綾の元カレ【莉子視点】
インターホンを押して少し待つと、綾の部屋のドアがゆっくりと開いた。
綾の様子がどこかおかしいのは気のせいだろうか。
「……莉子?」
「やっと本格的に描く気になったから取りに来た。せっかく貰ったのに忘れて帰ってごめんね」
「……なんで、ここに……?」
「え? さっきラインしたじゃん。……って、なんかお酒くさい。もしかして飲んでた?」
そう問いかけた直後、お酒くさい綾が突然抱きついて来た。
胸元で息を荒げている綾の背中をさすりながら部屋に上がると、コタツの上とカーペットに合計4本のビール缶が転がっていた。
これはたしか、クリスマス会の時に私が買って来たもの。余ったからって綾の冷蔵庫に突っ込んでおいたのが間違いだった。
「……この量はマズいね。っていうか何かあったの? 綾がこれだけお酒飲む時ってイヤなことがあった時だよね?」
私に抱きついたまま無言で動かなくなった綾の頭を撫で、身体を支えながらコタツの横に腰を下ろす。
「話せないこと?」
「私、元カレに……」
「えっ? ……元カレ?」
急に綾の口から出た『元カレ』の言葉に、一瞬頭が真っ白になった。
綾はそれから、これまでの彼との出来事をポツポツと話し始めた。
知らない番号から電話がかかって来て、出てみたら元カレだった。
あんまり懐かしくて普通に会話してしまった。
そしたら最近就職を決めた彼に結婚前提で復縁を迫られた。
何回か電話するうちに彼が会いたいって言い出してOKしてしまった。
OKしたことを後悔して頭が爆発しそうになってお酒に逃げた。
綾の要領を得ない話を要約するとこんな感じだ。
結婚前提という言葉。
そしてお酒を飲み過ぎた綾。
状況から察するに、綾は彼からの申し出に心が揺らぎつつ、私のことを考えて悩んでいるんだろう。
降って湧いたような話に胸が痛む。
さすがの私もショックを隠せなかった。
「うーん……。正直、ツラいな」
「うん……」
「まぁ、急に連絡来たんなら仕方ないよね。でもOKしちゃったか……」
「ごめん……莉子。本当、ごめん……」
「まぁね。綾のことだから、今恋人いるってちゃんと伝えてくれたんだろうけどさ」
「伝えたよ……。伝えたけど……」
綾は今にも泣き出しそうな細い声でそう言い、私の身体をギュッと抱きしめた。
本来、交際相手がこんなことを言い出したら、怒って責め立ててもいいのかも知れない。
でも、私にはそれができなかった。
綾を自分に縛ってしまうことに引け目があるからだ。
「彼のこと、好き?」
「……好きか嫌いかで言ったら……好きだよ。久しぶりに話せて嬉しかったし……」
「う……、ホント素直だなぁ。で、綾はどうしたいの?」
「ん……莉子といたい」
「だよね」
「でも……、人の気持ちなんて、どう変わるか分かんないから……」
それまでは抑えられていた感情が急に爆発した。
それでも綾は迷いなく私を選んでくれると信じてたから、綾の口からこんな言葉が出たことが信じられなかった。
「ねぇ、私のこと好きなんだよね? やめてよ綾、そんな冗談……」
「莉子が好きだよ……。でも……」
「でも、なに?」
「……不安なんだよ。まだ付き合ってすぐだから、どうなるか分かんないって……」
「そう言われたの?」
「うん……」
綾はたぶん、口には出さないけど迷ってる。
私たちは男女関係と違っていろいろ制限がある。
もちろん綾自身もそうだけど、私だっていつ結婚を望むことになるかなんて分からない。
たぶん綾はそれが不安なんだろう。
男女でも心変わりなんていくらでもあるんだから、私たちみたいな不安定な関係なら尚更だ。
「そっか……。元カレも綾のことよく分かってるね。悔しいけど」
「ん……?」
「綾って純粋だからさ、すぐ相手の言葉に影響されちゃうでしょ?」
「そう……かな?」
もちろんそれだけじゃないんだろう。
綾がここまで悩むのは、彼への純粋な想いも少なからずあるからだ。
「彼のことも少しは好きなんだよね?」
「……うん」
「そっか。分かった」
「でも莉子が好きなんだよ、私は……」
「それとさ、私もバカじゃないから分かってるよ。体裁大事だからね。真面目な綾がそういうこと考えない訳ないもん。分かってたよ……」
急に涙が溢れ出して止まらなくなった。
綾の心が揺れているのは明白だ。
それは正直ショックだし、今さら連絡してきた元カレを憎いと思ってしまう。
だけど、本心を隠したまま私と付き合い続けて欲しかった訳じゃない。
綾の幸せは綾が決めることだ。
一生を添い遂げるには障害の多い私を選ぶよりも、将来を約束された彼を選んだ方が余計な苦労を背負わずに済む。
その程度のことはちゃんと考えてた。
考えた上で、私は綾のそばにいるつもりでいた。
だからって、同じことを綾に求める権利なんて私にはない。
「……まぁ、事情は分かったよ。今話しても覚えてるか分かんないけど、よく考えてから答え出して。それまでしばらく距離置こう」
「え……? 莉子……!?」
「いや、違うって。綾が納得するまで考えて欲しいの。後でライン送っとくから、酔いが冷めたらちゃんと読んで」