6話―遭難ですか?
そうなんです。
ドゥン!ドゥン!ドゥン!ドゥン!
これが何の音か、お分かりになるだろうか。壁ドン代理業者? 違うよ。
正解は腹の音。そう、空腹時に鳴るアレである。これがテンプレなら、おなかを減らした美少女が「くぅ~」と鳴らして赤面する。そんな萌えるシチュエーションの一つでも思い浮かぶところ、何を間違ったのか、この重低音。たまに街中で出会うカーオーディオ全開の車並みの騒音である。
ドッ、ドッ、ドドドッ、ドッ!
今ではこのように好きなリズムを刻むことができるほどに使いこなせる。名付けてドラゴンドラム。効果:ジョジョ立ちしたときに臨場感アップ。
冗談はこのくらいにして。
いや、冗談でも言って気を紛らわさないと死にたくなるほどの空腹感なのだ。
ファーヴニルとの遭遇から既に三日の時間が経過していた。拾った木の枝を杖代わりにして森の中をさまようこと三日。いまだにこの鬱蒼とした木々の群れから抜け出せる様子はない。
深い森というものは気軽に人間が中を歩けるようにはできていない。積み上がった腐葉土や硬い下草、手入れのされていない木々の枝、歩く上での障害は山のように転がっている。
もっと恐ろしいのが方向感覚を狂わされることだ。太陽の位置を確かめたり、木の幹に印をつけながら進んだりと策を講じたが、真っすぐ前に向かって歩くことさえままならない。
たぶん、目の前に立ちふさがる木を避けるときに、自分では真っすぐ進むよう軌道修正できているつもりでもほんの少しだけズレてしまうのだと思う。それが何度も重なるうちに、全く見当違いの方向に進んでいるのだ。乱立する木々は見る角度によってその表情を大きく変える。とても景色を覚えながら進むなんてことはできなかった。
泥まみれで杖にすがりつき、泣きながら歩き続ける姿は遭難者そのものだろう。ボロキレ同然の衣服は着用しても意味がないほど損壊していたが、捨てるのはもったいなかったので、丸めて腰回りに巻き付けた。ずり落ちないようにしっかりと巻き付けたので腰布というよりオムツに近い恰好になっている。残っている布地がすくなかったので胸を隠す余裕はなかった。つまり、オムツ一丁で森を徘徊している美少女である。靴だけは残っているのがありがたい。
ついテンプレ的思考から自分のことを美少女だと仮定して妄想しているが、実は自分の顔をまだよく確認できていない。スタイルはいい。肌は白いし、やわらかさの中にも引き締まった筋肉が見て取れる絶妙の塩梅だ。胸も結構ある。普乳よりは確実に上だ。艶のある長い黒髪も美しい。顔は触った感じ、特にニキビとかできている質感もない。俺は美少女だと信じているぞ!
裸同然の恰好だがそれでも肌寒さを感じないのはよかった。気温は高く過ごしやすい。木々の植生もどことなくジャングルに近い気がする。寒いよりはマシなのかもしれない。奴らさえいなければ……
プゥーン……
「はっ!?」
やかましい腹の虫に紛れて聞こえてきた小さな異音。それは徐々に大きくなってくる。こちらに近づいて来るその音から逃げるように俺は走り出した。
神経を逆なでするような甲高い羽音が接近してくる。夏の敵、人類の敵。奴が来る!
幾度となく俺を苦しめた襲撃者が上空から姿を現した。
「ひいいっ! 来るなああ!」
それは蚊だった。噛まれたことのない人はいないだろう。あの憎き羽音、猛烈なかゆみ。奴のせいで夏という季節が俺は嫌いだった。毎日ノーマットを愛用していた。
これがただの蚊ならここまで過剰な反応はしない。だが、こいつはまさにモンスター級の大きさを誇る。およそ目測でその体長は二メートル。そんなところファンタジーにしなくていい。
こいつにはもう何度も襲われている。一応、出逢うたびに撃墜しているのだが、それはこの化物蚊が弱いという証明になりえない。逆に言えば、殺さなければ逃げ切れないなのだ。その獲物に対する執念は半端ではなく、何時間でもこちらを追跡し、捕捉し続けてくる。
今も上空でホバリングしながらこちらが隙を見せるのをうかがっている。もうこの膠着状態に陥れば、こちらも目を離すことはできない。必死に杖代わりの棒きれを振り回し、接近させないように警戒し続けなければならないのだ。
これがどれだけの心労を要するかわかるだろうか。隙あらば血を吸おうと、何時間も頭上を飛び回り待機する巨大な蚊だ。人間の腕の太さくらいはあると見える太くて長い口吻を槍のように突き出してくるその異様な光景は、ファーヴニルと対峙したときとは別種の恐怖を感じさせた。エイリアンか何かと対決している気分になる。
あの針で刺されたが最後、全身の血を搾り取られるとか言われても否定できない迫力がある。俺が知っている蚊は口吻を刺すと同時に痛みを抑える成分を含んだ唾液を注入し、それがかゆみを起こす原因物質となると言うが、こいつの場合はどうだろう。ただのアレルギー反応で済むとは思えない。
絶対に刺されたくない。幸い、見た目通りに防御力は低く、木の棒で叩いただけで倒せる。それを相手もわかっているのだろう。こちらが完全な隙を見せるまで攻撃圏内に入ってこない。ゆえに睨みあいからの根競べとなる。わざと隙を見せて相手が近づいて来るのを狙い打つような度胸は持ち合わせていない。
このおよそ作戦と呼ぶのもおこがましい戦い方だが、これでもまだ進歩した方なのだ。最初にこの蚊に遭遇したときは生きた心地がしなかった。ファーヴニルのときより焦ったかもしれない。パニックになったところを何度も刺されそうになった。のしかかれたところ横っつらをぶん殴って事なきを得たのだ。あと一歩反応が遅れていたらブスッとやられていただろう。
竜人補正で腕力も強くなっているのか、見た目にそぐわないパンチ力を発揮できているのが救いだった。体も頑丈になっていることはファーヴニル戦で明らかになったが、だからと言って化物蚊の串刺し攻撃を無効化できる保証はない。身を持ってそれを証明する気もない。
結局、その蚊は一度もこちらに降りてくることなく、何かを思い出したかのようにどこかへ飛び去って行った。その頃にはとっくに日が沈みかけ、辺りは暗くなっていた。