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イリーナはちょうど王宮の最上階に位置する天文台にいた。ここは望遠鏡と呼ばれる星の角度や動きを調べる奇妙な縦長の筒が数多く置かれている場所で、ここからは王都の景色がよく見えた。
「姫様! これはよく見えますよ!」
背後で侍女のソニアが叫んだ。イリーナが振り向くと、普段は空に向けられている縦長の筒を横にし、中を覗くソニアがいた。ソニアは王都の景色を覗いているみたいだった。イリーナは小声で言った。
「ソニア。そんなことをしたら占星術師殿に怒られるでしょう」
「彼等の仕事は夜空の星を眺めることでございます。ならば昼の間はどうつかってもよいではございませんか」
正論に聞えなくはないが、明らかに屁理屈だった。どうせ、はじめて見る望遠鏡を目の前にして自制が効かなくなっただけだろうに、とイリーナは思った。このソニアは時折どうしよもない屁理屈を言う。大体彼女が屁理屈を言う時は決まった法則がある。どうしようもない自己を弁解するときに、無理に理屈をこねまわすのだ。イリーナがあきれ顔で見ているのも知らず、ソニアは筒の中を熱心に眺め、なにがおかしいのか、時折黄色い声をあげていた。
――まぁいいか。
嬉しそうなソニアの顔を見るとこれ以上に怒る気にもなれなかったイリーナは視線を戻した。イリーナの視線の先には眼下に広がる王都があった。このミッドランドにおいてこの王宮以上に高い建物など存在しない。その最も天に近い場所から眺める王都はまるで地下人の住まう哀れな街に見えた。イリーナはつぶやいた。
「ジブリール殿はあのような街に興味があるのだな」
このイリーナの言葉を聞いていたソニアが望遠鏡から目を離し答えた。
「私も意外でした。まさか殿下があんなことを言いだすなど」
イリーナがジブリールに言ったのだ。今もっともやりたいことは何か、と。するとジブリールはこう答えた。
『それは――王都に巣食うゴミ共を掃除することだ』
意外にもジブリールは王都の治安に興味を抱いていたらしい。なんでも、王都にばっこする悪徳金貸し業者を一掃する為にミッドランド家の軍隊を率い、その根城を強襲するのだという。イリーナからすると、本当にどうでもよいことであったが、ジブリールにとっては違ったらしい。
不思議なものだ、とイリーナは思った。
イリーナの知るジブリールは、たしかもっと違った筈だ……。いや違ったのか? どうも記憶に自信がない。幸福感と相手を好きという感情が強くなり、好きになる以前のジブリールがどうであったか少し思い出せなくなってきていた。良く分からないが、以前からそうであったのかもしれないな、などとイリーナが思っていると、また背後でソニアが大きな声があげた。
「姫様そろそろはじまりそうですよ」
イリーナはソニアに言われ、王都の中央広場に目をうつした。そこにはミッドランド王家の軍隊と貧民街で捕えたらしい数多くの金貸し達が既に縄についていた。イリーナは眉をひそめた。
「なによ。すでに終わっているじゃない」
「そうみたいですね」と返答したソニアをイリーナはジロっと睨んだ。イリーナは言ったはずだ、王子ジブリールが華々しく悪党達を取り締まる姿を一目でいいから見てみたい、と。これに対し『それは危ないです姫様』と言って現地行きを阻止したのがソニアなのだ。
『小規模とはいえ、戦なのでございますよ? 女人が物見遊山で戦場に近づく事などあってはなりません』と何度も言うソニアに説得され、しぶしぶイリーナは王宮に留まる事に決めた。
だが、それでも諦めきれずイリーナはソニアに尋ねた。
『ならば、遠くからでもジブリール殿の姿を眺められる場所はないか』
この問いに対し、ソニアはここ天文台を選んだ。ここからならきっと殿下の雄姿も見えるに違いない、ということで。
だが、華々しい戦いは既に終わり、あとはあの軍隊がとぼとぼと王宮に帰ってくる姿を眺めるだけである。そんな姿をみて、何が面白いのだろうか、とイリーナは思った。
「本当に姫様は言いたい事が顔にでる御方ですね。きっと、ただ帰ってくる軍隊を見ても何が面白いのか、などと思っているのでございましょう?」
イリーナは思わず目をつぶった。完全に図星であった。ソニアは続けた。
「それは、姫様が世間を知らぬからそう思っているのでございます。姫様は“凱旋”という言葉は御存知ですか?」
「ガイセン?」
「そうです。勝った軍隊は勝ったことを見せつける為にパレードをおこないます。軍人にとってそれほど名誉な事はないのだそうです。いわばこの凱旋こそが軍隊の華なのでございます」
そういう考え方もあるのか、とイリーナは思った。
視線を王都に戻す。何やら軍隊は木で台座らしき何かを組んでいる所であった。あれが“ガイセン”なのだろうか、とイリーナは思った。
「ちょっとソニア。私にそれ代わってくれないかしら?」
望遠鏡を覗くソニアは「ええ、勿論です姫様」と言って、それを差し出してきた。イリーナは望遠鏡を手にとると、その奇妙な縦長の筒を王都の中央広場に向けた。拡大された王都が瞳に飛び込んできた。自分の目で眺めるより遠くの映像がハッキリと見えた。ミッドランドの兵士が多数映り、そのほとんどがつまらなそうにその場に立っていた。視線を移すと、さきほど組み立てていた台座がようやく完成した所であった。
――アレは何なのだろう。
そんな疑問を抱きながら、視線は愛しのジブリールを探す。
――見つけた。
ジブリールは馬に乗り、剣を振り上げ、全軍に向けなにやら指図をしているみたいであった。そのターバンを被った姿にイリーナは思わずうっとりした。なんと凛々しい姿なのだろうか、と思った。一度、イリーナは望遠鏡を覗くのをやめ、自分のいる天文台を見回した。そういえば、ジブリールに出会ってすぐの頃にこの場所に案内されたのだ、とイリーナは思った。あの時、はじめてこの奇妙な縦長の筒(望遠鏡)を使い、星を眺めたのだ。
あの時のことを思い出すと、イリーナは少し不思議な気分になった。
――そういえばあの時殿下はもう少し精神的に幼かったような……。
イリーナはもう一度、望遠鏡を覗いた。猛々しいジブリールが映った。やはり、その姿を見るとうっとりとしてしまう自分がいる。すると、視界の端にミッドランドの兵士が映った。何かを指示しているみたいだった。その身振り手振りにつられるようにイリーナは視線を移す。縄で縛られた坊主頭の男が一人、先ほど組み上げた木の台座に連れて行かれた。坊主頭の男は精一杯兵士に抵抗していた。だが兵士はその男を殴りつけ、台座に引きずって行った。心のどこかに疑問が湧いた。
これは本当に“ガイセン”というパレードなのだろうか、と。妙に重々しい雰囲気が満ちていた。広場は柵に囲まれ、市民はその柵の外で囚われた金貸し達とミッドランドの兵士を遠巻きに眺めているだけであった。
一旦イリーナは望遠鏡から目を離し、ソニアに尋ねた。
「これは本当にガイセンなの?」
すると、どこからか望遠鏡をもう一本もってきたソニアは、その筒の中を凝視し首をかしげていた。ソニアも同じく中央広場をその望遠鏡で覗いているみたいだった。ソニアはイリーナの問いに何も答えなかった。だから、イリーナは望遠鏡を再度覗き、台座を見た。
台座の中央には奇妙な道具があった。四角い窓枠のようなものである。窓枠よりはよほど縦長で、その上の部分には重々しい鉄の刃があった。
腕を縄で縛られた男は、その木でできた縦長の窓枠の下の方に頭をつっこまれた。どうも、下の方には頭を固定する装置があるらしく、男の頭がそこで固定された。筒越しでもハッキリと分かる。男は何かを懸命に叫んでいるみたいだった。
妙に胸がドキドキしていた。恋のようなドキドキではない。何か不吉な胸騒ぎがするのだ。この胸騒ぎは何なのだろう、と思ったと同時に、ジブリールが手をあげ、それを振りおろした。ソニアが叫んだ。
「姫様! 見てはなりません!」
もう遅かった。
重々しい鉄の刃が、下に向かって落下し、縄で縛られた坊主頭の男の首が胴から離れ、台座から転げ落ちた。
一部始終を見終わったイリーナの手は、静かに望遠鏡を放した。すると、望遠鏡が床に転がり、何かが割れた音がした。イリーナは膝を床につき、その場にへたりこんだ。声が出なかった。人の死の瞬間をみたことなどこれがはじめてだった。
ソニアがつぶやいた。
「笑っている?」
ソニアは望遠鏡を構え、依然中央広場を見ているみたいだった。イリーナはソニアの発した言葉の意味が分からなかった。
――誰が笑っているのだろう。
望遠鏡からようやく目を離したソニアは「姫様大丈夫ですか? 部屋に一緒に戻りましょう」と言いイリーナを背負うように肩と腰に手をまわした。
その時、消えそうなくらい小さな声でソニアはそっとつぶやいた。それは恐らく独り言のようなものだったのだと思う。だが、イリーナはその時聞いたのだ。確かに聞いたのだ。
「あの殿下は本当にジブリール殿下なの?」




