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運びきれないほどの荷物を馬車に押し込んでいる老人。片手に赤ん坊をかかえ、もう片方の手には自分の倍はある荷物を引きずりながら歩く中年女性。並んでいる列に喧嘩腰で割り込む若い男。皆、王都から脱出するために王都と外とを結ぶ垂直に切り立った城壁の扉に向かっていた。ジブリールは沢山の人だかりが泡を喰って逃げる方向とは逆に進んでいた。すでに王都は混乱状態に陥っていた。王子ジブリールの謀反の噂が広まっていたからだ。恐らくキティグの戦力の中核を担う民兵隊が自分の家族を心配し、脱出を促す手紙でも書いたのだろう。それがたちまち噂になり、この混乱につながった。どこもかしこも王都から逃げ出す人々で溢れ、ミッドランド家の兵士でさえも、鎧を脱ぎすて逃げる輩が相次いだ。
もう王家は風前の灯火だな、とジブリールは思った。
ジブリールは頭を横にふった。
――そんなことなどどうでもよい。僕には会わなければならない人がいるのだ。
ジブリールは一歩一歩足を前へと進める。ジブリールは王宮の巨大な門の前に来ていた。衛兵のほとんどは既に城壁で警備の任にあたり、この城門の前には誰もいなかった。ジブリールは脱ぎ捨ててある兜と槍にちらっと目を配り、誰もいない城門をそっと抜けた。城門を守る兵士に跳ね返される事20回、ジブリールはやっと王宮の中に足を踏み入れることに成功した。そういえば王宮に戻るのはいつ以来になるのだろう、とジブリールは思った。
王宮の建物の中に入ると、鎧姿のまませわしなく動き回る人々で溢れていた。そして侍女たちもとても忙しそうにしている。そのせいか、皆ジブリールが目に入らないみたいだ。ジブリールは一歩、また一歩と王宮の廊下を踏みしめ、そして、王の間に続く階段をみた。この階段を登り、長い廊下を歩いたその先に王の間がある。
ジブリールが階段の一段目に足をかけたところで、上から視線を感じた。見上げると、そこにいたのはイリーナ=バルムークだった。イリーナはジブリールに駆けよると「こっちにきて!」といってジブリールの手を引っ張った。走って連れ込まれたのはイリーナの部屋だった。イリーナは数十m走っただけで息があがったらしく、ひざに手をつき肩で息をしていた。そういえば、イリーナの部屋にきたことなんてはじめてかもしれない、とジブリールは思った。
まだ息の荒いイリーナはこちらの目をまっすぐと見て、そして口をひらいた。
「あなたは、どっち?」
この質問だけでジブリールは、全てを察した。
「僕はジブリールだ。キティグではない」
イリーナは、そう、といって溜息をつくと、肩で息をしたまま「あの人……、キティグって名前だったのね」といった。そして、そのあととても辛そうな顔をした。ジブリールは尋ねた。
「いつ知ったんだ?」
「それは……、もうほんの数日前よ……」イリーナはそこまで言うと目に涙を浮かべた。
「最初は確かめるつもりなんてなかったの。でも、気になって……、どうしても気になって……確かめずにはいられなかった」
「……」
「あれなの……、今回の騒ぎは……きっと私が……」
ジブリールは首を横に振るとイリーナに尋ねた。
「父上は今どこで何をしておられる」
「バルバレア様は……」とイリーナは顔を曇らせると、うつむいて答えた。「あの真っ赤な王の間に篭っておられるわ。ずっと、お一人で……」
ジブリールはこの言葉に頷くと、イリーナの部屋をでて王の間に向かった。とても長い廊下であった。そういえば、数ヶ月前の自分はこの廊下がとても苦手であったことを思い出した。そして、あの部屋だ。部屋中を赤く塗りあげたあの部屋……。あの部屋と、そして自分の父親に心底怯えていたのだ。
王の間の前には衛兵が二人いた。
二人ともジブリールの顔をみて驚いたみたいだった。
「貴様! ジブリール!?」
ジブリールは自分の腰の物を衛兵に差し出すと「役目を果たせ」といった。
「なにを――」と衛兵がいいかけたところでジブリールは激しく言葉を発する。
「役目を果たせ、と言っている!」
ジブリールの迫力におされた衛兵二人は、ジブリールからレイピアを預かり、王の間の扉をあけた。ジブリールは王の間に足を踏みいれる。壁、床、天井、全てが赤一色で統一された王の間がジブリールを迎えた。ジブリールは王座に視線を向けるも、バルバレアは王座に座っていなかった。どこにいるのか、と思い、ぐるりと部屋を見渡すと、王座の後ろにわずかに人影がみえた。ジブリールがそこににじり寄ると、人影が震えている事がわかった。そして人影はぶつぶつと言葉を洩らす。
「おのれ……ジブリールめ、裏切りおって……。なぜワシを裏切ったのだ……なぜ……」
ジブリールは「父上」と声をかけた。
すると、人影はこちらを向き大きく目を見開いた。それは髭が伸びきり、髪をとりみだしたバルバレア=ミッドランドの姿であった。
「ジ……、ジブリールなぜここに……」とバルバレアは言うと、何かに気付いたみたいに「助けてくれええ! ワシが悪かった! 全てワシが悪かった」と土下座をし、謝りはじめた。ジブリールにはそれが命乞いであるとすぐに分かった。
ジブリールはそんな父に深く頭をさげた。
「父上、むしろ謝らねばならぬのは僕の方です。こんなことになった全ての責任は僕にある」 ジブリールはこの赤に染め上げられた部屋を見回した。
「僕が父上の説教が嫌で、この部屋が嫌で、毎日が嫌で、その全てを僕の影武者になすりつけてしまった。ザグゼインが死んだのも、皆が無残に殺されていったのも、全て僕の責任だ。そう、それは逃れようのない責任だ……」
バルバレアは少しづつ、ゆっくりと顔をあげた。
「……影武者?」
「イリーナからお聞きなってはいないのですね。僕は、僕そっくりの人物を見繕い、その人物と入れ替わったのです。今、ミッドランドで最強の軍隊を率いて王都に攻めのぼってきているのが、その影武者でございます」
バルバレアは二三度目蓋をあげさげしたあとジブリールに尋ねた。
「その話……事実なのか?」
ジブリールは頷いた。するとバルバレアは顔を真っ赤にさせジブリールに怒鳴りつけた。
「この馬鹿息子がぁあああ! 貴様この失態をどうしてくれるつもりだぁああああ!」
凄まじいまでの怒号にジブリールの手と足がビクッと震える。父の声に未だに体が反応してしまうのだ。だが、ジブリールにはやらなければならないことがあった。そして、言わなければならないことがあった。だから直ぐにその手を握りしめ、ジブリールはバルバレアの目をまっすぐ見据えた。
「父上……だから、今回、その責任を僕がとりにきました。その責任の半分を」
「半分?」
「そのとおりです」
「もう半分はどこにいった?」
「もう半分の責任は父上がとるのです」
「なにぃ!?」
バルバレアは目を大きく見開き、ジブリールの胸ぐらを掴んだ。
「なぜお前の失態をワシが償うのだ!?」
「父上はなぜ我が影武者が民兵隊の支持を得たのか御存知ですか?」
「そんなもの知るかぁああああ!」
「大きくは2つ。あまりにも我等貴族に富が集中してしまったからです。貧しい民衆は貴族の財を収奪できる機会が訪れたとして、影武者についた。2つ目は無駄な軍事的出費〈川睨み〉がかさんだ事です。なので、これを廃止するとした影武者に民がなびくのは仕方がないことなのかもしれません。私はこの情報を軍に随行する娼婦に扮した友人からの手紙で知りました」
「それがどうしたというのだ!」
「父上……、我等は強くなりすぎてしまったのです。憎らしいと思われるぐらいに……。もう強さは十分なのでございます。常に強くあろうとする父上の長年の歪みこそがこのような形になって現れたのです。よくお考えくださいませ。〈川睨み〉などせずともウォーラは攻めかかってはまいりません。それに我等が十分な施しを民にしていれば、民兵はこれほど我が影武者になびくこともなかったでしょう」
バルバレアは床を叩いた。
「民は、我等が強ければ強い程なびく! そういうものなのだ!」
だが、ジブリールは一歩も退かない。
「ええ、それも一つの真理なのでしょう。僕もそれが正しい考えの一つであると知っています。でも父上、例えばこんなものが本当に必要なのでしょうか」ジブリールはこの部屋の端に置かれた宝石がちりばめられた丸椅子をとり、それをバルバレアの前に転がした。
「この椅子一つで雨をしのぐ事ができる家を無数に建てることができます。それに、これです。これ!」ジブリールはそういうと、また部屋の端に行き、金に赤が塗られた燭台をバルバレアの前にもってきた。
「この燭台一つで、地べたに眠る人々に沢山の施しをすることができます。それに孤児達だって救う事ができるやもしれません」
バルバレアはまくしたてるジブリールをみた。ジブリールは止まらない。
「僕は今回貧民の暮らしを味わい、彼等が如何に苦しい思いをしているか知りました。彼等に我等の思うほんの少しでよいのです。そのほんの少しの思いやりをかけることができたならば、今回の乱を未然に防ぐ事ができたやもしれません」
バルバレアは口ごもる。ジブリールは続けた。
「ウォーラに関しては川睨みをやめたところで真に攻めてこないと断言する事はできません。だが、せめて相手の動きに合わせて兵を送り出す事もできるではありませんか。だから何も毎年定期的に兵を送りだす事はないのです」
だが、このジブリールに対しバルバレアは語気を強め、こういった。
「それは……もはや“たられば”の話だ」
そして、そのあとバルバレアは窓から外を見ていった。
「過去にこうしておけばよかった、ああしておけばよかった、などという話は今更なんの意味も無いことだ。もう我等にはどうすることもできないのだから……」
バルバレアの言葉は如実に現状を現わしていた。既に王都には数百の兵しかなく、二万以上の兵を要するキティグに勝ち目などある筈がなかった。
ジブリールはバルバレアの顔を見ていった。
「この土壇場で父上は何をお望みになります? 誇りである、というのであれば王宮に火をかけ親子共に死ぬる道もあります」
バルバレアは気づいたように視線をジブリールの顔に戻した。
「他の道があるというのか? 生き延びる方法が」
ジブリールは微笑んだ。
「分かりません。ただ、生だけを望むのであれば、このジブリールの願いをお聞き届けくださいませ。あ、それと」といってジブリールは王の間にあった黄金の鎧を指さした。
「父上、アレを僕にお貸し下さいませ」
「よいが……、あれよりも良い鎧はあるぞ」
「いえ、この手紙によるとキティグは黄金の鎧を身につけているとのこと……。だから、あの鎧でなければならんのです。そして、精鋭の騎兵を30騎ほどお貸し下さい」
「よいが……。たかが30騎ほどの騎兵など、どうするつもりなのだ?」
ジブリールは王の間で衛兵の助けを借り黄金の鎧を身につけると、その姿で王の間から飛び出し、王宮の外に出る為に長い廊下を歩いた。既に迫ってきているというキティグを迎え撃つ為王宮の城壁近くに行くつもりだった。
廊下の途中にイリーナがいた。ジブリールはイリーナの傍を横切ると、そのまま階段をくだろうとした。
「待って!」とイリーナはいい、ジブリールに追いすがり、袖を掴んだ。
「お願いがあるの……」
この消え入りそうな声を聞きジブリールは立ち止り振り返る。
「お願い?」
「そう……お願い……」そう言うと、イリーナは階段の正面にある大きなガラス窓を見た。
「あの人の視線に射ぬかれて、どうして最初あんなに胸がドキッとしたのか分からなかったわ。でも……分かるようになったの。私はずっとお父様の道具として生きてきた。あなたとの結婚だって、したくもない結婚をお父様の野望のためにうけいれたの。私にはそれしか道がなかったから……。でも聞いて、あの人の瞳はそんな私の瞳よりも数十倍も縛られた瞳だったの。魂が縛られた瞳。私……、きっとあの人の中にそんな私を見たの。だから分かるの……。あの人の魂はこのままじゃ、たとえこの先この国の王になろうとも暗く深い海の底に落ちたままだわ」
ここまで一度にまくしたてたイリーナは、ジブリールに頭を下げた。
「だから、お願いジブリール。あの人の魂を救ってあげて……。もちろん筋違いなのは分かってるの。でも、それができるのは同じ顔のあなただけな気がするから……」
しばらく沈黙していたジブリールは、イリーナに対してつぶやくようにいった。
「キティグを愛しているんだねイリーナ……」
数秒沈黙を守ったイリーナは、やがて泣きながら頷いた。何度も頷いた。
ジブリールは少し微笑み、イリーナと同じく、階段の正面に見える大きなガラス窓をみた。キティグの魂を救えるかなど分からなかった。そもそも、キティグを今のキティグにしたのは紛れもなくジブリール自身である。影武者を作ることを望み、連れてきたのがキティグだった。 あの時、入れ替えなどをしていなければ、いや、少し違うな……。ほんの少し、ほんの少しだけでも、キティグを「自分の影武者」としてではなく、1人の人間としてキティグを見ていれば……今のキティグは生まれなかったはずなのだ。自分の子供じみた我儘の1番の犠牲者は間違いなくキティグなのだ……
――それでも、そうだとしても!
ジブリールは王宮の外に目を向け、逃げ惑う民衆たちを見た。
この逃げ惑う民衆たちに対して、王宮の人々に対して、ザグゼインに対して、イリーナに対して、父上に対して、そしてキティグに対して、犯してしまった罪とそれに償う責任が自分にはある、とジブリールは思った。
――イリーナの言った通り、僕がやらなければならないのだ。これは僕が始めた物語だ。ならば、僕が責任を持って終わらせる。その結末がどんな残酷なものであろうとも。
すると、「あ、コラー! 逃げるなぁああ!」というソニアの声と共に1羽の小鳥がこちらに近づいてきた。
「クゥアアアアアア!」
その小鳥は素早くジブリールの肩にとまると、ジブリールの肩に頬ずりをした。
「やあチーク。元気にしていたか?」
「クゥアアアアアア!」
チークは元気いっぱいに答えた。
一度ジブリールは息を吸い込んだ。次にゆっくり吐きだした。これから何が起こるか自分でも分からなかった。でも、もしもどんな結末になったとしても全てを受け入れようと思った。
ジブリールの目は前を見据える。その姿は凛々しく、また神々しいものであった。
この瞬間、ジブリールは、ただの臆病者のジブリールではなくなっていた。バルバレア=ミッドランドの王位を継ぐ、真の王……ジブリール=ミッドランドとなったのだ。
「さぁいこうか相棒」
ジブリールはチークにそう語りかけると、足早に階段をおり、王都をぐるりとかこむ城壁に向かった。
自分と同じ顔をした男がそこで待っている筈だから。




