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青とオレンジの記憶  作者: 春山 灘
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佐古田慶一郎【綾視点】

「……もしもし?」

『すみません、桜木綾さんの携帯ですか?』

「……はい、そうですけど」

『あぁ、良かった。綾、久しぶり。佐古田さこただけど覚えてる?』


名前と声が頭の中で繋がる。

懐かしさで胸が高鳴り、声のトーンが少し上がる。


「佐古田……って、慶?」

『うん。まぁ忘れる訳ないよな』

「え……、なんで? どうしたの?」

『結婚した?』

「してないよ。慶は?」

『俺もまだ』

「……え、どうしたの急に?」

『いや、どうしてるかなーと思って』


電話の相手は、私が大学時代に付き合っていた元恋人、佐古田慶一郎(けいいちろう)


付き合っていた当時、私はこの人のことを『慶』の愛称で呼んでいた。


慶はスポーツが得意で、趣味はサッカー。

当時は彼が所属していたアマチュアチームの試合をよく観に行っていた。


『でもホント懐かしいな。あれからもう6年か』


落ち着きのある低い声が耳元から胸に響く。


あの時の澄んだ青空と、ユニフォームの鮮やかな青が鮮明に蘇ってくる。


ワールドカップで日本中が沸いていた時、一緒に街に出て大きなモニターを見ながら応援していたのを思い出す。


慶と過ごした大学時代の記憶は青一色。

莉子がオレンジなら、慶は青。

人に色を当てはめるのは当時からの癖だった。


「慶はまだ学生?」

『いや、去年就職した。やっと軌道に乗ったところだよ』


聞くと、慶が就職を決めた先は大手時計メーカーの設計開発部。

工学部でも優秀だった彼には相応しい就職先だ。


『でさ、今度会えないか? 久しぶりに食事でもどう?』


懐かしさに、つい『うん』と答えてしまいそうになった。

でも、今の私には莉子がいる。

慶と会うことで莉子を傷付けたくはない。


「うーん……。今付き合ってる相手がいるんだ。昔のこととはいえ、前に付き合ってた人と会うことはできないな」

『……まぁ、フリーだとは思ってなかったけど。じゃあ、今言うわ。俺と結婚前提に付き合って欲しい。やり直したい』


ドキッと、胸が跳ねた。

単刀直入にこういうことを言うところは6年前と変わっていない。


「……え? だから無理だって。今相手いるから」

『相手どんなヤツ?』

「会社の同期」

『どれくらい付き合ってる?』

「4ヶ月」

『そっか。じゃあまだどうなるか分からないな』

「……どういう意味?」

『そんな怖い声出すなよな。まぁ、俺は綾が結婚するまでは諦めないよ。ずっと待ってる』


往生際が悪いところも昔から変わっていない。

でも、私は当時、彼のこういうところを長所として見ていた。


『多少の困難には屈しない』。

そうやって好意的に見ていたのだ。


恋は盲目、ということだろうか。


「待っても無駄だよ。私はあの人と一生添い遂げる」

『その時期って一番浮ついてる時だろ? そんなんアテにならない。どうにでも変わるよ』

「それは……」


痛いところを突かれた気がした。

慶の言う通り、この先莉子がずっと私を想っていてくれる保証はない。


私も時々、子どもが好きな莉子は結婚して子どもを産んだ方が幸せなのではないか、と考えてしまう。


そう考えるたびに胸が痛み、不安に苛まれていたのは確かだ。


『俺たち何年付き合ったっけ?』

「私が大学入ってからだから……4年くらい?」

『だよな。俺と別れたくて別れた?』


別れの場面を思い出し、また胸を痛める。


あの時の別れはお互いに望んでのことではなかった。


私は就職で遠方に引っ越し、地元に残った慶と遠距離恋愛を続けた。このまま続けて行けると思っていた。


でも、ありがちなことだ。

環境の変化ですれ違いが多くなり、結局私たちは別離の道を選んだ。


「いや……、やむを得なかったから。本当は、私はずっと……」

『続けて行きたかったんだろ? 俺もあの時は悪かった。卑屈になってた』

「こっちこそごめん……。慣れない環境に疲れててさ。慶の気持ちまで考える余裕なくなってたんだ」

『綾は昔から一人で抱え込む性格だったからな。未だに治ってないだろ?』

「人の性格なんてそう簡単に変わるもんじゃないよ」


それから私たちは、6年の空白を埋めるように取り留めなく会話を交わし、気付いた時には、電話が来てから2時間が経っていた。


『まぁ、俺は綾の気が変わるまで待ってる』

「一応言っとくよ。慶には他の人と幸せになって欲しい」

『……綾は一度決めたら折れないもんな。でも俺もそうだから。知ってるだろ?』


私は、慶からかかってきた2度目の電話にも躊躇うことなく応じた。


慶の声を聞きながら作業机の上に並べてある小物を眺め、その中の一つを手に取る。


『あの時の旅行さ、一回電車間違ったよな?』

「うん、思い出した。あれは大変だったね」


手のひらに乗せた小物を見ながら、あの旅行の記憶をたぐり寄せる。


慶との思い出を机の上に戻したあと、その手前にある沢山の思い出たちを見て、じんわりと温まっていた胸にチクリとした痛みを感じた。


本物の羽で作られた鳥、毛並みのいいうさぎ、光沢のあるカエル、なんか丸いもの。


この、ただ白いだけの『なんか丸いもの』を見た瞬間、胸に感じていたチクリとした痛みがズキッと重いものに変わった。


『まーたヘンなの買おうとしてる。なにそのなんか丸いの』

『正体不明の方が作者の意図を色々想像できて楽しくない?』

『私はそういう脳みそ持ってないから分かんないよ。でも丸ってさ……』

『ん?』

『どこまで行っても終わりがないよね。あっけない人生と違ってさ』


今の私には莉子がいる。

莉子との別れは考えられない。


私はこの先、慶との関係を完全に終わらせなければならない時を迎える。

でもそうしなければ、莉子とこのまま一緒にいることもできない。


そう考え始めた時、耳元から聞こえる慶の声が霞んで行くのを感じた。


「あ、ごめん慶。明日仕事だからそろそろ寝るよ」

『分かった。また連絡する。おやすみ』


その後も私は、時々かかってくる電話に密かに胸を弾ませ、当時の清々しい記憶と耳元に流れる慶の心地よい声とを重ねて、過去の恋に想いを馳せていた。


『懐かしいなぁ。あの頃はサッカー命だったな』

「だね。でもサッカーしてる時の真剣な顔も好きだったよ」


絶対に登録しないと決めていた慶の電話番号も、今は携帯の電話帳に名前と共に記憶されている。



ーーそしてあの日。


『……綾、一度だけでも会って欲しい。会いたい……』


耳元で囁くように響く彼の切ない声に負け、


「……うん。会うだけなら」


私はついに、慶の誘いに応じてしまった。


その夜、自分がしてしまった過ちを悔い、気持ちの落としどころを失った私は、自分を卑怯だと責めながらも、酒の力を借りて全てから逃れようとした。


酒で犯した罪はこれで2度目。

1度目は莉子が笑ってくれたからそれでいい。


でも、


『それとさ、私もバカじゃないから分かってるよ。体裁大事だからね。真面目な綾がそういうこと考えない訳ないもん。分かってたよ……』


今回は、絶対にやってはいけないことだった。

莉子をあんなふうに泣かせてしまうなんて。


最近、心のどこかでは思っていた。

莉子との関係をこの先どうしていけばいいのか、と。


私は今まで、2人でいる幸せを優先して、この現実をなるべく避けて過ごして来た。


莉子も先のことは何も話さないし、正直なところ莉子がどう考えているかは分からない。それが少し不安でもあった。


そんな矢先の慶からの連絡に心が揺れているのは事実だ。


そして私は今、莉子から届いた一通の長文ラインを読み返し、1人で涙している。



『酔ってない時にちゃんと読んでね


元カレとの話、詳しく聞いたよ

私からは何も言えないから、綾自身がちゃんと考えて答え出して


それまでは会社でも会わないようにする

私が邪魔したらちゃんと考えられないだろうから


私に同情したりしないで綾自身のことだけ考えて

私は綾がどんな答えを出したとしても綾が大事だからね


長文書いたら疲れたから寝るね

オヤスミ』



莉子とラインを送り合う時、莉子はいつも長くて3行くらいの用件しか送って来ない。


ラインで雑談するなら会って話したい、と莉子は言う。


今回送られて来た文面は普段の10倍の長さ。

それだけ真面目に考えてくれたということだ。


この文面の下には、8頭身の白いクマが人を小馬鹿にしたようにお尻を叩いているスタンプが届いていた。


何度見てもこのクマに泣かされる。

莉子がどんな気持ちでこれを送ってくれたのか、想像するだけで胸が痛くなる。


中途半端に人に嘘をつけない性格はこういう時に裏目に出る。なぜ私は同じことを繰り返すのか。過去に一度同じ失敗をしているというのに。


でも、この私が事実を隠したまま何食わぬ顔で莉子と付き合い続けられただろうか。

いや、たぶん無理だ。


莉子に事実を隠すこともできず、慶を突き放すこともできない。


私は最低だ。


もしあの時、莉子がなりふり構わず私に縋ってくれていたら、私はどうしていただろう。


少なくとも、今ほど不安定ではなかったのではないか。



莉子と距離を置いて2週間。

1人で過ごす週末が異様に長く感じる。


あれから慶との電話はなるべく避け、無難な文字のやり取りで済ませている。


慶との約束は来週の日曜。

約束の日が近付くにつれて私の気持ちは落ち着かなくなっていく。



私は考えることをやめ、ベッドから立ち上がった。


フローリングに投げたままのバッグを手に取り、車のキーを取り出す。


そして、あの店に向けて車を走らせた。



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