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イリーナはあの日以来、あの言葉が気になっていた。ソニアがわずかにつぶやいたあの台詞が。
『あの殿下は本当にジブリール殿下なの?』
あの言葉の真意はなんだったのか、なぜソニアはあんなことを言ったのか。もちろんその答えを聞くためにイリーナは次の日、ソニアに聞いてみた。だが、無駄だった。
「そんなこと言いましたっけ?」
ソニアは屈託のない表情でイリーナにそう答えた。
そうなのだ、このソニアは恐ろしいほど勘が鋭いくせに、物事をうまく記憶できないのだ。特に何気ないことなどは、ものの数分で忘れてしまう性質の持ち主だった。イリーナは、そう、と言うと、それ以上ソニアには聞かなかった。ソニアは一度忘れると二度と思いださない。どういう頭の構造になっているのか分からないが、ソニアの頭はそう出来ていた。
こうして現在に至るわけだが、イリーナ自身も、どうしてあの言葉がこんなにも気になるのか、その理由が分からなかった。
ジブリールを愛してしまったからだろうか。
そう思い、イリーナはベッドの中で自身の唇に触れた。夜の闇が深くなり、時計の針が2の数字を指していた。
ジブリールと口づけを交わして以来、イリーナの頭の中には常にジブリールがいた。今ジブリール殿は何をしているだろう、どうすればあの人がもっと笑顔になるだろう、どうすればもっと自分を魅力的にみせることができるだろう。日がな一日そんなことを考え込んでしまうのだ。
だからこんなにもあの言葉が気になるのだろうか。
『あの殿下は本当にジブリール殿下なの?』
何を馬鹿な、と最初は思った。だが考えれば考えるほどに、この言葉に不思議と見過ごすことができない何かが含まれている気がするのだ。
そう、例えば、自分のこころの揺れ動きと、この言葉がピタリとあてはまってしまったように……。
以前、イリーナはジブリールに対しどこか醒めた気持ちしか持っていなかった。だが、今はどうして以前の自分があんな気持ちしか持ち合わせていなかったのかさっぱり理解ができないのだ。ジブリールの顔立ちはイリーナの好みではあるし、女性を気遣う優しさもあり、時には強引にこちらに踏み込んで来て心をさらってしまう力強さもある。
だから分からないのだ。どうして以前はあんなにジブリールの事が気に入らなかったのか。
――なぜ、どうして?
イリーナは自分の心が理解できなかった。
『あの殿下は本当にジブリール殿下なの?』
また、あの言葉がイリーナの頭にチラついた。イリーナはベッドの中で目をつぶった。今自分は馬鹿な事を考え始めている、と思った。
心惹かれたジブリールは、以前のジブリールとは別人なのではないか、という馬鹿な考え。
イリーナは頭を左右に振った。浮き上がった馬鹿な考えを、イリーナは必死に否定する。
――別人などではない。決してそうではない。第一に、別人だとして、あれほどそっくりな人間がこの世にいるのだろうか。
納得できる答えだった。
――それに別人だった場合、本物のジブリール殿はどこにいるというのだ。もしも生きているのなら、自分こそがジブリールであると名乗り出るはず。
とても納得できる答えだった。
イリーナの中のあらゆる理性が、心で感じた全ての疑問を否定していた。だがその心がまたもイリーナに囁くのだ。
《以前のジブリールを思い出すのよ》
――そんな必要ないわ。
《ちゃんと思い出して。以前のジブリールは小鳥のみを愛でる少年だったわ》
――……。
《本当に幼稚な少年だった》
――やめて。
《あなたのことを鉄仮面と呼び蔑みもしたわよね》
――やめて!
《卑屈な笑顔を浮かべ、あなたのことを避けていたわ》
――ちがう!
《あなた心の中で言ったじゃない。猛々しいわけでも、冷静なわけでも、女性をリードする優しさも持ち合わせていなかったってね》
――そんなことない。
《本当にまるで別人よね、今のジブリール殿とは》
――……。
《ここまで違うのに、あなたは気づかなかった》
――……。
《いや、それとも気づいてないふりをしてきたのかしら》
――……。
《だっておかしいでしょ? ねぇ覚えてるかしら、あの暴れ馬を征している殿下の姿を》
――……ええ、覚えてる。
《あなたは毎日殿下の稽古の様子を見ていた。そして、毎日呆れていた》
――……。
《毎日馬に振り落とされ、弓が的まで届かない殿下を、あなたは鼻で笑っていた》
――……。
《だけどあの日、突然殿下は馬を乗りこなした》
――それは……、乗馬が上手くなったのよ。
《あの日を境に、殿下は猛々しく、冷静で女性をリードする優しさも持ち合わせる様になった》
――大人になったの。
《殿下はまるであなたの理想どおりの男になった》
――昔はダメな少年だったけど、今は素晴らしい青年になったの!
《そう、それがあなたの中で組み立てられたストーリー》
――ちがう!
《あなたは不満だったのよ。あなたはずっと恋をしてみたかった。そして、王子にはもっと自分に相応しい立派な王子を求めていたの。綺麗で美しくて、ミッドランドで一番の美女と言われる自分に相応しい王子を、ね。少なくとも、あなたはそうあるべきだと思っていたの》
――ちがう!
《そして、それが叶いそうな相手が目の前に現れた。全部あなたの思った通りになった》
――ちがう!!
《ねぇ本当のことを言ってごらんなさいよ。自分を誤魔化さずに》
――え?
《あなた本当は、心のどこかでずっとあのジブリールは以前のジブリールと別人なんじゃないかって思っていたでしょ?》
――ちがうわ!
《だからソニアの言葉に、あんなにも反応してしまったんでしょ?》
「ちがう!」
イリーナはその心の声を振りはらうように叫び声をあげ、ベッドの掛け布団を思い切り蹴りあげた。掛け布団の中から羽毛が飛び散り、空気中に舞った。
突然叫び声をあげたイリーナに対し、扉を護衛していた衛兵が何事かと思って、イリーナの部屋の扉をノックした。
「姫様、何事かありましたでしょうか?」
イリーナは一度息を整えてから答えた。
「なんでもありません。気にせぬように」
すると、「はっ」という短い返事が扉の外から聞えた。イリーナは蹴りあげた掛け布団をそのままに、またベッドに横になった。すると、また心の声がイリーナに囁いた。
《ふふふ、図星を突かれると感情的になるだなんて……、全く面倒臭い人》
――……あなたのせいよ。
《あら、私はあなたよ。でも私はあなただから今のあなたの願望も分かる》
――……。
《殿下が本物か偽物か、今は本当のことを知りたいんでしょう?》
――……。
《ちがう?》
――…………そうね。
《少しだけ恋が揺らいだんでしょう?》
――……。
《だって、本当にあなたの理想通りの男なら、まさか金貸しを処刑して微笑むわけがないものね》
――……。
イリーナは大きく溜息を吐いた。
――そう、今は確かめたい。真実を知りたい。
《……》
――でも、どうやって確かめればいい?
《あら、私に言わせる気?》
――え?
《その方法は、もう分かっている筈よ。そうでしょイリーナ=バルムーク》
――……確かに……、そうかもしれないわね。
午前2時20分。ミッドランドの王宮の二階、婚約者の部屋にて、ピーター=バルムーク伯爵の娘イリーナ=バルムークはある決意を固めた。その決意の先にどんな結末が待ちかまえているのか、この時は誰にも予想がつかなかった。




