-6-
今回の主人公はジブリールです。
「あんたぁ~出番だよ!」
この女将の叫び声にあわせ宿屋の一室のドアが開いた。ジブリールの目の前にみたこともないほどの大男が現れた。斧を持っていた大男は何も言わず、斧を大きく後ろに振りかぶると、思い切りジブリールめがけ振りおろした。ジブリールは転がりながらそれを避けた。すると、斧が石畳とぶつかり、キィイン、という高音と火花が走った。
――本当に殺すつもりだったのだ。本当に!
血の気が引いてゆくのが自分でも分かった。ジブリールは殺される、と強く思った。
大男はまた斧を振りかぶった。
ジブリールは素早く立ちあがり、ガムシャラにその場から逃げ出す。後ろは振り向かなかった。とにかく全力で逃げた。太もも、足の裏、全てが痛かった。でも構ってはいられなかった。逃げた。逃げた。とにかく逃げた。そしてこんなことを思った。
――どうして僕はこんなことになったのだ?
逃げながらジブリールはどうして今逃げているのか考えた。すると女の顔が浮かんできた。赤髪でソバカスがあり、明るくて……そして、最高に腹の立つ女〈ミス・バークリー〉が。
――あの女に出会ったせいで全てが狂ったのだ。
遡ること3日前、ジブリールは王宮を飛び出し、王都の一角にある宿屋に宿泊した。高級とはいえない宿屋であったが、不便を感じる事はそこまでなかった。少々ベッドが硬すぎる気もしたが、まぁいいか、と仕方なしに納得した。とりあえずジブリールはここでたっぷりと解放された喜びを味わう事にきめた。具体的にそれはどういうことかというと、何もしないことであった。
何もしない。
一見それは王族ならそんな生活もするのではないかと思われがちではあるが、実際の王族は違う。特に王子は違う。更にいうとこのミッドランドの王子は特に違うといってよいだろう。ジブリールは毎日ハードスケジュールを生きていた男であった。
まず朝は剣の稽古をしなければならない。次に慣れない馬術の稽古が続き、弓の稽古をした所で昼食に入る。午後からは座学の時間で、大陸の歴史や、法学、神学、軍事の思想史、戦術学、それに読み書きや、宮廷作法を習ったり、音楽を聞いたりする。パーティーや、儀式がある日は、これらのスケジュールにプラスしてその予定をこなすことになっていた。
基本的には、これら全てに対し父親であるバルバレアのダメだしがあると思ってよい。
つまり、ジブリールの日常はミスに怯える日常といえた。常に能力の限界以上を要求され、それに応えようとして失敗する日々。だからこそ“何もしない”という行為がどれだけ尊いかを知っていた。
ジブリールの1日目は、ほとんどベッドに寝転がるだけで終わった。2日目ももちろん何もしないつもりだった。だが、腹が減る以上そうもいかない。ジブリールは宿屋にいけばご飯が出てくるものだと思っていたが、そういうわけでもないらしい。この宿の女将の説明だと王都にある宿屋は宿泊だけで食事は別という形式の店が多いのだそうだ。王都には多数の飲食店がある。だからここに寝泊まりする客はどこかしらに食べに出かけるものらしい。
ジブリールは何の気なしに、そういうものか、と思った。だから、少し食べ物を食べに足を伸ばしてみようと思った。恐らくここが分岐点であった。
ジブリールが足を伸ばしたカウンズ市場で、ジブリールはファミリーネームしか名のらない〈ミス・バークリー〉と名乗る赤毛の女と出会った。出会い方は倒れた所を偶然おこしてもらうという出会い方だったが、二人はすぐに意気投合した。食事をたべ、観光スポットを巡り、二人で宿屋の部屋で酒盛りをした。彼女は不思議な女だった。まず、どこの方言か分からないような言葉を口にした。
「そうじゃけん」
どこの言葉だ、とジブリールが聞いても答えようとしなかった。そればかりか、方言を恥じて標準語で言い直そうとするのだ。まぁ、それは別にいいか。とにかく、そんなどうでもよい話をするうちに二人は酔い潰れて床につっぷしたまま寝てしまった。
悪夢はここからはじまった。
朝起きると、あれほどたんまりあったはずの銭とミス・バークリーの姿が忽然と消えていた。馬鹿な、と思い部屋中探すも、銭は見つからなかった。
晴天の霹靂とは、こういう場合をさすのだろう。本当に思いもよらない出来事であった。頑なにファーストネームを名乗らない理由はこれだったのか、と思った。ジブリールは、お気に入りの花瓶をかつて侍女に壊されてしまった以来の怒りを覚えた。
「あの女ぁああああああああああああああ!」
ジブリールはその日、朝から王都中を探しまわった。それこそ血眼になって、という表現が相応しいほど、王都中を探し回った。足の裏がジンジンして豆が出来たほどだ。それでもミスバークリーの行方は分からず、文無しのまま宿屋に戻ってきてしまった。しかたない、と思ったジブリールは素直に女将に金が盗まれたので宿代を払えない旨を伝えた。まぁ、こういっておけば憐れんであと数日くらい泊めてもらえるだろう、と思ったのだが、現実はそう甘くはなかった。女将は引き換えにジブリールの持ち物全てを差し出せと言って来たのだ。
それはできない、とジブリールがキッパリ断ると、案の定、鉄の斧がジブリールの額に飛んで来た。そして、今に至るというわけだ。
どこまで逃げたのだろう。見回すと、そこはどこだから分からない広場だった。王都には違いないのだろうが、暗くなると風景が一変した気がして、方向感覚を失った。ジブリールは空を見上げた。星が見えた。グゥ~という音がなる。とても腹が減っていた。惨めだった。涙が溢れそうになった。勇んで王宮を飛びだしたのに、いざ飛び出すとあっという間に民衆にカモにされた。悔しくてジブリールは声を出した。
「民衆なんて皆嘘つきで表裏のある屑ばかりだ!」
通りを歩くわずかな人が一瞬だけこっちを見たが、すぐに興味なさそうな顔をし、前を向いた。周りを見ると、石畳の上に横になり寝ている人が多くいた。乞食だ、とジブリールは思った。
――彼等と同じは嫌だ。
路上で寝る人々にジブリールはハッキリと差別意識があった。それにあの石畳の上はどれほど固いのだろう、と思った。黒い影が忍び寄ってきた気がした。ジブリールは息を荒くし、民家の扉を叩き、必死に叫んだ。
「すまぬ、一夜でいいから泊めてくれないだろうか」
「僕の名はジブリール。このミッドランドの王子だ。僕を止める事は末代までの自慢の種になるだろう」
「泊めてくれ! 泊めてくれ!」
「貴様王族を愚弄するか!」
何件尋ね歩いたから分からない。たまに扉を開けてくれる民家がある、と思ったら、大体、斧やナタを突きつけられた。民衆は猫のように警戒心が強く、時折狼のように野蛮だった。行く宛てのないジブリールは、いつの間にか元の乞食がたむろする広場に戻ってきていた。もう彼等のようにこの石畳の上に寝るしかなかった。自分は乞食になるのか、と思うと、ある考えがジブリールの脳裏にチラついた。
――いっそザグゼインの屋敷に……。
その思いを振りはらうようにジブリールは首を左右に動かした。ジブリールは王宮から飛び出す直前ザグゼインに対し思い切り啖呵をきったことを思い出した。たしか、こういったのだ。
『僕は、数年は戻らないつもりだ! それぐらいの覚悟である!』
すると、ザグゼインはそれに対しこう返した。
『いつでも我が屋敷に寄ってくれてよいのですよ』
まるで帰ってくることが前提かのような言い回しだった。しかもザグゼインのあの顔……。別れ際のザグゼインの顔は、どうせ数日後にはもどってくるのですよね、と言いたげな顔をしていた。
――クッソ、ザグゼイン! 僕は……僕は……。そんなにやわな男じゃないぞ!
ジブリールは歯を震わせていたが、一度大きく深呼吸すると、意を決したように石畳の上に座った。次に手をつき、そこに寝そべった。地べたが氷のように冷たかった。そこで初めてジブリールはベッドや家の温かさを知った。そこに容赦なく風がふきつけてきた。ジブリールは身体を丸め、何とか温まるしか無かった。頭も腕も腰も痛かったが、一番は寒さだった。とにかく、風を凌ぐ何かが欲しかった。ジブリールは、一度起きあがり通りにある藁葺き屋根の藁を木を登りむしり取ると、それをウールの服の中に入れた。チクチクしたが、少し暖かくなった気がした。もう一度寝そべった。相変わらず地べたは氷のように冷たかった。
――人だけではなく、地べたさえもこんなに冷たいのか……。
情けなくて、涙が流れた。
その日、ジブリールは地べたで寝た。