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最近服を選ぶのが楽しくなった。だから、ついつい時間がかかる、とイリーナ=バルムークは思った。侍女のソニアは、両腕にそれぞれ服を持ち、眉の形をハの字にさせて言った。
「まだですか姫様。もうかれこれ30分は悩んでいますよ」
イリーナはソニアの両腕にぶら下がった服をジッと見つめていた。片方は青と緑の生地が入り混じった少し落ち着いた感じのドレス。もう片方は薄い黄色の生地で出来たドレスで、特に肩のあたりがふんわりしている所が特徴的な派手なドレスだった。イリーナはソニアに尋ねた。
「ねぇソニア。どっちの服がよいと思う?」
「姫様。さきほどもお答えしましたが、私はどっちでもいいなと思っております。どうせまた夕方頃には服をお召替えになるのです。両方着れば良いではないですか」
「何度言わせるのソニア。昼には昼の、夜には夜に相応しい服装というものがあるの。皆あなたのようにいい加減に生きているわけではないの? 分かった?」
イリーナはそこまで言い終ると、またソニアの両腕にぶら下がった服に視線を戻した。ソニアは一度大きく溜息をつくと、そのあと少し笑った。それに気付いたイリーナは視線を服に釘づけにしたまま言った。
「なにソニア。まだ文句があるの?」
「いえ……。ただこれでピーター様は安心するかもしれませんね」
「私が服を熱心に選んでいると、なぜお父様が安心するの?」
「なぜって……、姫様がやっとジブリール殿下に好意を寄せ始めたからです」
イリーナは思わず目をつぶった。まだ誰にも言っていないのに、と思った。
腰をまげて服を見ていたイリーナは、恐る恐る目をあけ、上目遣いでソニアを見た。ソニアは口角の片方をあげ笑っていた。
もう本当にソニアは……、とイリーナは思った。
思えばいつもそうだった。何かにつけソニアは察しがよいのだ。人の見えないところがよく見えるし、何も言わなくても心が通じたりする。だが、それにしても……。
顔を険しくさせてまた服を凝視するイリーナに対し、ソニアは尋ねた。
「どうしました姫様」
すると、イリーナは怒った口調でこう返した。
「察しが良すぎる侍女というものも考えものね、と思ったのよ」
この言葉にソニアは無礼にも大きな笑い声をあげた。だが、その声を聞いていると、なぜかこちらまでおかしくなってきてイリーナも笑ってしまった。
この侍女は無礼な口をきく。だがいつも許してしまう。それがこの二人の関係だった。
ようやく服を決めたイリーナは、薄い黄色の派手な服を着て、王宮の中庭に飛びだした。
イリーナの目に、刺すような太陽の光が飛び込んできた。
イリーナは反射的に目をつぶり、そして徐々に目蓋をあげた。
短く丁寧に狩り込まれた芝生と球状に切り揃った木々がイリーナを出迎えた。
ここは王宮の建物のちょうど中心部分に存在する庭で、この庭の更に中央部分には金で作られた大きな水浴び場があった。ここで水浴びできるのは王族とその婚約者だけである。イリーナは辺りを見回しながら中心の水浴び場に向かって足を進めた。おかしい、と思った。ジブリールの姿がどこにもなかった。昨日約束したのだ。この時間に中庭でゆっくり散歩でもしよう、と。もう一度中庭をじっくり見渡すも、やはりそこには誰もいなかった。大きく息をつき、水浴び場のすぐそばでイリーナはしゃがみこんだ。少し肌寒い空気がイリーナの脇を通り抜けた。ふと下を見ると、水浴び場の水面に自分の顔が映っていた。イリーナは自分の唇に手を伸ばす。
――鉄仮面、などと……。今でも殿下は私のことをそう思っているのだろうか。
そんなことを思いイリーナが水面に映る自分の顔を眺めていると、突然水面が盛り上がり、そこからジブリールが姿を現した。ジブリールは全裸だった。イリーナは思わず手で顔を覆った。ジブリールは自身の金色の髪を両手でかきあげると、前も隠さずこちらを見た。
「なんだ、居たのかイリーナ」
イリーナは手で顔を覆ってはいたが、指の隙間からジブリールの体を凝視していた。初めて自分の婚約者の裸を見た、とイリーナは思った。イリーナは一度喉を鳴らした。思ったよりも良い体をしている、と思った。腹筋はちょうどよい具合に割れ、肩の上や胸のあたりがこんもり厚くなっていた。ジブリールは口を開いた。
「お前も入るか? イリーナ」
ジブリールのこの突然の申し出にイリーナはどうしていいか分からず「その……、肌寒い季節でございますし……、服も着ております」と言った。
「服などよい」
そう言ったジブリールはイリーナの手首をつかみ、水浴び場の中に強引にイリーナを引きこんだ。
「きゃっ!」と声をあげたイリーナは水の中に飲み込まれ、そのあと、水面から顔を出した。肺に水でもはいったのか、胸が苦しくなり、イリーナは思い切りせき込んだ。それをみたジブリールは笑っていた。イリーナは怒った口調でいった。
「殿下、戯れはおやめ下さい」
「怒ったかイリーナ」
「当たり前です殿下。私は――」とイリーナが言いかけた所で、ジブリールはイリーナを強く抱きよせ、そして口づけをした。
一瞬何がおこったか分からなかった。
心臓が飛び出そうになった。お互いの唇が触れ、唾液が絡み合い、糸をひいた。唇を放すと、自分の目がとろんとしていることにイリーナは気付いた。それはほんのわずかな表情の変化だった。だが、それはこの少女の人生において何よりも大きな変化だった。ずっと思って来たのだ、誰かに恋焦がれてみたい、と。
「殿下」
そう言ってイリーナはジブリールを強く抱きしめた。興奮と幸福がごちゃ混ぜになり、わけが分からなかった。だが、とてもよい気分だった。
「その服の肩のひらひらを台無しにしてしまったな」とジブリールが言った。イリーナは自身の服を見た。水に濡れ、黄色くふわふわしていた肩の部分が、水を含みペシャンと垂れ下がっていた。不思議と笑いがこみあげた。
「ふふっ。殿下ではありませんか。服などよい、とおっしゃったのは」
「まぁ確かにそうだが」
そう言ったあとジブリールとイリーナは互いを見た。そして、もう一度口づけをした。もうこんな服などどうでも良かった。それ以上の幸福を手に入れた、とイリーナは思った。
長い間二人は、抱擁と口づけを繰り返し、そして水浴び場の縁の部分に座った。どこから乾いた大きなタオルをもってきたジブリールはそれをイリーナの肩にかけ、隣に座った。イリーナはジブリールの横顔を見た。ジブリールはどこか遠くを見ていた。それがどこか悲しそうな顔をしているようにイリーナには見えた。
「殿下、なにか悲しい事でもあったのですか?」とイリーナは訊いた。
ジブリールは目をつぶり、ゆっくりうなずいた。
「少し問題があって、どうしたものか、と悩んでいたのだ」
恐らく、バルバレア国王に関する悩みだとイリーナは思った。だから、とても前向きなアドバイスをした。
「殿下。古来から、物は考えよう、と申します。大きな問題と考えるから問題は大きく見えるのではないでしょうか。本当にその問題とは大きなことなのでしょうか」
そう言われたジブリールは「……確かにそうかもしれないな」と、つぶやくようにと言った。そのあとイリーナの濡れた髪を乾いたタオルで撫でながら囁くように続けた。
「イリーナは良い事を言う」
その言葉を聞いて、イリーナの表情が意図せず明るくなった。この変化にイリーナ自身も戸惑っていた。ただ自分のアドバイスを肯定してくれただけで、こんなにも嬉しくなってしまうのは何故なのだろうか、と思った。
「今の表情。とても素敵だイリーナ。いつもそんな表情をしてくれると嬉しい」
そう言ってジブリールはイリーナの頬をさすった。イリーナはその指のぬくもりにうっとりとした。そして、ほんの軽い気持ちで言った。
「今、もっとも殿下がなさりたいことをすれば良いと思うのです」
「今、もっともしたいことか」
「例えば、そう、華やかな舞踏会を開いたたり、あとは盛大なパーティーを開いてもよろしいと思います」
このイリーナの言葉を聞き、ジブリールは笑った。
「それは君がしたいことではないか」
「それは――その、そうなのですが……」と一度イリーナは口を籠らせたが、再度訊き直した。「殿下は、今したいことがないのでございますか?」
この問いにジブリールはしばらく目を瞑り、何かを考え込んでいるみたいだった。そして、その問いの答えが出たのか、ゆっくり目蓋をあげた。目の奥が鈍く光っている気がした。
「今したい事……、そうだな」と、まで言ったあと、ハッキリした口調でジブリールは言った。
「それは――王都に巣食うゴミ共を掃除することだ」




