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星の檻から

作者: 満月五月

 王宮の西、小高い丘の上。月光に照らされて輝く白亜の塔を、人々は『星見の塔』と呼ぶ。その塔へと続く道は普段は閉ざされ、余人がそこを訪れることは許されない。


 その塔を臨む城の外郭の上に、人影が一つあった。この国の人間にしてはいささか小柄な体躯をしているが、漆黒の外套で頭から足首までを覆った姿は子どもには見えない。微風になびかぬ厚い外套のせいもあるが、穏やかな足取りで城郭を西側へ歩いて行く様は、むしろ熟練の武人を思わせる隙のなさだ。全身を黒で覆い、宵闇に溶けるその姿はさながら鴉のよう、誰がそう形容したのか、彼の通り名は『鴉』といった。


 塔に最も近い辺りで、彼はふと立ち止まった。真下にある見張り用の宿直小屋から、人の声が聞こえる。見下ろすと、窓から漏れた明かりが石畳に映っているのが見えた。微かに香るのは酒の香か、おそらくまだ飲んでいるのだろう。


 普段なら、無聊に耐えかね早々に居眠りを始める宿直が、こんな夜更けまで起きているのは珍しいことだった。理由は、昨夜に行われた宮廷主催の祭りだろう。華やかな祭りの余韻に浸って、長いことああしているのだ。呑気なものだ、と彼は笑った。明日になれば、彼らは青ざめて上役に許しを請う羽目になる。せいぜいそれまで楽しんでいればいい。


 彼は城郭の柵に立つと、城の外へと足音もなく飛び降りた。軽やかな身のこなしは、鎧を纏っていないせいばかりではない。幼い頃から叩き込まれてきた動きが、身に馴染んだ結果だ。彼の仕草には、どれも音がない。


 柔らかな草の上に降り立った彼は、塔へ向かって歩き出した。時折涼風が吹き、彼の外套を揺らす。遮るもののない丘の上は風が強かった。この塔に向かうときは、草が風に煽られて鳴る音を必ず耳にする。そのせいか、彼が塔のことを考えるときはいつもこの音が蘇った。


 塔の真下にくると、彼はその扉を二つ叩いた。それほど待たずして、古びた重い扉が少しだけ開き、小さな隙間から一人の女が用心深く顔を出す。一見しただけではそれほど老いて見えないが、目元に刻まれた皺が、彼女がそれなりの年齢であることを物語っていた。だが柔和そうなその目は落ち窪み、数日前に見たときより頬のこけた顔をしている。それでも彼女は、彼の姿を認めて顔を輝かせた。


「ああ、よくおいでなさいました。さあ、どうぞお入りください」


 老女はそう言って扉を開ける。彼は頷くと、塔の闇の中に身体を滑り込ませた。


 塔の中はいつも暗かった。壁に取り付けられた燭台には蝋燭もなく、窓も閉め切られた塔身は、外よりも暗い。それは、今のここの主のためだったが、外から来たものはその闇に目を慣らすまで動けないのが普通だ。しかし、二人は明かりのない中でも、どこに何があるか知っていた。闇の中、二人は螺旋状の階段を上っていく。


「お嬢様が心待ちにしておられましたよ。今日などは日暮れからお目覚めなさって、開口一番に鴉はまだかと」


 老女はそう言って微笑んだ。互いに見えるわけではないが、安堵したような声は彼にも聞こえる。


「それは申し訳ないことをしました。私も早くお訪ねしたかったのですが」


 彼は、口では申し訳ないと言いながら笑みを浮かべていた。心待ちにしていたのは、この塔の主人(あるじ)だけではない。鴉もまた、この塔に来ることを至上の楽しみとしていたのである。老女は敏感に鴉の口調を聞き取り、嬉しそうに頷いた。


「貴方様の来訪を知れば、お嬢様も喜ばれますよ」


 だがそれも一転、老女はすぐに大きなため息をつく。


「……しかし、先日のお話で、王宮が新たな星読みを迎え入れるというのは聞いておりましたが、まさかこのような仕打ちになろうとは」


 苦々しげに老女は言う。


「まだお父上が存命だった頃からあれほど尽くしてこられたのに、なんと酷い。お嬢様を今までここに閉じ込めておいたのは王宮ではありませんか。それをいまさら追い出すなど、正気の沙汰とは思えません」


 滅多に語気を荒げることのない彼女がここまで言うのを見たのは、鴉も初めてだった。もし誰かが盗み聞きでもしていれば、彼女もただでは済まない。しかし、彼女の怒りはおさまりそうになかった。それもそのはず、彼女は長年にわたり、この塔の歴代主人に仕えてきた立場。ましてや、現主人に至っては、生まれて間もない頃から知っている、半ば孫のようなものだと言っていい。彼女の情が移るのも当然だ。


「ですが、私が何を申しても変わらぬこと。王宮の意思には敵いません。せめて、お嬢様がここを出られるまで、私にできる限りのことをするしかありませんね」


 まだ怒りはくすぶっているようだったが、不満を口にしても仕方ないと思ったのだろう。彼女はそう言って終わると、最上階の扉を叩いた。


「お嬢様、鴉様がいらっしゃいました」


 すると、扉の奥から「どうぞ」という落ち着いた声が応えた。まだ若い少女の声だ。老女は扉を開けると、鴉を中へ入るよう促した。


「では、私は失礼いたしますよ。何かあればお呼びください」


 老女はそう言い残して扉を閉めた。


 最上階は、人が一人住むには十分すぎるほど広い。球形の天井は高く、採光用の天窓から差し込む月光が、炎の代わりに部屋を照らしている。床には上質な敷物が敷かれ、文机や椅子などの調度品も、飾り気はないが上品なものばかりだ。しかし、部屋のいたるところには書きかけの図や走り書きされた紙が散らばり、書物がうずたかく積み上げられている。注視すれば、壁にも数式や図などの落書きがあった。この部屋の全てが、歴代当主の特異ぶりを示しているかのように、雑然とした部屋だ。


 彼女は、そんな部屋の窓際に椅子を置いて腰掛けていた。


 頭からつま先まで雪のように真っ白な、美しい少女だった。吹き込む風に踊るのは、月光に透き通った白い髪。同様に眉もまつげも純白で、聡明そうな顔の中で瞳と唇だけが薄紅色をしている。服の袖や裾から覗く手足もやはり白く華奢だ。この少女こそ、『凶星の魔女』と呼ばれる、この塔の当主である。


 鴉は彼女から数間離れたところでひざまずいた。うら若い少女とはいえ、彼女は貴人。本来鴉のような人間が出会うはずのない人物だ。


「ただいま参上いたしました、お嬢様」


 彼女は優美な仕草で鴉を振り向いた。鴉の姿を認めたその顔に微笑みが浮かぶ。その笑みには、普通の少女にはない薄氷のような危うさがあった。


「今日はいい月ね」


 穏やかではあったが、滲み出る喜びは隠しきれていない声だ。鴉は答える。


「はい。今日は私にもお嬢様がよく見えます」


「けれど私からは、あなたの顔は見えないわ」


「私は鴉ですから」


 そうあって当たり前という風に、鴉は分厚い外套の下から素気なく返す。実際、彼はこの外套を着ていないことの方が少ない。闇に紛れてこその鴉なのである。


 しかし、少女はそれが気に入らないらしかった。彼女は椅子から立ち上がると、目を合わせぬよう頭を垂れたままの彼に歩み寄った。


「ここでのあなたは鴉じゃない」


 彼女はそう言いながら、鴉の前に膝立ちになった。細い腕が漆黒の外套に伸ばされ、頭巾が後ろにはらりと落ちた。


 彼もまた、まだ若い少年だった。油断ない身のこなしより数段幼く見える顔立ちは、明らかにこの国の人間ではない。黒い目に黒い瞳、程よく日焼けした肌は、少女の前にいると際立って見える。まるで少女と対になるような容貌だ。


「やっと来てくれた。待っていたわ、ハル」


 彼女は花咲くような笑みを鴉に向けた。彼を鴉でなく「ハル」と呼ぶのは、彼女だけだ。同じように、彼が「ハル」と名乗れる相手も、彼女だけだった。


「お待たせして申し訳ありません。私もお会いしたく思っておりました」


 鴉は少女の笑みに微笑み返して立ち上がった。そのまま外套の中から手を出し、膝立ちの少女に差し出す。ほんのわずかな仕草だが、さりげなく素早かった。


 立ち上がった少女は、鴉の手を握ったまま窓際に導いた。そこには、少女が腰掛けていた椅子ともう一つ、向かい合う形で椅子が並べられている。少女が座っていたものと同じ椅子だ。


「どうしても、ここを出る前にハルに会いたかったの。話したいことがたくさんあるから」


 鴉を椅子に座らせながら、少女は幼子のようにはしゃいで言った。そんな笑顔を見せられるような境遇に、彼女はいないはずだった。椅子に座るのと同時に、彼女の手がするりと解ける。それに言いようのない名残惜しさを感じて、鴉は手を外套の中で握りしめた。


「今日は明るいから、明かりはいらないかしら」


 天井の採光窓を見上げて、彼女は鴉に尋ねた。確かに今宵の月は明るいが、鴉にしてみれば決して十分とは言えない。少女の顔がかろうじて見える程度の明かりだ。


「私は構いません」


 それでも、鴉はそう首を振る。彼女の赤い瞳は、明るすぎると見えなくなってしまう。ほんのわずかな光で彼女には足りるのだ。彼女の目は、遠視気味で闇に強い。まるで星を見るためにあるようなものだ。この目があるからこそ、彼女がここにいるのだとも言える。


 少女は返事を聞いて頷いた。今は、お互いに明瞭に見えない方が都合が良かった。


「ありがとう」


「いえ」


「……ハルは昔から、明かりをつけようと言わないわね」


 少女は呟くように言った。窓の縁に頬杖をついて、彼女はうっすらと笑っていた。


「夜目を使う訓練にもなりますから」


 そう言うと、彼女はふふっと笑みをこぼした。


「変わらないわね、ハルは」


「そうでしょうか」


 鴉は首をかしげる。


「ええ。あ、でも居眠りはしなくなったわ」


 いたずらっぽい声で彼女は鴉をからかう。鴉は恥ずかしげにうつむいた。


「私がこの塔の当主になった頃だったかしら。ハル、私が観測をしている最中によく寝てたわね」


 少女は口元に手を当てて思い出し笑いをした。彼女の脳裏には、部屋の隅で、外套の中に丸くなって寝ている彼の姿が浮かんでいた。寝息も立てず眠る彼の姿を、彼女は間近で眺めて楽しんだものだった。


「やめてくださいよ、昔の話なんて。まだ子どもだったんです。それに、変わった生活をされているのはお嬢様の方でしょう」


 少女の思い出し笑いにむっとして、鴉は言い返す。


 彼女は、この塔の当主になった頃から、夜に目覚め朝に眠りにつくという生活を送っている。これは起床中の時間を、出来るだけ天の観測と研究に当てるためだ。確かに、光に弱い彼女には悪くない生活ではあるが、昼間に活動している鴉にしてみれば、長い夜更かしをするようなものだ。


「そういえばお嬢様、まだお父上がご存命の頃、私の杖を隠したことがありましたね」


 ふと思い当たり、鴉はそう対抗した。少女の顔が申し訳なさそうにみるみる自信を失う。


「悪気はなかったの。なんでハルが杖なんて持っているのか気になって」


「あれだけ触らないでくださいと言い含めておいたはずです」


 鴉がぴしゃりと言い放つと、少女は少し口を尖らせた。


「あのときは本当に肝を冷やしましたよ。間違って抜いてしまったらどうしようかと」


 鴉は胸に手を当てて息を吐いた。まるでまだそのときの緊張が残っているかのようだ。


「私には抜けなかったのだからいいでしょう」


「そういう問題ではありません。まったく、お嬢様の危ない好奇心も、昔から変わりませんね」


 二人はお互いに軽口を叩きあい、顔を見合わせ声を立てて笑った。二人の表情に影はなかった。二人の壮絶な過去も、夜明けとともに訪れる暗澹とした未来も、今は他人事だった。


 この国では、古くから星の研究が盛んだった。星図、望遠鏡、天球儀……。この国では天を観測するための器具の多くが開発され、近隣諸国とは比較にならないほど膨大な知識を積み上げてきた。それゆえ、この国には大海を渡ろうとする者や、優れた科学技術をもつ者などが、星の知識を欲して集まる。小国ながらこの国が繁栄してきたのは、星の研究によるところが大きかった。


 この状況下で、王宮は当然ながら研究を認め奨励してきた。星の研究はこの国の命、王国の盛衰すら左右する。王宮は星の研究者『星読み』の教育にも力を入れ、また諸国の学者たちを積極的に受け入れるなどして研究の進歩を図った。そして王宮の政策の最大の要こそ、この塔なのである。


 ここは、かつての王が、星読みにより良い成果を上げさせるために建てた、巨大な観測塔だ。ここに住まい、最高水準の観測と研究を行えるのは、王国でも指折りの、当代一と謳われるような星読みでなくてはならない。ゆえに、王宮は優秀な星読みたちに試験を課して当代一と思わしき星読みを選出し、彼らをこの塔に住まわせてきた。


 その能力の高さから、この塔に住まう星読みは『星の魔術師』の異名を冠する。宮廷顧問の星読みも兼ねた彼らは、国王の名の下に当代最高の星読みだと認められる。それは、星読みたちの研究心を駆り立てるには十分すぎるほどの魅力だ。王宮のこの作戦は、かなりの効果をもたらした。王国全体の研究もますます盛んになり、魔術師も代替わりの度に気鋭の星読みになっていった。


 先代の魔術師も、例に漏れず優秀な星読みだった。他の星読みにも当代一と疑われないほどの能力で、研究にも多大な功績を残している。しかし長年の無理がたたってか、彼は急逝する。彼を惜しむ間も無く行われた宮廷での試験で、見事に魔術師の座に選ばれたのが、彼の一人娘であるこの少女だった。


 当時の彼女は、誰の目にも明らかに子供に見えた。父である先代と共にこの塔で育ち、幼少期から父による教育を受けた彼女は、父の才を受け継いで史上最年少で星の魔術師──彼女の場合は魔女だが──の座を掴んだのである。これだけでも星読みの嫉妬を煽るが、本当にこれだけであれば、彼女がこれほど追い込まれることもなかっただろう。


 彼女がこの塔の主人になってから、王宮は星読みたちから悪評を買った。原因は、彼女の特異な容姿にある。王宮は呪われた娘を塔に住まわせている、というのが彼らの言い草だった。生まれながらに白い髪や、太陽に嫌われた赤い瞳は呪いの証。光に愛されぬ彼女が、天の星々の輝きを語っていいはずがない。それは、星の魔術師の座を逃した星読みたちの、不満の表れだった。


 いつしか少女は、『凶星の魔女』と囁かれるようになった。宮廷顧問として政に口を挟み、この国を傾倒させようと企む魔女。もしくは呪いの顕現、凶星の落とし子だと。その話は市井にまで伝わり、星読みや市民さえも、王宮に強く当たった。国を支えてきた星読みには王宮も真っ向からは逆らえず、少女は徐々に、様々な権利を剥奪されていった。そしてついにはこの塔から出ることさえ禁じられ、彼女は幽閉の身となった。


 だが、それでも星読みが大人しくなることはなく、彼女は明日、代替わりという形でこの塔から出る。王宮は、新しく魔術師になる星読みが彼女よりも有能だったと、表向きにはそう公表した。しかし実際は少女の追放だ。目の上のたんこぶでしかなかった彼女を、ついに王宮も見放したのだった。


 夜明けとともに、彼女はこの塔を去ることになっていた。今夜は最後の一晩、それを、彼女は鴉とともに過ごしているのだった。


 二人は、月が傾くのも気にせず長々と語り合って過ごした。幼い頃、双眼鏡で王宮の見張りが居眠りしているのを二人で覗き見した話や、少女が鴉に星読みの知識を教えようとして失敗した話など、話すことは多くが思い出話だった。この塔を後にすれば、二人は二度と会うことはない。鴉も王宮に縛られる、自由の効かぬ身だ。互いが存在していたことを確かめあえるのは今だけだった。だが、時間を惜しむように話し込む二人にも、夜明けは忍び寄っていた。


 ふいに、少女が小さくあくびをした。気づけば、ここを訪れたときは屋上の採光窓から見えていた月が、西の稜線に沈もうとしていた。


「お嬢様」


 口を閉じて窓の外に目を向けた少女に、鴉は声をかけた。


「そうね、そろそろかしら」


 その横顔に、初めて寂しげな色が浮かんだ。儚げな顔立ちのそれは、明けの明星のごとく、彼女を今にも消えそうな存在に見せていた。鴉は思わず彼女から目を背けた。


「凶星の魔女でいるのも、これで終わり」


 安堵するような声で、彼女は呟く。鴉にさえこれまで聞かせたことがないほど、その声は穏やかだった。


「ハル」


「はい」


 呼ばれて、鴉は顔を上げた。その視界に映ったのは、死期を悟った者の表情でこちらを見つめる彼女だった。それは、幼い頃から何度も見てきた少女とは程遠く、また鴉がこの先の人生で最も多く見るであろう表情だった。


「鴉は、飼い主の言うことをきちんと聞くものよ」


 少女はそう諭して、無邪気に笑った。


 ああ、と鴉は思った。思わずため息が溢れる。さすがは当代最高の星読みだ。彼女にはもうわかっているのだ。自分が外套の下で、あの仕込み杖を握りしめていることが。


 この塔にはかつて、別の住人がいた。それは代々『鴉』と呼ばれる、王家直属の暗殺者一族だった。この塔が建てられたとき、彼らは星の魔術師の護衛としてこの塔に住まわされた。鴉の父も鴉も、その一人だ。だがそれは、少女が星の魔女になったことで終わる。凶星の魔女につける護衛など必要ないと判断されたためだ。それでも鴉は、塔を離れ父が死んだ後も、数々の命令をこなしながら人知れず少女を訪ね続けた。


 それを知ってか知らずか、先日鴉のもとに届いたのは宮廷が新たな星読みを正式に迎えるという報せだった。追って届いた密書には、非情な命令が王の直筆で記されていた。


 それは、凶星の魔女の暗殺だった。


 傾国を目論んだはずの魔女を、野に放つのは星読みの反感を買う。かといって彼女を他国に逃せば、近隣諸国における王国の価値を下げる結果を招く。全てを星に依存した王宮は、一度は当代最高と認めた少女を、星読みからの世評と王国の威信のために殺すことにしたのだ。


 鴉は何も言わずそれを受けた。鴉に期待されるのは、闇に紛れて命令をこなすことだけ。口を開き、宮廷の無力さを嘲ることではなかった。もしそんなことをすれば、いくら腕の立つ暗殺者といえど命は危うい。彼女はそれを理解している。だからこそ、その命を果たせと言っているのだ。


 鴉は外套の中で仕込み杖の柄を捻った。音もなく錠が解け、月明かりの下に白刃が抜き放たれる。東洋の、刀身がわずかに反った形の剣だ。鴉の爪には似つかわしくないほど、刃は眩く光を弾いていた。


 少女は初めて見る杖の刀身を、魅入られたように凝視していた。椅子から音もなく、鴉が立ち上がる。迷いのない仕草には、先ほどまで笑っていた少年の面影はない。彼は刃を少女の白い首もとに向けた。いかにも皮の薄そうな首に、刃から反射した微光が映った。


 ゆっくりと肘を引いて、鴉は刃を振りかぶる。少女の喉を目掛けて刃が振り下ろされる刹那、臆する様子も、また絶望した様子もなく、彼女は微笑んだ。


「これで、ハルが助かるなら」


 白刃が薄闇の中で閃く。瞬刻の後、甲高い音が塔にこだました。


 塔の外で一陣の風が舞い、薄青く染まりつつある丘に、霜が降りるような沈黙が淀んだ。その中に、魔女の死を告げるはずの朝日が突き刺さった。


 さらりと、少女の肩から白い髪がこぼれた。うな垂れた彼女の後方の床には、仕込み杖の刀身が突き刺さって震えていた。


 ハルは仕込み杖を投げた手を、静かに下ろした。


「そんな、悲しいことを言わないでください」


 何よりも一番悲痛な表情を、ハルは浮かべた。暗殺者として、ぶれることの許されなかった手が震えている。ハルは仕込み杖の鞘を投げ捨て、少女の前に跪いた。


 少女は、ただ泣いていた。赤い瞳に張った膜が潤み、ぽろぽろと溢れ落ちる。この塔の主人である間、何度も飲み込み、隠してきた涙だった。


「どうして──」


 涙のせいで後が続かない。少女は俯いて嗚咽を堪えようとしたが、止まらなかった。ハルは、分かっていたかのように、彼女の問いの後を引き取って首を振る。


「リュカをこの手で殺してまで生きていく理由など、僕にはありません」


 鴉の名を襲ってから呼ぶことのなかったその名前を、昔と同じようにハルは口にした。彼女の父親がつけた、天の星と同じ名を。


「……僕を救うために殺されようなどと、考えないでください」


 懇願するような瞳で、ハルはリュカの顔を見上げた。目尻まで赤く腫らしたリュカは、しゃくりあげながらハルと視線を合わせた。


 でも、それではハルが宮廷に殺されてしまう。リュカがそう言いかけたとき、ハルはそれを封じるように微笑んだ。


「鴉は自由気ままに生きる鳥です。飼い主など、初めからいません」


 ハルは笑みを浮かべたまま、リュカに手を差し伸べた。


「一緒に逃げてくれますか、リュカ」


 ハルの漆黒の瞳が、赤いリュカの瞳を射る。リュカはじっと、そのまっすぐな目を見つめ返した。


 彼がどんな所業を命じられ、こなしてきたのかなど、今はどこか別の空の話のようだった。宮廷の闇で生きる暗殺者であったとしても、リュカにとって、ハルは唯一の心安らぐ場所だったのだ。ハルから差し伸べられたこの手を拒む理由などない。


 華奢な腕を伸ばし、リュカは白い手をそっとハルの手のひらに載せた。乾いた温かい手が、リュカの手を握る。リュカは涙を拭うと、にっこりと笑った。


「もちろん。喜んで」


 その返事を認め、ハルは軽やかに立った。リュカもそれに倣って立ち上がる。


 ハルは、自分が纏っていた漆黒の外套を脱いで、リュカに着せた。ハルの外套は長く、リュカが着ると裾が床に届きそうだ。


頭巾(フード)も被って。眩しいと困りますから」


 言われるままに頭巾を被ると、リュカはすっぽりと分厚い外套に覆われた。明け方の冷え込みが嘘のように暖かい。遠国の香りとハルの匂いに包まれ、これから脱走するというのに心は穏やかだった。


 ハルは仕込み杖を拾って鞘に収めると、再びリュカの手を引いた。


「さあ、逃げましょう。夜が明ける前に」


 リュカは笑って頷いた。







 その後の鴉と、凶星の魔女の行方を知る者はいない。ただ、遥か東の国で、天の研究が盛んに行われ始めた。その国には、異国から帰郷した少年と、流星の光芒を纏ったかのような髪を持つ、美しい少女がいるという。

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― 新着の感想 ―
[一言] 自分の世界をしっかり持っていてそこがブレることなく話が展開されているので、読み始めから心地よさを感じました。 少年が少女の元をなぜ訪れたのか、少しずつヒントを散らしながら場面が移り変わって終…
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