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「殿下? 殿下、大丈夫でございますか?」
キツネ目のハーディンの声でキティグは現実に引き戻された。キティグは馬上でゆっくり進む白馬の背中に揺られていた。眼下には草原が広がり、太陽は自分の頭上にあった。もう昼か、とキティグは思った。
既にミッドランド軍はアルガス高原のキャンプ地をあとにし、来た道を引き返していたところであった。このままいけば、恐らく明後日には王都についてしまう、とキティグは思った。ハーディンが心配そうな顔つきで横から声をかけてくる。
「殿下、お気分が悪いようでしたら、ここでしばしの休息をとりましょうか?」
キティグは頭を左右に振ると「いらぬ気遣いだ」と吐き捨てた。それを聞いたハーディンの表情は少し曇り「はっ」といってキティグから離れた。正直、今のキティグには周りに気をくばる余裕などなかった。なぜなら、心が千々に乱れていたからだ。ハーディンの放ったあの一言によって。
『たしか“チーク”でしたよね、あの小鳥の名前は』
あのハーディンの反応……、とても嘘とは思えなかった。あの小鳥の名前はチークなのだ、だとすると……。イリーナのアレは――
『――おいで。グラン、こっちにおいで』
キティグは目をつぶった。決まっているではないか、と思った。それに昨夜何度も考え結論を出したではないか、とも思った。キティグは顔をうつむき、なるべく他の者から見えないように顔を隠すと、思い切り奥歯を噛みしめた。
――そう、バレたのだ。俺が偽王子であるとイリーナにバレたのだ。
こんな時、いつものキティグであればすぐ対応策を練るのであるが、それをある感情が邪魔をしていた。愛だ。まがりなりにもキティグはイリーナを愛していた。手放したくないと思っていた。そのイリーナから罠を仕掛けられた、という事実がキティグの心を乱れさせていた。
――あの女はこの俺を愛する風を装いながら、俺を騙したのだ。あんなに気を使ってやったのに、あんなに大切にあつかってやったのに、あんなに愛してやったのに!
キティグの手綱を持つ手が怒りで震えた。剣を引き抜き、周りにいる10人程の家来の体を切り刻みたい衝動にかられた。
それほど怒っていた。
――くそくそくそくそくそくそくそくそくそくそ!
一瞬、腕が勝手に動きそうになった。だがキティグは強固な自制心をもって寸前のところで、その衝動を抑え込んだ。
キティグは、心の中で大きな溜息をついた。もう昨夜からずっとこうなのだ。時折抑えがた衝動が広がり、それを無理やり押し殺す。だが、このために多大な負担を心に強いていた。精神的なエネルギーは、そのほとんどが衝動を抑え込むエネルギーに使われてしまい、まともな思考が何一つできなかった。だからこそ、何の対応策も思いつかないまま馬に揺られていたのだ。キティグは手綱から手を離し、目をつぶり、眉間を指でつまんだ。体中が極度の疲労に晒されている気がした。数日ずっと寝ていないような、そんな疲労だ。どうやら激しい感情を抑えこむというのは、想像以上に疲労が蓄積してしまうらしい。
キティグは二三度瞬きをしたあと、眉間から手を放し、また手綱を握り締めた。
危険だ、とキティグは思った。こんな状態でいたらこっぴどくやられる、そういうものだと、キティグは教育されていたからだ。キティグの頭の片隅には常にタリスマンの教えがあった。タリスマンの声がキティグの耳元で囁く。
『いいことキティグ? 恐怖であれ、怒りであれ、憎しみであれ、愛であれ、感情に流されてはダメ。感情は理性を鈍らせる。生き残るために必要なのは感情ではない、理性よ』
キティグはこの耳の奥から聞えた言葉をもう一度心の中で反芻させた。正しい言葉だ、と思った。
――とにかく今は冷静になることだ。冷静に。多少不自然であろうが、冷静に……。
キティグはハーディンに声をかけた。
「やはりどうも体調がすぐれぬ。今日はここで休むと全軍に伝えよ」
ハーディンはこの言葉に頷くと、全軍に対しテントの設営を急がせるように声をかけた。キティグは馬から降り、深呼吸をした。とにかくひと眠りしたかった。
キティグの目が覚めたのは真夜中になってからだった。
暗い中で目覚めたキティグは、なにもせず一日が経ってしまった、とベッドの中で思った。キティグはベッドから立ち上がったが、その瞬間、冷たい空気が肌を刺し、身震いしたキティグはもう一度ベッドの中に引っ込んだ。
やわになったもんだ、とキティグは思った。一度良い暮らしを味わってしまうと、そこに慣れてしまうものかもしれない。だが、そんなことを考える余裕もでてきたのだな、と思い、キティグは少しはにかんだ。確かにまだイリーナに対する怒りがあったが、昼間よりは和らいできた気がしていた。キティグは一度大きく息をつき、とりあえず、やらなければならないことは何なのか、を考えるべきだと思った。
キティグは一度状況を整理する。まず、イリーナに自分が偽王子であるとバレたのはほぼ間違いない。ここは間違いない。まずはこれを前提に考えようと思った。であるならば、考えるべきはその先にある。つまり、イリーナにバレた場合、次に何が起こるか、という事だ。
あのバルムークから共にやってきたというおかしな侍女に相談するのだろうか、それとも本物のジブリールを探そうとするだろうか、それとも――
ここでキティグは自身の口をあんぐりとあけた。自分のあまりのマヌケ具合が信じられなかった。そうなのだ、最も可能性のある選択をキティグは無意識のうちに取り除いていたのだ。王子が偽王子にすり替わった、などという大事をこの男に告げないわけがないではないか、とキティグは思った。
――バルバレア国王。
そう、きっとイリーナはバルバレアに告げたのだ。今のジブリール王子はジブリール王子ではない、と。
――だがその場合、俺はどうなるのだ? どうなってしまうのだ?
その先を考えるのが恐ろしかった。だが、考えないわけにはいかなかった。キティグは一度喉をならすと、その先を想像した。
――たぶん詮議をうけることは間違いない。つまり、身の潔白をうまく証明できるかによって俺の生死は分かれるわけだ。
キティグは頷いた。
――大丈夫さ、俺ならきっと上手くいく。そうさ、詮議をうけるといっても相手はあのイリーナとバルバレアだ。アイツ等程度の相手なら俺に丸めこめないわけがない。そうだ、きっと、俺ならうまく、絶対にうまくいくはず――
と、思ったあたりでキティグはある人物の存在に気付いた。
――ジブリール!
この時になってキティグはジブリールの存在の重要性にはじめて気がついた。本物はまだ生きているのだ。このタイミングでジブリールが王宮にもどってきたならば……
――俺は……きっと処刑されてしまう。
キティグはベッドの中で震え始めた。もはやイリーナどころではない。イリーナにかまけていたせいで大事なことを見逃していたのだ。
――この間抜け! 何をやってるんだ俺は!
キティグはベッドの中で何度も自分の頭を拳で殴った。明後日には……、いや日があければ明日には王都についてしまうのだ。
呼吸が苦しくなっていくのを感じていた。死が迫ってきているのだ、と思った。こちらを見るジーンやタリスマンがすぐ傍にいる気がした。
キティグは頭を横に振った。一度落ち着くべきだ、と思った。そもそもバルバレア王にイリーナが告げ口をしたと決まったわけではない。それに、そうじゃない可能性だって沢山あるじゃないか、とキティグは思った。確かにバルバレアに告げ口をされていた場合、キティグは限りなく死に近づく。だが、それ以外の可能性もある筈だ。
――なにかよい材料はないか? なにか探せばあるはずだ!
キティグは自分がよい状況に向かっていることを納得させるための材料を必死に探した。この行動は逃避に近かった。いや、というよりも逃避そのものだった。過去何日か分の記憶がキティグの脳で細かく精査されていった。すると、あることが頭に引っかかった。
『ジブリールよ。急ぎ王都に戻れ。既に悪党ビショップらは降伏した』
――あの手紙……。
最初ハーディンからあの手紙の内容を聞いた時に違和感があったのだ。ビショップが降伏したところだけではない。そうむしろ、その前の言葉……。
――そう“急ぎ王都に戻れ”という言葉。
キティグは頭をかいた。なぜ“急ぎ”なのだ、と思った。ビショップ一味が降伏したから戻ってこい、という流れは分かる。だが急いで王都に戻る必要性など別にないではないか、と思った。何か他の急ぐ事情がないかぎり……。
キティグは目をつぶった。すべてが繋がってしまった、と思った。
――バルバレア王は俺に早く帰って来てほしかったのだ。そういう事情があったから、あの手紙をよこしたのだ。
キティグは絶望に打ちひしがれたような気分になった。もうほとんど答えが分かった、と思った。事態は最悪の方向に流れているのだ。目に映る全ての状況がそうである、とキティグにつきつけていた。
イリーナはキティグが偽王子であるとバルバレアに告げたのだ。もう、そうとしか思えなかった。キティグの頭には最悪の結末しか浮かんでこなかった。
タリスマンの横に並ぶ、自分の首。
あれが自分の結末だ、とキティグは思った。
「嫌だ……、嫌だ……。死ぬのは嫌だ。敗北は嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、俺は王子なんだ。俺こそが王子ジブリールなんだ。俺こそが……くそうぅ……」
言葉にならなかった。キティグは自身の金色の髪を激しくかきむしった。蛇のように両腕がうごめき、爪をたてた指先に頭皮の脂と血がくっついた。死というこれまでで最大の恐怖から逃れる為に、脳がめまぐるしく回転をはじめる。次元が歪み、感じる時間も、空気も何もかもが置いていかれる。脳細胞を連結するシナプスを盛んに電流が行き交い、体に流れる血液さえも逆流をはじめた。
「いぃいいぐぎぃいいい! ぬぁあああああああ!」
キティグは闇の中でベッドから独り起きあがると、剣をとった。そして、そのままテントから飛び出した。満天の星がそこにはあった。
死にたくなかった。
だが、ずっと王子でいたかった。
「ぬぅうわああああああああああ!」
叫んだ。キティグは叫んだ。もう戻れないかもしれない、と思った。それはただの賭けかもしれない。だが、それしかないのなら、それをすべきだ。たとえ何万人が死のうとも、何十万人が死のうとも、それより悪いことなどないのだから。
「あぎゃああああああああああああ!」
まるでそれは産声の様な叫びであった。




