた楽観的なBGMは、消えてもいないのにいつの間にか気にならなくなっていた。
煩過ぎる静寂が、この部屋を包み込む。聴こえるのは心臓が細かく刻んだビートだけ。
僕は片足を前に突き出し、大きく踏み込む。その勢いを留まらせずに、力の中心部を左足、腰、胴、背、右肩へ順に送っていく。握り締めた拳に力が宿ると、僕はその力に振り回されてしまった。体が宙に浮きそうになるのを寸前で踏ん張り、その反動で拳の推進力はさらに加速した。抱くのは殺意、殺意。――〝殺意〟。
勢いは留まる事を知らず、僕の右拳は男の左頬をぶん殴った――
――――――はずだった。刹那、僕は拳を振った方向と真逆に吹き飛んだ。
一瞬の事で何が起きたか理解が遅く、混乱してしまった。
――僕の体は宙に浮き、そのまま家具を巻き込みながら突き当たりの壁にぶつかり、仰向けで倒れていた。
床に叩き付けられる衝撃が想像していた何十倍も痛くて、悲鳴を発しそうになる。
目の前が、歪んだレンズでも重ねたかのように、ぐにゃぐにゃと揺れる。
左頬に強烈な痛みを感じ、軽く触れてみると、ひりひりと痺れる痛みが電流のように走った。
「はは……何やってんだろ……僕」
床に大の字になって寝転ぶ姿は、さぞかし滑稽な事だろう。
「なんでこんなことになったんだっけ⋯⋯」
僕は瞼を閉じて思い返していた。
この惨状の、出発地点を。
――あの夜の事を。