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厚い雲が空を覆い、冷たい風が大地を吹きぬけた。風は山々の尾根を駆け、草原を巡り、やがて高くそびえたつ石造りの壁にぶつかった。それがこのミッドランド国で最も栄えた都市と呼ばれる王都の“城壁”であった。王都は10km四方に広がる広大な都市で、その周囲には、これをぐるりと取り囲む城壁があった。貴族も商人も騎士も乞食も孤児も、ほとんど思いつくありとあらゆる人々がこの中で生活をしていた。
その都市の中の貧民街の一角に小さな藁葺きの家があった。金色の髪の男はその家の中で銭の枚数を数えていた。39、40、41……。何度数えても銭が足りない。確かにここにあったはずなのに……。疑問が深まるほど、男の貧乏ゆすりが激しくなった。おかげで薄い木の板が軋み、家全体が揺れた。この家は人一人寝るのがやっとの広さしか無く、鼠や猫が我が物顔で走り回る不潔な家だった。いや、今問題なのは家ではない。銭だ。何度数えてみても数が足りないのだ。
金色の髪の男は大きく息を吸うと、短く吐き「クソッタレ」と一言洩らした。
男の名前はキティグといった。名前の由来は古代ミッドランド語で太陽の光やらを指す造語らしいが、そんなものに大した意味はない。
キティグは王都貧民街に跋扈する金貸しの取り立て屋だった。キティグの背後からのぞいていた弟分の坊主頭の男、ジーンが心配そうな顔でつぶやいた。
「兄貴、マジで足りないんすか?」
キティグは無言で睨み返した。いちいち聞くな、と思った。とにかく今日中に金を集めなければならなかった。キティグの所属する組織はひと月に一度上納金を徴収する。誰が考えた制度か知らないが、この王都に数ある金貸しの組織が似たシステムで運営されていた。金貸しは金を回収できなければ商売にならない。だが、そうそううまく全額回収できることも稀であった。だから、組織は貸付に応じた上納金の額を取り立て屋1人1人に設定し、期限までに回収されようとされなかろうと、上納金だけは組織に納めなければならない決まりになっていた。
キティグはこの悪魔の様なシステムを忌み嫌っていた。だが、どうすることもできない。気がついた時にはもう泥沼から抜け出せなくなっていた。いつごろから抜け出せなくっていたのだろう。記憶を遡ると、かつてふらふらと街を1人で歩いていた記憶にブチ当たる。まだ小さく、全ての物が巨大にみえた頃。あれはたぶんまだ4、5歳の頃の記憶だ。
キティグは孤児だった。どういういきさつで孤児になったかなどは分からない。ただ気がつけばキティグは王都の貧民街で乞食として暮らしていた。世の中にはそんな孤児が山ほど居た。戦争で親をなくしたり、口減らしの為に捨てられたり、とにかくそんな理由で孤児になるのだ。
孤児は、独りのままでは死ぬ。だが、それは孤児同士群れても同じで、多くの場合、大人に寄りかからなければ生きてゆく事ができない。だが、そんな孤児を助ける大人など稀で、多くは冷たい石畳の上で飢えて死にゆく運命にあった。しかし、この孤児に使い道を見出した男がいた。
それが《お守り(タリスマン)》と呼ばれる男だった。キティグは彼に引き取られた。この間抜けな名前が本名なのか、偽名なのか未だに分からないが、タリスマンはキティグのような孤児を集め、育てている男だった。はじめは良い人だと思った。だが、数ヶ月もすると、なぜこの男が孤児を集めているか理由が分かるようになった。自分の商売の金貸し業の優秀な取り立て屋にしたてるためだ。この商売の性質上、構成員は多ければ多い程取りっぱぐれが少ない。それに、タリスマンはキティグ達を育てあげる為に使った費用を最初から借金として計算していた。だから、キティグは12才になった時点でほとんど返済不能な莫大な借金を背負う事になった。この借金の金利は膨らみ続ける。それをキティグは返済しなければならないのだ。キティグは今年で16歳になった。だが、借金は減らない。ちっとも減らない。だから、ひたすら耐えて生活するしか無かった。
まるで首輪がつけられているみたいだ。喉ぼとけのあたりを手でさすりながらキティグはそんなことを何度も思った。どこに逃げる事もできない。逃げだせば、どうなるか分かっているからだ。
――逃げたら殺される。
タリスマンはそれを実演形式で教えてくれた。実際に殺されるのはこの施設を脱走した孤児達だ。タリスマンがどんな情報網を築いているか知らないが、脱走した孤児はほとんどの場合捕まり、施設内の大きな丸太に磔の格好で手と足を括り付けられる。次にナイフで体のあらゆる部分を少しずつ切り取られ、最後には首を切り落とされるのだ。孤児たちはこの一連の殺人を黙って凝視することを義務付けられていた。腕がとれようが足がとれようが決して叫んではならないのだ。ただし、泣く事は許された。ほとんどの孤児がこの「見せしめ」に、恐怖におののき涙した。見せしめの効果は絶大だった。孤児たちはタリスマンに逆らわなくなった。
だから、キティグは取り立て業に精をだした。何度か見た事があるが、ちゃんと借金を完済した人間はこの地獄から這い出る事ができた。それはタリスマンが決めた厳格なルールだった。だからキティグもそれを信じて頑張るしか無かった。
「くそっ!」
キティグはもう一度大声を出した。やはりタリスマンに納めるべき今月の上納金が足りないのだ。自分の受け持つ顧客の管理はしっかりしていたが、あると思っていた銭が突然消えた。となると、これは――
キティグは自分の背後にいるジーンの首根っこを掴んだ。
「ジーンお前か? 俺の銭を盗みやがったのは」
「お、俺じゃないっす兄貴! が、く、苦しいぃ」
キティグは金の管理を二種類の方法に分けていた。少額の場合は持ち歩き、持ちきれない時はこの家の地面に穴を掘ってそこに埋めるのだ。その埋めていた銭がわずかに無くなったのだ。これを知っているのはキティグの他にここで一緒に寝泊まりしているジーンくらいのものだった。
「怒らねーから、本当のこと言いやがれ。じゃないと……どうなるか分かってるよな?」
キティグは腰から抜いたナイフをジーンの喉元にあてた。
「が、そ、そのマジでオイラじゃないっすよ兄貴ぃ。勘弁して下さい」
「ジーン、1ついいことを教えてやる。ここに銭が埋まっていることを知っているのは俺とお前だけだ。だから、お前しかありえねーんだよ」
するとジーンは、しまった、という顔をし、観念したように謝りはじめた。
「その……あの……。す、すまねぇ兄貴! ちょっと拝借しちまった。オイラも今月がピンチでさ。もうどうしよもなかったんだ」
ジーンがそう言い終ったと同時にキティグはジーンの頬を思い切り殴った。何度も殴った。それからジーンの懐から財布を抜き出し。「いただくぞ」と言った。
顔が腫れあがったジーンは「オイラはどうすればいいんでさぁ兄貴」と言った。
「大人しく“お仕置き”を受けろ」
キティグはそう言い捨てると、銭の入った袋を懐に忍ばせ、タリスマンの屋敷に向かった。タリスマンの屋敷は貧民街で一番大きな屋敷だった。
キティグの3倍近くはある巨大な腹をかかえたタリスマンは、キティグが差し出した銭の入った袋を見て口元をニヤつかせた。
「今月はちょっと遅かったから心配しちゃったのよ」
男なのに女言葉を喋る。それがこのタリスマンだった。更に巨漢なうえにとんでもなく太っているので、いつも紫のゆったりした服を着ていた。それが余計にこの男の不気味さを際立たせていた。銭を数えていたタリスマンは、一旦それを中断し、こちらをみて笑った。
「ずいぶんシケタつらしてるじゃないの……。本当に名前負けしてるわね」
ほっとけ、とキティグは思った。
「何、ボーっと突っ立ってるの? もう行っていいわよ。私は私で忙しいんだから」
キティグは一礼すると、タリスマンの屋敷から出た。死に物狂いで集めた金なのに、あっさりしたものだ、と思った。ちなみにキティグが育った孤児施設は、あの屋敷の地下にあった。一定の年齢になるまで、あそこで暮らさなければならないのだ。
タリスマンの屋敷の前の小道でキティグは体をのばし、それからいつものように天高くそびえ立つ王宮を眺めた。精巧な石造りの王宮は、太陽の光を反射させ、眩い輝きを放っていた。王宮はこの王都で一番大きく、そして高い建物だった。あの建物を見る度にキティグは思う、なんと美しいのだ、と。そしてこうも思う、この世は無情だ、と。自分は子供の頃から食うや食わずの生活をして、16歳になった今も常に何かに搾取され続け、生きている。だがどうだ、あの王宮とその周辺に住む貴族達は、良い物を食べ、何不自由なく暮らし、そして常に何かを搾取し続けている。意図せず、意識せず、自分がこう暮らすのが当然だと言わんばかりの意識をもって、傲慢に人々を見下している。
――不公平じゃないか。これではあまりに不公平。
王宮から視線を外したキティグは、振り返りタリスマンの屋敷を眺めた。汚らしい景色がそこにはあった。自分はここで一生を終えるのだろうか、と思った。借金は莫大で、タリスマンには逆らえそうにない。
――ならば俺の人生とは、一生タリスマンの犬として働くだけの人生なんじゃないか?
キティグは再び喉ぼとけのあたりを手でさすった。見えないハズの首輪の感触を感じた。悔しかった。目の奥が熱くなり、唇がわずかに震えた。キティグは再び視線を戻し、王宮を眺めた。
――あいつらと俺に何の違いがある。ただ生まれが違うというだけではないか。たったそれだけの違いしかない。
「クソッ」と一言いったキティグは、まず高ぶった気持ちをおさめようと深呼吸を繰り返した。
自分を憐れむつもりなどなかったのに。気づけばそうなっていた。最近ではあの王宮を見る度にそんな気持ちで胸がざわつく。だが何故かいつもあの王宮を見てしまうのだ。
すると、いつの間にかキティグの真横に大きくて厳つい男が立っていることに気付いた。
――いつからここにいたのだろう?
キティグはその厳つい男を睨みつけた。目が合った。男はまるで「物」でも眺めているような醒めた目つきをしていた。この視線をキティグは何度か感じた事がある。著しく身分が高い者が下々の者を見下す目。キティグの視線はどんどん下へと下がる。その男の服は繊細な刺繍が施され、靴も丈夫そうだった。
こいつ貴族か? とキティグが思った次の瞬間。厳つい男の口が開かれた。
「私は、ガードの領主ザグゼイン=ガードという者だ。そこのお前、一緒に来てもらおう」
ガード領といえばミッドランド国を構成する12領国の1つである。そんな大貴族が、こんな貧乏人にいったい何の用があるというのだ。
キティグは再びザグゼインの目を見た。キティグは相手の目から感情を推し量る術に長けていた。切れ長の瞳の奥に、わずかに敵意が見えた。
――これは、なにかヤバイ。
キティグは反転し、ザグゼインから逃げようと、踵を返し、地面を思い切り蹴った。刹那、ザグゼインの手が飛んで来て、首根っこを押さえられた。しまった、と思う間もなく、キティグの腹にザグゼインの拳がつきささる。キティグはここで意識を失った。