-プロローグ-
「こんなことも出来ないのかジブリール!」
国王である父上の怒鳴り声が赤の色調で統一された王の間に響いた。
王子なんてもう沢山だ。
金マントを羽織ったジブリールは、直立不動の体勢を維持しながらそんなことを思った。父上に怒鳴られるたびに王宮の外に逃げ出したい気持ちで頭が一杯になった。もうほとんど覚えてはいないが、5年間、ずっとそんなことを思っていた気がする。レイピアの先が頬をかすめた時。食事の味よりも父上の目が気になった時。不出来の王子と囁かれるのを聞いた時。とにかく、いつだってその考えは頭のどこかにあった。もちろん、その考えが限りなく小さくなる時もあるのだが、ふとした拍子に現れ、また、頭を支配する。
それが今だった。
城の外まで届きそうな父上の怒鳴り声で王宮が満たされた。哀れな王子ジブリールは、神妙な面持ちをし、その場をやり過ごす以外に道はなかった。
これが、このミッドランド国の王子であるジブリールの日常であった。
どうしてこんなに父上に怒鳴られるようになったのか、ジブリールはしばしば考える。理由は色々あるだろう。馬を上手く扱う事ができない、貴人としての立ち振る舞いに問題がある、あらゆる学業の成績がよくない、などなど。とにかく父上は、ジブリールが何かで失敗したり、その能力が著しく劣っていると感じるたびに大きな怒鳴り声をあげた。
「王子たる者、尊敬を集めなくてはならない。なのに、お前ときたらその努力を怠っている! もっと気概を見せるのだ!」
そう、大体、こんな理由で怒られるのだ。
人より先へ、人より上へ。
そうであらねば民を導くことなどできない、というのが父上の信念だった。理屈は分かる。父上はそうやって民を支配しているのだ。王族が立派であらねば民は統治に疑問を抱く。それを抱かせない為には尊敬が必要なのだ。だがそれにしても怒られ過ぎだとは思う。この間なんて、歩く歩幅にバラつきがある、という理由で3時間説教された。3時間も、だ。歩き方なんて誰も気にしていないだろうし、バラつきがあったからといってどうだというのだ。でも、そんなこと口が裂けても父上には言えない。そんなちっぽけな理由でさえ王子であるというただそれだけの理由で父上の罵倒の対象になった。だからジブリールは、もはや王子という身分をほうりなげてしまいたかった。それが最も合理的な選択に思えたからだ。
ジブリールは、そんな相談をよく親友のチークにした。
「チークはどう思う? ん? 王子も人だ。そもそも僕には能力がないのだ。弓だって不得意だし、乗馬なんて、そもそも馬が僕を馬鹿にしている。あいつら、人を見るんだ。ザグゼインが乗る時はシュンとしてるくせに、僕が近づくと後ろ足で蹴りあげようとする。僕はそれで何度も死にそうになった。クソッ。いつか絶対にあいつらを屠場送りにしてやる! ああ、話が逸れたな。とにかく王子の件だ。いくら世継ぎであるとはいえ、もう僕は我慢の限界だ。並の王子ならとっくに逃げ出している。なのに、父上は何も言わない。よく頑張っているな、とかそんな言葉すらかけようとしない。おかしいではないか。父上の要求を聞き全力で頑張っている僕に対して怒鳴るだけだなんて。絶対に間違っている。こんな健気な僕を粗略に扱っていいわけがないんだ。なぁチークそう思わないか? この扱いはどう考えても不当だと思うんだ。こんなことならいっそ……」
「キュー……。クゥアクゥア」
当然チークは答えない。鳥だからだ。いや、本当は答えているのかもしれない。だが、肝心の言葉が分からない。でもそんな鳥ぐらいしかジブリールには心を許せる相手がいなかった。王宮にいるのは全て父上の配下の者。心を許してうっかり本音を話すと、それが全て父上の耳に漏れてしまう。そんなことが何度もあった。それからというもの、本音は小鳥のチークにしか話さなくなった。チークであれば何時間も愚痴につきあってくれるし、秘密がもれることもない。時折、チークを籠から出すと、チークはよくジブリールの肩に乗った。こんなときだけはジブリールは王子ではなく、ただのジブリールに戻ることができた。
こんなに良い時間はない。ジブリールはチークと戯れている時、よくそう思った。
きっとこの時から未来は決まっていたのだろう。
だからこそジブリールは思いついたのかもしれない。誰もが想像だにしなかったあんな馬鹿げたことを。
扉がノックされ、チークが肩から離れ籠に戻る。
「失礼します。ザグゼインでございます」
「うむ。入れザグゼイン」
ジブリールがそういうと、筋骨隆々としたザグゼインは扉を狭そうにくぐり部屋の中に入ってきた。
「その顔はどうやら例の男が見つかったらしいなザグゼイン」
「はっ。王都の貧民街にて金貸しの手下をしているみたいでございます。ですが、本当にあの計画を実行なさるので?」
ジブリールは、黙って首を縦に振った。
世の中には自分と同じ顔をした人間が少なくとも3人はいるらしい。中には極々稀に顔も体格も見わけがつかないぐらいそっくりな人もいるのだとか。
ジブリールは思った。もし自分と見分けがつかないくらいそっくりな人がいたら、もしその人物が手に入るのなら、
――僕と、彼の人生は入れ換わるべきだ。