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ジブリールの家のドアが激しい音をたて、内側に弾けるように開いた。そのドアから殺傷能力の高いサーベルを握りしめた侵入者が二人、家の中に飛びこんできた。ザグゼインの間者の3人は驚きのあまり目と口を大きくあけた。その刹那、手を伸ばすジブリールの脳裏にザグゼインとの会話が蘇ってきた。あれはいつだったか、何年か前のある日、ジブリールはザグゼインに質問をしたのだ。その剣で命のやりとりをしたことはあるか、と。ザグゼインはゆっくりうなずいた。ジブリールは更に聞いた。
『怖かったか?』
『はい。それはもう』
『お前ほどの剣の達人でもか?』
この問いに対する答えをザグゼインは、なかなか答えようとしなかった。
『どうしたザグゼイン。なぜ答えぬ』
『はっ、いえ……。人によるのかもしれません。特に怖いか怖くないか、という話は、剣の腕がどうであろうと、あまり関係ないのだと思います』
この意味不明な言葉にジブリールは首をかしげた。ザグゼインはそのまま続けた。
『初めて剣を向けられた時、どんなに剣の腕が強かったとしても必ず向き合わなければならないものがあります。それは己の正体でございます。剣の達人であろうと、そこを乗り越えられなければ人を斬ることなどできません。ましてや己の身を守ることなどできる筈がございません』
ジブリールは、その言葉をしばらく考えると『己の正体に向き合う、とはどういうことか?』とザグゼインに尋ねた。
『正体とは、つまり、自分の内側にもつ本性とでも申しましょうか。剣を向けられてはじめて人は己の中に潜む心の声を聞きます。恐怖で何も考えられなくなる人間なのか、それとも勇敢に立ち向かう人間なのか。人とは悲しい動物で、その時が訪れるまで、自分の正体を知ることができぬのでございます』
ジブリールは、この時思った。
果たして自分の正体は何者であるのだろう、と。
剣を向けられると恐れおののき逃げ惑うのか、奇声を発し命乞いをするのか、それとも剣を握り勇敢に立ち向かうのか。
壁にたて掛けられたレイピアを握り手元に引き寄せたジブリールは、鞘から刀身を引き抜き、いつものように構えた。
体を半身に構え、レイピアのグリップを片手で軽く握り、膝を曲げ、つま先を“侵入者”に向けた。それはまるで教科書通りの姿勢――の筈だった。だがどうも何かが違う。曲げた膝が上下に震えていた。いや、膝だけではない。レイピアを握る手も、つま先も、体全体がまるでダンスでも踊っているかのように痙攣をおこしていた。
原因など分かる筈がなかった。むせかえるほどの吐き気と共に体中の筋肉が脳の発する指令とは別の動きを始めたのだ。焦りと困惑でジブリールの目に涙がにじんだ。
――どうしてしまったのだ僕の体は!
ジブリールは、その涙を溜めた目で改めて状況を確認する。
この家に入ってきた侵入者は2人。ドアから入ってきた2人だけだ。
窓の外から様子を覗く男は、なぜか家の中に入って来ず、外から家の中の様子を眺めているだけだった。その意図を測りかねたジブリールは極度に混乱し、どこに注意を向けるべきかも分からなくなっていた。
次の瞬間、ドアから入ってきた侵入者の腕がしなり、手に持つサーベルが大きな弧を描いた。すると、目の下にクマのある男の首が勢いよく宙に舞った。一瞬遅れて、男の首から大量の血が噴き出した。
「きゃあああああああああああああああああ」
ミス・バークリーの悲鳴が聞こえた。
鮮血が床や壁や天井に飛び散り、部屋全体が赤黒く染まる。
所々に男の血を浴びたジブリールは、あまりの出来事に無意識のうちに「ひぃい」というひきつった声を発していた。
さきほどまでこの男と普通に話をしていたのだ。体中の皮膚が泡立ち、引きつったジブリールの顔は床に転がった首に向けられた。
『はい殿下。ザグゼイン様は殿下の身を案じ、我らに殿下を常に見守らせていたのです』
男のゆっくりした口調の声が耳の奥で鳴った。まだ彼の名前さえも知らなかった。そして、その首は無言のうちに訴えた。
次はお前の番だ。
胸がこれ以上ないくらいに締め付けられ、うまく息ができなかった。
死ぬのだ、とジブリールは思った。自分はこんな小さな家の片隅でサーベルを持つ悪魔に殺されるのだ、と思った。黒い死神にまとわりつかれた気がした。すると、異常なまでに生に執着する脳みその命令がジブリールの耳に囁いた。
《裏口がある。そこから逃げろ》
脳だけではない、ジブリールの皮膚が、手が、足が、全身が裏口に向けて逃げるように囁いた。ジブリールはほとんど半狂乱になりながら、そこに向かって一目散に駆けた――つもりだった。だが何故かジブリールは走る事ができなかった。不思議と自分の目線が低い事にこの時になってはじめて気付いた。ジブリールは知らぬ間に尻もちをついていた。
だが、脳が発する命令は止まらない。
《裏口に逃げろ。死ぬぞ》
死、というフレーズに痙攣をおこす体が動かされる。
――逃げなきゃ! 逃げなきゃああ!!
ジブリールは手にレイピアを持ち、床に膝をつき、四つん這いの体勢で裏口に向かって全力で逃げた。背後からは二人の男の争う声が聞えた。そのすぐ後に、侵入者らしき男の苦しむ声が聞えた。
――誰かが戦ってくれているのか?
恐らくザグゼインの間者のうちの終始無言の痩せた男が善戦をしているのかもしれない。
ジブリールは、この出来事に感謝をした。そして、こう思った。
この隙に逃げなければ、と。
なんとか裏口まで辿りついたジブリールは、四つん這いになったまま手を伸ばし、裏口のドアの取っ手に手をかけた。
その時、ジブリールはようやく気付いた。窓の外から家の中を覗いていたキツネ目の男。彼には見覚えがあった。
――あれはたしか王子直属部隊の隊長ではなかったか?
ヒンヤリした裏口の取っ手を握るジブリールの手が止まった。
――待てよ……。となると、これは王子直属部隊なのか?
王子直属部隊に命令出来るのは、王子だけである。
この殺しがキティグの命令で行われているのだと真に分かった瞬間だった。
思い切り叫んでキティグを罵倒したかった。少なからず心のどこかでまだキティグを信じていたからだ。裏切られた。そう強く思った。
だが、その時、ふとあることに気付いた。
――たしか王子直属部隊の人数は4人だったはず。
ドアから入ってきた侵入者が2人。窓から中を覗くキツネ目の男が1人。となると、あと1人足りない。取っ手を握るジブリールの手が震えていた。相手が少人数である戦いは包囲が基本戦術である。その程度のことはジブリールでさえ知っていた。
――つまり。
ジブリールは裏口のドアを睨んだ。ドス黒い濃厚な気配が裏口のドアからにじみ出てきた気がした。
――たぶん、この裏口の外に誰かがいる。
ジブリールは、裏口のドアの取っ手からゆっくり手を放した。
この先に居る者は恐らく、王子直属部隊で最も強い者。ここから飛び出したら命はない。
ジブリールは自分の逃げてきた背後を眺めた。そして、自分の置かれた状況を完全に理解した。
詰み、である。
逃げ道はなく、しっかりと包囲されており、前に進んでも、後ろに進んでも同じであった。
ジブリールの瞳から大粒の涙がこぼれた。息はすでに激しく、鼻水が鼻から垂れてきた。ジブリールは本当の意味で死を悟った。後悔しかなかった。なんで王宮から出るなんていう決断を自分は下したのだろうか、とジブリールは思った。引き返すことはできた。いつだって、できた。なのにそうしなかった。自分で自分の首をしめたのだ。
――間違いだったのだ。あの決断は……。
瞳が暗く深い闇に落ちてゆく感じがした。手の感覚も、足の感覚も、地面にめり込んでいるのか、それとも宙に浮いているのかそれさえも分からなかった。あとは死を受け入れる、それだけだった。
すると、先ほどのザグゼインの言葉が不思議と蘇ってきた。
『初めて剣を向けられた時、どんなに剣の腕が強かったとしても必ず向き合わなければならないものがあります』
床にめり込んだ手と膝がわずかに動いた。少しだけ、脳みそが働いた。
――必ず向き合わなければならないもの。
瞳がわずかに暗闇の泥の中から顔を出した。
――向きあう?
剣を向けられた時、人は何を思うだろう。どんな気持ちにさせられるだろう。それは――
――死。死を感じるんだ。
ジブリールの脳裏にこれまでの自分の人生と、そして皆の顔が浮かんだ。ザグゼインの顔。チークの顔。イリーナの顔。亡き兄上の顔、亡き母上の顔、そして、父上の顔。
ザグゼインの言葉が徐々に溶け込み腹におちてゆく。
――死に向きあった時、人は己の本性を知る。
ジブリールは床に手をつき懸命に体を起きあがらせた。体は未だに痙攣していた。
――僕の正体は臆病者だ。
未だに震えが止まらない体を見て、ジブリールはそう思った。だが、こう、も思った。
――僕がその臆病者だからどうだというのだ。
生まれたての小鹿が震えながら立ちあがるように、ジブリールもレイピアを持ち、震えながら立ちあがった。ジブリールは死を濃厚に感じていた。もはや死は免れないだろう、とも思った。だが、だからと言って黙って死を受け入れる気などさらさらなかった。自分は王子なのだと強烈にジブリールは思った。
ミッドランド家の男は簡単に死んではならない。いつも父上が言っていた言葉だった。死ぬことは分かった。
――だが僕は臆病者なんだ。逃げるのが得意なのさ。僕は死から逃げる。絶対に死んでやるもんか。
ここで、もう一人のザグゼインの間者らしき男の声が途絶えた。どうやら死んだらしい。この裏口付近から正面玄関口付近はちょうど死角になって見えなかった。だから、何も分からなかった。全てをジブリールは勘に委ね、向きを反転させた。
瞳には今這ってきた床とその奥で震えるミス・バークリーが見えた。この作戦がジブリールを裏口に追い込む作戦なのであれば、裏口から出る事はやはり危険なように思えたからだ。
ジブリールは、大きく息を吸い、もう一度レイピアを構えた。レイピアの刃先が震えていた。
――神よ。今だけで構いません。このジブリール=ミッドランドに力をお与えください。
ジブリールは一度構えを解き、もう一度構えた。今度はいつもとは違う構えだった。腕を折りたたみ、あとは突くだけという柔軟性のない構え。一度だけザグゼインにこの構えを教わったことがあった。どうしても相手を一撃で仕留めたい時だけに使う構え。もしも、その一撃が外れたならば、あとはどうすることもできない死の構え。狙うのは額。首に刺さっても恐らく反撃されてしまうだろうからだ。
――この一撃に全てを賭ける。
ジブリールは無理やり微笑んだ。死と向き合い、死から逃げる為には、死が最も近い場所につき進まなければならなかった。まだレイピアの刃先が震えていた。
――進め進め進め進め進め進め進め進め進め進め進め進め進め進め進めええええええええええええええええええ!!
レイピアの刃先は震えたままだった。
だがジブリールは地面を蹴った。ジブリールは、獣のように背中を丸め、腕を折り畳んだまま、玄関付近に向かって高速で駆けだした。それは、ほんの一瞬の出来事だった。ジブリールの目に、ザグゼインの間者との戦闘で傷つき腹をおさえる侵入者の姿が飛び込んできた。ジブリールは傷ついていないもう片方の侵入者を見た。ジブリールがそこから飛び出してくると予想していなかった侵入者は、構えもとっておらず、ただサーベルをだらんと垂らしていた。ジブリールは高速で走りながら泣いていた。怖くて泣いていた。だが、死と向き合い、逃げ切る意思がジブリールの腕をこれまでで一番速く振りぬかせた。
――そこ!
ジブリールはレイピアで直属部隊の1人の脳天を一撃で串刺しにすると、そのまま疾風のように玄関から外に飛び出した。それを見たミス・バークリーは追いすがるようにジブリールを追いかけた。
キツネ目の直属部隊の隊長は、その一部始終を見届け、追いかけようとする隊員を制止した。
「まて。今から追いかけても無駄だ」
「しかし」
「命令だ。これ以上は追いかけなくてもよい」
キツネ目の隊長はそこまで言うと、遠くを眺めた。既にジブリールの姿はそこには無かった。
ジブリールは去ってゆく。この場所から、貧民街から、王都から。機会を伺うために去ってゆく。
ジブリールはこう思った。
必ず王子の座を取り戻す、と。
無念のうちに死んだザグゼインの仇をとってやる、と。
だから、今は耐えるのだ、と。




