忘れ物【莉子視点】
「はい、畠山くん。お土産」
右隣の席で何やらブツブツ言いながらパソコンに向かっている畠山くんにお菓子を差し出すと、彼は私の方を向いて元気のない声を出した。
「……あ、ありがとうございます。旅行っすか?」
「うん。まぁそんな遠くない場所だけどね」
「そっすか……。旅行っすか……」
「どうしたの? あからさまに元気ないけど」
「いや、俺もこの前カノジョとスノボ旅行いったんすけど、向こうの旅館でケンカになったんすよ……」
「え、そうなの?」
旅先でのケンカほど悲惨なものはない。
お互いしか頼る相手のいない閉鎖環境でケンカなんてしてしまったら、本来なら距離を置いて解決できるようなことでもどんどん険悪な方向に向かってしまう。
「そうなんす……。スノボ旅行なのに俺がボード積み忘れてて」
「……気付かないもの?」
「舞い上がってたんすよねー。クリスマスにカノジョに買ってもらったボード、大事にし過ぎて直前まで車に積まなかったのがいけなかったんす……」
「……へぇ。で、どんなケンカ?」
「『翔のカッコイイ姿が見れないなんて! なんのためにここに来たのか分かんないじゃん!』ってキレられたんす。別にレンタルすればいいじゃんっつっても聞く耳持ってもらえなくて……」
微妙な気持ちになったのは私の感覚がおかしいのだろうか。
まぁ、綾と私のやり取りも人のことを言えたようなものではないけど。
「あ、そう。結局ノロケなのね」
「いや、そのまま帰るとか言い出したけどさすがにそれは無理じゃないすか。だからフツーに一泊してフツーにボード借りて滑って帰ったんすけど、それっきりラインしかしてもらえないんす……」
「ラインはしてるんだ?」
「はい。向こうあからさまに会いたそうなのに意地張ってんすよ。『翔が反省するまで会ってあげない!』っつって。もう一生分反省したんすけどねぇ……」
なんだかんだ幸せじゃん、と思いながら畠山くんを慰める。
一応、「真下さんに話したら気が楽になったっす」ってお礼言ってもらえたし、とりあえず力になれたのなら私も嬉しい。
「真下さんはケンカしません?」
「え? 3年に1回くらいかな。滅多にしないよ」
「え、彼氏できたんすか?」
「あ、いや女友だち。でも旅先でケンカって大変だよね。お互い逃げ場ないし」
「それなんすよ……。もう忘れ物は絶対しないっす」
考えてみたら、綾と付き合ってからは一度もケンカはしていない。
出会ってからの6年間も、思い返してみたらケンカらしいケンカは2回しか記憶がない。
1回目は綾が体調悪いクセに無理して出勤した時。
自分の身体は大事にしなさい! って言っても綾は聞く耳を持たずに真面目に仕事をこなして具合悪そうに帰った。結局そのあと更に体調を崩して高熱を出した。
お見舞いに行って綾にクドクドと小言を言ったら、綾は『だって仕事放棄できないじゃん!』とかムキになって私に反論した。あとはお察しの通り。
2回目は私が原因。
外出先で一緒に食事をしてた時、隣の席に座っていた男女が突然ケンカを始めた。話を聞いてたらどうも男の浮気が原因らしい。なのに女性側が劣勢だった。
私は男の態度にあんまり腹が立って相手の女性を庇うように加勢に入った。それを見た綾が私を止めに入った。
あとで女性は感謝してくれたけど、綾は仏像みたいな顔をして私に冷たく言い放った。
『ああいう時は腹が立っても傍観して。莉子に何かあったら私が困る』
今度は綾にムカッと来て、そのあとはお察しの通り。
どちらも相手を思うがゆえのケンカだったし、あとでお互い冷静になった時にちゃんと謝って仲直りした。
そんな私たちがあんなケンカ? をすることになるなんて、この時は微塵も思っていなかった。
土曜日の朝。
私は、綾から絵の描き方を教えてもらうべく、特に何の準備もせずにお菓子だけ持って綾の部屋を訪れた。
綾はコタツの上に置かれたペン立てからペンをごっそり抜き取り、そのペン立てを私の前にコツンと置いた。
「はい、これ。見たまま描いてみて」
ブリキ製のただの水色の円柱。
私は小学生か。
「もうちょっと難しくてもいいんじゃない? さすがに」
「いや、『見たまま』描くんだよ。影がグラデーションになってるでしょ? 縁の返しの形も意外と難しいし、ハイライト入ってるし」
「ハイライト? タバコ?」
「最初にそれが出てくるのがすごい」
「昔コンビニでバイトしてたからさ」
分かってはいたけど、私のせいで綾先生が困惑して話が進まない。
なんか暗い顔してため息ついてるし。
「まあいいや。とりあえず円柱描いてみて」
「……こう?」
「そう。次に影を付ける」
「どうやって?」
「片側に何本も斜線いれるだけでそれっぽくなるよ」
「こう?」
「……片側って言ったら普通左右のどっちかじゃない?」
「え、上下じゃないの?」
「ふふふ……。日本語って難しいね……」
綾はさらに暗い顔になってコタツの上で頭を抱えた。
この程度のことでそんな顔しなくてもいいのに。
「……ふ、ふふ。じゃあ私が手本見せるからさ」
そう言ってコピー用紙に鉛筆を走らせ始めた綾は、ものの1分で躍動感のあるペン立てを描き上げた。
いや、ペン立てに躍動感はないか。
綾の言う通り日本語は難しい。
「すごいけどごめん……。どうやったんだか全然覚えられなかった」
「あ、速く描き過ぎたか。じゃあもうちょっとゆっくりね」
それから、私は見よう見まねでひたすら円柱を描き続けた。コピー用紙に小さな円柱が所狭しと並んでいく。
あんまり並べ過ぎて、紙の上で繋がった円柱があるものに見えてきた。
「なんかさ、円柱が連なっててイモ」
「莉子?」
「……イモ洗い状態だね」
「上手いこと言ったつもり?」
1時間も経つ頃には、私の腕も綾に褒められるくらいには上達していた。
「じゃあ今度は1個だけ集中して描いてみようか。色も付けてね」
「え、絵具?」
「画材は何でもいいんだけどさ。……そうだ、昔買ったまま使ってないセットがあるから莉子にあげるよ。気が向いたらこれ使って家で練習してみて」
ーー
……と言ってあの時綾が渡してくれた絵具セットを、私は結局綾の部屋に忘れたまま帰ってしまった。
自分のアパートに着いた直後に気付いたけど、まぁ次の日会社で言えばいいや、と思ってその場で連絡はしなかった。
だけど、翌日は綾の体調が良くないみたいだった。
昼休みは一応一緒に昼食を取ったけど、綾が暗くて絵具の話題を切り出すには微妙な状況だった。
それからなんとなく話題を切り出すタイミングを失ったまま更に数日が過ぎ。
そして、桜木先生の絵画教室から1週間と少し経った今日、会社でまた課長から『明日の真下展は第2会議室な』って言われたのが悔しくて、もっと上手くなってやる! と気合を入れ直した。
あれから一応鉛筆で練習はしていた。
でもそろそろ本格的に描きたいと思ってたからちょうどいい。せっかく描くなら綾がくれた絵具を使いたい。
思い立ったら即行動に移すのが私だ。
私は5分前、綾に『これから取りに行く』とラインを送った。でもまだ返信が来ない。
それにしても、綾も気付いてるだろうになんで何も言わないんだろう。
もしかしたら、私に絵の練習を無理にさせないようにって遠慮してるんだろうか。
と、やっとラインの着信を知らせる音が鳴った。
綾からだったけど、返信の内容は『ん』の一文字。
『うん』って打とうとして間違ったんだろうか。
とりあえず了承を得たと判断して、私は車で10分の場所にある綾のアパートへ向かった。