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青とオレンジの記憶  作者: 春山 灘
2/20

逆転現象【綾視点】

私が莉子と初めてまともに会話を交わした場所。

それがここ、会社の女子トイレだ。


あれは入社から3ヶ月が過ぎた頃のことだった。


私がトイレのドアを開けると、ハンカチで手を拭いながら鏡を見ている莉子の姿があった。


「おつかれさまです」

「あ、おつかれさまです」


お互いに挨拶を交わし、莉子は私に笑顔を向けて会釈した。


当時は本当に赤の他人だった。

ただの同期というだけで普段から接点は全くなく、会社で顔を合わせた時に挨拶を交わすだけの間柄。


私は人見知りが強いせいか、人を寄せ付けないようにと無意識に気を張りすぎるところがあるらしい。本当の私を知らない人は好んで私に近付こうとしない。これは古い友人からの指摘で知ったことだ。


当時から人懐っこいイメージのあった莉子も、私にはどこか壁を作っているように感じた。


そして。

その莉子が鏡を見ている後ろでトイレの個室に入ろうとした時。


どこから入ってきたのか、緑色の小さな青虫が床を這いずっていたのだ。


「い、いやー! イモムシっ!」

「えっ!? イモムシ?」


私の奇声を聞いた莉子が後ろから顔を出し、私を押しのけるようにして床に視線を向けた。


私は昔から虫の絵を描くのが好きで、近所の男の子たちと虫捕りに行っては家で観察しながら絵を描くような子どもだった。


でも、この蛇を思わせる姿だけはどうにも苦手で、いつも男の子たちにからかわれていた。


どうにか苦手を克服しようと図鑑を凝視したりもしたけど、鳥肌が立つだけで一向に好きになる気配はなく、結局その後もこの造形だけは受け入れられなかった。


「え、ちょっと、なんでこんなところにいるの!? トイレ入れないじゃん!」

「ほんとだ。どっから入って来たんだろ?」

「うわっ、いやぁー!! 転がってる! のたうち回ってるよ! ちょっと待って私ムリ!」


取り乱して声を上げる私を見て、隣にいる莉子がクスクス笑い出した。


これまで生きて来て、大体人と仲良くなるきっかけはこんな感じだった。「ギャップに惚れる」という言葉、今までに何度聞いたことか。


「なんか意外。桜木さん、案外かわいいんだね」

「え、だってイモムシ怖い……。真下さん平気なの?」

「ちょっと気持ち悪いけど、こんなちっちゃいのは別に平気」


莉子はそう言いながらポケットティッシュを一枚取り出し、床を這っているイモムシをそっと包んだあと、窓の外にイモムシだけをポイッと投げた。


普通はこれくらいのことができるものなのだろうか。むしろ女性なら私のような反応が一般的だと思い込んでいたから、莉子の冷静なこの行動には心底驚いた。


「う、うわぁ……。ティッシュ1枚で……真下さんすごい、尊敬するわ……」

「とても尊敬してるって顔じゃないね……」


それからだ。

莉子は顔を合わせるたびに「おつかれさまです、イモムシさん」と私をからかうようになった。


あのイモムシの一件がなければ、今も私は莉子を“その他大勢”に分類したままだったに違いない。


もう6年も前のことを思い出し、鏡を見ながら一人で微笑む。


そして、違う課の女性がドアから入ってきたタイミングで、私はハンカチをポケットに入れ、その場を後にした。


あれ以来急激に距離を縮めた私たちは、会社で会話を交わすだけではなく、プライベートの時間も一緒に過ごすようになった。


会社帰りの食事はもちろん、休日に一緒に出かけることも。


一応、デザイナーの端くれである私は、会社を離れた時もインスピレーションを刺激されるものに触れようとする癖が付いている。


出かけた先で珍しい動植物に出会ったり、心を洗われるような景色を見た時には、それを記憶に留めると同時に写真に収めている。


出会った年の秋、莉子の運転で紅葉狩りに出かけた。


この日も私は、最初のボーナスで買った一眼レフを手に取り、河原の砂利の上で紅く染まった景色にレンズを向けていた。


「ねぇ、今度綾の絵が見たいな」


莉子が私の横でしゃがみ込み、小石をいじりながら言った。


私の真似をしているのか、莉子は手のひらに乗せた小石にスマホを向け、「この石面白いなぁ」などと言いながら写真を撮っている。


「いつか見せてね」

「人に見せるようなものじゃないよ。大したもの描いてないし」

「そう? でも見たい」

「まぁ、機会があったらね」


結局その日の夜、莉子の希望で私の部屋で過ごすことになった。


「絵が見たい!」と何度もせがんでくる莉子に負け、就職を機に引っ越してきたアパートの押入れを開けた。


子どもの頃から毎日のように絵を描いていた何冊ものスケッチブックや、高校時代に通っていた絵画教室で描いた油彩の静物画。


それから、練習のためにひたすらデッサンした何枚ものコピー用紙。


それらを押入れの奥から引っ張り出し、カーペットの上に広げる。


莉子は目の前に広げられた絵にざっと目を通し、しばらくして顔を上げた。


「ねぇ、これ全部綾が描いたの?」

「そうだよ」

「すごい、プロじゃん! びっくりしたー。こんなに上手なんだ」

「一応、プロ目指してたからね。まぁ結局、方向性変わっちゃったけど」

「今からでも方向転換したら? もったいないよ」


莉子は話しながら年季の入ったスケッチブックを次々とめくり、「すごい!」を連発している。


もちろん、悪い気はしなかった。

真剣に私の絵に見入っている莉子の隣で、私は表情豊かな莉子の顔をこっそりと見つめていた。


すると突然、莉子が何かを思い付いた様子で顔を上げた。


「ねぇ、今度私の絵描いて! 必要なら脱ぐから!」


何やらとんでもないことを言い出す莉子。

その勢いに少しうろたえてしまう私。


「い、いや、人物画は苦手だから……」

「……へー、綾ってすごいんだね。そんな顔してこんな才能まであるなんて。ますます惚れたよ」


この何気ない一言にドキッとしてしまった。


他意がないことは当然わかっている。

頭では分かっていても心が勝手に動く。


正直、莉子の顔は私の好みだった。

同じ女性に恋心を抱いた経験はないけど、一応顔の好みというものはある。


たぶんそのせいだろう。

別に同性にドキッとするなんて珍しいことではない。


……と、あの時は思っていた。


ーー


あれは入社1年目の冬。

仕事が立て込み、残業続きだったある日の夕方のことだ。


「桜木さん、急で悪いんだけど、この仕事先に頼める?」


パソコンを操作していた手を止め、課長の声に振り向く。


デザイン課の真野まの課長は40代の女性。

入社当初から私が密かに目標にしている人だ。


課長に引き受ける旨の返事をすると、課長はパーテーションに身を隠すようにして小声で話し始めた。


「……他の人には黙っててね。これ、以前他の人が担当したものなんだけど、あなたに修正を頼みたいのよ」

「修正ですか?」

「そう。ここに詳細が載ってるから、この条件を満たすように」


課長から渡された仕様変更書に軽く目を通す。

表紙をめくると、見覚えのある猫のインテリアのデザイン画が載っていた。


これはたしか、最近デザイン課から異動になった人が企画を手がけたものだ。


「ラフ画で構わないから、できたらすぐに提出して」


課長が戻ったあと、私はもう一度仕様変更書に目を通した。


そして、その指示通り、全体的にシャープな形状の尖った部分を削り、丸みを持たせたものに描き換える。


ラフ画が出来上がった頃、時計の針は午後8時を過ぎていた。


出来上がったものを課長に提出したあと、小休止を取ろうと休憩室へ。


15分ほどの休憩ののち、中断していた仕事に取り掛かるために再び事務所へ向かった。


そして、消灯された廊下を歩き、事務所の前に差し掛かった時だ。

換気のために少し開けられた磨りガラスの向こうから話し声がした。


「これ。どうかしら?」

「ほー……。いいんじゃないか? これ描いたの誰だ?」

「桜木さん。さすがに前評判が凄かっただけあるわよね。センスがずば抜けてる」


ドアノブに触れる直前、自分の名前が出たことで咄嗟に手を止めた。


声の主は、真野課長と莉子の所属する商品開発課の小山こやま課長。真野課長は、私が描いたラフ画を小山課長に見せているようだ。


「しかし今年の新人はすごいな。真下といい桜木といい」

「そうね。あの2人は他とはちょっと違う。……ところで、なんで今さら修正? もう商品化決まったんじゃなかった?」

「あぁ、説明が遅れてすまん。実はこの前、真下がな……」


今度は莉子の名前。

自分のことのように気になり、暗い廊下で課長たちの会話に聞き耳を立てた。

自分たちのことを話しているとなれば、それを聞きたくなるのは当然だ。


「この前の開発会議の時、今さらこの品物にケチ付けやがったんだ。まだ入社一年も経たないペーペーだってのに。度胸あるよなぁ」

「どこに問題があったの?」

「根本的な構造にだよ。『この形状じゃ子どもが遊んだときに怪我をする』ってな」

「……ふぅん。それから?」

「長い時間かけてやっと日の目を見るって時にイチからやり直せるか? 当然周りは大反対だったよ。でもな……」


私は、この会話の内容に一人で驚いていた。

莉子はたしかに、プライベートで接している時も私を押しのけて意見することがある。


そして、大抵その意見に間違いはない。


「あいつ、熱意だけで周りをねじ伏せやがった。どうかしてるよ」


何か胸に込み上げてくるものがあり、いつの間にか涙目になっている自分に気付く。


「なるほどね。……で、あなたは黙って見てたの?」

「まぁな。若者には敵わん」


課長たちが会話を終えたタイミングを見計らい、私は事務所のドアをそっと開いた。


そして、「お疲れ様です」と会釈して自分の席へ向かおうとした時。


「桜木さん」


腕を組んだ真野課長が私の名を呼んだ。


「もう帰りなさい。あなたの欠点は真面目過ぎるところね」


ーー


莉子を見る目が変わったのはこの時からだった。


昔から取っつきにくいと言われがちだった私は、それまで莉子ほど心を許せる友人はいなかった。


一緒にいて全く気を使わなくていいし、それでいてお互いのことをきちんと思いやれる。


そんな関係が本当に心地よくて、その日の終わりに莉子と別れる時、友だちなのに離れるのが嫌だと何度も思った。


そして、あの出来事で、莉子への気持ちに気付いてしまった。私がそれまで莉子に抱いていたのは、単なる友情や憧れではなかった。


それが恋心なんだと気付いてからは、何年もの間ずっと自分の感情を殺しながら莉子と過ごしてきた。


何度もその手に触れたいと思った。

でも、思えば思うほど意識してしまって、無難なスキンシップすら素直にできなくなった。


私は、この先ずっとこの思いを抱えたまま、莉子が誰かと一緒になるのを傍観しなければならないのだろうか。


そうやって未来を悲観していたある日、実家の母から一本の電話が入った。


『綾、次の日曜って暇?』

「うん。別に予定はないけど」

『じゃあ、こっち帰って来なさい』

「……え? なんでまた急に?」

『いやぁ、あんた彼氏できた?』

「えっ? ……いないって。今そんな暇ないから」


母から電話が来る時は、何か他に用件があった場合でも、最後は必ず私の結婚の話がメインになる。


正直なところ私はそれを負担に感じていて、時々着信を無視してメールでやり過ごすこともあった。


『そうやって仕事仕事ってやってると婚期逃すよ? だから私がなんとかしてやろうと思ってさ』


今回の電話は、用件がまさにそれだった。


それもこの口ぶり。

どうやら、ついに私に充てがう相手を用意してしまったようだ。


「……余計なお世話だよ。ほっといてくれない?」

『とにかく日曜、帰って来なさい。もう約束しちゃったんだから』


母はそのままブツッと電話を切った。


大きくため息をつき、頭を抱える。


見合いをするなどと莉子に伝えたら、莉子はどんな反応を見せるだろう。


自分のことのように喜んで私を応援するだろうか。それともーー


ーー


「そういえば桜木さん、寝言で真下さんの名前呼んでたわよ。……もしかして、あなたが付き合ってたり?」

「い、いえ! 違いますよ!」


ぼんやりした頭に莉子の声が響いた。


頭全体がドクドクと脈打って顔が熱い。


隣で私の身体を支えてくれているのは同僚の横山さんだろうか。


ここで思い出した。

私は一次会で飲めないはずの酒を煽り、今まで意識を失っていたのだ。


「あはは、冗談よ。でも桜木さんだったら全然アリだと思うなぁ。……あ、早く連れて帰ってあげて。気を付けてね」

「はい、ありがとうございました」


何か言わなくてはと口を開こうとした時、意識が再び遠退き始めた。


次に意識が戻った時には、私は莉子を抱きしめ、耳元でこう呟いていた。


「好きだよ」


ぼんやりした意識の中で、自分が口に出した言葉が自分の胸の鼓動を煽った。


鼓動に突き動かされるように身体が動いて、腕が目の前の細い身体を締め付ける。


「聞かなかったことにするね」


今度は自分の胸が締め付けられた。

腕の力が抜けて行く。



その後の記憶はない。


後から莉子に聞いたところによると、私はあのあと莉子を無理矢理なんとかしようとしたらしい。


我ながら愚か過ぎると思った。あれだけ抑えて来た願望を無意識の自分に晒されてしまうとは。


莉子は許してくれたけど、いくら好意を持っている相手だとしても、意思の疎通もしないまま無理矢理自分を組み伏せた相手を許せるものなのだろうか。


「ねぇ綾、次の3連休ヒマ?」


テーブルを挟んだ向かいの莉子が、手元の雑誌をパラパラとめくりながら私に尋ねた。


ここは会社近くの喫茶店。

昼休みに2人でここを訪れることは珍しくない。


とりあえず、この顔を見る限りは心配は要らなさそうだ。私が意識しすぎているだけかも知れない。


「ヒマだよ。温泉行く?」

「うん、行きたい。この雑誌に良さそうな旅館載ってるよ」


大きな窓から降り注ぐ日差しは穏やかだ。

そろそろ本格的な秋を迎えようとしている今の気候は、温泉旅行にはちょうどいい。


「けど、こんな直前に予約取れるかな?」

「待って、調べてみる」


莉子は隣の椅子に置いたバッグから携帯を取り出した。

莉子が予約状況を確認している正面で、私はまた物思いに耽っていた。


お互いの想いを確認し終えた今、泊まりで出掛けるとなれば、自然とそういう状況になる。


たぶん莉子もそういうつもりなんだろう。

脳が独りでに妄想を始め、急に顔が熱くなった。


「あ、奇跡的に一部屋空いてた。迷ってるヒマないね。予約するよ?」

「あ、うん」

「一泊二食付きで17,200円。ちょっと高いけどここなら妥当だね。異議は?」

「なし」

「よし、完了。車は綾に出してもらっていい? 古すぎて最近エアコン効かなくてさ」

「いいよ。予約ありがと」

「いえいえ。よろしくね」


莉子のこの決断力は本当に見習いたい。

それは当然仕事にも活かされていて、莉子のいる商品開発課の色んな人から莉子の噂を聞く。


商品化直前で企画案を覆したあの一件も、仕事に妥協を許さない莉子だからこそできたこと。


『置物』というジャンルの商品が爆発的に売れることはないけど、件の商品は同じシリーズの商品の中でも売り上げが突出しているらしい。これは莉子の判断がなければ実現しなかったことだ。


私はそんな同期に羨望の眼差しを向けていた。


それがいつしか恋慕に変わり、信じられないことに今は交際相手となった。


その莉子との温泉旅行。

もう何度も2人で行っているはずだけど、今回ばかりは特別なものになりそうだ。


ーー


ひとしきり観光を終え、予約した旅館に到着した。


窓の外の景色を一番に確認するのは私たちの習慣だ。たぶん、そういう人は多いと思う。


窓のそばには、木製の丸テーブルと、それを挟んで2脚の座椅子が置いてある。


私が座椅子に座ると、莉子も向かいの座椅子に座った。


そして莉子は、バッグから取り出した紙袋を開け、観光先の雑貨店で買った商品をテーブルの上に並べ始めた。


「これ、後で全部綾にあげる。こういうの好きだもんね」

「え、ありがとう」


莉子は猿やらカピバラやらを一つ一つ手に取って、何やらぶつぶつと感想を口に出している。


「質感はいいんだけど構造が脆いね。もう少し詰めた方がいいと思うな。デザイナー的にデザインはどう?」

「……まぁ、無難なんじゃないかな。一般受けは狙えてると思うよ。面白みはないけど」

「なるほどね。その点こっちは……」


真剣な眼差しを雑貨に向ける莉子。

テーブルの上の変な生き物たちに少し嫉妬心を覚えた私は、再度私の意見を求めてきた莉子を軽くたしなめた。


「ねぇ莉子、旅行の時にまで仕事の話やめようよ……」

「え? 綾だって写真撮りまくってたでしょ? 人のこと言えない」

「……う。写真はSNSに載せるためだよ」

「SNSやってないクセに。たまの冗談下手だよねぇ、相変わらず」


クスクスと笑い始めた莉子につられて私も吹き出した。


窓の外に広がる海にもうすぐ日が落ちる。


「まぁでも、今回の旅行はいつもと違うしね」

「あ、……うん。気にしてないのかと思った。いつも通りだから」

「ごめんね、つい癖でさ……。仕事が好きなんだよ、たぶん」

「うん。そういう莉子も好きだよ」


莉子のあっけに取られた顔を見た瞬間、自分の言葉を再確認して顔から火が吹き出した。


こういう流れで『好き』と口に出すのは別に珍しいことではなかった。


ただ、今回は状況が違う。

今までの『好き』に、これまで隠していたもう一つの意味が加わっているのだ。


莉子も同じことを思ったらしく、照れ笑いみたいな表情を見せて私から視線を逸らした。


「綾、素直だったよね。今思えば」

「あ、いや、まぁ、うん。そうかもね。はぁ……」

「綾から好きって言われるの、実は前から嬉しかったんだよ」

「……あ、うん」

「けど、なんか今言われるとちょっと照れるな。もちろん嬉しいんだけどさ」

「嬉しいならいいや。本音だし」


その後の夕食の味はほとんど覚えていない。


普段は食べられない豪華な料理を莉子は大喜びで食べていたけど、私はその表情を見つめることでお腹が満たされた。


「料理美味しかったー! またここ来たいな。いい?」

「いいよ。いつでも誘って」

「うん。『また行きたい旅館』増えたね。楽しいなぁ」


これから待っているのは、入浴、就寝。


そのことばかりに気を取られている自分に気付き、目の前ではしゃいでいる莉子に申し訳ない気持ちが湧く。


「ね、温泉。早く行こ」

「そんなに慌てないで。温泉は逃げないよ」

「だって……」

「なに?」

「早く部屋で2人きりになりたいの。……ね?」


そして、案外一方的な気持ちではなかったのだということを知って少し安心した。


ーー


これまで一緒に入浴する機会は何度もあったけど、莉子の身体にいやらしい目を向けることはなかった。


意識的にそうしていた訳ではなく、入浴という裸が当たり前の状況ではそういう気持ちが湧かない。


逆に、今みたいに浴衣を身に着けた状態で隣の布団から話しかけてくる莉子には毎回参らされていた。


莉子は浴衣がはだけることに無頓着で、毎回何かの拍子に際どい部分まで肌を露出させる。


「ねぇ、明日この店に食べに行かない? 綾が好きそう」


そして、そんな状態で、手に持っている雑誌を私に見せようと横にスペースを空ける。


今回はさすがに我慢できそうにない。


私は遠慮なく莉子の布団に足を入れ、肩を触れ合わせた。


「あ、美味しそうだね。じゃあ明日のお昼そこ行こう。混んでないといいけど」

「じゃあ第二候補も探そっか。……んー、さっきのページに良さそうな店が……」


私は、雑誌のページをめくっている莉子の手にそっと触れた。


莉子は手を止め、私に肩を寄せる。


滑らかな手を優しく握ると、莉子は私の気持ちを察したように雑誌を閉じ、遠慮気味に触れている私の手を両手で握り返して来た。


「すべすべだね。綾の手、好きだな……」


指の間に絡まる指と、鼻をくすぐる石鹸の匂いに、気持ちの高ぶりが増していく。


浴衣の襟から覗く柔らかそうな胸を見た時、私は衝動を抑え切れなくなって莉子の身体を押し倒した。


莉子は拒絶することなく私に身体を任せ、少し赤らめた顔で潤んだ視線を私に向けた。


「莉子……」


私は莉子の頬に触れた手の指先で唇をなぞり、同時に自分の唇をそこに押し当てた。


唇に触れた柔らかな感触が私の理性を完全に奪った。


莉子の両腕に頭を抱き込まれ、触れ合うだけのキスが少しずつ深いものに変わっていく。


身体を支えていた手で浴衣の襟をずらし、離した唇をそこに移すと、息を上げている莉子の身体に少し力が入った。


「……待って、綾……。電気消したい」

「イヤだよ……。顔見てたい」

「そういう顔見られるの恥ずかしいから……」


莉子の言葉に更に熱が増し、訴えを無視して首すじに口付ける。


「……もう、別人みたい……」


言葉らしい言葉はそこで途切れ、私たちはお互いだけを夢中で求め合った。


ーー


翌朝。


目覚ましの音で目を覚ますと、隣で莉子が静かに寝息を立てていた。


珍しいこともあるものだと莉子の寝顔を見つめていると、数分も待たずにその瞼がゆっくりと開いた。


そういえば、これまで莉子の寝起きの顔を見た記憶がない。これが初めてだ。


「起きた? おはよう」

「……おはよう。綾より遅く起きちゃったね」

「珍しいね。いつも早いのに。……疲れさせた?」

「ふふ。大丈夫。もうやめようと思って」

「……ん? 何を?」

「先に起きて綾の寝顔を見ること」


莉子はいちいち私の心をくすぐってくる。


きっと今の私の顔は赤い。無駄だと思いつつ、それを隠すために莉子から顔を背けた。


「……今まで、その為に先に起きてたの?」

「っていうか、身体が勝手に起きてた。私も本来寝起き悪いんだよ。でも綾が一緒だと……ね」


莉子はそう言い、私に身体を寄せて来た。

そして、自然な動作で私の頬に触れ、躊躇いなく唇を重ねた。


昨夜の出来事が脳裏に浮かび、顔が火照る。


でも、一度結ばれたことで長年の想いが満たされたからか、莉子に対する衝動は湧いて来なかった。


「……ねぇ綾、お願いがあるんだけど」

「なに?」

「私の絵を描いて欲しいの。前にも頼んだことあったよね? あんまり乗り気じゃなさそうだったけど」


改まってそう言い出した莉子は、まだ寝ぼけたままの顔で私の目を見つめていた。


もちろん、その時の会話は覚えている。

答えをしぶりながらも、実はあれから莉子をイメージして何度も筆を執った。


でも、元々人物画が苦手なこともあってか、なかなかイメージ通りに筆が進まない。


そして、莉子への思いを自覚した頃から、私は挑戦することをやめた。


「んー、人物画は苦手なんだよね。もともと工業デザイン専門だし……」

「抽象的なデザインでいいんだよ。私をどうイメージしてるか興味あるんだ」

「抽象画でいいの?」

「うん。……で、それをこっそり商品化できたら面白いよね。今度のプレゼンまでに描いて来てよ」

「……はぁ、結局仕事の話かぁ」


もしかしたら、巷で出回っているものの中にも、誰かが誰かを想いながら作ったものがあるのかも知れない。


日常で何気なく使っているものにもそんなドラマがあるのかも知れない。


それはそれでロマンチックな話だと思う。

でも、本当のロマンチストは別のことを考える。


「面白いと思うけどさ、それはやめとく。絶対」

「え、なんで?」

「莉子のイメージなんて私だけが知ってればいいの。他の誰の目にも触れさせたくない。っていうか触れさせない」


そうキッパリ言い切る私を見て、莉子は口元を綻ばせた。

顔が少し赤くなっている。


「あれ? 綾、顔赤くないね?」


莉子は私をからかうようにそう言う。

照れ隠しの仕草にキュッと胸が締め付けられ、横に寝転ぶ莉子の身体を思わず抱きしめた。


「逆転現象だね。莉子には負けないよ」





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