待人 来る【綾視点】
「あ、大吉だ。幸先いいね」
生まれてこのかた末吉くらいの微妙な結果しか見たことのなかった私が、三十路を目前に控えたこの年になってようやく大吉を引き当てた。
こういう縁起のいいことがあると、やっぱり莉子の存在と結び付けて考えてしまう。
「え、いいなー。私中吉だよ。ちょっと見せて」
莉子はそう言い、おみくじを持つ私に身を寄せて来た。
実はこうやって莉子と初詣に来たのは今年が初めてだ。
何年もの付き合いがあっても、『友だち』という間柄ではなかなかやらないこと、行かない場所というものは結構ある。
「え、『待人 来る』?」
「来るって言われてもなぁ。もう来てるのに」
「あはは、だよね」
「莉子は?」
「えーっと……、『待人 来るが遅し』。え、遅いの?」
ここは、いま私たちが暮らしている街のとある小さな神社。
たまに気分転換したくなった時に一人でここに来ることがあるけど、普段は全くと言っていいほど人のいない場所だ。
元日の今日ですら、もう日が落ちているからか人は疎らだ。
「ところで、実家どうだった? 久しぶりに帰ったんでしょ?」
「……まぁ疲れたよ。朝から甥っ子が遊べってうるさくてさ」
「え、甥っ子いいなぁ。私一人っ子だから羨ましい」
「じゃあ今度遊んであげて。筋肉痛覚悟でね」
「……どんな遊び要求されるの」
莉子と顔を合わせたのは4日ぶりだ。
4日というと大した期間でもないのに、会いたい人と会えない時間というのは本当に長く感じる。
片思いだった間もそう感じていたけど、今回ほど長く感じたことはない。
初詣を終えた私たちは、うっすらと雪の積もった歩道を雑談しながら2人で歩いた。
吐き出す息が白い。
ここに越して来てから感じたことのない寒さだ。
「今日、無理言ってごめんね。どうしても元日に一緒に過ごしたくて……」
「私もホントは年越しも一緒にしたかったよ。でも家族がねぇ……」
「家族も大事だからね。綾はすぐ実家戻る?」
「いや、このまま残るよ。こっちでやりたいこともあるし」
「え、そうなの?」
やりたいことというのは、あれからずっと描き進められなかった例の絵のことだ。
実は、実家に帰る前の晩、完成直前まで描き進めていたものを全て真っさらに戻した。
莉子と会うたびに莉子のイメージが変わるからだ。
「まぁ予想通り三が日くらいはゆっくりして行けって言われたけどね。だから莉子が誘ってくれて助かったよ」
「……そっか。じゃあ私もこっちで一泊しようかな。綾と過ごしたい」
「いいけど、お母さんは?」
「したいようにしなさいって。叔母さんも来てるから寂しくないだろうしね」
「羨ましいな。過干渉のうちと違って」
すると、莉子がその場で立ち止まった。
莉子は私の顔を覗き込むようにして斜め下から見上げる。
「またお見合いの話された?」
「それはさせなかった。母親からそういう気配感じるたびに目で訴えてたら何も言われなかったよ」
「え、どんな目付きで?」
「もうやらない。眉間のシワが取れなくなる」
「そっか。もう私たち三十路だもんね」
「いや、まだ一年以上あるから」
こうやって莉子と笑い合うのもずいぶん久しぶりのように感じる。
やっぱり私は莉子の笑顔が好きだ。
「ところで莉子、ホントにこっちで一泊する?」
「どうしようかな。綾が残るなら私もそうしたいような……」
「じゃあさ、とりあえず今日は私の部屋泊まりなよ」
「うん、ありがとう。お母さんに連絡するね」
それから私たちは、アパートの近所の定食屋で一緒に夕食を取ったあと、私の車で私のアパートへ。
到着して部屋を見るなり、莉子はその場で立ち止まってこう言った。
「え、ホントにベッドの位置変えてるし……」
有言実行は私の座右の銘だ。
するつもりのないことは最初から口には出さない。
私は、呆れた口調で言う莉子の言葉を無視して、莉子の身体を後ろから抱きしめた。
「莉子、会いたかったよ」
「……うん、私も。こうやって抱きしめてもらうの久しぶりだなぁ」
莉子は私の方を振り向き、肩に腕を回した。
そのままどちらともなく唇を重ねたあと、私はまた莉子の身体をギュッと抱きしめた。
「やっぱり莉子好きだなぁ。可愛くてたまらない」
「え、いきなりそんなこと言われると照れるんだけど……」
「しばらくこうしてていい?」
「……いいけどさ。綾って時々ヘンだよね」
しばらくそうしたあと、私たちはもう一度キスをした。
少しずつ深いものに変わっていくキスにお互いの呼吸が乱れ始めた頃、私たちはベッドになだれるように倒れ込み、身体を重ね合った。
そもそも、莉子を部屋に泊めると決めた時点でこうなることは分かっていたのだけど。
「結局位置変えたの無駄だったね」
「……もういいよ。毎晩思い出しながら寝る」
「私もそうしたいな。今度は私の部屋でね」
触れるたびに愛しくなっていく唇にもう一度口づけ、汗ばむ肌に手のひらを滑らせる。
離した唇で頬に触れ、首すじに触れ、わざと痕を残すように吸い付く。
そうしているうちに、一度なりを潜めた熱が身体の奥から再び姿を見せ始めた。
「……ふふ、2回戦? 別にいいけど」
「ごめん。なんかもう手放したくない……」
ーー
肌を重ねるたびに莉子への想いが強くなる。
ひと時でも離れたくない。
このままずっとこうしていたい。
「……なんか、どんどん好きになっていくね」
「うん。もうちょっとこうしてたい」
「ここなら料金かからないもんね」
「……またか。莉子はお金の話ばっかりだなぁ」
「もう職業病だから仕方ないんだよ」
でも、莉子がこうやって現実に引き戻してくれるのは正直ありがたい。
もし相手が私と同じタイプだったら、どんどん深みにハマって抜け出せなくなっていたところだ。
今ですら結構危ないくらいハマっているのに、これ以上となると一体私はどうなっていたんだろう。
「そうだ莉子、今月末あたりヒマな日ある?」
「うん、今のところ予定ないからいつでも空くよ」
「じゃあさ、例のスナック連れてっていい?」
「え! ホントに連れてってくれるの?」
「うん。年末忙しくて行けなかったから私も行きたいんだ」
ーー
そして月末の土曜。
私は、車の助手席に莉子を乗せて、雪景色のなか高速を走っていた。
実は、莉子と付き合い始めた頃から、莉子を朱美さんに会わせたいと思っていたのだ。
その理由はもちろん莉子には話していない。
少し莉子を驚かせてやりたいからだ。
「こっちって結構雪積もるんだね。そんなに離れてないのに」
「地形の問題なんじゃないかな。山挟んでるからね」
「あ、綾はスキーとかやる?」
「昔ちょっとスノボやってたよ」
「え、今度教えて!」
「いいよ。でもその前に絵ね」
「……あ、はい」
あと数区間で高速を降りるところに差し掛かった時、一度パーキングエリアで休憩を取ろうということになった。
一緒に旅行に出掛ける機会の多い莉子とは、こういう場所で一緒に土産物を物色する機会も多い。
莉子が選ぶものは大体その土地の名産品。
会社で親しい人にお土産を配るのが好きらしい。
私はいつもその土地とは無関係なオブジェを手に取り、莉子の突っ込みを待つ。
「またヘンなもの買おうとしてる……。なに、カエル? 綾ってそういうの好きだよね」
「なんかコレクションしたくなるんだよね。こういう無意味な小物って」
「机にいっぱい並んでるよね。見てて面白いけどさ」
私は、会社から持ち帰った仕事をするための机にこういう土産物を並べている。
仕事に行き詰まった時、それらを見ながら、これは誰と出掛けた時にどこで買った……とか、その時の思い出を振り返りながらイメージが湧くのを待つ。
過去に付き合った相手との思い出も捨てずに並べてあるけど、それら全てを合わせた数よりも莉子一人との思い出の方が圧倒的に多い。
このカエルの隣にあったイモムシのオブジェは視界に入らなかった。莉子の視界にも入らなかったのは幸いだった。
予約を入れた旅館は、実家から少し離れた温泉地だ。
目的のスナックは、この旅館から車で10分程度の歓楽街にある。
一応、お酒を飲むことを想定してタクシーを使うつもりでいる。もちろん飲み過ぎるつもりはない。
「まだ4時か。ちょっと外回ってみる? 寒いけど」
「開店は何時?」
「6時。夕食終わってからだと少し過ぎるかもね」
腕時計を確認しながら窓の外を見る。
少し薄暗くなった曇り空から雪がちらついている。
視線を莉子の顔に移した時、ガラステーブルの対面に座る莉子が少し不安そうな顔をした。
「……ねぇ、ちょっと心配してることがあるんだけど」
「ん? なに?」
「綾のお母さんと鉢合わせる可能性ってない? お母さんもよく遊びに行くんでしょ?」
莉子の不安は想定内だった。
娘が実家に黙ってここに来ていると母親が知れば面倒なことになるのは間違いない。
この日を選んだのはそれを避けるためだ。
「それは大丈夫。今日は県外に旅行に行ってるはずだから」
「そうなの?」
「うん。年末にそう言ってた。だからこの日にしたんだよ」
私たちの住む街よりも雪深い景色の中を、2人で「やっぱり寒いね」などと言い合いながら歩き、土産物屋の前を通りかかるたびにその足を止める。
この近くにはスキー場があり、この辺の旅館を利用するスキー客も多い。2人で歩いていると、ウェアを着込んで、手にスキー板やボードを持った人たちとすれ違う。
「ねぇ、綾はどんな色のウェア着てたの?」
「聞くまでもないよね」
「あ、だったら私はオレンジか」
「え、ホントにボードやるつもり?」
散策から旅館へ戻り、夕食を取り終えたあと、私たちは旅館に呼んでもらったタクシーに乗り込んだ。
午後6時15分。
いつも旅行の時はゆっくり楽しんでいる夕食も、今日は気が急いていたのか2人とも自然と早く食べ終えた。
窓の外の景色が、子どもの頃から慣れ親しんできた景色に変わっていく。
学生時代に何度も通っていた歓楽街は、今日もその時の記憶と全く変わらない色を寒空の下に煌めかせていた。
「朱美さん、こんばんは」
「あら、綾ちゃん!?」
顔を合わせると安心させてくれる人。
「待ってたのよー。会えて嬉しいわ」
人が苦手な私があの仕事を続けていたのは、ここにこの人がいつも居てくれるからだ。